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暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜  作者: パラレル・ゲーマー
第六部・早く訪れた太平の世編

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112/128

第111話 水神様、老法王の記憶に八百比丘尼を映す

 元和三年、冬。


 江戸城には、身を切るような冷たい北風が吹きすさんでいた。


 御異物改方の部屋には、大きな火鉢がいくつも置かれているが、それでも足元から冷気が這い上がってくる。


 俺は、火鉢の近くに陣取り、かじかむ手で筆を握りながら、先日整えたばかりの『諸城修補願并検分定』の、追加修正と問い合わせへの返書に追われていた。


「『絵図の描き方が分かりませぬ』だと? そんなの、自藩の図取りの者に聞け! 『どこからどこまでが、申請の必要な石垣補修に当たるのでしょうか』? 石を一個でも動かしたら補修だ! 『門の屋根の瓦を数枚直すだけなら、許可はいりませぬな?』……要るって書いてあるだろ! 仮許可でいいから出せ! 『海防用の見張台と、軍事用の櫓の正確な違いを教えてくだされ』。……大砲と鉄砲を撃つための狭間の数と壁の厚みで判断しろって、別紙に書いただろ!!」


 全国の大名たちから押し寄せる、屁理屈と揚げ足取りのような質問状の嵐。


 俺は、限界まで疲弊した頭で、一つ一つに朱筆を入れて叩き返していた。


 そこへ。


 大御所、家康から、呼び出しがかかった。


 *


「……国松。次の、ローマとの水鏡会談でじゃが」


 小評定の間に呼ばれた俺に、家康は、何でもないような顔をして、とんでもないことを切り出した。


「お里を、出そうと思うんじゃが」


 俺は、即座に、全力で嫌な顔をした。


「……えー。ものすごく、嫌なんですけど」


 家康はカラハハと笑った。


「そう言うな。お里も、久しぶりに会いたいと言っておった。儂が、あやつは責任を持って制御するから、頼む」


「大御所様」


 俺は、ジト目で家康を見た。


「それ、ただ単に……ローマ法王が、お里さんを見てド肝を抜かれて驚くところを見たいだけでしょ?」


「うむ。そうじゃな!」


 家康は、清々しいほどの笑顔で、一切の悪びれもなく肯定した。


「……認めるの早っ!!」


 これは完全にギャグのようなやり取りだが。


 家康が、この世界で最も恐ろしい存在の一人であるローマ教皇に対して、単なる悪戯心だけで動くはずがない。


「……だが。それだけでもない」


 家康は、ふっと笑みを消し、為政者の顔になった。


「あの法王は、老いておる。……しかも、水鏡から漏れ伝わる情報によれば、欧州はまた、宗教と王権の争いで激しく揺れそうじゃ」


 俺は黙った。


「お里は、昔。……あの法王が、まだ無名の一介の子供であった頃に、欧州で直接会っておる。……ならば、今この激動の時に、あえて会わせる意味もあろう」


 そう。


 俺たちは、以前に八百比丘尼、お里本人から、その話を聞かされていた。


「話には聞いています。今のローマ法王が、まだ子供だった頃。……お里さんが欧州を放浪していた時に、直接会って、言葉を交わしているって」


「あやつは、幼い法王の顔を見て、こう言うたそうじゃ」


 家康は、お里の口調を真似て言った。


「『君は、ローマ法王になる。……うーん、良い目。法王になるだけあるねえ』と、な」


 俺は、顔を覆って深いため息をついた。


「お里さん……。何十年も前から、本当にずっとあのお里さんのままだったんですね……」


「うむ。昔から、ずっとあの調子らしいぞ」


 俺は、どうにかしてこの危険な接触を阻止できないかと考えたが。


 すぐに、無理だと悟った。


 ここで俺が強硬に断ったら。


 お里さんのことだ、絶対に透明化して、勝手に水鏡の前に映り込みに来るに決まっている。


「……ここで断ったら、お里さん、絶対に勝手に乱入してきません?」


「来るかもしれんな」


「それが、一番嫌なんですよ!!」


 俺は、血の涙を流しながら決断した。


「……分かりました。こちらで、安全な段取りを作ります。会談の後半、空気を読んでから出します。最初からお里さんを出したら、ローマ側が用意していた重大な議題が、全部吹っ飛んでパニックになりますから」


