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祈りの天秤  作者: 青野 乃蒼
第一章 二人目の友達

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6/21

6 素敵なお友達

綾ちゃんとシヴァの話をしなくなってからしばらく経った頃、シヴァと初めて会ってから一か月が過ぎていた。


シヴァに会いに行くことが、今やすっかりと日常の一部になっている。

歯を磨くように、お風呂に入るように、さも当然とばかりにパンを持って空き地に行く。


シヴァはいつもあの場所で自分を待ってくれている。

それが何だか自分を必要としてくれているみたいで嬉しくて、もうただの犬とは思えなかった。

綾ちゃんと同じ、親友のように思っていた。


だからこそ、欲を言えばシヴァを家で飼いたい。

瀬戸家のペットとして迎え入れることができれば、シヴァとずっと一緒にいられるのに……。

 

叶わぬ願いだと分かっていながらも、ついついこんなことを考えてしまうのだった。



「瀬戸! クリアだ、クリア! とにかく蹴れ!」


加治くんの声にハッとする。サッカーボールが翔太の目の前に転がってきていた。


突然のことで考える余裕などなく、ボールだけを見て右足を振り抜いた。

それと同時に左足がずるっと滑り、視界がぐわんと揺らぐ。

気づいた時にはお尻を地面に強打していた。


「いたっ……」

「おい、バカ!」


痛みを訴えるお尻に手を当てながら、目でボールの行方を追う。


ボールはすぐに見つかった。意外と近くにあった。

それにどうやら相手にボールが渡ってしまったらしい。

 

翔太は運動が得意ではないので、サッカーも得意ではない。

だからせめて、みんなの邪魔にならないよう自陣のゴール近くでポツンと立っていた。


つまり、翔太は自分たちのチームのゴール近くで、ボールを相手に渡したということだ。

サッカーに詳しくない翔太でも、なんとなくマズいような気はしていた。


こういう時、悪い予感というのはなぜかよく当たる。

翔太にとっては不運が重なった形だ。

 

翔太からボールを受け取った相手チームの生徒は、ペナルティエリア内に侵入した後、鋭いシュートを放ってゴールネットを揺らした。


そこで体育担当の木村先生が笛を吹く。

試合終了兼授業終了の合図が、グラウンドに響き渡った。


翔太のミスで点を取られるという最悪の展開だった。




絶対加治くんに怒られるよなーと憂鬱な気持ちで更衣室に行くと、更衣室に入るなり怒声が響いた。


「おい、瀬戸! ちゃんとクリアしろよ、ボケ! お前のせいで点取られたじゃねーか!」

「ご、ごめん……」

「ボール蹴ることすらまともにできねーのかよ。お前、なんもできねーな。ほんと邪魔だわ」


人間誰しも得手不得手はある。僕はサッカーが得意ではない。だから仕方ないじゃないか。そう言いたい。でもあの時、僕はシヴァのことを考えていて、授業に集中していなかった。そのせいで上手くやれなかった可能性もある。


自分に落ち度がある以上言い返す権利はないのかもしれないと思ったら、僅かに芽生えた反発心は一気に萎んで消えてしまった。


「ごめん」

「次ミスったらぶっ飛ばすからな、マジで」


そう言い捨てて、加治くんは更衣室を出ていった。

翔太はやっと終わったかと、深いため息をつく。


暴力だけは勘弁して欲しい、痛いから。

次からはもっとフィールドの端にいよう、そうすれば邪魔することはないはずだ、と翔太は気持ちを切り替えた。





折しも翌日にも体育の授業があった。競技はもちろんサッカーだ。

今日は加治くんとチームが別になった。

 

