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暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜  作者: パラレル・ゲーマー
第六部・早く訪れた太平の世編

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第123話 水神様、吉原が大繁盛していて複雑な顔をする

 元和五年。


『長崎并諸港 軍需薬種値動控』の運用を開始し、明の北辺で燃え始めた戦乱の火が『値札』という形で日ノ本へ入り込んでくるのを、水際で警戒し始めた直後のことだった。


 御異物改方の自室へ、江戸の町奉行と葭原(よしわら)遊郭管理方から、分厚い定期報告書が届けられた。


 表題には、


『葭原遊郭定期検分并運用状況控』


 と記されている。


(……ふぅ)


 俺は重い息を吐き出し、北の戦乱に関する血なまぐさい帳面を机の端へ避けた。


 今度は国内の制度報告だ。


 少なくとも、異国の大戦や宗教戦争よりは穏やかな話だろう。


 そう思い、少しだけ安堵しながら新しい帳面を開いた。


 だが、最初の一文を読んだ瞬間、俺は完全に固まった。


『葭原遊郭、客入り極めて盛んなり』


 俺は目を丸くし、その文字を何度も見返した。


「……大繁盛、している……?」


 横から帳面を覗き込んだ本多正純が、淡々と頷く。


「そのように記されておりますな。客足は途絶えることなく、連日大賑わいの由」


「……これって、喜んでいいんでしょうか」


 俺が戸惑うと、正純は不思議そうに首を傾げた。


「国松様が自らお定めになった仕法が滞りなく機能し、人と金を大いに集めているという意味におきましては、為政者として喜ばしいことかと存じます」


「……でも、大繁盛しているのは遊郭なんですよね……」


 俺は、自分が血反吐を吐いて作った制度が大成功した嬉しさと、遊郭という欲望の町がかつてないほど繁栄している事実を素直に喜べない現代人としての倫理観の間で、激しく頭を抱えた。


『勘違いしないことね。あなたが人間の性欲や欲望を作ったわけじゃないわ』


 視界の端に現れたKAMI様が、冷静に言った。


「それは、まあ、そうですけど……」


『もともと江戸の町中に無秩序に散らばっていた需要を、宿場、茶屋、旅籠、裏店で行われていた商売ごと、吉原という一か所へ集めて、公儀の目が届きやすくしただけよ。人間の欲の総量が急に増えたわけじゃない。今まで公儀から見えなかった裏の金と人が、表の帳面に載るようになったから、大繁盛して見えるの』


「……つまり、遊郭が新しく繁盛し始めたというより、町中の需要が全部吉原の枠内に吸い込まれている?」


『そういうこと。しかも公儀公認で、病気や暴力への備えがあるから、客にとっても以前の無許可の店よりはるかに安全。店側にとっても、裏で勝手に商売する相手と値段競争をしなくて済む。これだけ条件が揃って、繁盛しない方がおかしいわ』


 俺は、報告書をさらに読み進めた。


 江戸の町中では、公儀の許しを得ずに遊女商売を試みた茶屋や旅籠が、町奉行の同心たちによって即座に摘発されていた。


 一度警告を受けても従わなかった店は営業停止。


 女性を隠して違法に客を取らせていた悪質な店主は処罰され、そこで働かされていた女性たちは、いったん町奉行の保護下へ置かれる。


 その後、借金や年季を含む契約内容を改めて検分した上で、本人の事情も確認しながら、吉原管理方の監督下へ移されていた。


 江戸の町には、すでに一つの空気が定着し始めていた。


『女を置いて客を取らせて儲けたければ、黙って吉原へ入れ』


 無許可の店が町中で拡大する暇はない。


 公儀の監視が厳しすぎるからだ。


 その結果、遊女、楼主、客、金、医師、薬、警備の者、そして揉め事や苦情。


 その全てが、吉原という巨大な一つの帳面の中へ、吸い込まれるように集まり始めていたのである。


「……本当に、帳面の外の闇でやるより、公儀の帳面の中でやった方が得になる仕組みになってる」


「左様にございます」


 正純が冷静に頷く。


「公儀の帳面へ登録すれば、店側は横暴な客との揉め事において法の保護を受けられます。客の側も、病の蔓延や刃傷沙汰への備えがある場所を選ぶ。双方にとって、無許可の店を続ける利が極めて薄くなったのでしょう」


