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暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜  作者: パラレル・ゲーマー
第六部・早く訪れた太平の世編

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第85話 旧正月、豊作三年目と泰平の三法

 元和二年、旧正月。


 江戸城の大広間は、近年まれに見るほど華やかで、和やかな祝いの空気に包まれていた。


 上座には、大御所・家康、将軍・秀忠、そして竹千代が並ぶ。


 大広間には、諸国から参じた大名たちが居並び、さらに京から下ってきた『公家文書御用』の公家衆の姿もあった。


 武家と公家が一堂に会する、今の江戸ではまだ珍しい光景である。


 並べられた祝いの膳は、武家らしく華美に過ぎるものではない。


 それでも、そこには明らかに「国が豊かであること」を示すだけの余裕があった。


 艶やかな白米。


 見事な餅。


 近海で獲れた立派な魚。


 滋味深い汁物。


 そして、なみなみと注がれる酒。


(三年連続豊作。……めでたい。これは、本当にめでたいことだ)


 俺は祝いの膳を前にして、素直にそう思った。


 一部の北国で冷害の兆しはあるものの、全体として見れば、民が飢えず、公儀の蔵に米が入り、大名たちも年貢をきっちり取れている。


 これ以上の喜びはない。


 ここで、しかめっ面をして「でも裏では問題だらけなんですよ」と水を差すのは、行政担当者として三流だ。


 旧正月の祝いは、絶対に必要である。


 豊作を素直に喜ぶことも、国の活気を作る上で欠かせない。


 ……違うんだけど。


 裏では本当に、信じられないくらい問題だらけなんだよなぁ。


 俺は、視界の端に真っ白な白米と餅が入るたびに、どうしても考えてしまう。


(……足弱り対策の栄養指導、現場の医師や寺社にちゃんと回ってるかな。祝いの日の白飯はいい。でも、豊作だからって毎日を祝いの日にしたら、江戸患いが数十年も前倒しでやって来るんだよな……)


 祝いの場にあっても、俺の頭の中では、米、蔵、水、法、そして帳面の膨大なチェックリストが、絶え間なくぐるぐると回り続けていた。


 *


 やがて、宴の始まりを告げるように、家康が静かに扇を置いた。


 大広間が、水を打ったように静まり返る。


「皆の者。正月、誠にめでたきことである」


 家康の、老いてなお張りのある声が響いた。


「諸国の報告を聞くに、本年もまた、見事な豊作となった。これで三年連続の豊作じゃ」


 大名たちの間から、深い安堵のどよめきが漏れる。


「公儀の進めた田法が各地で効き、水土の御用が確かな形となった。水番と水札の制度により、村同士の無益な水争いが大きく減ったとも聞いておる。また、千歯扱きの導入で脱穀が速やかに進み、年貢も滞りなく納められた」


 家康は、そこで言葉を切り、鷹のような目で諸大名を見渡した。


「……米が取れるということは、天下が落ち着くということよ。刀を抜かず、城を攻めずとも、蔵が満ちれば人は争いを急がぬ。これこそが、泰平の礎じゃ」


(家康、ただ『米が増えてよかった』とは絶対に言わないな。完全に政治的な言葉だ)


 俺が内心で感心していると、秀忠が将軍として言葉を引き継いだ。


「大名諸将が、年貢をきちんと納められたこと、大儀である。何より、大きな飢えが避けられたことが喜ばしい」


 秀忠は、静かに大名たちを見渡した。


「田法を導入した地域では、村を捨てる逃散が減り、公儀が下した普請米によって、各地の道普請や橋の整備も着実に進み始めている」


 その声には、父としての安堵と、将軍としての現実的な喜びが滲んでいた。


 俺は、表向きは穏やかな笑みを浮かべて頷いていた。


 でも、内心では冷や汗をかいていた。


(そう。成果は出てる。……でも、出てるからこそ怖いんだよ)


 行政において、一度大成功した政策は、次の年から「当然の前提」として見なされる。


 三年連続でこれだけ豊作が続いたら、大名たちに「来年も絶対にこれくらい取れるはずだ」と思わせるには十分すぎる。


(今年の成果が、来年の最低ラインになる恐怖を、現場の俺だけが背負っている……!)