「よし。では、頼んだぞ」


 家康は満足げに頷いた。


 結局、また。


 絶対に制御不能な怪異を、制御可能に見える安全な枠の中へ無理やり押し込む仕事かよ。


 *


 俺は、さっそくお里を御異物改方へ呼び出した。


 彼女は、いつものようにどこからか持ち込んだ甘いお茶菓子を齧りながら、重い外交の空気など一ミリも感じさせない様子で座っていた。


「お里さん。……次のローマとの水鏡会談に、どうしても出たいと聞いたんですが」


「出たいねえ」


 お里は、茶をすすりながら笑った。


「あの坊や、ずいぶん偉くなったんだろう?」


「坊やって……。世界中に何千万人も信徒を抱える、ローマ教皇ですよ」


「子供だった頃の顔を見てるとねえ。……人間、大人になってどれだけ偉い服を着ても、坊やは坊やさ」


 俺は頭を抱えた。


「一応、確認しますけど。……本当に、ローマで会ったんですよね?」


「会ったよ。……まだ、顔も手も柔らかい、ちっぽけな子供でねえ。でも……目は、妙に真面目だった。ああいう、深く考えすぎる目をした子は……大人になると、色んなものを重く背負わされるんだよ」


「背負わされる?」


「そう。偉くなる子ってのはね。……自分で望んだ分と、周りの欲に担がれた分が、ごちゃごちゃに混ざるんだよ。……あの子は、そういう過酷な目をしてた」


 お里の言葉には、千年を生きた観測者としての、静かで冷徹な見抜く力があった。


「……お里さんが、法王になるって言ったから、彼が法王になったわけじゃないですよね?」


 俺が念のために確認すると、お里はカラハハと笑った。


「私がポロッと言ったくらいの言葉で、人間の重い一生が勝手に決まるなら。……世の中、もっとずっと簡単だろうね」


 お里は、俺の目を見て、はっきりと否定した。


「……あの子が、自分の足で歩いたから。あの子は、その頂の場所へ行ったのさ。私は、ただ。……道端で、あの子の少し先の道の匂いを嗅いだだけだよ」


 よかった。


 未来への介入や改変じゃない。


 ただの、観測。


 見抜いただけだ。


「会談では、絶対に、勝手に神学論争を爆発させないでくださいよ」


 俺は強く釘を刺した。


「しんがくろんそう?」


「ローマ側が、死なないお里さんを見て、聖女だとか、魔女だとか、悪魔だとか……そういう自分たちの教義の言葉で、勝手に分類しようとしてくるかもしれません」


「ああ、そういうのは慣れてるよ。どこへ行っても、人間はすぐに、分からないものに名札を貼りたがるからねえ」


「……その慣れてるっていうのが、一番怖いんですけど」


「大丈夫だよ。……私はただ。久しぶりに、あの坊やの老いた顔を見るだけさ」


 本当に、それだけで済むなら。


 どれだけいいか。


 *


 そして。


 冬の、ローマ水鏡会談の日がやってきた。


 江戸城側の石室には、家康、秀忠、竹千代、俺。そして、今回は天海と崇伝も同席している。


 お里は、最初のうちは別室で待機させている。


 水鏡の向こう、ローマ側の石室には、教皇パウロ五世、数名の高位の枢機卿、書記官、神学顧問、そして通訳役が並んでいる。


 彼らも、すでにこの水鏡という超常の奇物には慣れていた。最初のようなパニックや畏れはなく、国家を背負う者としての厳粛さと緊張感を保ちながら、冷静に会談を進めている。