『ただ頭ごなしに禁止しただけじゃなく、正規の場所へ入る利益を、客と店の双方にちゃんと作ったのが効いてるわね』


 俺は、少しだけ胸を撫で下ろした。


 俺が意地になって決めた吉原の仕法は、紙の上の綺麗事ではなく、実際に江戸の人間たちを一か所へ集め、動かすだけの力を持ち始めていたのだ。


 *


 江戸城、小評定の間。


 家康、秀忠、家光、俺、正純、土井利勝が出席し、吉原の運用状況について報告が行われた。


 正純が帳面を読み上げる。


 客入りは予想を大きく上回っている。


 登録された遊女と公認の見世の数も増加。


 それにもかかわらず、客による刃傷沙汰や暴力は明確に減少傾向にある。


 そして何より、最も恐れていた、病人を隠して客を取らせる事例も、養生所の機能によって確実に減っていた。


 家康は驚くというより、むしろ当然のように深く頷いた。


「……人の欲を法で強引に禁じても、消えはせぬ。消えぬものを無理に町の裏へ追いやれば、結局は、法の目が届かぬ暗闇の中で人が人を食うだけじゃ」


「一か所へ集めたことで、江戸の町中で女を巡る揉め事も減ったとあります」


 秀忠が、治安維持の観点から評価する。


「夜の客が吉原へ向かうようになり、宿場や茶屋での無用な刃傷沙汰も減っております。町奉行としても、以前より町を扱いやすくなったとのことにございます」


 土井利勝も、町方行政の実感として頷いた。


 だが、家光だけが少し戸惑った顔をして、俺を見た。


「……国松。遊郭という場所がこれほど栄えることは、天下の政として、本当に良いことなのか?」


 その純粋な問いに、大人たちはすぐには答えなかった。


 俺も少しの間考えてから、真っ直ぐに答えた。


「……良い場所だから栄えている、というわけではないと思います」


「では、悪い場所なのか?」


「悪いことが起こりやすい場所です。ですが、そこで働いている人々までが、全て悪い人間というわけではありません」


 俺は、吉原にいる女性たちの現実を説明した。


 貧しい田舎で家族全員をどうしても食わせられず、口減らしとして奉公へ出された女性。


 夫や父を戦や病で失い、ほかに自分の身一つで稼ぐ手段がない女性。


 飯炊き、洗濯、掃除、給仕といった重労働をしながら、夜には客を取ることで、ようやく明日の食事と雨風をしのぐ寝床を得ている女性。


 そこで芸事や教養を身につけ、太夫や格子として自らの価値を高め、己の才覚で生き抜こうとする女性。


 自分の稼いだ金の一部を、遠い故郷の家族へ送っている女性。


「自ら望んで、好き好んでそこへ来た者ばかりではありません。ですが、全員が今すぐ外へ出れば幸せになれるわけでもないのです」


 俺は続けた。


「吉原を潰したとしても、そこにいる女たちの腹が満ちるわけではありません。住む場所も、働く場所も、明日からの食い扶持も用意しないまま、ただ『ここは悪い場所だから』という理屈だけで追い出せば、彼女たちは町のもっと暗い場所で、さらに悪い者たちに、もっと安く売られるだけです」


 家康が、俺の言葉を重く引き取った。


「……欲を消すことは、誰にもできぬ。ならば、その溢れ出る欲が人を食い殺さぬよう、法の内へ囲い込み、厳しく管理する。それが為政者の政よ」


 家光は、深く息を呑んだ。


「……人の欲を、堤の中へ入れるのか」


「うむ」


 家康は満足そうに頷く。


「水を無理に消そうとすれば、必ずどこかで堰を切って溢れる。ならば、水が流れる場所を決め、堤を築くのじゃ」


(……先日の、借金の時の堤と同じ考え方だ)