 *


 家康は、次に上座の脇に控えていた公家衆へと視線を向けた。


「そして。この泰平の礎を築く上で、忘れてはならぬ者たちがおる」


 公家たちが、背筋をすっと伸ばす。


「昨年定めた三法は、大きな混乱なく、見事に動き始めた。それには、京より下られた『公家文書御用』の者たちの助けが、極めて大きかった」


 家康の声音が、わずかに柔らかくなる。


「法文の作成、返書の推敲、儀礼の作法、そして朝廷との細やかな文言調整において、公家衆の働きはもはや欠かせぬものとなっておる。朝廷が、その文と礼の力をもって、公儀の泰平に力を貸してくれたことを、わしは心より喜ばしく思っておる」


 秀忠も、深く頭を下げて礼を述べた。


「禁裏より来られた方々の働きにより、公儀の文も大いに整いました。これは、刀を振るう武家だけでは、到底及ばぬところにございます」


 公家たちの顔に、隠しきれない誇りが浮かんだ。


 武家の世において、ただ京の都に押し込められ、無力な存在として扱われるのではない。


 自分たちの得意とする文書、儀礼、法文の力が、現実にこの天下の実務で高く評価されているのだ。


(よし。ここはちゃんと公家の面子を立てるのが正解だ)


 俺は心の中で頷いた。


(公家文書御用は、公儀の深刻な文官不足を補う対策であると同時に、朝廷を敵に回さないための『回路』でもある。ただの人手不足対策じゃない。公武の間に、文書という強固な橋を架けるための重要な制度なんだ)


 だが、家康の老獪な外交は、ただ褒めるだけでは終わらなかった。


「本年も豊作であったゆえ、禁裏にも、今年はしかるべき献上をさらに増やそうと思う。米、上質な布、貴重な薬種、そして禁裏修繕に必要な材も惜しみなく回そう」


 公家たちの顔が、さらに明るくなる。


 家康は、そこでニヤリと人の悪い笑みを浮かべた。


「……その代わり、と言うては何じゃが。公家文書御用の者を、もう少し多く、この江戸へ出してもらいたいのだ」


 場が、一瞬だけぴりっと緊張した。


 禁裏への献上を厚くする。


 働きも大いに称える。


 ……そのうえで、「もっと有能な人手を差し出せ」と、笑顔で要求したのだ。


「これは、禁裏との細かな調整が要ることじゃ」


 家康は、あくまで柔らかく言葉を結んだ。


「されど、禁裏も公家衆も、この日ノ本の泰平のため、必ずや公儀の力になってくれるものと……わしは固く信じておる」


 公家たちは、断る理由などなく、ただ静かに頷くしかなかった。


 ここは、武力による強制ではない。


『厚い信頼』と『面子』、そして莫大な献上品によって相手を縛り上げる場なのだ。


(うわ、うますぎる……)


 俺は内心で震えた。


(莫大な献上を約束して相手の面子を最高に立て、働きを絶賛して逃げ道を塞ぎ、その上でさらに人手を要求する。……家康、こういう交渉事、本当に化け物みたいに怖い!)


 *


 宴の空気が温まったところで、秀忠が諸大名に向けて、昨年発令された『泰平の三法』の進捗を改めて整理し始めた。


「昨年出した法が、この旧正月の時点でどう効き始めているか」の確認である。


「第一に、『武家諸法度』」


 大名たちが、居住まいを正す。


「大名同士の私戦の禁止。無断での築城の禁止。婚姻や同盟における公儀への届出の徹底。……これらは、概ね守られておる」


 秀忠は、そこでわずかに声を低くした。


「さらに、田法支援を口実とした即時の年貢増徴の禁止。普請米や補助金の不正使用の禁止と監査。火薬や花火の厳重な管理。武芸道場や相撲の登録制。……これら実務の条項も、各藩で帳面による管理が進みつつある」


 大名たちは真剣な顔で聞いている。


 彼らからすれば、戦を禁じられるだけではない。


 米の取り方。


 普請の金や米の使い方。


 火薬の管理。


 さらには領内の娯楽や武芸にまで、公儀の目が光るという重い現実がある。


 しかし、今年は大豊作だ。


 米の蓄えがあるためか、反発の空気は驚くほど薄かった。


(やっぱり、豊作って本当に最強の政治の潤滑油なんだよな……。みんな腹が減ってカツカツだったら、こんな細かくて息苦しい法度の話、絶対にもっと荒れてるはずだ)


