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暴君忠長に転生したので、兄上のために日本列島をメンテします 〜SFチートのはずが、田んぼと水路と寺社ノードの保守係なんですが〜  作者: パラレル・ゲーマー
第六部・早く訪れた太平の世編

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第106話 水神様、朝鮮通信使に豊臣が滅びていないと告げる

 大御所・家康の「残り時間」と、次代への重いバトンについて、静かな覚悟を共有した内々の茶会から、しばらく後のこと。


 御異物改方の俺の机に、対馬の宗氏を通じて、海を越えた隣国から一つの重要な知らせが届いた。


『朝鮮国より、使節来訪の先触れあり』


『名目は、大坂平定の祝賀。併せて、文禄・慶長の役以来、日ノ本に取り残されている被虜人の返還、および所在の確認。実務上、回答兼刷還使としての性格を強く持つものにございます』


 朝鮮通信使か。


 前世の歴史の教科書で見たやつだ。


 俺は最初、その文字面だけを見て、どこか華やかな文化交流の行列を思い浮かべかけた。


 異国の衣装。整った行列。儒学者の交流。江戸の町人たちが珍しがる、平和な外交行事。


 だが、文書の行間を一つ一つ読み進めていくうちに、俺の胃の奥が重く沈み込んでいくのを感じた。


 そこに並んでいるのは、美しい文化や友好の言葉だけではなかった。


 被虜人。


 刷還。


 回答。


 大坂平定の祝賀。


 倭乱。


 そして、秀吉の名。


 言葉の一つ一つが、生々しい血の匂いと、拭い去れない傷跡の重さを含んでいた。


 これは、単なる友好イベントなんかじゃない。


 秀吉が引き起こした、あの地獄の朝鮮出兵の後始末だ。


 俺が文書を睨みつけていると、背後から本多正純が静かな声で補足した。


「対馬より、朝鮮国の使節来訪の確かな先触れにございます」


「……大坂平定の、祝賀、ですか」


「表向きは、その通りにございます。ただし、向こうの腹の底にとっては、決してただの祝賀の言葉だけでは済みますまい」


 正純は、少しだけ目を細めた。


「秀吉公の、朝鮮出兵にございます。あれは、朝鮮という国と民にとって、百年経とうと、決して忘れられるような傷ではございませぬ」


 俺は、そこで気づいた。


 豊臣の生存。


 この世界における俺たちの改変が、とんでもない形で外交に牙を剥いてくることに。


 史実なら、大坂平定は豊臣家の完全な滅亡を意味していた。


 朝鮮側からすれば、あの忌まわしい侵略者の家が、ついに根絶やしになった、という意味を持っていたはずだ。


 けれど、この世界では違う。


 豊臣家は滅びていない。


 秀頼も千姫も生きている。


 豊臣は徳川の法の内に置かれた一大名として、しっかり残っている。


 しかも、江戸の相撲興行では、豊臣抱え力士組だの豊臣部屋だのが、町人たちに大人気になっている。


 やばい。


 俺は内心で頭を抱えた。


 向こうからすれば、「あの侵略者の家が滅びた」と喜んで祝賀に来たら、「あ、実は普通に元気に生き残っています」と言われることになる。


 これは外交的に、めちゃくちゃ気まずい。


 というか、下手をすると最悪の爆弾だ。


 *


 江戸城の小評定の間。


 集められたのは、家康、秀忠、竹千代、俺、正純、そして対馬方への取次を担う役人たちだった。


 議題はただ一つ。


 朝鮮使節への対応方針である。


 大坂平定の祝賀。


 捕虜の返還。


 朝鮮出兵以来の遺恨の整理。


 対馬を経由した正式な国交の回復。


 そのすべてに重くのしかかってくるのが、豊臣の扱いだった。


「……朝鮮の恨みは、もっともじゃ」


 家康は、開口一番、極めて明確にそう言い切った。


 俺は少し驚いた。


 徳川側の都合で、過ぎたことだと軽くあしらうつもりはないらしい。


「秀吉が、朝鮮の地へ理不尽に兵を向けたことは、日ノ本の外に、決して消えぬ大きな傷を残した。我ら徳川は、その後を継いで天下を治める者として、その傷を知らぬ顔で済ませることはできぬ」


