2 デジャブ
今日は妙に話したい気分だった。
新たな嫌がらせが始まり、悩みの種ができたからかもしれない。
シヴァには悪いと思いながら、洗いざらい愚痴っぽく打ち明けた。
「やっぱり、上履きの件は村上くんが犯人だったみたいだよ。上履きを持って帰るようにしたのが癪に障ったのかな。今日は村上くんに手ひどくやられたよ。絵具っていくらするのか知らないけど、いくらであれ、やっぱりこんなことで買ってもらうのは嫌だな。申し訳ないし、こんな弱い自分が情けなくなる」
シヴァはパンに夢中で、翔太を見向きもしない。ひたすらパンを食べ続けている。
「こういうのっていつ終わるんだろうね。卒業すれば強制終了なんだろうけど、それは何か違う気がするよね。うーん……やっぱり、する側じゃなくてされる側になるのが一番なのかなー。される側の痛みや辛さを知らないから、こういうことができるんだよね、きっと。村上くんも何か痛い目にでも遭えばいいのに。そしたら少しは変わったりするのかな? まあでも、今する側の人たちがされる側になるなんて、小学校の間では考えられないけど」
気づいた時にはシヴァは食べるのを止めていて、翔太の目をじっと見つめていた。
まるで、翔太の心の奥底まで覗かんとばかりに。
「あれ、シヴァどうしたの? 食べないの? ほら」
まだ手のひらにはパンが残っている。
翔太は、手をシヴァの口元に持っていってやる。
それでもシヴァは、パンに見向きもせず翔太から目を離そうとしない。
「ほんとにどうしたの? もうお腹いっぱい? ってまだ全然食べてないね」
翔太が何度か手を動かすと、シヴァはようやく翔太から目を逸らして、再びパンを食べ始めた。
食べっぷりは中断前と何ら変わりのないものだった。
「なんだったんだろう……」
そう呟いてふと、前にもこんなことがあったような気がした。
だが、いつだったかは思い出せない。
めったにあることでもないので、どんな状況だったかも覚えていない。
翔太は少し頭をひねってみたが、全く思い出せる気配がなかったので潔く諦めた。
シヴァに別れを告げて帰っていると、後方からシヴァが「ギャァン」と鳴いた。
翔太は驚いて振り返る。シヴァは茂みから出て、雄々しいお座りの姿勢で翔太を見ていた。
シヴァが吠えるなんて珍しいな。でも、前にもこんなことがあったような……。
翔太はシヴァに手を振って、空き地を後にした。
翌朝学校に行くと、村上くんは来ていなかった。
内心ホッとしながらも、どうしたのだろうと思っていると、越智先生が朝の会で教えてくれた。
「村上くんは今日、風邪でお休みです。熱が高いそうなので、もしかしたら明日以降もお休みかもしれません。風邪を引くと大変ですから、手洗いうがいをして、しっかり予防してくださいね」
風邪ってたまに引いてしまうけど、越智先生の言う通り結構しんどい。
咳が出ると息が苦しくなるし、鼻水が出ると頭がぽーっとして何も考えられなくなる。
頭痛がすると歩く度に辛いし、高熱が出ると寝るしかなくなる。
だから、風邪を引いて治る度に「健康って幸せだ」と思う。
(喉元過ぎれば熱さを忘れるとはよく言ったもので、治って数日もすれば健康の素晴らしさを忘れてしまうけれど)
今日は図らずも村上くんが学校を休んだので、平穏な一日を過ごすことができた。
加治くんに加えて村上くんも休みで、男子の中心的存在が二人も不在なのが影響したのだろう。
男子がバカ騒ぎするようなことはなく、教室内は比較的落ち着いていた。
翔太には過ごしやすい空気感で、これが続けばいいのにと思わずにはいられないが、束の間の安寧であることは承知している。
だから翔太は、クラシック音楽を聴くかのように、高級料理を味わうかのように、噛み締めて過ごした。
家に帰って宿題を済ませ、テレビを観ようとリビングに行った。
お母さんはキッチンで晩ご飯の支度をしていた。
トントントンと包丁が規則的な音を響かせている。
テレビはお母さんが先に点けていて、ニュースが流れている。
「もうちょっとしたらできるから」
「うん」
翔太はチャンネルを変えようと、テーブルの上にあるリモコンを手に取った。
「翔ちゃん、今日は良いことでもあった?」
あったと言えばあった。
村上くんが休みだったので、平穏な一日を過ごすことができた。
でもそんなことは到底言えるわけがない。
「村上くんが風邪で休みだった」などと人の不幸を喜ぶのは不謹慎だし、「今日は平穏な一日だった」と言えば、一般的にはそれが当たり前で、あるべき姿なのだから、それを喜ぶ小学生などまずいない。
下手をすれば「普段は平穏な日々を過ごせていない」と捉えられてしまう。
「……いや別に、何もないけど」
「そう? いつもより顔色が良いから、何か良いことでもあったんだろうなーって思ったんだけど。まぁ、あってもなくてもどっちでもいいのよ。翔ちゃんが元気ならそれで」
うふふとお母さんは笑った。
翔太は何をどう答えたらいいのか分からず、お母さんから目を逸らしてテレビのチャンネルを替えた。
観る番組が決まって少しした頃、後方から「あっ」というお母さんの声がした。
続いて、パタパタとスリッパの音がして翔太は振り返る。
お母さんはテーブルの上にあるティッシュ箱からティッシュを何枚か取り、それをすぐさま手に当てる。手に当てたそばから、ティッシュは赤く染まっていく。
血だ! 血が出てる!