「第二に、『一国一城令』」


 秀忠の言葉に、大名たちの間に微かな緊張が走る。


「無条件の全破却ではない。城郭の用途を、甲の本城から庚の破却対象まで、七つに分類して提出せよと命じた」


 ここで、家康が口を挟んだ。


「軍事の拠点は、容赦なく減らす。だが、米を蓄える『蔵』、川や海を守る『水防番所』、そして津波や洪水、火災、飢饉の際に民を逃がす『避難所』として使う拠点ならば、正確な図面を出した上で残すことを許しておる」


 大名たちの顔色が、少しだけ変わる。


 城を残せる余地があるからこそ、必死になっているのだ。


 家康は、そんな彼らを見透かしたように、柔らかく、だが鋭く釘を刺した。


「民を守る真の蔵や番所ならば、堂々と残せ。……だが、『これは蔵にございます』などと称して、こっそりと兵を隠し、分厚い矢狭間を設けるような真似をするならば……それは直ちに『庚』として打ち壊すぞ」


 大広間に、どっと笑いが起こった。


 しかし、笑っている大名たちの額には、明らかに冷や汗が浮かんでいた。


(ここ、絶対に必死になって抜け道を探されるんだよな……。『これは風通しを良くするためのただの小窓です!』って言い張りながら、どう見ても鉄砲を撃つための矢狭間をつける大名、絶対に出る。……図面審査の担当者が過労で死ぬ未来しか見えない)


「第三に、『禁中並公家中諸法度』」


 秀忠は、公家たちが同席していることを意識し、言葉を極めて慎重に選んだ。


「帝と公家衆の職分を、学問、和歌、儀礼、暦、祭祀、そして古典籍の保護にあると整理いたしました」


 大広間に、静かな緊張が満ちる。


「これは、決して朝廷を縛るものではありませぬ。……神聖なる官位や祈願文が、野心ある武家の血生臭い政争の道具として利用されることを防ぎ、朝廷を武家の争いに巻き込ませないための法にございます」


 公家たちは、表向きは静かに頷いていた。


 自分たちの行動が公儀によって制限されることは、痛いほど分かっている。


 しかし同時に、公儀が禁裏の修繕や文物保護、京のインフラ整備を大々的に支援し、何より『公家文書御用』によって自分たちの実務的な役割が確固たるものになっていることも理解しているのだ。


(ここは本当に言い方が命だ。朝廷を政治的に押さえる法であると同時に、朝廷の権威を物理的に『守る法』でもある。どちらか片方だけを強調すれば、必ず火種になる)


 *


 三法の整理が済むと、話題は『外交と港』へと移った。


 本多正純が、大名たちへ向けて淡々と報告を行う。


「『港別登録制度』も、本格的に動き出しております」


 正純の声は、派手さこそないが、よく通る。


「港ごとに役割を固定し、長崎は南蛮・唐船と宗教監視の最重点。平戸は紅毛と技術。堺と大坂は国内再流通。博多は西国流通と明情報。対馬は朝鮮方面。薩摩・琉球は南方経由の窓口。……そして江戸は、外交館と最終検分、公儀の台帳管理の中心と定めます」


 家康が、大名たちへ向けて言った。


「海を、完全に閉じるのではない。……海を、公儀の『帳面』に載せるのじゃ」


(そう。完全な鎖国じゃない。ただし、誰でも出入り自由な野放しの海でもない。港を役割で縛り、船を帳面で縛り、品を役人の検分で縛る。……現場の文官が吐血するシステムだ)


「さらに、『外国御用屋敷』の構想も進んでおります」


 正純が続ける。


「日ノ本との本格的な取引を望む国には、江戸に詰め所を置かせます。ただし、布教のための教会は絶対に建てさせませぬ。……代わりに、彼らには建築の技術者、時計職人、望遠鏡、測量器具、医学書、薬種、そして造船や航海術の知識を求めます」


 大名たちは、利益を生む貿易の道が完全に閉じられるわけではないと知り、ほっと息をついた。


 その一方で、地方の大名が勝手に外国と直接取引する余地が、公儀の手によって塞がれたことも悟っていた。


(交易は続ける。でも港は縛る。信仰は内心まで殺さない。でも外国の軍事力や政治工作と結びつく回路は完全に切る。……方針を言葉にするのは簡単だけど、それを実際に運用する『人間』が、圧倒的に足りてないんだよな……)