 家康の目は、かつての戦乱を見つめてきた者の、底知れぬ深さを持っていた。


「だが、今の豊臣は、我ら徳川の定めた法の内に置かれた一介の大名に過ぎぬ。その家を、朝鮮が憎むからという、ただそれだけの理由で、外の国の都合に合わせて潰すような真似はせぬ」


 これが、徳川幕府の明確な立場だった。


 朝鮮側の遺恨は正当なものとして認める。


 だが、日ノ本の内側の秩序は、あくまで徳川が決める。


 外の圧力で、法の内に置いた家を潰すことはしない。


 秀忠が、将軍として厳しく引き継いだ。


「豊臣が再び兵を挙げ、海を越えて他国を侵さんとするならば、その時は、日ノ本の主として、我ら徳川がこれを完膚なきまでに討つ。だが、法に従う大名としてこの国に置いた以上、今は公儀の支配下にあり、公儀がその責を負う」


 竹千代は、二人の言葉を黙って、真剣な顔で聞いていた。


 外交とは、相手の怒りを否定することではない。


 だが、相手の怒りだけで、自国の法と秩序を曲げたり壊したりすることもできない。


 家康も秀忠も、その重い一線を見極めている。


 この人たちの政治の安定感は、やはり凄まじい。


 *


『やっほー。あんた、通信使って聞いて、ちょっと華やかで綺麗な外交イベントだと思ったでしょ』


 視界の端に、KAMI様が現れて囁いた。


 いや、まあ。


 前世の教科書の印象だと、儒学者との文化交流とか、行列の華やかな絵の印象が強くて。


『甘いわね。文禄・慶長の役は、朝鮮という国と民にとって、ガチの歴史的トラウマよ』


 KAMI様の声は、普段の軽口とは違い、冷たく重かった。


『何の正当な理由もなく国土を踏みにじられ、人が殺され、数え切れないほどの人が海を越えて奴隷や捕虜として連れ去られ、都市も田畑も焼き払われた。後の時代の対日感情にも、暗く重い影を落とす記憶の一つになるわ』


 俺は、息を呑んだ。


『しかも、ただの朝鮮半島だけの戦争じゃない。宗主国だった明も、日本軍を止めるために大軍を送り込み、国家の財政を削られた。秀吉の侵攻は、明の衰退を早めた要因の一つとしても語られるし、東アジアの秩序全体を揺るがした歴史的な大事件なのよ』


 前世の教科書で習った「秀吉の朝鮮出兵」というたった数文字の単語とは、背負っている血の重さがまるで違う。


『そうよ。あんたの前世の感覚で分かりやすく言うなら、秀吉は、この地域の外から見れば、完全に危険な侵略者そのものなの。一種の災害よ。だからこそ、家康率いる徳川幕府が、ひとまず話が通じる理性的な政権として周辺国から見られるのは、秀吉の暴走を完全に終わらせた後継のストッパーだからでもあるわ』


