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暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜  作者: パラレル・ゲーマー
第六部・早く訪れた太平の世編

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第126話 水神様、およつ御寮人問題にあえて口を出さない

 元和五年、初秋。


 先日の過酷な旱魃対応。


 枯れる田へ冷徹な見切りをつけ、蔵を開いて村と人を残すという、ぎりぎりの運用をどうにか終え。


 俺は、自室でようやく『公儀蔵救恤米出入控』の最後の数字をまとめ終えたところだった。


(蔵の米はごっそり減ったし、田も枯れた。だけど、村と人は確かに残った。これでひとまず、今年の最悪の崩壊は避けられたはずだ)


 深く安堵の息を吐き、筆を置こうとした、その時だった。


 襖が開き、本多正純が早足で部屋へ入ってきた。


 俺は反射的に身構えた。


(……またか。またどこかの港の値札が暴騰したか。後金と明の戦争が激化したか。それとも、旱魃の被害がさらに広がったか!?)


 だが、正純の表情は、サルフの大敗報や旱魃の報告を持ってきた時の、張り詰めた実務の顔とは違っていた。


 深刻ではある。


 だが、それ以上に、何とも口へ出しづらいことを抱えているような、複雑で困惑した顔をしている。


「国松様。京より、内々の報せにございます」


「京? 火事ですか」


「いいえ」


「帝がお倒れになった?」


「いいえ」


「では……何ですか」


 正純は少しだけ間を置いて、重々しく告げた。


「帝に……すでに皇子と皇女がおられることが、江戸へ正式に伝わってまいりました」


 俺は完全に口を開けたまま固まった。


「……はい?」


 後水尾天皇が寵愛する典侍、四辻与津子。


 宮中では、およつ御寮人と呼ばれている女性だ。


 彼女は前年に皇子である賀茂宮を産み、さらに今年、皇女をも産んだという。


 一方で、俺の姉である徳川和子の入内計画は、まさに今、莫大な金と人を動かして進んでいる真っ最中なのだ。


 俺は両手で頭を抱え、盛大に呻いた。


「……ああ。これが、歴史に名高い、およつ御寮人事件か……」


「御存じなのでございますな」


「ええ。私の知る後の世の歴史では、かなり面倒な公武対立の火種として残っています」


     *


 俺は、頭の中で問題を冷静に分解し始めた。


 そもそも、帝に寵愛する女性がいること自体は、この時代の常識からすれば異常ではない。


 皇統を絶やさず維持するために、御子が生まれることも、むしろ必要なことだ。


 和子姉上は、まだ入内すらしていない。


 だからこれを、


『帝が和子姉上を裏切って浮気した』


 という、現代の一夫一妻的な感覚だけで処理してはいけない。


 問題の本質は、道徳や恋愛感情ではない。


 幕府側からすれば、和子入内は長年にわたって進められてきた公武間の公的な約束だ。


 徳川家は、すでに莫大な費用と人員を準備している。


 その最中に、


『すでに別の女性との間に皇子がいる』


 という事実を、後から事後報告に近い形で知らされた。


 徳川家が軽んじられ、その面子を潰されたと受け取ってもおかしくはない。


 一方、朝廷側からすれば。


 和子はまだ入内しておらず、帝の後宮は幕府の支配下ではない。


 そもそも、


『和子以外の女性を遠ざける』


『和子以外との間に御子をもうけない』


 などという約束は、どこにも明文化されていない。


「……これ、誰か一人が完全に悪いというより……」


『互いが、相手も当然この前提条件を理解しているはずだと思い込んでいた、暗黙の仕様が根本から違っていたのよ』


 KAMI様が、的確すぎる言葉で補足してきた。


「最悪の仕様認識違いだ……」


『江戸側は、和子様の入内が決まった以上、次代の皇子候補は当然和子様から生まれるものだと思っていた。京側は、和子様の入内と、現在の後宮の維持は別の話だと考えていたのよ』