 俺は、改めて大御所の政治哲学のぶれなさに感服した。


 遊郭もまた、人間の底知れぬ欲望に築く、一つの巨大な堤なのだ。


「国松」


 家康が不意に命じた。


「お前が自ら作った仕法じゃ。その後の運用がどうなっておるか、お前の目で現地へ出向き、検分してこい」


「……私が、吉原へ行くんですか?」


「遊びに行けとは言うておらぬ。昼間の公式な検分じゃ」


 秀忠が冷たい声で釘を刺した。


「……竹千代は、絶対に連れて行かぬ」


「なぜですか、父上!」


 家光が不満そうに声を上げる。


「なぜでもだ!」


 俺も内心で、秀忠に全力で同意した。


(兄上まで一緒に連れて行ったら、絶対に将来ずっと『家光公、元服早々に吉原通い』とか語られる最悪の黒歴史になるからな!)


「国松は、あくまで御異物改方として、帳面と養生所と見世の仕法を見るのじゃ。決して余計なことはするなよ」


「しませんよ!」


『水神様、ついに吉原の大見世へ、昼間から堂々と見物へ行く、ね』


(違います! あくまで制度の定期検分です!)


 *


 数日後。


 検分の当日。


 俺は、本多正純、土井利勝、江戸町奉行筋の役人、遊郭管理方の担当者、そして公儀の医師数名を伴って吉原へ向かった。


 当然、夜の華やかな遊興ではなく、昼間の厳格な公式検分だ。


 それでも、水神様が吉原へ来るという噂は、どうやっても完全には隠しきれなかった。


 吉原の大門の周囲には、好奇心旺盛な見物人たちが大勢集まり、町奉行の同心たちが必死に追い払っている。


「おい、見ろ! 水神様が、自ら遊女を見に来たぞ!」


「馬鹿者、違う! 公儀の検分じゃ!」


「何を検分するんだよ! 俺たちにも見せろ!」


「うるさい、黙って帰れ!」


 俺は、輿の中で完全に頭を抱えていた。


(……これ、絶対に明日には、変な瓦版の題材になって江戸中へばら撒かれるやつだ……!)


『見出しは決まりね。【水神様、吉原の極上太夫と大繁盛を直々に御覧になる】』


(やめてください! 変な見出しを作らないでください!)


 吉原の入口。


 門番が厳格に人の出入りを確認し、帳面へ記録している。


 遊女、奉公人、商人、髪結い、医師、料理人、そして客。


 出入りの全てを完全に追うことは不可能に近いが、少なくとも見世の所属者と大量の物資については、以前よりはるかに見えるようになっている。


「……遊女や客だけじゃなく、出入りする商人の数が、とんでもなく増えているな」


 俺が門の帳面を見て驚くと、管理方の役人が恭しく答えた。


「はい。豪華な衣装、化粧の粉、高級な酒、米、魚、紙、薬、薪、油、香、櫛、簪。吉原という町を動かすため、毎日これだけの品が運び込まれまする」


 俺は理解した。


 吉原は、単なる遊女の集まる場所ではない。


 ここは、無数の金と人が渦巻く一つの巨大な消費都市であり、江戸有数の娯楽産業の集積地になり始めているのだ。


 *


 最初に検分へ入ったのは、最高級の太夫を抱える大見世だった。


 太夫という存在は、ただ容姿が並外れて美しいだけでは到底なれない。


 和歌。


 書。


 香。


 茶。


 楽器。


 流麗な会話。


 礼法。


 そして、豪華絢爛な衣装の着こなし。


 大名や豪商を相手にしても場を乱さず、むしろ客の側へ恥をかかせないだけの教養が求められる。


 俺は、昼の広い稽古場を見た。


 太夫候補の女性が、師匠から和歌の添削を受けている。


 別の者は、三味線や琴の稽古に汗を流している。


 その周囲では、衣装方が季節に合わせた柄を相談し、髪結いが新しい結い方を試し、香を扱う者が準備をし、料理人が動き、手紙を書く書役がおり、禿(かむろ)や付き人が忙しく走り回っている。