 豊臣秀吉は、日本史の中では英雄であり天下人だ。


 だが、朝鮮にとっては、国を焼いた侵略者。


 明にとっては、財政と軍をすり減らした最悪の脅威。


 そして徳川は、その巨大すぎる後始末を、全部背負わされている。


 *


 朝鮮の使節団が、ついに江戸の町へと入ってきた。


 その行列は、極めて整然としていた。


 異国の美しい衣冠。


 独特の楽の音。


 厳重に保管された文書。


 通詞たち。


 そして、案内役として胃を削るように付き従う、対馬・宗氏の取次役。


 江戸の町人たちは、見たこともない異国の華やかな行列に歓声を上げ、珍しがっている。


 だが、俺には、その華やかさの裏にある、重苦しい空気がはっきりと見えた。


 これは、観光旅行や親善の行列ではない。


 国を焼かれた傷を抱えた隣国が、新たな支配者である徳川の出方と真意を、慎重に確かめに来ているのだ。


 俺の視界の先で、対馬の宗氏の使者が、顔面を蒼白にしながら必死に言葉を調整しているのが見えた。


 対馬の役人たち。


 これ、本当に命懸けで大変だな。


 国書の文字一つ、呼び名の一つ、座る席順の少しの違いで、下手をすれば朝鮮出兵の血みどろの遺恨が再燃して、国交が再び断絶しかねない。


 俺なら、絶対にやりたくない仕事だ。


 *


 江戸城での、公式の謁見の場。


 朝鮮の正使と副使は、極めて洗練された礼を尽くし、大坂平定の祝賀の言葉を述べた。


 彼らの言葉は、どこまでも丁寧で、雅であった。


 だが、その声の底にある熱は、隠しきれていなかった。


 かつて朝鮮を蹂躙した豊臣の禍が、ついに徳川公儀の力によって完全に鎮められ、根絶やしにされた。


 それが、彼らの受け止め方であり、使節側は、豊臣という家の完全な滅亡を心の底から期待し、それを祝うために海を渡ってきたのだ。


 ところが。


 徳川側は、その祝賀の言葉に対し、静かに、しかし冷酷な事実を突きつけた。


「……豊臣は、滅ぼしてはおらぬ」


 秀忠が、淡々とした声で訂正した。


 ピシリ、と。


 朝鮮使節たちの動きが、完全に固まった。


 通訳をしていた通詞も、一瞬だけ言葉を失い、息を止めた。


 対馬宗氏の役人たちに至っては、もはや胃に穴が空いたような絶望の顔になっている。


 うわぁ。


 俺は、内心で頭を抱えた。


 今、この大広間の空気が、完全に凍りついた。


 これはまずい。


 ものすごくまずい。


 朝鮮の正使は、卓越した外交官としての礼儀と体面を必死に保ちながらも、その顔には、隠しきれない強烈な動揺と落胆が浮かんでいた。


「……豊臣は。なお、存続していると、仰られるのですか」


 正使の声が、微かに震える。


「あの秀吉の家が、なお日ノ本の内側に、所領を持ち、生き長らえていると?」


 副使が、絞り出すように続けた。


「大坂は平定されたと聞き及び、我らははるばる海を越え、祝賀に参りました。ですが、それは……豊臣の禍が完全に絶えた、という意味ではなかったのでございますか」


 彼らの態度は、決して外交の場をわきまえないものではない。


 礼は崩さない。


 声も荒らげない。


 けれど、その目は真剣で、底知れぬほど残念がっていた。


 なぜ、あの名を絶やさなかったのか。


 その問いが、正当な怒りと絶望をまとって、広間に沈んでいた。


 *


 家康は、その朝鮮側の突き刺すような遺恨の視線を、正面から堂々と受け止めた。


「……そなたらが、豊臣のその名を憎むは、まことにもっともなことじゃ」


 家康の低く響く声が、広間に落ちた。


「秀吉の兵が、海を越えてそなたらの国へ渡り、多くの人を殺し、さらい、豊かな田畑を荒らし、国を焼いた。その拭いがたき恨みを、もう過ぎたことゆえ忘れろなどとは、儂は決して申さぬ」


 家康は、まず、被害を受けた側である彼らの傷の深さを、一切否定せずに真っ向から認めた。


 その上で、徳川の天下人として、確固たる線を引いた。


「だが、あの戦を始めた秀吉は、すでに死んだ。今の豊臣の血を引く者らは、我ら徳川の定めた厳しき法の内に置かれた。再び海を越え、そなたらの国へ兵を向ける力も、財も、そして許しも、我らは決して持たせぬ」


 家康の声に、わずかな揺らぎもなかった。


「日ノ本を統べる徳川が、それを、この名にかけて保証する」


 秀忠が、冷徹な声で補足した。


「豊臣を、野に放って好きにさせているのではない。徳川の支配下に置き、法で縛りつけているのだ。もし今の豊臣が、少しでも再び外の国へ害をなさんとする志を持てば、その時は、我ら徳川が必ずこれを討ち滅ぼす」


 竹千代は、その言葉の応酬を、黙って、目を凝らして聞いていた。


 敵を滅ぼすことだけが、統治ではない。


 だが、生かした敵の責任は、生かした自分が全て背負わねばならない。


 竹千代は、次代の将軍として、その重い事実を胸に刻み込んでいた。


 *


 公式の謁見の後。


 少しだけ規模を縮小した、内々の会談の場へと移った。


 家康、秀忠、竹千代、俺、正純。


 そして、朝鮮の正使、副使、対馬の取次役。


 ここで、朝鮮の正使が、礼を失わないギリギリの範囲で、しかし血の通った本音をこぼした。


「……我らの国では。今なお、あの秀吉の兵の恐ろしき記憶を語り継ぐ者が、無数におります」


 正使の目は、悲しみに沈んでいた。


「父祖を無残に殺された者。親族を遠い海へ連れ去られた者。先祖代々の田畑を失い、飢えた者。国が荒れ、人が散り、多くの由緒ある家が絶えました」


 誰も口を挟まなかった。


「豊臣の名を聞けば、未だに顔を曇らせ、涙を流す者が、我らの国には山ほどおるのです。その家が、この日ノ本で未だに存続していると聞き、心穏やかであれというのは、我らには、誠に難しゅうございます」