「誰も、その前提条件を一枚の帳面に書き出して、確認し合っていなかった……!」


 俺は、誰もこの暗黙の前提を、確認すべき項目として切り出していなかったことに、今さら気づいて頭を抱えた。


     *


 この問題は、いつもの実務の小評定で処理できる話ではない。


 和子姉上本人の人生へ直接関わる。


 同時に朝廷との最高位の外交問題であり、家光兄上と鷹司孝子殿の婚約へも波及しかねない。


 江戸城奥の広間へ、一族と関係者が急遽集められた。


 大御所・家康。


 将軍・秀忠。


 江。


 当事者である徳川和子。


 家光。


 公家社会の事情を知る鷹司孝子殿。


 俺。


 阿茶局。


 本多正純。


 土井利勝。


 完全に徳川家の家族会議という顔ぶれだ。


 だが、議題は帝の後宮について。


 空気は恐ろしく重かった。


 正純が、感情を一切交えずに事実だけを報告した。


「帝には、四辻与津子殿との間に、すでに皇子お一方、皇女お一方がおられます」


 秀忠の表情が、一瞬で険しくなった。


「皇子まで、すでにおられると申すか……!」


 江が、母親として激しい怒りを露わにした。


「それでは、我が和子は一体何のために京へ参るのですか!」


「帝の御心は、すでに別の女へ向いているということではありませぬか! 入内させた後、和子が形ばかりの女御として後宮の隅へ置かれるのであれば、徳川の愛娘を差し出す意味などありません!」