 俺が内心でぼやいていると、家康が大名たちを見渡して、笑いながら言った。


「港別登録も、外国御用屋敷も、見事に回り始めておる。……ただし、こちらも悲しいかな、帳面を扱う『文官』が圧倒的に足りぬ」


 大名たちの間に、軽い同情の笑いが起こった。


 そして家康は、扇で広間を指し示し、極めて重要な宣言を行った。


「諸家に、家を継げぬ三男、四男、五男、あるいは部屋住みのままくすぶっておる者がおるなら。……迷わず、この江戸へ出せ」


 家康の声に、大名たちの空気が変わる。


「刀を振るう腕に覚えがなくともよい。……文字がきれいで、算盤の数を間違えず、他人の話を素直に聞ける者であるならば。この江戸には、公儀の役人として、いくらでも働き場があるぞ!」


 大広間の空気が、一瞬で変わった。


 武士の価値が、「戦場で敵の首を獲ること」だけではなくなるという、天下人からの明確な宣言。


 文字が綺麗なら、大いに活躍できる。


 帳面が読めれば、堂々と公儀に仕えられるのだ。


 大名たちの中には、家督を継げない次男三男の処遇に頭を悩ませている者が大勢いる。


 彼らの目に、明確な希望の光が宿った。


(よし。これはめちゃくちゃいい流れだ)


 俺は心の中でガッツポーズをした。


(今日明日の文官不足の即効薬にはならないけど、十年後の安定した人材供給には絶大な効果がある。……問題は、その立派な文官が育つまでの十年を、今のカツカツの人数でどうやって乗り切るかなんだけど)


 *


 宴の空気が十分に温まり、諸将の気が緩んできたところで、家康は、最も重く、そして最も危険な話題を切り出した。


「さて。……公儀の『禁教令』についても、昨年、極めて大きな進みがあった」


 大広間が、一瞬にして静まり返る。


 だが、これは重苦しい宗教弾圧の会議ではない。


 あくまで旧正月の祝いの場で、大名たちへ公儀の絶対の方針を明示するための、計算し尽くされた発表だった。


「御異物改方で扱っておる、理外の奇物によってな。……公儀は、遥か海の向こうにおる『ローマ法王』と、直接言葉を交わしたのじゃ」


 大名たちの間に、衝撃のどよめきが走った。


「ローマ法王と……直接でございますか!?」


「海の向こうの、伴天連の頂点に立つ者と!?」


「いかにして、そのような神業が……!」


 家康は、細かい仕組みなど説明しない。


「難しい術理のことは、国松や御異物改方に任せておる。……簡単に言えば、伊達政宗が遥か欧州へ送った使節団が持ち込んだ奇物と、この江戸城の奥の座敷を、一時的に繋げたのじゃ」


 大名たちは、理屈は完全には理解できなかった。


 しかし、大御所・家康がこのような公式の場で嘘を吐くはずがない。


「伊達政宗の使節団」という具体的な名前が出たことで、その話は疑いようのない現実味を帯びた。


 同席していた政宗が、片方の目を細めて、わざとらしく得意げに言った。


「我が使節が、日ノ本と羅馬を繋ぐ、思わぬ『橋』となったようでございますな」


(政宗、絶対にちょっと嬉しそうだな……。まあ実際、あの伊達の遣欧使節の船がなかったら、この水鏡会談は物理的に不可能だったからな)


 *


 家康は、大名たちへ向けて、ローマ法王と合意した内容をはっきりと告げた。


「ローマ法王には、公儀の禁教令の方針を、誤解なきよう直接伝えた」


 大名たちが息を呑む。


「その上で。宣教師の新規派遣は、断じて認めぬ。日本国内での新たな布教拡大も、固く禁じる。既存の信者が、新たな村や家へ信仰を広げることも禁ずる」


 家康は、そこでわずかに間を置いた。


「ただし。……すでに信仰を持つ既存の信者を、理由なく無闇に弾圧し、殺戮することは、公儀の名において禁じる」


 大名たちが、驚きに目を見開いた。


 禁教令であるにもかかわらず、既存信者の無差別弾圧を明確に禁じたのだ。


「貿易は引き続き行う。医学、天文学、測量、薬学、航海術などの技術交流の窓口は、決して閉じない」


 家康の声が、低く鋭くなる。


「公儀が禁じるのは、信仰と、外国の軍事力や政治工作が結びつくことじゃ」


(ここが、一番危ないところだ)