 徳川側は、誰一人として、その言葉に反論しなかった。


 家康は黙って聞き、秀忠も目を伏せ、竹千代も唇を噛み締めて聞いていた。


 これが、被害を受けた側の、生々しい歴史なのだ。


 前世の教科書では、秀吉の朝鮮出兵は、単なる「晩年の無謀な外征」という、乾いた一行で終わっていた。


 でも今、俺の目の前にいる使節たちは、それを、自分の国を焼かれ、肉親を奪われた、取り返しのつかない絶対の傷として語っている。


 同じ出来事でも、日本史の年表の片隅に載る数行の活字と、実際に被害を受け、国を壊された人々の家に残る傷跡では、その重さはまるで違う。


 *


 沈黙の後。


 朝鮮の正使は、深々と息を吐き出し、ゆっくりと顔を上げた。


「……秀吉は、すでに死んだ者。我らとて、死者の首を斬ることはできませぬ」


 その声には、怒りと疲労と理性が混じっていた。


「その子に、父の罪をそのまま背負わせ、血を絶やせと強要することが、必ずしも天理にかなうとは限りませぬ」


 それでも、と言外に続けるように、正使は家康を見た。


「されど、豊臣の名が、我ら朝鮮の地に残した傷は、決して簡単には消えませぬ」


 正使の目は、悲しみを湛えながらも、外交官としての冷徹な光を取り戻していた。


「徳川公儀が、その家を法の内に厳しく縛り、二度と朝鮮へ兵を向けさせぬと、この場で固く誓われるならば……我らは、その徳川の言葉を、ひとまず聞き届けましょう」


 それは、決して豊臣を完全に許したという言葉ではなかった。


 完全和解ではない。


 納得でもない。


 徳川の強固な保証を条件として、この理不尽をなんとか飲み込んだのだ。


 俺は、安堵で胸をなでおろした。


 だが同時に、豊臣を滅ぼさずに生かすという俺たちの選択には、これほどまでに重く、危うい外交的なコストがつきまとうのだという事実を、骨の髄まで痛感させられていた。


 *


 外交の最も重い壁をなんとか乗り越えた後。


 実務的な話として、被虜人の返還についての協議が始まった。


 だが、これも一筋縄ではいかない。


 文禄・慶長の役から、すでに長い年月が経ちすぎているのだ。


「当時連れて来られた者の中には、すでに異国の地で亡くなった者もおりましょう」


 朝鮮の副使が、沈痛な面持ちで言う。


「日本で、新たな家族を持った者もおります。子や孫の代にまでなっている者もおります。帰りたいと望む者もいれば、もはや帰るに帰れぬ者もおりましょう。そして、身元すら分からなくなってしまった者も、数多くおります」


 人を返すというのは、ただ米俵を港へ運んで送り返すのとは、まったく訳が違う。


 俺は、ここで実務の壁に直面した。


 強引な強制送還では、また別の恨みを生む。


 帰りたい者を帰す。


 帰れない者を無理に動かさない。


 子や配偶者を引き裂かない。


 そのためには、まず人を数ではなく、人として記録しなければならない。


「……名乗り、本来の出身地、親族の名、連れて来られた時の経緯。そして、現在の日ノ本での家族の有無、本人の帰国の意思。それらを、公儀の帳面で一人一人、確実に記録いたします」


 俺は、ゆっくりと言葉を選んだ。


「無理に全員を帰せば、それはまた、引き裂かれる家族という別の恨みを生みます。帰りたい者を確実に帰し、帰れぬ者を無理に動かさず、子や配偶者を引き裂かぬようにするためには、徹底した記録と照合が必要です」