 家光も、姉を案じて強く同調する。


「姉上が、遠い京で肩身の狭い思いをすることだけは、絶対に許せぬ!」


 秀忠が、将軍として語気を強めた。


「朝廷へ、強く真意を問いただすべきであろう」


「我ら徳川と交わした約束を、何と心得ているのかと。四辻家と、その女房への処分も求めるべきではないか」


 一族の空気は、一気に朝廷への強硬論へ傾きかけた。


     *


 だが。


 ここで当事者である和子姉上が、静かに口を開いた。


「父上。一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」


 その声には、母のような感情的な怒りはなく、ただ静かな疑問だけがあった。


「申せ」


「私が入内するという約束には、帝が他の女房を遠ざけ、私一人だけを御側へ置くという定めが、文として交わされていたのでしょうか」


 その言葉に、場が止まった。


 秀忠は即答できなかった。


 そのような明文化された約束は存在しない。


 徳川側が、当然そのようになるはずだと期待していただけなのだ。


「では」


 和子は、真っ直ぐに秀忠を見た。


「およつ御寮人という方は、私との約束を何か破ったのでしょうか」


「それとも、私が参るよりも前から宮中におられ、帝のお役目として御子を産まれただけなのでしょうか」


「されど、和子!」


 江が叫ぶ。


「そなたが京で軽んじられれば――」


「はい。それは私も困ります」


 和子は一歩も引かずに答えた。


「ですが、私の立場を守るために、まだ顔も知らない女の方や、罪のない小さな御子を、宮中から無理に追い出すことを求めるのも……何か違うように思うのです」


 俺は、姉上のその言葉に驚いた。


 彼女は、何も知らない政略結婚の哀れな被害者ではない。


 自分の立場は守る。


 だが、別の女性と罪のない御子を不当に踏み台にしてまで、自分の場所を作ることは拒んだのだ。


     *


 全員の視線が、自然と鷹司孝子殿へ向かった。


 京の公家社会の常識を知る、公武の橋である彼女の言葉が求められた。


 孝子殿は背筋を真っ直ぐに伸ばし、極めて冷静に語り始めた。


「恐れながら申し上げます」


「帝に複数の女房がお仕えし、御子がお生まれになることは、禁裏において異例のことではございません。むしろ、皇統を絶やさぬために必要なことと考えられております」


 だが、彼女は朝廷側を一方的に擁護するわけではなかった。


「されど、和子様の御入内が長く話し合われ、徳川家が大きな準備を進めている最中でございました」


「江戸へ十分な説明がなされぬまま、皇子御誕生の報だけが後から届けば、徳川家が軽んじられたと受け取ることも、京の者は理解しているはずにございます」


 孝子殿は、両者の認識のずれを正確に指摘した。


「宮中の後宮へ、幕府がどこまで口を出せるのか」


「そして、和子様の御立場を、朝廷がどこまで明確に保証するのか」


「本来は、その境目を最初に言葉と文へ定めておくべきでございました」


(孝子殿、完璧だ。完全に公武間の仕様調整担当になってる……!)


 俺は内心で拍手を送った。


     *


 秀忠が俺へ問うた。


「国松。そなたはどう考える」


 俺は最初、家族の一員として、姉上を守るために答えかけた。


「お父様。これは、公儀の威信にかけても、強く抗議するべきでは……」


 だが。


 自分で言いながら、はっとして言葉を止めた。


「……いや。違います」


 俺は首を横へ振った。


「今、我々は朝廷と、ローマの水鏡会談や公家文書御用、京の修理、姉上の入内準備を通じて、ようやく互いの領分と面子を認める友好的な関係を、泥臭く積み上げている最中です」


「ここで帝の私的な後宮へ公儀の力で強く介入し、女性や御子への理不尽な処分を求めれば、その関係を、こちらから根底より崩すことになります」


「だが!」


 秀忠が語気を強めた。


「和子が軽んじられても、黙って引き下がれと申すか!」


「いいえ。姉上の立場は、絶対に確認するべきです」


 俺は、はっきりと言った。


「ただし、和子姉上の立場を確認して守らせることと、帝の後宮を徳川の都合で整理させ、別の女性や御子を追い出すことは、全くの別問題です」


     *


 家康は。


 秀忠や江のように激怒するでもなく、面白がるでもなく、ただ報告書を何度か静かに読み返していた。


「そうか、そうか」


「予定とは違う。すでに皇子がおられるか」


「父上。いかがなさいますか」


 家康はすぐには答えなかった。


 和子を見る。


 孝子殿を見る。


 家光を見る。


 そして、最後に俺へ問うた。


「国松」


「はい」


「お主の知る後の世では、この一件はどうなったのじゃ」


 俺は、未来知識を絶対の予言としてではなく、こうすれば失敗するという事例として説明した。


「私の知る歴史では、幕府はこの件へ極めて強く反発したようです」


「和子姉上の入内前に、すでに御子がいたことを徳川への侮りと受け取り、朝廷側の近臣や、およつ御寮人に関わる者たちへ、幕府の意向を背景とした処分が及んだとされています」