 俺は、大名たちの顔色を窺った。


(禁教令を出すと、現場の武将たちはだいたい『あ、キリシタンは全部殺して潰していいんだな』と短絡的に解釈する。でもそれをやったら、無駄な血が大量に流れるし、ローマ法王と結んだ合意も完全に壊れる。……だから、ここで大名たちに強烈な釘を刺す必要がある)


 家康が、大広間全体に響き渡る声で宣言した。


「禁教令とは、信心の名を借りて外国の命令を国内に通すことを禁じる、国を守る法じゃ」


 そして、さらに強く言い切る。


「すでにある信者を、己の手柄や私怨のために責め立て、領内で無用な流血を起こすことを許す法ではない!」


 大名たちは、その言葉の重みに、真剣な顔で深く頭を下げた。


 ここで、現役の将軍である秀忠が、さらに厳しい絶対の線を引いた。


「公儀の禁教令を、私怨や、領民からの財産強奪の口実にすることは絶対に許さぬ。また、公儀の禁を破り、外国の命を密かに領内へ通すことも許さぬ。……いずれも、徳川の法を破る大罪にございます」


 家康が、最後にどす黒い殺気を込めて言い放った。


「ローマ法王と公儀が合意したこの線を破り、無用な血を流す者は。……公儀の面目を、世界に向けて潰す者じゃ」


 大広間の空気が凍った。


「領地や城を預かる資格なしと見なす。……悪質であれば、『改易』も視野に入れるぞ」


「ははぁーッ!!」


 大名たちが、弾かれたように一斉に平伏した。


 祝賀の宴の空気が、一瞬にして凍りつき、極限まで張り詰める。


 だが、家康はすぐにふわりと表情を緩め、扇を軽く動かした。


「……まあ、皆の中に、そのような愚か者は出ぬと思うがな。念のため、この正月の祝いの場で、あらかじめ皆の耳に入れておいたまでじゃ」


 家康は、そこで笑った。


「うむ。……難しい話は、ここまでじゃ。では、宴じゃ! 存分に飲め!」


 張り詰めていた大広間の空気が、嘘のように一気に解け、元の和やかな祝いのムードへと戻っていった。


 酒が注がれ、膳が進み、大名たちは互いに笑い合う。


 公家たちも緊張を解き、箸を取った。


 竹千代が、俺の横で低く囁いた。


「国松。……祝いの席で、これだけ恐ろしいことを平然と言ってのけられるのは、大御所様だからだな」


「はい、兄上。……祝いの場だからこそ、皆が逆らえずに聞きます」


 俺は声を低くして答えた。


(怖い。本当に怖い。旧正月の楽しい宴で、豊作を祝って、公家を褒めちぎって、大名の三男四男を募集して希望を与えて……そのどさくさに紛れてローマ法王との合意を発表して、『禁教令違反は改易だ』って死の宣告の釘を刺して、そのまま何事もなかったように酒を飲ませる。……政治のコントロールがうますぎる!)


 竹千代は、静かに宴の様子を見つめながら言った。


「皆、祝いの酒を飲みながら聞いていた。……震え上がり、怒りながら聞くより、あの言葉はずっと深く彼らの骨の髄まで残る」


(……竹千代も竹千代で、完全に冷徹な為政者の目になってるよ……)


 *


 宴の途中で、何人かの大名が、末席にいる『公家文書御用』の公家たちのところへ、愛想よく挨拶に行っているのが見えた。


「いやはや、実のところ、自家の三男をぜひ江戸へ出したいと考えておりましてな」


「我が家臣の子に、ひどく筆の立つ者がおるのですが……公儀祐筆の見習いとして、口利きいただけませぬか?」


「一国一城令の城郭図面の提出文書……あれの正しい書き方を、どうかご教授願えませぬか」


「港別登録に必要な、新しい帳面の様式が難解でしてな……」


 公家たちは、無骨な武将たちから次々と頼み事をされ、少し戸惑いながらも、決して悪い気はしていないようだった。


 武家にとって、公家の持つ「文書の能力」と「作法の知識」が、公儀の実務を生き抜く上で、明確な価値を持ち始めているのだ。


(よし。公家文書御用が、ただの朝廷の不満を逸らす対策じゃなくて、本当に行政を回すための血管になり始めてる。……余った武士たちを、刀から筆へと転換させる受け皿にもなる)


 俺は、その様子を見て少しだけ安心した。


(でも……その分、大量に江戸へやって来る大名の子弟たちのための教育計画と、俸禄の計算と、住居の確保と、仕事の割り振りが必要になるんだよな……)


 また、俺の仕事が増える。


『旧正月から、また自分たちで仕事をドカンと増やしたわね』


 脳内で、KAMI様の呆れたような声が響いた。


(私じゃなくて、家康が勝手に増やしたんです!)