 朝鮮側は、俺のその細かい行政手続きの提案に、少しだけ目を見張った。


「……そこまで、一人一人を細かく確かめられるのですか」


「はい。人を返すということは、命と心を扱うということです。記録を整え、せめて行方不明の扱いになる者を減らすのが、我らの務めです」


 家康は、その実務の提案を聞いて、わずかに満足そうに頷いた。


 竹千代も、これを見て深く学んでいた。


 戦争の傷というものは、将軍の命令一つで簡単に癒えるものではない。


 人の顔を見て、意思を確認し、帳面で記録しなければ、どうにもならないのだと。


 *


 豊臣への対応と、捕虜返還の誠実な実務の提案を受けて、朝鮮側の態度は、最初に来た時よりも、ほんの少しだけ柔らかくなっていた。


 少なくとも、徳川は話が通じる。


 あの秀吉のように、突然無茶な侵略を始めるような気配はない。


 彼らは、そう判断したのだろう。


 そこで、朝鮮の正使が、東アジアの情勢について、少しだけ踏み込んだ生の情報を口にした。


「……明国は、なお巨大なる大国にございます。我ら朝鮮にとっても宗主の国であり、軽々しく申すべきことではございませぬが」


 正使は、声を潜めて慎重に言った。


「されど、近年、明の官の動きは、ひどく鈍くございます。上に上げた急ぎの書は戻らず、防衛の命は遅れ、軍費は常に足りず。辺境からの不穏な報せは、年々重くなるばかり」


 俺は、思わず背筋を正した。


「ことに、北の遼東の方では、女真の勢いが、恐るべき速さで増していると聞きます。明の官僚たちは、名分と前例ばかりを重んじます。だが、辺境の兵と、米と、銀は、名分だけでは決して動きませぬ」