「……太夫一人のために、何人の人間が動いているんですか」


 俺が圧倒されて呟くと、楼主が答えた。


「太夫本人のほか、禿、遣手、髪結い、衣装方、料理人、芸事の師、そして茶屋の者。直接間接を合わせれば、十人や二十人では収まりませぬ」


「……これ、一人の遊女というより、一つの巨大な高級文化興行じゃないですか」


『その通りよ。高級接客、芸能、流行の発信、飲食、衣装、音楽を、全部まとめて太夫という看板で売っているの。彼女本人が、一つの産業の中心なのよ』


 太夫の衣装に使われた新しい柄が、江戸の裕福な女性たちの間で流行する。


 太夫が詠んだ和歌が、客を通じて公家や文化人へ伝わる。


 太夫の髪形を真似た簪が、飛ぶように売れる。


 吉原は欲望の町であると同時に、江戸の新しい流行と文化を生み出す発信源になり始めていた。


 俺は、複雑な顔で正純を見た。


「……制度を整えて一か所に集めたら、文化産業として異常な勢いで成長していますね」


「人と金が一か所へ集まれば、その周囲に様々な技と商いが育つのは、世の理にございます」


 *


 次に、太夫に次ぐ格子の区画を見る。


 格子は一定の教養と芸事を備えているが、太夫ほど莫大な費用を必要としない。


 裕福な町人。


 中級武士。


 大店の番頭。


 職人の棟梁。


 そうした層が主な客となる。


「太夫は見世の名を上げまするが、日々の商いを実際に支え、利益を生み出すのは、この格子たちにございます」


 楼主が、商売の内側を説明する。


 衣装も接客も一定以上の質があるが、高級すぎない。


 客が繰り返し通える価格帯。


(なるほど。看板と、実際に売上を支える主力が分かれている……)


『どの時代でも、最上級の品だけで商売は回らないわ。見栄を作る層と、日々の金を回す層が両方必要なのよ』


 俺は、格子たちの帳面も細かく確認した。


 契約時の借金。


 衣装代。


 食費。


 稽古代。


 本人の稼ぎから返済へ回った額。


 残額。


 年季の残り。


 数字はまだ完全とは言えない。


 だが、少なくとも以前のように、楼主が口頭だけで勝手な数字を上乗せし、借金を膨らませることは難しくなっていた。


「定期的に公儀の役人が帳面を写し取っているから、後から数字を大きく変えれば、すぐに露見するようになっているな」


 俺は、その運用の定着に少しだけ安堵した。


 *


 だが、俺が最も長く、そして最も重い気持ちで検分したのは、太夫や格子ではなかった。


 吉原の大半を占める端女郎や飯炊き女たちのいる、比較的安価な見世だった。


 そこに豪華さはない。


 部屋も狭く、衣装も質素だ。


 飯炊き、洗濯、掃除、給仕を兼ねる女性も大勢いる。


 客を取るだけでなく、吉原全体の日常を下から支える労働力でもある。


 朝から大量の米を炊く。


 汁を作る。


 部屋を掃除する。


 衣類を洗う。


 客や上位の遊女へ給仕する。


 そして夜になれば、必要に応じて客を取る。


 現代の基準で見れば、あまりにも過酷な働き方だ。


 俺は、その中の一人の女性に思い切って問うた。


「……嫌では、ないのですか」


 女性は俺の顔を見て、飾らない言葉で答えた。


「楽な暮らしでは、決してございませぬ。好きかと問われれば、好きではございませぬ」


 それでも彼女は、静かに言葉を続けた。


「されど、私の故郷では田畑が足りず、下の弟たちも、いつも腹を空かせておりました。ここへ来れば、少なくとも一日に二度は飯が食えます。雨の日も雪の日も、屋根の下で眠れます。そして、働いた分の一部は、わずかですが故郷の家へ送れます」