翔太は運が良かったと、抱えていた不安を吐き出すように一息ついた。


試合が始まって、翔太はすぐにフィールドの端――サイドラインの近くまで移動する。


これなら大丈夫だろう。いざとなればサイドラインの外に出てしまおう。

そう思いながら、遠くからボールの行方を眺めていた。


しばらく何事もなくフィールドの端で突っ立っていると、木村先生が近づいてきた。


「おい、瀬戸。ずっとそこにいたんじゃプレーに絡めんぞ。苦手なのは分かるが、それだと評価ができん。このままだと学期末の通信簿が残念なことになるぞ」


それは困る。せめて平均的な評価は欲しい。

でもみんなの邪魔はしたくないし、昨日みたいなことがあると辛い。

けど、通信簿は大事だし……。


んー、背に腹は代えられない。


翔太は覚悟を決めて重い足を動かし、少しフィールドの中央に寄った。

それを見ていた木村先生が急に笑い出す。


「おい、瀬戸。それで動いたつもりか? もっとだ!」


さすがに控えすぎたかもしれない。

仕方なく、当初想定していた限界まで中央に寄った。


「もっと!」


まだ足りないのか。えぇーい、ままよ。どうにでもなれ。


先ほどの位置からさらに中央に寄る。

結局昨日いたような位置と変わらないところまで来てしまった。

 

木村先生に顔を向けると、木村先生はニッコリと笑って「よろしい!」と言った。

 

さすがに寄りすぎだと思った翔太は、木村先生が翔太から目を逸らした瞬間に数歩飛びすさってサイドラインに寄った。


中央に寄った途端、待ってましたとばかりにボールが翔太の元に飛んできた。


バウンドを見ながら、丁度いいと思ったところで足を出す。

何とか上手く処理できて、足元にボールを収めることができた。


さて次はどうしたものかと顔を上げると、物凄い勢いで加治くんがこちらに向かって走ってきていた。

顔が少し笑っているようにも見える。


「瀬戸、蹴れ!」

「蹴り出せ!」


味方チームの生徒たちが、翔太に向けて叫んでいる。


それを聞いた翔太は、加治くんに当たらない方に向かって、全力で右足を振り抜いた。

ボールはイメージした通りの方向に飛んでいった。


良かったと安堵したのも束の間、加治くんは既にスライディングの態勢に入っていて、止まる気配は感じられなかった。


加治くんの足は翔太の両足を刈り取り、翔太は成す術なく飛ぶように転んだ。


木村先生が笛を鳴らし、翔太の元へ駆け寄る。試合が一時中断される。


「瀬戸、大丈夫か?」


大丈夫ではない。痛い。とても痛い。

飛ばされた後に受け身を上手く取れず、前にバタンと倒れてしまったので、体の前側のあちこちが痛い。あらゆるところが痛いので、もはやどこを抑えたらいいのかすら分からない。