「どうしたの、お母さん!」
「包丁で指切っちゃって……」
お母さんの顔は少し白くなっているが、一つも慌てる様子はなく、声音も至って冷静だった。
翔太はソファから立ち上がり、お母さんの元に駆け寄った。
お母さんは真っ赤になったティッシュを捨てて、新しいティッシュに替える。
その間に、翔太はお母さんが押さえていた指を見た。
指はちゃんとそこにあった。
指を切断してしまったとか、皮一枚残しみたいなことはないようで、少しだけ安心した。
それでも血は一向に止まらない。ティッシュは替えても替えても赤く染まる。
切り傷は血が止まるのに時間が掛かる。それでも徐々に流血は治まるはず。
なのに、お母さんの指から流れ出る血の量は、まるで変わっていないように見える。
「止まらないわね……」
然しものお母さんも、困り顔になっている。
こめかみの辺りには、汗が一滴浮かんでいた。
「やっぱり深くいっちゃったかしら」
翔太はどうすればいいか分からなかった。
何もできぬまま、心配と不安が青天井に膨らんでいく。
自分は所詮ただの小学生で、まだまだ子供なのだと痛感する。
それが情けなくて歯痒かった。
同時に、なぜこんな時に限ってお父さんはいないのかと苛立ちもした。
こういういざって時のために、お父さんはお母さんと共に歩むって誓ったんじゃないの?
僕とは違ってお父さんなら、お母さんを支えてあげられるはずなのに。
「翔ちゃん、お母さんちょっと病院行ってくるわね。ご飯は炊けてるし、おかずもできてるから、自分で温めて食べて」
どうやらお母さんは一人で病院に行くつもりらしい。
でもそれは認められない。
だって、今にも爆発しそうなほど膨らんだ不安を抱えたまま、広い家で一人お母さんの帰りを待つなんて、とてもじゃないが耐えられない。
それに、お母さんのそばにいたい。
こんなことしか僕にはできない。でも、不甲斐ないお父さんに代わって、せめてこれぐらいはやり遂げなければならない。僕だって男なのだから。
「いやだ、僕も行く」
言ってから、否定したのは初めてかもしれないなと思った。
翔太は物事の分別がつくようになってから、お母さんやお父さんからの提案やお願いを断った記憶がない。それは単に、拒否するほどの無理難題ではなかったということもあるが、一番の理由は、二人を困らせたくなかったから。二人にとって『いい子』でありたかったから。
お母さんは虚を突かれたような表情をしたが、やがて微笑んで「分かったわ」と了承してくれた。
病院にはお母さんの運転で行った。危ないと思ってタクシーを使わないのかと尋ねると、お母さんは「お金がもったいないし、運転できるから大丈夫」と事もなげに言った。
翔太は道中気が気でなく、お母さんがハンドルを切る度にお母さんの手元を見ていた。
二十分ほど走ったところで病院に着いた。
入口に入った途端、病院特有のアルコールの匂いが鼻を衝いた。
家を出る前にお母さんが病院に一報していたからか、ほとんど待つことなく診察室に案内された。
翔太もお母さんについていく。
看護師さんに「外で待っててね」と止められるかもと少し思ったりしていたのだが、それは杞憂だった。
翔太が診察室に入ると、看護師さんは優しい声で「どうぞ」と言って、丸椅子を出してくれた。
お医者さんは五十代くらいのおじさんで、熊のように体が大きい。
でも優しい顔をしていて、威圧感は全く感じなかった。
すぐに診察が始まった。
お母さんは応急処置で巻いていた包帯を解いて、傷口をお医者さんに見せる。
翔太は怖くて、それを直視することができなかった。
俯いていると、看護師さんは翔太の肩に手を添えて「大丈夫だよ」「偉いね」と声を掛けてくれた。
お医者さんの「だいぶ切っちゃってるねー」とか「縫わなくても大丈夫そう」という声に一喜一憂しながら、お母さんの隣で診察を見守った。
結果は全治二週間。
縫合の必要はなく、安静にしていれば自然治癒でくっついてくれるということだった。
翔太は心の底から安堵した。
手術とか大事にならなくて本当に良かった。
お母さんはお医者さんに何度もお礼を言った。
ひとしきり安心して落ち着きつつあった翔太は、帰り際になって気に掛かることを思い出し、お母さんに釘を刺しておいた。
「お母さん、『安静』だからね。手使ったらダメだよ。家事は僕がやる。ご飯は治るまで惣菜でいいから」
「分かってるわよ。でもケガしてるのは指なんだから、この指さえ使わなければいいのよ。幸い左手で利き手じゃないし、ちょっとは苦労するかもしれないけど問題ないわ」
全然分かってないじゃないか!