 議題は、いつもの通常の外交から始まった。


 前回会談の記録の確認。


 日ノ本における禁教令の運用の線引きの再確認。


 そして、お互いに始めた奇物管理と記録の進捗。


 そして、話題は欧州情勢の情報交換へと移る。


 今の欧州は、完全に火薬庫だった。


 神聖ローマ帝国の皇帝マティアスは老い、ボヘミア王として過激なフェルディナントが立つ流れが見えている。


 プロテスタント側の不満は爆発寸前であり、カトリック側の巻き返しの動きと、ハプスブルク家やスペインの利害が、複雑に絡み合って火花を散らしている。


 まだ、全面的な大戦争にはなっていない。


 だが、空気は完全に乾ききっていた。


 まだ、決定的な火はついていない。


 でも、この乾ききった空気。


 三十年戦争が、もうすぐそこまで来ている。


 俺は、前世の歴史知識と重ね合わせながら、冷や汗を流していた。


『巨大なシステム障害が発生する直前の、エラーログの山ね。……こういう時が、一番嫌なのよ。まだ完全に落ちてないから、誰も本気でシステムを止めて直そうとしない』


 サーバー障害と、何百万人も死ぬ欧州の宗教戦争を、同じ感覚で説明しないでくださいよ。


『似たようなものよ。依存関係が多すぎる巨大なシステムは。……一箇所が燃えると、全部連鎖して落ちるのよ』


 日本側としては、欧州の戦争を止めることはできない。


 ただ、それが飛び火して、日本国内への宣教師の過激な動き、銀の流出、武器商人の暗躍、そして危険な奇物の持ち込みに繋がらないよう、監視と警戒を強めるだけだ。


 *


 通常の実務の議題が一段落し、パウロ五世が、欧州の火種に関して重い沈黙を置いた後。


 家康が、ふと、空気を変えるように軽く口を開いた。


「ところで、聖下」


「……何でございましょう」


「実は。……日ノ本に、聖下の旧知の者がおってな。……どうしても、一度会いたいと申すのでな」


 水鏡の向こうで、ローマ側の枢機卿たちが、ざわ、と動揺した。


 パウロ五世は、怪訝そうに眉を寄せた。


「……旧知、ですと? はて。……日ノ本に、私の知人など、ただの一人もおりませぬが」


 家康は、ニヤリと、楽しそうに笑った。


「……それが、おるらしいのじゃ」


 大御所様。


 言い方が、完全に悪戯を仕掛ける時のそれです。


 俺は、胃を押さえながら呻いた。


「国松」


「……分かりました」


 俺は、合図を出して、お里を石室の中へ入れた。


 *


 重々しい儀礼も何もなく。


 お里は、水鏡の前に立つ家康の後ろから、ひょいと顔を出した。


「やっほー。……ひっさしぶり」


 ローマ側の全員が。


 完全に、静止した。


 枢機卿たちは、突然現れた、奇妙な東方の若い女の姿を見て、何が起きたのか全く理解できずに固まっている。


 だが。


 教皇、パウロ五世だけは、違った。


 教皇の顔から、一瞬にして血の気が引いた。


 若い女の姿。


 人を食ったような、変わらぬ笑み。


 それは。


 彼がまだ幼い頃。


 遠い、遠い昔の記憶の底で出会った、あの不可思議な東方の女、そのものであった。


「……あんた。ずいぶん、皺が増えたねえ。昔は、もっとちんちくりんで小さかったのに」


 お里が、教皇に向かって、全く遠慮のない声で言った。


