7 衝突と衝突
第一章の最後にして、ようやく物語が動き出します。
大丈夫だと言っているのに、綾ちゃんは「本当に?」「実は痛いんじゃないの?」と繰り返すばかりで、まるで信じてくれなかった。
論より証拠だと思って走ってみせると「ふざけないで!」と怒られた。
ふざけたわけじゃないのに。理不尽だ。
でも、綾ちゃんが本気で心配してくれていることはハッキリと分かるので、嫌だとは思わない。
翔太が脈絡のないタイミングで「ありがとう」と言うと、綾ちゃんは「別に」と言ってそっぽを向いた。
長い黒髪の間から覗く小さな耳が、少し赤くなっているような気がした。
綾ちゃんと別れた後、いつものようにシヴァに会いに行った。
今日もシヴァは、茂みからひょっこりと顔を覗かせた。
その愛らしい顔を見た時、なぜか体育の時の光景が朧気にフラッシュバックされた。
あの時ずっとシヴァのことを考えていたからかもしれない。
米田先生と綾ちゃんのおかげで気分が晴れていたのに。
翔太の心に、瞬く間にどんよりとした雲が現れ揺蕩いだす。
「加治くんなんていなければいいのに」
その言葉は無意識に、するりと口から零れた。
翔太は普段からあまり愚痴を言わない。言っても詮無いし、聞く方は聞いても気持ちのいいものではないと思っているからだ。その翔太が思わず愚痴をこぼしてしまうくらいに、翔太の心は相当に疲弊しているということだった。
やや遠くにあった意識が元に戻ってきて、翔太は我に返った。
シヴァはなぜか食べるのを止めていて、まるで翔太の言葉を聞いているかのように、翔太をじっと見つめていた。
つぶらな瞳に見つめられた翔太は、ふと自分が愚痴を口に出してしまったような気がした。
「ごめんね。もしかしたら汚いことを言ってしまったかもしれない。次から気をつけるよ。パンはまだあるからね。ほら、食べて食べて」
パンが載ったままの手をシヴァの口元に差し出すと、シヴァは再び食べ始めた。
帰り際、「じゃあまた明日」と言って手を振ると、シヴァはそれに応えるように「ギャァン」と鳴いた。
普段からあまり鳴かないシヴァなので珍しいなと思いながら、別れの挨拶を交わしてくれたようで翔太は嬉しかった。
嬉しさのあまりついつい後ろ髪を引かれてしまった翔太は、道路まで行ったところで振り返り、シヴァを見た。
シヴァはなぜか茂みから出ていて、お座りの姿勢で翔太を見ていた。
遠くから見ても分かるほどに、シヴァの姿は毅然としていて雄々しさが感じられた。
翔太はまた手を振ったけれど、今度のそれにはシヴァは答えず、ただじっと翔太を見つめていた。
翌朝、翔太は目覚めた瞬間に、学校行きたくないな、と思った。
加治くんに会いたくない。顔を見たくない。今日は何されるんだろうか。
殴られるのかな、蹴られるのかな。痛いのは嫌だな。
嫌なことばかりが頭に浮かんで駆け巡って、心がかき乱されていく。
胃がキュッと締めつけられて少し痛い。
それでも翔太は、重い足をなんとか引きずって学校に行った。
歩く速度が遅かったようで、学校に着いた途端にチャイムが鳴った。
恐る恐る教室に入ったが、加治くんは来ていなかった。
気づいた瞬間、全身を満たしていた不安が一気に霧散し、じわりじわりと安堵が広がっていく。
あぁ、良かった……。今日は何もされずに済むんだ。
「はーい、みんな席に着いてー」
越智先生が教室に入って来て、教壇の前に立った。
みんなが席に着くのを確認すると、ゆっくりと話し始めた。
「今日はみんなにお知らせがあります。今日、加治くんはお休みなのですが、実は昨日、交通事故に遭ってしまいました」
「えぇ!」
「マジ!」
「嘘!」
みんなが一様に驚きの声を上げる。
それも束の間、みんなそれぞれに話し始め、驚愕と心配と若干の好奇が渦を巻いて、教室内を席巻していく。
「はいはい、みんな静かに。心配なのは分かるけど、最後まで話を聞いて」
越智先生の声が聞こえていないかのように、みんなは喋り続けている。
クラスメイトが事故に遭ったのだ。小学生がおとなしくするなど、どだい無理な話である。
越智先生は口では無理だと判断したのか、今度は抱えていた本を両手に持って振り上げ、そして一気に教壇へ振り下ろした。
バンッ! という大きな音が教室に響き渡る。
温和な越智先生がやったというのも効果を底上げした。
みんなが一斉に越智先生を見て、一瞬で教室が静寂に包まれた。
越智先生の口調は、先ほどと変わらず穏やかだった。
「加治くんは昨日の十九時前、クラブチームでのサッカーの練習を終えて帰宅していたところ、バイクとぶつかったそうです。幸い命に別条はありませんでしたが、足を骨折してしまったようで、全治約二か月だそうです。なので、加治くんは当分学校に来れません。みんなも塾とかで夜遅くに外を歩く機会があると思いますから、十分に気をつけてくださいね」
不幸ごとなので不謹慎なのは重々承知しているが、翔太はガッツポーズしてしまいそうなほどに嬉しかった。
あの時の報いだ、ざまあみろ! ということではもちろんない。
いや、全くないわけではない。ちょっとだけ、ほんのちょっぴり、思ってはいる。