「細かな責任の所在や処分の経緯には、後の世でも異なる説明があります」


「ですが、幕府が強硬に介入したことで、帝には、徳川は禁裏の内儀にまで口を出すのかという、強い不信が残ったようです」


「この一件だけが、後の公武対立の原因ではありません」


「それでも、消えにくい遺恨の一つになった可能性は高いです」


 俺は、結論を言った。


「結局、和子姉上の入内そのものは行われました」


「つまり、強く出ても婚姻の結果は変わらず、朝廷との関係だけを悪化させた可能性が高いのです」


 家康は静かに頷いた。


「入内は行われたのだな」


「はい」


「帝の御子や女房を遠ざけても、徳川の得にはならなんだ」


「はい」


「朝廷の不信だけを買うた」


「そのように見えます」


     *


 家康は、そこで迷うことなく、あっさりと結論を出した。


「ならば、話は簡単じゃな」


 全員が大御所を見る。


「幕府としては、この件へ口を出さぬ」


「父上!?」


 秀忠が驚愕する。


「帝が、どの女房を寵愛し、御子をもうけるか。それは禁裏の内々のことじゃ」


「和子の入内を理由に、すでに生まれた御子を遠ざけることも、母を宮中から追うことも、我ら徳川が命じる筋の話ではない」


 家康の目は、どこまでも冷徹で、澄んでいた。


「我らが確認すべきは、ただ一つ」


「和子の入内の約束に、変わりがあるか否かじゃ」


「分かりました」


 俺は頷いた。


「向こうも分かっておるのだ」


 家康が薄く笑う。


「我らが怒っていることも。公儀の力を背景に、朝廷が拒みにくい要求を押し通そうと思えばできることもな」


「その上で、我らの方から、あえて求めぬと示す。それでよい」


 そして、家康は秀忠へ厳命した。


「この件につき、朝廷へ強く出ることを禁ずる」


「四辻家への処分を求めるな」


「およつ御寮人の退去を求めるな」


「御子の扱いへ口を出すな」


「御所修理や禁裏御用への支えを、交渉の人質に取るな」


「和子の入内を、脅しの道具として使うな」


「ただ、入内の約束に変わりがないか。それだけを最大限の礼を尽くして確認せよ」


     *


 秀忠は、将軍としてではなく、一人の父親として不安を口にした。


「では、和子が京で軽く扱われても、我らは何も言えぬのですか」


「それは違う」


 家康が即座に否定する。


「和子の立場と御入内の礼は、最初に交わした約束どおりに守らせる」


「女御としての地位」


「住まい」


「仕える者」


「費用」


「儀礼」


「これらは、公武間で正式に決めた約束じゃ。確認してよい」


「だが、およつ御寮人と御子をどうするかは、帝と朝廷が決めることじゃ」


「和子を守ることと、他の者を踏み潰すことを同じにするな」


 秀忠は、しばらく黙った後、深く頷いた。


 江も、母親として完全には納得していないようだった。


 だが、和子本人が穏やかな顔で言った。


「私は、それでよいと思います」


『ちなみに、史実の今の帝、この後ものすごい子沢山になるのよね』


 緊張した評定が終わりかけたところで、KAMI様が別の情報を入れてきた。


(そうなんですか?)


『系譜の数え方には多少の違いがあるけれど、御子は生涯で三十人を超えるとされているわ。しかも、その中から、和子様が産む明正天皇を含めて、四人も帝が出るのよ』


(よ、四人!? 御子三十人超え!?)


『皇統を残すことも、帝に課せられた重いお務めなのよ。後世の一夫一妻の感覚だけで、単なる恋愛問題として見たら本質を見失うわ』


(いや……帝、すごいな……)


 それだけの人数と、その母親たちと、御子の養育と、儀礼と、身分を、全て禁裏の内側で調整するのか。


(これ、後宮そのものが巨大な組織運用になってないか……?)


『その表現は、本人たちの前では絶対に言わない方がいいわね』


(分かっていますよ!)