 ローマ側の枢機卿たちが、息を呑み、そして震え上がった。


 お里さん。


 相手はローマ法王。


 近所の坊やじゃないんですよ。


 俺は内心で絶叫した。


 家康は、満足そうに肩を震わせて笑いをこらえている。


 秀忠は、外交問題になるのではないかと胃を痛そうに押さえている。


 竹千代は、この異常な事態を真面目に観察している。


 パウロ五世は、即座には取り乱さなかった。


 教皇としての威厳で、己の心を必死に縛り付けている。


 だが、声が出ない。


 やがて。


 震える、低い声で、絞り出すように言った。


「……そなた、は」


「覚えてるかい?」


 お里が笑う。


「……ローマの。……古い、小さな庭で」


 教皇の目に、遠い記憶が蘇る。


「そうそう。……あんた、自分の背丈より重くて難しい本を、大事そうに抱えてたねえ。子供なのに、目が真面目すぎて、ちっとも子供らしくなかった」


 パウロ五世の目が、激しく揺れた。


「……だから、言ったんだよ」


 お里は、あの日の記憶を、水鏡の向こうへそのまま投げ返した。


「『君は、ローマ法王になる。……うーん、良い目。法王になるだけあるねえ』って」


 その言葉を聞いた瞬間。


 パウロ五世の脳裏に、幼い頃の記憶が、鮮烈な色彩を持って完全に蘇った。


 *


 枢機卿たちは、教皇の顔色と、その異常な沈黙から。


 水鏡の向こうに現れた女が、聖下の胸の奥深くに眠っていた幼い日の記憶を、確かに呼び起こしているのだと悟った。


「……私は」


 パウロ五世は、震える声で言った。


「私は、長く。……あれを、夢か幻だと思っていた」


「まあ、子供の頃の不思議なことなんて、大人になって賢くなると、みんな夢みたいになるからねえ」


「……だが。そなたのその声を。……私は、今もはっきりと覚えている」


「そりゃあ、光栄だねえ」


「……そなたは。なぜ、姿が全く変わらぬのだ」


 パウロ五世が、信じられないものを見る目で問う。


「変わらないねえ。……変われないと言った方が、いいかもしれないけどね」


 お里の、その軽口の裏にある千年の重さが、冷たく響いた。


 パウロ五世は、お里の顔を食い入るように見つめた。


 自分は、完全に老いた。


 あの頃の小さな子供は、今やローマ教皇となり、数え切れないほどの信徒の祈りと、重すぎる罪と、国家の命運を背負って生きている。


 だが。


 目の前の女は、あの日から一秒たりとも変わっていない。


 それは、教皇の目には。


 神の起こした奇跡にも見え、同時に、恐るべき悪魔の呪いのようにも見えた。


 *


 ローマ側の神学顧問が、教皇を庇うように、慎重に口を開いた。


「聖下。……この者は。もしや……」


 言いかけて、彼は言葉を止めた。


 別の枢機卿が、十字を切りながら、小声で囁いた。


「……死ねぬ者。……最後の審判の日まで、地上をさまよい続ける者……」


 パウロ五世が、目を細めた。


「……さまよえる者、か」


 さまよえるユダヤ人。


 やっぱり、そう来るのか。


 俺は、内心で反応した。


『キリスト教圏に古くからある、不死と放浪の伝承ね。……ただし。ここで、その名で断定させてしまうのは危険よ。反ユダヤ的な強い含みもあるし、お里という存在を、その伝説そのものの枠に固定してはいけないわ』