 俺は返す言葉を見つけられなかった。


「……哀れまれるために申しているのではございませぬ。ここより良い暮らしがあるのなら、それは欲しゅうございます。ですが、もし今すぐここを追い出されれば、私は一体どこへ行けばよいのでしょう」


 俺は、答えられなかった。


『これが、この時代の現実よ。遊郭を綺麗事で閉じたからといって、この子の故郷に豊かな田畑が増えるわけじゃない。仕事も、住む場所も、食べ物も、空から降ってきたりはしないわ』


 俺は、吉原を善悪だけで切り捨てられない理由を、改めて理解した。


 この場所は、決して清らかな救済の場ではない。


 だが、ある者にとっては、飢えて死なずに済む最後の場所でもある。


(……だからこそ、この場所に法を入れなければならないんだ)


 *


 俺は、その端女郎の一人から、彼女自身の借金帳面を見せてもらった。


 以前であれば、本人が自分の借金の残額を正確に確かめることなどできなかった。


 いくら働いても、


「衣装代が増えた」


「食費が嵩んだ」


「客への詫び代がかかった」


 と告げられ、借金は減るどころか増え続けるのが当たり前だった。


 だが、現在は違う。


 契約時の元金と、追加費用の上限が、公儀の控えにも残されている。


 稼ぎから、食費、見世の取り分、本人の取り分、借金返済へ回る額が、分けて記されている。


 女性は、その帳面を見つめながら、呆然とした声で言った。


「……減っております」


「え?」


「借りた金が、本当に、先の検分の時よりも減っております」


「……働いたのですから、減るのが当たり前でしょう」


 俺が言うと、女性は静かに首を振った。


「……当たり前では、ございませんでした」


 その言葉の重さが、俺の胸へ突き刺さった。


 まだ、年季は終わらない。


 明日すぐに外へ出て、自由になれるわけでもない。


 だが、帳面の数字は、確実に出口へ近づいている。


 俺は、自分が決めた制度が、ただ紙の上に書かれた法ではなく、生身の人間の人生の時間として動き始めていることを、確かに実感した。


 年季の終わりを約束する文字が、もう飾りではなくなったのだ。


 *


 次に、吉原内へ設けた養生所を検分した。


 病状のある遊女は、客を取らせずに休ませる。


 この時代には、梅毒を完全に治療する薬はない。


 むしろ、誤った薬や水銀を用いる危険な治療で、命を落とす者も多い。


 そのため、公儀の方針は、無理に治すことを約束しない。


 症状を早く見つける。


 客を取らせない。


 衰弱した者へ食事と休養を与える。


 ほかの者への感染を、できるだけ防ぐ。


 治療を理由に、新たな借金を際限なく積ませない。


 できるのは、そうした現実的な対応だけだった。


「以前であれば、病を隠して無理に客を取らせていた見世もございました。今は、それが発覚した際の処罰が重いため、少しでも症状があれば早めに養生所へ出す者が増えております」