     *


 口を出さない方針は決まった。


 だが、何も言わないだけでは、入内そのものが宙へ浮いたままになる。


 そこで孝子殿と、公家文書御用の者たちが、朝廷へ送る確認状の文面を作成することになった。


 最初に正純が書いた案は、血も涙もなく硬すぎた。


『先約に背き皇子御誕生の儀、幕府甚だ遺憾に存ず』


 孝子殿が即座に止めた。


「これでは、御子がお生まれになったこと自体を、罪だと申しているように読めます」


「駄目です」


 俺も同意した。


「子供が生まれたことに、罪はありません」


 次の案。


『和子御入内の儀、従前の御沙汰に相違なきや、改めて承りたく候』


「これだけでは、相手を疑って冷たく詰問しているように見えます」


 孝子殿が首を振る。


 最終的に。


 朝廷の面子を守りながら、必要な確認だけを行う文面が完成した。


『禁裏御繁栄の由、恐悦に存じ奉る。


 かねて御沙汰の和子御入内につき、諸礼并御支度、従前の定めにより進め申すべきや、御都合を承りたく候。


 公武の御縁、末永く相違なきことを願い奉る』


 御子誕生をまず祝う。


 およつ御寮人を名指ししない。


 処分を求めない。


 ただ、入内準備を続けてよいかだけを確認する。


『約束を守れ』


 と脅すことなく、公武の縁を続けたい意思を先に示す。


「よい」


 家康が、その文面を見て頷いた。


「怒りを隠すための文章ではない」


「怒りを使わぬと決めた文章じゃ」


 最後に、家康は和子本人へ問うた。


「和子」


「はい」


「帝には、すでに御子がおられる。宮中へ入れば、そなた一人だけが帝の御側にいるわけではない」


「それでも、入内するか」


 和子はしばらく考え、凛とした声で答えた。


「最初から、私一人だけの夫を得るための、私的な縁談ではないと承知しております」


「徳川と朝廷の間に、長く残る縁を結ぶために参るのでしょう」


「ならば、すでにおられる方を無理に追い出してまで、私の場所を作っていただく必要はありません」


「ただし」


 和子は、はっきりと続けた。


「私を、徳川から送られた人質や道具としてではなく、一人の女御として正式に迎えていただきたいのです」


「それでよい」


 家康が微笑む。


 俺も、姉上が政治の道具として黙って運ばれるのではなく、自分の意思と条件を、自分の言葉で示せたことに安堵した。


     *


 場面は変わり、京都御所。


 後水尾天皇、関白、武家伝奏、近臣たちは、江戸からの返答を待ちながら、落ち着かない時間を過ごしていた。


 およつ御寮人の皇女誕生が江戸へ伝わった以上。


 幕府から厳しい抗議が来ることは、避けられないと考えていたからだ。


「和子様御入内は、取り止めとなりましょうか」


「四辻家や近臣へ、配流、蟄居、出仕停止などの厳しい処分を求められるのでは」


「およつ御寮人を、直ちに宮中より退けよと申してくるやもしれませぬ」


「御所修理や禁裏御用への支えを止められれば、朝廷の御用はたちまち立ち行かなくなりますぞ……」


 後水尾天皇も、表情を硬くしていた。


 帝自身は、自分の後宮へ武家である徳川が介入することを、強く嫌っている。


 だが、和子入内が朝廷の財政や公武関係にとって重要であることも理解していた。


(……徳川は、朕の内裏の奥へまで、己の法と力で口を差し挟むつもりか)