 分かってます。


 断じさせない。


 分類しかけて、引かせる。


 お里は、枢機卿たちの恐れを、全く重く受け止めずに笑い飛ばした。


「ああ。……そんな呼び名も、あったねぇ。昔、そう呼ばれたこともあったよ」


 ローマ側が、息を呑む。


「……東へ行けば、私みたいなのは八百比丘尼。西へ行けば、さまよえる何とか。山では山姥。海では海の女」


 お里は、肩をすくめた。


「人はね。……自分たちと違う死なない者を見ると。安心するために、すぐに何かの名前を付けたがるんだよ」


 その言葉は、教会の権威を根底から揺さぶるほど、強烈だった。


「……でもね。呼び名がいくつ増えたって。……腹が膨れるわけでも、死ねるわけでもないんだけどねえ」


 パウロ五世は、その言葉を聞いて、自らの教義の言葉で彼女を分類しかけた自分を恥じた。


「……ならば、そなたは……」


 パウロ五世は、問いかけて、そして、自ら言葉を止めた。


 彼は、思い出したのだ。


 かつて、以前の水鏡会談で、自分自身が下した、あの重い決断の言葉を。


 断じるな。


 我らの理解できぬことを、理解できぬままに記せ。


「……いや」


 パウロ五世は、静かに、しかし断固たる声で言った。


「……断じまい」


 枢機卿たちが、驚いて教皇を見る。


「我らの伝承に、似た名はあろう。……だが。そなたという存在を、我らの都合の良いその名の内へと閉じ込めることは。……私の、務めではない」


 お里が、にやりと笑った。


「……いい目は、まだ残ってるねえ」


 パウロ五世は、微かに苦笑した。


 *


「……そなたは。本当に、死を超えた者なのか」


 パウロ五世が、静かに問うた。


「超えたんじゃないよ。……置いていかれただけさ」


 お里の、その寂しい一言に、ローマ側が息を呑む。


「人はね、死なないと聞くと、すぐに羨ましがる。でもねえ……長く生きれば、人間は賢くなると思うだろう? ならないよ」


 お里は、欧州の火薬庫の情報を聞いた直後だからこそ、刺さる言葉を放った。


「……ただ、同じ人間の馬鹿を、何度も何度も、飽きるほど見るだけさ」


「……同じ馬鹿、とは」


「神様の名を借りて、腹を立てて殺し合うことさ。……腹を立てているのは、たいてい神様じゃなくて、自分の都合を邪魔された人間の方なのにねえ」


 それは、キリスト教そのものを否定する言葉ではない。


 神の名を借りて戦争を起こそうとする、人間の使い方を批判しているのだ。


 パウロ五世は、怒らなかった。


 むしろ、老いた統治者として、その言葉の痛みを深く受け止めていた。


「……人は弱い。ゆえに、救いの信仰を必要とするのだ」


「そうだねえ。だから、私は信じること自体を笑ってるんじゃないよ」


 お里は、教皇の目を見た。


「信じる心は、絶望した人を立たせることもある。……けど、誰かを殴る棒にもなる。……長く見てると、その両方が嫌でも見えるんだよ」


 パウロ五世は、重い沈黙に沈んだ。


 *


「……幼い私に、そなたは言った。私はローマ法王になる、と」


 パウロ五世が、過去の因縁を問う。


「言ったねえ」


「そなたは。……それを、未来の予言として知っていたのか」


「知っていたというより……見えたんだよ。あんたの目がね」


「……目?」


「あの頃のあんたは。子供なのに、決して楽な方へ逃げない目をしていた。人に褒められたい目でも、権力で威張りたい目でもない。……自分で背負う前に、もうすでに、誰かのために背負うものを探している目だった」


 お里は、笑って言った。


「だから。……ああ、この子は偉くなるねえ。偉くなって、死ぬほど苦労するねえ、と思っただけさ」


「……そなたのその言葉が。……私を、ここへ導いたのではないと?」


「私の一言で法王になれるなら、ローマはもっと簡単な場所だろう?」


 お里は、呆れたように言った。


「……自分の足で歩いたのは、あんただよ。選んだのも、神に祈ったのも、重い罪を背負ったのも、全部あんただ。……私は、道端で、あんたが歩く道の匂いを先に嗅いだだけさ」