翔太がムッとしていると、お医者さんが吹き出すように笑い出す。
看護師さんが「ちょっと!」と言って、お医者さんを窘める。
「いやー、すみませんね。つい笑ってしまいました。いい息子さんをお持ちで。うちの愚息には見習ってもらいたいもんです」
お医者さんは後頭部に手を当てる。
「お母さんの言う通りなんですが、ふとした拍子にその指を引っ掛けてしまう、なんてこともあります。そんなことになれば回復が遅れますし、最悪手術なんてこともあり得ます。ですから、二週間はこれまでの疲れを癒すためだと思って、しっかり静養なさってください。私からもお願いします」
お医者さんが頭を下げた。
お母さんはそれを見てオロオロと狼狽える。
「先生、頭を上げてください。……分かりました、分かりましたから。ちゃんと安静にしています」
お医者さんは頭を上げながら、途中で翔太をチラッと見てウインクしてきた。
ありがとう、先生。おかげでお母さんはちゃんと休んでくれそうです。
でも先生、ウインクちょっと下手だよ。
「それは良かった。これで安心して送り出せますよ」
お医者さんと看護師さんに「お大事に」と声を掛けられて、翔太はお母さんと診察室を出ていく。
診察室を出たところで翔太は振り返った。
お医者さんは見届けてくれていたようで、目が合った。
お医者さんは優しく笑う。
「お母さんのこと、よろしく頼むよ」
「はい!」
翔太は深々とお辞儀をして、診察室を後にした。
車を病院に放置するわけにもいかないので、帰りの運転は仕方なく許した。
もちろん、指を使わないことと、安全運転は念押し済みだ。
時刻は二十時を過ぎている。さすが田舎の中浦町、人の姿はほとんどなく、車通りもまばらだ。
車はスイスイと進んでいく。
「翔ちゃん、今日はついてきてくれてありがとう。とっても心強かったわ」
「そう? それなら良かった」
「うん。それで、一つ聞きたいことがあるんだけど、聞いてもいい?」
改まって何を聞きたいんだろう?
翔太はお母さんを見る。
お母さんは前を見たままで、こちらをちらりとも見ようとしない。
「いいけど。なに?」
「今日はなんでついてきてくれたの?」
「なんでって、お母さんが心配だったからだよ。そんな状況じゃ家にいたってご飯なんか食べられないし、不安で居ても立っても居られなくなるだろうから。それなら一緒に行った方がいいと思って」
「そっか、そうだったのね。ありがとう。これからもちゃんと言いなさいよ」
最後の一言が、翔太にはこれまでの話と繋がらず、訳が分からなかった。
「ん? 何を?」
「言いたいことを、よ。いいことはいい、嫌なことは嫌ってちゃんと言うの。じゃないと、どれだけ翔ちゃんが考えてたって、相手には一つも伝わらないんだから。翔ちゃんが優しい子っていうのは、お母さんが一番よく知ってる。だから、大丈夫。少しずつでいいから、翔ちゃんが考えてることを話してみて。きっと世界が変わっていくと思うから」
お母さんは僕のことをよく見ていて、僕が知らないだろうと思っていることまで、きっと知っている。だからあえて直接的なことは言わず、オブラートにしっかり包みながら、僕に足りない部分を優しく指摘してくれたのだろう。
「うん、分かった」
お母さん、今すぐには無理かもしれない。でも、意識はしておくよ。
それで、少しずつ、ちょっとずつ、僕の行動が変わっていって、それで最後には、言いたいことをちゃんと言えるようになれたらいいなって思うんだ。