 そこへ、江戸からの文が届いた。


 関白が家康と秀忠からの文を開き、読み上げる。


 最初に御子誕生への祝意。


 次に、公武の縁を長く続けたいという言葉。


 そして、


『和子入内の準備を、従前どおり進めてよいか』


 という確認。


 それだけだった。


 およつ御寮人の名はない。


 四辻家への処分要求もない。


 皇子と皇女をどう扱えという言及も、一切ない。


「……それだけか」


 後水尾天皇が、呆然と問う。


「はい。処分せよとは、一言もございませぬ」


「和子の入内を取り止めるとも?」


「ございませぬ」


 朝廷側は安堵すると同時に、徳川の意図を慎重に読み解こうとした。


「幕府としては、怒りを抑え、朝廷との関係を優先したのでございましょう」


「もとより、帝の後宮へ幕府が口を出す筋ではございませんが……」


 関白が、静かに言った。


「その筋ではないと、力を持つ側が自ら認めたことに意味がある」


「徳川は、強く出られぬから黙ったのではない」


「朝廷が拒みにくい要求を突きつける力を持ちながら、あえてその力を使わなかったのだ」


     *


 幕府が処分を要求しなかったことで、後水尾天皇も、意地を張って徳川と争う必要がなくなった。


 帝は、幕府からの圧力によってではなく、自らの意思で宮中の秩序を整理するよう命じた。


 和子入内に先立ち、女御としての居所、仕える女房、費用、儀礼上の扱いを、関白や近臣へ改めて確認させる。


 およつ御寮人と二人の御子についても、罪人として扱うことなく、養育と儀礼上の扱いが、和子入内後に混乱を起こさぬよう、禁裏の内側で調整を始めさせた。


 四辻家へ懲罰は加えない。


 和子とおよつ御寮人を、意図的に競わせるような儀礼配置も避ける。


 そして今後、和子入内へ関わる大きな事情については、江戸へ早めに伝える。


「徳川が、朕の内へ手を入れぬと示したならば」


 後水尾天皇は静かに言った。


「朕も、約した和子の礼を損なうつもりはないと示そう」


     *


 朝廷からの返書が、江戸へ届いた。


『和子御入内の儀、従前の御沙汰に相違なし』


『御支度、予定のとおり進められたし』


『女御としての御礼、先約に従い整える』


『公武の御縁、末永く守るべし』


 家康は、その返書を一度読み、満足そうに頷いた。


「よし」


「本当に、それだけでよろしいのですか」


 秀忠が問う。


「それだけを確かめるための文じゃ」


 家康は笑った。


「欲しくもないものまで意地になって要求すれば、代わりに本当に欲しかったものを失う」


「史実の泥沼より、ずっと穏やかに収まりましたね」


 俺が言うと、家康は首を振った。


「幕府が何もせなんだからではない」


「何をせぬかを、最初に決めたから収まったのじゃ」


     *


 評定の後。


 和子と孝子殿が、庭先で二人並んで話していた。


「孝子殿。京へ参った後も、私に教えていただけますか」


「何をでございましょう」


「徳川の常識と禁裏の常識が違い、ぶつかりそうになった時に、どこで言葉を止めればよいのかを」


 孝子殿は優しく微笑んだ。


「私も今、この江戸の常識を学んでいる途中にございます」


「ならば、互いに教え合いましょう」


 一人は将来、帝の女御として京へ向かう。


 一人は将来、将軍家の正室として江戸に残る。


 俺は少し離れた場所から、二人を見ていた。


(公武関係を本当に支えるのは、家康公の法だけじゃない)


(京へ行く姉上と、江戸へ来た孝子殿。この二人もまた、両者を繋ぐ橋になるんだ)


     *


 御異物改方の自室。


 俺は、新しい一件を短い帳面へ記した。


 表題は、


『和子御入内前 禁裏御内儀確認控』


『帝、四辻典侍との間に皇子皇女あり』


『幕府、右につき処分要求を行わず』


『和子御入内の先約のみ確認』


『朝廷、入内の儀に変更なき旨を返答』


『女御の礼并居所、従前の定めにより整える旨あり』


 俺は筆を置いた。


『何もしなかった割には、ずいぶん立派な帳面ね』


「何もしなかったんじゃありません」


「余計なことをしないと決め、その決定を全員へ守らせたんです」


『それが一番難しいのよね。力を持った人間って、使わないと損したような気になるものだから』


 幕府には、朝廷へ強く抗議する力があった。


 朝廷が拒みにくい要求を、幕府の財力と影響力を背景に押し通すこともできた。


 四辻家へ処分を求めることも。


 およつ御寮人を宮中から遠ざけることも。


 和子姉上の入内を、政治的な圧力として使うこともできた。


 だが。


 できることと、してよいことは違う。


 俺たちが確かめるべきだったのは、帝の御心の中身でも、愛情の行方でもない。


 一度交わした、和子姉上の入内という公的な約束だけだった。


 口を出せるほど強い者が。


 あえて口を出さず、相手が自らの意思で約束を守る余地を残す。


 その重く、冷静な沈黙によって。


 史実では、公武の間に深く刺さり、長く痛みを残したはずの棘が。


 この世界では、誰の血も流さず、静かに抜け落ちたのである。

最後までお付き合いいただき感謝します。


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史実での冷え冷えを考えると良い方向に解決して何よりです。
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