 担当の医師が報告する。


「病人を出したことではなく、病人を隠したことを罰する。そこは、絶対に運用を変えないでください」


「承知しております」


 病気になること自体は罪ではない。


 病を隠し、本人と客の双方を危険に晒し、被害を広げることが問題なのだ。


 その区別が、少しずつ現場へ根づき始めていた。


 *


 制度は、おおむね順調だった。


 だが、当然ながら完全ではない。


 俺は検分の中で見つけた、二つの細かな問題を指摘した。


 一つ目。


 一部の安価な見世が、利益を守るため、端女郎や飯炊き女の食事を削ろうとしていたこと。


 太夫や格子には十分な米や魚を出す。


 端女郎たちには、薄い粥と少しの漬物だけで済ませる日が増えていた。


 客が増え、米と薪の消費が増えたため、下で働く者の食費を削って利益を出そうとしたのだ。


 楼主は言い訳した。


「太夫や格子は、見世の看板にございます! よい物を食わせねば、肌も声も衰えまする!」


「端女郎は、衰えてもいいのですか?」


 俺が冷たく言うと、楼主は言葉に詰まった。


「同じ豪華な料理を出せとは言いません。ですが、働けないほど食事を削れば、結局は病人が増え、見世も損をするでしょう」


 俺は、全員へ豪華な食事を与えろという非現実的な命令はしない。


 代わりに、最低限の基準を定めた。


「一日二度以上の食事を出すこと。粥だけを連日続けないこと。働く者には、魚や豆など、身を養うものを可能な限り与えること。病人には消化のよい食事を出すこと。そして、食事を罰として抜かないこと」


 今回の違反については、営業停止ではなく是正命令と再検分に留めた。


 二つ目。


 衣装代の区分だ。


 太夫や格子の豪華な衣装は、見世の看板として必要になる。


 だが、一部の楼主が、見世の営業に必要な衣装代まで、遊女本人の借金へ全額載せようとしていた。


 俺は、ここに明確な線を引いた。


「見世が客を呼ぶために指定する衣装は、原則として見世の商いに必要な費用です。本人が自ら望んで追加する特別な簪や装飾についてのみ、本人の負担も認めます。ただし、本人の同意と借金上限の範囲内に限ること。衣装を壊したという名目で、勝手に年季を延ばすことは禁止します」


 正純が素早く帳面へ書き込む。


「……見世の商いに必要な支度と、本人の私的な望みを分けるわけですな」


「はい。見世の看板の費用まで本人へ背負わせたら、彼女たちの借金は永遠に減りませんから」


 新しい大制度は作らない。


 既存の運用細則を、少し増補するだけに留めた。


 *


 大見世の楼主が、最後に俺へ本音を漏らした。


「……正直に申し上げれば、帳面も医師の検分も、面倒にはございます」


「やはり、嫌ですか?」


「嫌ではございます。されど、以前よりは随分と商いがしやすくなりました」


 理由は明確だった。


 客が料金や遊女の格を理解して来る。


 無許可の店との無用な値下げ競争がない。


 乱暴な客を、堂々と公儀へ突き出せる。


 借金や契約の揉め事では、公儀の帳面を証拠にできる。


 病人を休ませても、ほかの店だけが病人を働かせて得をする状況が減った。


「法に従う代わりに、公儀が我らの商いの場を守ってくださる。ならば、帳面を書く手間くらいは耐えられまする」


 俺は、その言葉を聞いて深く納得した。


 制度というものは、善意ある楼主だけへ負担を押しつけても機能しない。


 法を守る側にも、確かな利益がなければならないのだ。


『規制に従う者が損をしない仕組み。それがないと、人間は誰も真面目に法を守らないものね』


 *


 公式な検分を終え、俺たちは夕暮れ時に吉原を出た。


 当然ながら、客として夜の内部には残らない。


 帰り道。


 少し離れた場所から、提灯の灯りが一斉に点き始めた吉原の町を振り返った。


 三味線の音。


 料理の匂い。


 客を運ぶ駕籠。


 商人。


 遊女。


 奉公人。


 警備の者。


 一つの巨大な町が、夜の(とばり)へ向けて動き始める。


 美しく、妖しく見える。


 だが、その灯りの中には、貧しさも、欲望も、身売りも、諦めも詰まっている。


「……綺麗ですね」


 俺が呟くと、KAMI様が答えた。


『そうね』


「でも、綺麗なだけじゃない」


『もちろんよ』


「……俺は、ここを良い場所にしたんでしょうか」


 KAMI様は少しだけ間を置いて、静かに言った。


『善い場所にしたわけじゃないわ』


 俺は黙った。


『前より、悪くない場所にしたのよ』


「……それだけですか」


『今すぐ貧困も、家の口減らしも、人間の欲望も、女が働ける場所の少なさも、全部一瞬で消せないならね。理想を叫んで門を閉じ、ここにいる女たちを路上へ追い出すより、まず飯が食えて、屋根の下で眠れて、病めば休めて、働いた分だけ借金が減る場所にした方が、よほどましでしょう?』