 その情報を聞いて、俺は内心で真っ青になった。


 これは、完全に歴史通りの流れだ。


 明は、まだ滅びていない。


 だが、周辺国の現場の人間たちの目から見れば、もうすでに内側から腐って危ないということが、はっきりと見え始めている。


 官僚組織の硬直。


 軍費と銀の不足。


 そして、遼東の女真。


 後の清となる勢力の台頭。


 俺のように未来の年表を知っている人間だけが、明は滅びると後知恵で言っているわけではない。


 この時代の、現場で必死に生きている人間たちには、もうその先の不穏な空気が、確実に見えているのだ。


 家康は、その情報を黙って聞いていた。


 簡単に「ならば明を助けよう」とは言わない。


「女真を叩こう」とも言わない。


 ただ、一言だけ、重く言った。


「……日ノ本は。海を越えて無闇に兵を出すことの愚かさを、すでに痛いほど知っておる」


 その一言は、重かった。


 秀吉の出兵という最悪の後始末を、今まさにこの場で背負っている家康だからこそ、その言葉には、朝鮮側にも響く説得力があった。


 *


 会談の後。


 竹千代が、少し疲れた顔で、俺に小声で尋ねてきた。


「国松。……朝鮮の使者は、豊臣の罪を許したのか」


 俺は、少し考えてから答えた。


「許したとは、違うと思います、兄上」


「では、何だ?」


「徳川の言葉と保証を、ひとまず信じることにしただけだと、私は思います」


 竹千代は、ハッとした顔をした。


「恨みは、永遠に消えません。けれど、その恨みを理由にして次の戦を起こせば、また無数の人が死に、国が焼かれます」


 俺は、先ほどの正使の顔を思い出しながら言った。


「だから、恨みを完全に消すのではなく、恨みを抱えたままでも、戦にしないための形を、なんとかして泥臭く作ること。それが、外交という政なのだと、私は思います」


 竹千代は、深く沈黙した。


 家康が、そのやり取りを横で静かに聞いていた。


「よく見ておけ、竹千代」


 家康は、次代を担う孫へ向けて、静かに言った。


「天下を治めるとは、ただ国内の大名たちの顔色だけを見ることではない。海の向こうに作った恨みも、必ずこちらの政に重く跳ね返ってくるものじゃ」


 *


 だが、この重く立派な外交の裏側で。


 俺の胃を破壊するような、ちょっとした小爆弾が炸裂していた。


 江戸の町を視察していた朝鮮使節の一部が、町方に掲げられていた相撲の番付表を見かけてしまったのだ。


 そこには、堂々たる巨大な墨文字で、豊臣抱え力士組、そして町人たちが呼ぶ豊臣部屋の名が書かれていた。


「…………豊臣、部屋?」


 朝鮮使節の役人が、その文字を見て、完全に固まった。


 案内役の対馬宗氏の役人は、滝のような冷や汗を流し、通詞は完全に言葉に詰まっている。


 遠く江戸城でその報告を受けた俺は、頭を抱えて机に突っ伏した。


 完全に忘れてた。


 いや、忘れてはいない。


 忘れてはいないけど、外交の表舞台に出たらそうなるよな。


 豊臣の名前を、危険な反乱の戦場から安全な土俵の上へ逃がしてガス抜きしたつもりだった。


 だが、被害を受けた朝鮮側から見れば、「うちの国を焼いた連中を、相撲で人気者にして歓声を浴びさせている」という話になる。


 そりゃそうだ。


 どう考えてもそう見える。


 俺は、慌てて、しかし極めて慎重に説明の言葉を捻り出した。


「……武の力を持つ者の名を、血を流す戦ではなく、あくまで見世物と鍛錬の場である土俵へと、意図的に逃がしております」


 言いながら、自分でもかなり苦しい説明だと思った。


 けれど、言わないわけにもいかない。


「彼らに危険な兵を集めさせるより、相撲の力士を抱えさせ、そこで名誉を満たさせる方が、国にとっても、外の国にとっても、はるかに害が少ないゆえの策にございます」


 朝鮮側は、すぐには納得しなかった。


 だが、あの豊臣が、軍勢ではなく裸の力士を抱えて相撲を取らせて喜んでいると聞き、なんとも言えない、絶妙に微妙な顔になった。


「……それは」


 朝鮮の副使が、顔を引きつらせながら言った。


「喜んでよいのか、怒ってよいのか。誠に、判断に困りますな」


 対馬の宗氏の役人が、俺のところへ駆け込んできて、胃を押さえながら泣きそうな顔で言った。


「……国松様。次の使節が来る時までには、あの豊臣部屋の見せ方だけは、どうか、どうかご一考くださりませ……!」


「……本当に、申し訳ない」


 俺は、心の底から謝罪した。


 *


 朝鮮の使節団が、大坂平定の祝賀という複雑な役目を終え、江戸を去る準備を始めていた。


 彼らの顔は、決して完全な笑顔ではなかった。


 豊臣が滅びていないことへの落胆は、まだ深く残っている。


 秀吉が国を焼いた傷も、全く消えてはいない。


 豊臣の名が相撲で人気になっていることへの困惑も、完全には拭えていないだろう。


 だが、徳川は、彼らの怒りから逃げずに話を聞いた。


 捕虜の返還を、血の通った実務で進めることを約束した。


 二度と朝鮮へ兵を向けさせないことを、天下人の名にかけて保証した。


『秀吉の後始末として見ると、家康の安定感って、本当にすごいでしょ』


 KAMI様が、珍しく感心したように言った。


『秀吉は、外へ兵を出して、東アジア全体を滅茶苦茶に揺らした。家康は、それを止めて、国交を泥臭く戻し、対馬を使って窓口を作り、捕虜の返還を進めた。派手さはないし、英雄っぽくもないけど、国家としては、こっちの方がずっとありがたいのよ』


 俺は、江戸を去っていく朝鮮使節たちの背中を、静かに見送った。


 前世の教科書だと、徳川幕府には、ただ国を閉じていくというイメージが強かった。


 でも、少なくとも初期は違う。


 こうやって、壊れきった周辺国との外交関係を、必死に修理している。


 ただ閉じるのではなく、窓口を決める。


 危険なものを分類する。


 人を返す。


 恨みを記録する。


 次の戦を防ぐ。


 それは、日本列島の内部のメンテナンスだけではなく、東アジアの周辺国との関係のメンテナンスでもあったのだ。


 戦で一度壊れてしまったものは、勝った負けたという単純な言葉だけでは、決して終わらない。


 人を返し、名を整え、相手の怒りを聞き、窓口を残し、次の戦を防ぐための、果てしない努力を続けるしかない。


 朝鮮の使節は、あの忌まわしい豊臣を許して帰ったのではない。


 ただ、徳川の重い言葉を、一度だけ信じることにして、江戸を去ったのだった。


 秀吉が残した深く巨大な傷は、その日、少しも消えることはなかった。


 ただ、その血の流れる傷を次の戦にしないための細い橋だけが、対馬と江戸の間に一本、かろうじて残されたのである。



最後までお付き合いいただき感謝します。


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― 新着の感想 ―
連れ去られた人間もいたけど李氏朝鮮は職人とかをかなり冷遇したために豊臣軍の退却に付き従った朝鮮の陶工もいたのがめんどくさいんだよなぁ(史実だとその陶工達のほとんどが朝鮮に帰還しなかった)
陶工とか帰国望む人が多かったら、その分の手続きも必要ですよねこれ・・・。
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