 よかった。


 お里さんの予言は、介入じゃない。


 ただ、パウロ五世の本分を見抜いただけだ。


 パウロ五世は、深く、深く息を吐き出した。


 それは、救われたというより、自分の過酷な人生を、すべて自分が選び、歩んできたものだと、己のものとして再確認したような、力強い息だった。


 *


「……私は、老いた」


 パウロ五世が、自嘲気味に言う。


「うん。見れば分かるよ」


 お里さん、言い方。


 パウロ五世は、怒るどころか、声を出して笑った。


「そなたは、変わらぬな」


「変わらないってのも、良いことばかりじゃないよ」


「……死を、恐れぬのか」


「死ぬのは怖いさ。……けど、死ねないのも、楽じゃない」


 お里は、少しだけ真面目な顔になった。


「終わりがある人はね。……選べるんだよ。今日祈るか。明日憎むか。残りの時間で何をするか。……終わりがあるから、人間の命は重いんだ」


「……終わりがあるから、重い」


「そう。あんたは、必ず終わる。……だから、今のあんたが何を断じ、何を断じないかは、歴史にとって途方もなく重いんだよ」


 お里は、教皇に向かって言い切った。


「私は長くいるから、間違えても次の時代まで見ちまう。……でも、あんたたちは違う。限られた短い時の中で、必死に自分の本分を尽くす。……だから、人間は面白いんだよ」


 *


 パウロ五世は。


 背後に控える書記官に向かって、静かに、だが絶対の権威を持って命じた。


「……記せ」


 書記官が、慌てて羽ペンを構える。


「本日。水鏡を通じ、我が幼少の頃に出会いし東方の女と、再び言葉を交わした」


 ローマ側の空気が、極限まで張り詰める。


「その者は、全く老いず、かつてと同じ姿を保つ。……欧州の伝承に、死ねずにさまよう者の名はあれど。……これを、その名と断じてはならぬ」


「神の奇跡とも。悪魔の業とも。異教の妖術とも。……今、ここで断じてはならぬ。理解し得ぬものは。……理解し得ぬものとして、記せ」


 その一文で。


 教皇は、この途方もない怪異を、完璧な形で着地させた。


 この法王。


 やっぱり、為政者として、強すぎる。


 俺は、内心で深い敬意を抱いた。


 家康も、その采配を見て、満足そうに頷いた。


「……やはり。ただ幽霊を見て驚くだけの、安い男ではなかったな」


「大御所様。……やっぱり、驚くところが見たかったんじゃないですか」


「見たかった」


「そこは嘘でも否定してください!」


「だが。……実に良いものも見られた。老いてなお、己の物差しで断じぬ者は、この世になかなかおらぬ」


 家康もまた、パウロ五世のその姿勢を、天下人として高く評価していた。


 *


 会談の終わり際。


 お里が、水鏡の向こうの教皇に向かって、軽く手を振った。


「あんた。昔より、ずいぶん疲れた顔になったねえ」


「……職責とは、そういうものだ」


「そうかい。なら、最後までちゃんと疲れな。途中で、自分以外の誰かのせいにするんじゃないよ」


 だから、言い方。


 だが、パウロ五世は、その不敬な言葉を、静かに、そして真っ直ぐに受け止めた。


「……いい目は、まだ残ってる。なら、あんたにまだ、やれることはあるさ」


「……そなたは、昔も、私にそう言った」


「そうだったかねえ。……長く生きると、自分が言ったこともすぐ忘れるんだよ」


 パウロ五世が、少しだけ、本当に心から笑った。


 そこには、老いた法王と、死ねない女の間にだけ通じる、奇妙な、深い親しみがあった。


「じゃあね、坊や。……今度また会う時まで、せいぜい自分の足で、しっかり歩きな」


 ローマの枢機卿たちは、教皇に向かって坊やと呼ばれたことに、完全に固まっていた。


 俺は顔を覆い、家康は腹を抱えて笑いをこらえている。


 パウロ五世だけは、静かに、深く頭を下げた。


「……さらばだ。さまよえる者よ。……いや。……名を定めぬ者よ」


「……それでいいよ」


 お里は、満足そうに笑って、水鏡の前から姿を消した。


 *


 水鏡の通信が終了した後。


 俺は、その場に力なく崩れ落ちた。


「……これ、外交会談だったのか、ただの怪談だったのか、それとも神学論争未遂だったのか、もう自分でも全然分からない……」


 秀忠も深く疲労していたが、将軍として言った。


「だが。……会談は、壊れなかった」


「むしろ。聖下は、我らの前で断じないことを選ばれました」


 竹千代が、真剣な顔で言う。


「そうですね。そこは、極めて大きいと思います」


『お疲れ様。今回は、よく燃えなかったわね』


 俺の視界に現れたKAMI様が、労うように言った。


 いや、大炎上して燃えかけた気しかしないんですが。


『お里の存在は危険よ。でも、勝手に出没されるより、こうして管理された場に出す方が、遥かにマシ。あんたの判断は完璧に正しいわ』


 お里さんの予言、介入じゃないんですよね? 


『違うわ。あれは、観測よ。目の前の人間の気質と、未来への流れを嗅ぎ取っただけ。……言葉が未来を作ったんじゃない。法王本人が歩いて、そこへ至ったの』


 *


 ローマ。


 冬の、冷え切った石造りの部屋。


 水鏡の水面は、すでにただの静かな水に戻っている。


 パウロ五世は、老いた手で、書記官が震える手で差し出した記録に目を通した。


 そこには、聖女とも、魔女とも、さまよえる者とも断じない、ただの事実の言葉だけが並んでいる。


 その記録は、公の文書として世に出ることはない。


 教皇庁の最も深い奥底に、秘録として永遠に封じられるだろう。


 幼い日の記憶は、老いた法王の前で、確かに現実となって戻ってきた。


 だが。


 それは、己の運命に対する答えではなかった。


 むしろ、これからの過酷な時代において、己の狭い物差しで答えを急いではならないという、神からの戒めのようにも思えた。


 欧州は、燃えようとしている。


 老いた自分には、そのすべてを完全に止める力はない。


 だが。


 断じるべきでないものを、決して断じないことは、できる。


 水鏡の光は、すでに完全に消えていた。


 だが。


 遠い幼い日に聞いた、いい目だねえというあの不思議な声だけは。


 老いた法王の胸の奥深くで。


 冬のローマに響く、冷たい教会の鐘の音よりも長く、静かに、鳴り続けていた。



最後までお付き合いいただき感謝します。


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― 新着の感想 ―
お里さん、長く生きて色々あったんだろうな。しかし、ローマまで行ってたとは。
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