『でも、元を正せば、あんたが最初に村の水口を直して、田んぼの収量を上げたからこうなったんでしょ?』


(水口を直したことの責任範囲が、いくらなんでも広すぎませんか!?)


 *


 宴が最高潮に盛り上がる中。


 俺は、立派な祝い膳の魚をつつきながら、今年の課題を内心で一つずつ整理していた。


【現在、うまくいっていること】


 ・三年連続の大豊作。

 ・年貢の収納が極めて安定。

 ・水土御用と試験田の農法が、確かな数字の成果を出している。

 ・水番と水札の導入で、流血の水争いが減った。

 ・三法が、大名統制の要として完全に機能し始めた。

 ・公家文書御用が、深刻な文官不足を一部補い始めている。

 ・港別登録制度が動き出し、外国御用屋敷の構想も進んでいる。

 ・ローマ法王との直接会談により、禁教令の国際的な線引きが一応整理された。


【しかし、裏で問題だらけなこと】


 ・豊作が続けば、各大名が必ず欲を出して年貢を即時増徴したがる。要・厳重監査。

 ・圧倒的な蔵不足。

 ・前払いなどを誤魔化すための、蔵札・米札の偽造や過剰発行リスク。

 ・津軽などの冷害・凶作地への、救荒米の貸付と輸送手配。

 ・余剰米の酒造への過度な流用の制限。

 ・白米の偏食による、全国規模の足弱り発生リスクと栄養指導。

 ・一国一城令の「これは蔵です」と言い張る城郭用途分類の図面審査地獄。

 ・港別登録による、現場の帳面処理のパンク。

 ・宗門関係者分類台帳の運用と、潜伏する宣教師の監視。

 ・押し寄せる三男四男を江戸へ受け入れるための、教育制度と役職の創設。


 俺は、ふぅと息を吐いた。


 祝いのムードは壊さない。


 壊す必要は全くない。


 だって、この時代において、三年連続の豊作というのは、本当に、心から祝うべき奇跡のようなことなのだから。


 でも、現場の責任者である俺だけは、絶対に忘れてはならない。


 豊作は、決して終点ではない。


 政策が成功したという輝かしい証であると同時に、それは、さらに高度で複雑な「次の運用地獄」の、冷酷な始まりの合図なのだ。


 *


 元和二年、旧正月。


 徳川幕府は、豊作の三年目を大いに祝い、泰平の三法の成功を寿いだ。


 大名たちは心地よく酒を飲み、今年の豊作と徳川の世の安定を喜び合っている。


 公家たちは雅な和歌や文書の作法を語り、武士たちは新しく始まった相撲興行や武芸の話で盛り上がっている。


 竹千代は、静かな瞳で、天下の将たる威厳をもってその場全体を見渡している。


 家康は、己の作り上げた盤面を見て、心底満足そうに笑っている。


 秀忠は、将軍としての重い肩の荷が、今日だけは少し下りたように穏やかな顔をしている。


 俺も、表向きは彼らと同じように、穏やかに笑っていた。


 しかし、俺の視線は、どうしても座敷の隅に置かれた、まだ白紙の帳面の山へと向かってしまう。


 港は帳面に載り、城は用途で縛られ、朝廷とは文書で繋がり、ローマ法王とは水鏡越しに明確な線を引いた。


 たぶん、これは日本という国にとって、とてつもなく大きな前進なのだろう。


 でも、俺には痛いほど分かっている。


 前進した分だけ、管理すべき帳面は増える。


 帳面が増えれば、それを書く人が要る。


 人が増えれば、当然、彼らが食う飯が要る。


 飯がさらに要るようになれば……俺は、またあの泥だらけの田んぼを見て、収量を上げる計算をしなければならない。


 ……結局、全部『田んぼ』に戻ってくるじゃないか。


 旧正月の賑やかな祝いの声と、三味線の音色を聞きながら。


 俺は、今年最初の仕事として、公家文書御用の者たちへ割り振るための新しい帳面の束を、そっと、自分の祝い膳の脇へと引き寄せた。



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文官候補大量増員ゲット?あと、島原の乱フラグも折った?
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