あんな悪意を向けられたのだ。ちょっとは許されるよね。
でも本当に、嬉しさのほとんどは、ただ単純に加治くんからの嫌がらせを約二か月は回避できることにあった。これが何よりも嬉しいのだ。
翔太はこの日、まるで背中に翼でも生えたのかと思うほど体が軽く、心は雲一つない青空快晴で、こんな気分で学校を過ごせたのは初めてだった。
こんな日が、二か月と言わずずっと続けばいいのにと、思わずにはいられなかった。
その日の夜、ガシャン! というガラスが割れるような音がして翔太は目が覚めた。
お母さんの声が微かに聞こえてくる。
寝ぼけ眼で壁時計に目をやると、時刻は一時過ぎだった。
また寝ようと思っていたのだが、意識が覚醒するにつれ、お母さんの声が大きいことに気づいた。
なんとなく様子がおかしい気がして、布団から起き上がり、状況を確認しようと部屋を出た。
壁一枚分薄くなったことで、お父さんの声も聞こえてくる。
階段を途中まで降りたところで、何を言っているのかハッキリと聞き取れた。
どうやら二人は喧嘩をしているらしい。
二人が喧嘩をしているところをほとんど見たことがなかったので、珍しいなと思った。
「あなたは家族を何だと思ってるの! 家族を思うならそんなところ行ってないで、もっと早く帰ってきなさいよ!」
「なんだよ、その言い方は。俺が家族を蔑ろにしてるみたいじゃないか」
「そんな行く価値もないような店に行って無駄遣いしてるんだから、そう思って当然でしょ! そんな店にお金出すくらいなら、もっと旅行とか外食行けるじゃない!」
「仕方ないだろ、仕事の付き合いなんだから。別に行きたくて行ってるわけじゃない」
「どうだか。どうせ若い女の胸とか足見て、興奮してるんでしょ!」
「そんなわけないだろ!」
そこで怒鳴り合いが一瞬止まった。
話を聞く限り、お父さんは仕事の付き合いで若い女性の胸や足を見れる店に行って、お母さんに無駄遣いと言われるほどのお金を支払った、らしい。
それでお母さんは、きっとそのことだけが原因ではないのだろうが、怒り心頭に発しているようだ。
「もういい」
お父さんがそう言った後、バタンッ! と壊れそうなほど大きなドアの音がした。
どっちが出てきたのだろうと思っていたら、お父さんの背中が階段の隙間から見えた。
階段の下には玄関しかない。
お父さんは振り返る素振りもなく、さっさと靴を履いて家を出ていった。
玄関のドアが閉まる音を最後に、家の中が一気に静まり返った。
リビングの方からも音は聞こえてこない。
お母さんはどんな気持ちなんだろう、大丈夫だろうか、と少し心配になったが、出ていくのは憚られた。今出ていけば、こんな夜遅くまで起きていたことに加えて、夫婦喧嘩を隠れて聞いていたことがバレてとばっちりを食うことになる。
翔太は音を立てないように抜き足差し足忍び足で階段を上がり、布団の中に潜った。
早く寝たいが、あんなことがあってはなかなか寝つけない。
お父さんとお母さんの会話が脳内で再生される。
生き物だからぶつかるのは当たり前だ。
ないに越したことはないが、時には喧嘩だって必要だと思う。
でも喧嘩した後は、なるべく早く仲直りして欲しい。
ただその点は心配していない。お父さんとお母さんはとても仲が良いし、すぐに仲直りするだろうと翔太は思っていた。
いつ仲直りするだろう、どっちから謝るんだろう、もしかして明日の朝には仲直りしてたりして――。
そんなことを考えているうち、翔太はいつの間にか眠りについていた。
翌朝、翔太が起きた時には、お父さんは家にいなかった。
お母さんに聞いてみると、そっけなく「仕事に行ったわよ」と一言だけ。
普段はお父さんよりも翔太の方が先に家を出るので、これまた珍しいなと思ったが、仕事なのだからそういうこともあるだろうと、そこまで疑問視しなかった。
だが結局、平日はずっとこの調子で、翔太がお父さんの姿を見ることは一度もなかった。
お母さんの機嫌もずっと斜めなので、さすがに少し怪しいと思い始めていたところに、決定打となる土曜日がやって来た。
お父さんの仕事は土日祝日がお休み。休みの日は大抵起きるのが遅いし、寝癖も髭もそのままでソファにどかっと座ってテレビを観ていることが多い。
お母さんも土日は仕事が休みなので、いつもより起きるのは遅い。
翔太も学校は休みだったが、前日に目覚まし時計をセットしておいて早起きした。
つまり、今起きているのは翔太だけということだ。
翔太はまずお父さんとお母さんの寝室に行って、そっとドアを開けた。
足音が出ないようにそっと歩き、頭が見える位置まで移動した。
予想はしていたが、ベッドにいたのはお母さんだけだった。
次にお父さんの書斎に行ったが、お父さんはいなかった。
階段を降りて、リビングとお風呂、もしやとトイレまで確認したが、やはりお父さんはいなかった。
ここまでくると、怪しさどころかもはや確信に近い。
お父さんは家出したのだ。
やはりと言うべきか、お父さんは夜になっても帰ってこず、翌朝も姿はなかった。
いつになったらお父さんは帰ってくるのだろうか――。
お父さんの書斎の机の上には、微かに埃が積もりつつあった。