 俺は、完全には納得しきれなかった。


 だが、今日見た女性の言葉を思い出す。


『好きではない。でも、追い出されたらどこへ行けばよいのか』


 その問いに対して、今の俺はまだ完全な答えを持っていない。


 だからこそ。


 せめて、今彼女たちがいる場所を、法の届かない地獄のままにはしない。


 *


 後日。


 小評定の間。


 俺は、家康、秀忠、家光へ検分の報告を行った。


「……総評として、葭原遊郭の運用は、おおむね良好にございます」


 客入りは盛ん。


 太夫、格子、端女郎の区分も定着。


 借金と年季の記録は明確になり、病人の隠蔽も減少。


 無許可営業も抑え込まれている。


「八分は、動いたか」


 家康が頷く。


「はい。少なくとも、最初に決めた仕法は、紙の上だけでは終わっていませんでした」


「年季明けの者は、まだおらぬか」


 秀忠が問う。


「はい。まだ本格的に出る時期ではありません。ただ、借金の残高は実際に減っています。年季の終わりが、勝手に遠ざかってはいません」


 ここが一番重要だった。


 まだ出口へ出た人はいない。


 だが、出口までの距離は、帳面どおりに縮んでいる。


 家光が、俺の目を見て問うた。


「国松。……吉原は、これで善い場所になったのか?」


「いいえ、兄上。善い場所になったとは、私には言えません」


「では、失敗なのか?」


「それも違います」


 俺は、真っ直ぐに答えた。


「人の欲も、貧しさも、身売りも、まだ消えてはいません。ですが、そこにいる者が飯を食い、病めば休み、働いた分だけ借金が減るようにはなりました。場所を清らかにすることはできなくても、人が誰にも知られず、闇の中で食い殺される場所ではなくすことはできます」


 家光は、深く考え込んだ。


「……欲を消すのではなく。欲が人を食わぬよう、法の中へ置く」


「はい」


 家康が、満足げに頷いた。


「……よう覚えよ、家光。政とは、清らかなものだけを扱うことではない。人の汚れも、欲も、弱さも、全てこの世にあるものとして受け止め、天下が壊れぬ形へ収めることこそが政じゃ」


 俺は、今日の検分結果を『葭原遊郭定期検分控』へ記載した。


 そして最後に、一文を加えた。


『葭原を善所と断ずるべからず。されど、悪所と呼びて中の者まで見捨つるべからず。人の欲を消すことかなわぬならば、法と帳面をもって囲い、欲が人を食らわぬよう守るべし』


 吉原は、清らかな町になったわけではない。


 女たちが身を売る現実も。


 貧しさも。


 人間の底なしの欲も。


 何一つ消えてはいない。


 それでも。


 昨日より今日。


 今日より明日。


 帳面の数字は、ほんの少しずつ、確実に出口へ近づいている。


「……戦争の次は、遊郭の保守運用ですか……」


『どちらも、人間が大量に集まり、お金が動き、放っておくと弱い者から食われる場所でしょう』


「同じ扱いにしていいんですか、それ」


『管理の基本は同じよ。見えない場所へ追い出さない。数字を残す。出口を塞がない。そして、問題が起きた時に、誰が責任を取るか決めておく』


 俺は、ため息をついた。


 そして、吉原という巨大な欲望の町の、果てしない保守運用の帳面を、静かに閉じた。

最後までお付き合いいただき感謝します。


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― 新着の感想 ―
史実みたく遺体が寺に放り込まれる事は減るかも知れませんが、何とも言い難いですね。
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