「……はい」


大丈夫ではないが、とりあえず応答の意味で返事をする。


「おい、加治。今のはちょっとやりすぎだろ。相手は瀬戸なんだから、スライディングまではいらんかっただろ」

「へへ、すみません。まさか瀬戸がボールを蹴るとは思わなくて。次から気をつけまーす」

「頼むぞ。お前はスポーツが得意なんだから、周りも見ながらプレーしてくれ」

「はーい、すみませんでしたー」


翔太は未だに顔を上げられていなかったが、二人のやり取りは聞こえていた。

加治くんの声は明らかに反省の色が見えない調子だった。


「瀬戸に謝れ」

「はーい」


加治くんの足音が近づいてきて、翔太の肩を叩いた。

翔太は辛うじて顔を上げ、加治くんの顔を見上げる。


「悪かったな、次から気をつける」


加治くんは笑っていた。でもその笑顔は、青少年の爽やかな笑顔などではなかった。

まるで人を見下すような、昨日の翔太のミスへの報復だと言わんばかりの、下卑た笑みだった。


翔太は目を疑った。その笑顔にただただ慄然とするばかりだった。


加治くんは、翔太の返事を待つことなく戻っていった。


「瀬戸、立てるか?」


痛みは少し引いていたので、立つことも歩くこともできたとは思う。

しかし、加治くん自らによって示された彼の暴力的な悪意に、足が竦んで動かせなかった。


「無理です」と言うのは情けない気がして、翔太は無言のまま首を左右に振った。


「そうか、分かった。なら、先生がフィールドの外まで運ぶから、そこで休んでなさい」


木村先生は翔太をお姫様だっこの形で持ち上げ、サイドラインを超えて、少し先にある大きな木の下に降ろした。


「授業が終わったら声を掛けに来るから」


木村先生はフィールドに駆け戻り、笛を吹いて試合を再開させた。


翔太はそこまで見届けて、顔を膝に(うず)めた。もう何も見たくなかった。

目を閉じて視界を遮り、ただシヴァのことだけを考えていた。




授業の終わりを告げるチャイムが鳴った後、予告通りに木村先生はやって来た。


「瀬戸、どうだ? まだ痛むか? 痛みが引かないようなら保健室に行ってちょっと診てもらった方がいいかもしれんが……」


痛みはもうない。だが、今日は教室に戻りたくない。加治くんの顔を見たくない。見たら絶対にあの表情が、恐怖がフラッシュバックしてしまう。


「……まだ、少し痛むので、保健室に行ってもいいですか?」

「そうか、分かった。一人で歩けそうか?」

「はい、それは大丈夫です」


翔太は立ち上がり、問題ないことを示す。

木村先生は確認するように、翔太の腕や足を触った。


「うん、大丈夫そうだな。保健室に米田(よねだ)先生がいると思うから、米田先生に事情を説明して休ませてもらいなさい。担任の越智先生には、先生が伝えておくから」

「分かりました」

「先生は先に行くけど、瀬戸は落ち着いてゆっくり行くんだぞ。気をつけてな」


木村先生は、体育教師らしい軽やかな駆け足で校舎へ戻っていった。

翔太は木村先生に噓をついてしまったという罪悪感を抱えながら、牛の歩みで進んでいく。


嘘は良くない。でも、仕方ないんだ。あんな悪意を見せられたら、怖いよ。

次は殴られるかもしれない。蹴られるかもしれない。

自分を守るための噓なんだから、許されるよね。噓も方便って言うもんね。

そうだよね。大丈夫だよね。


翔太は自分に言い聞かせながら、一歩ずつ進んでいった。




たっぷりと時間を掛けて歩き、ようやく保健室の前に着いた翔太は、一呼吸置いてから、ドアをコンコンとノックする。


中から「はあい、どうぞ」と声がしたので、翔太はドアをゆっくりと開けた。


「あら、瀬戸くんじゃない。どうしたの?」

「えっと、さっきの体育の授業で友達と接触してしまって……」


加治くんのことを『友達』と呼ばざるを得ない状況だということは理解している。それでもなお、友達の正反対のような存在の彼を『友達』と呼ぶことには、得も言われぬやるせなさを感じた。


「あら、それは大変ね。まずはここに座って」


翔太はドアを開けてその場に立ち尽くしたままだったので、米田先生の目の前にある丸椅子に向かった。


「どこが痛い?」

「……左の足首が少し」


米田先生ごめんなさい、と心の中でつぶやく。


「ちょっと見せてねー」


米田先生は、翔太の左足を両手で包むように持ち上げて、自分の太股の上に置いた。


「ひねったの?」

「いえ」

「じゃあ、ぶつけた感じ?」

「は、はい。そうです」

「どの辺?」

「この辺りです」


翔太は左足の外側のくるぶし辺りに触れる。


「うーん、確かにちょっと擦りむいてはいるけど、内出血はしてなさそうね。でも、実はひねってるなんてこともあるかもしれないから、一応アイシングしとこっか。準備するからちょっと待っててね」


米田先生は翔太の足をそっと床に置いてから、席を立って準備に取り掛かった。


「今日は今やってる六時間目の授業が最後だし、授業が終わるまでここで休んでたらいいからねー。越智先生にもそうやって言っておくから」

「分かりました。ありがとうございます」


元からそうするつもりではあったが、根回ししてくれるのなら、罪悪感を抱くことなくここにいられる。心からの感謝の言葉だった。


米田先生はそれ以降、ケガに関することも学校に関することも、一切翔太に聞かなかった。

代わりに、米田先生宅の今日の晩ご飯をどうするかという話や、米田先生の五歳のわんぱく息子をどうすればおとなしくできるかという話など、終始他愛のない話をしてくれた。


翔太の雰囲気から何かを察したのかもしれないしそうではないのかもしれないが、触れたくない部分をそのままにしてくれたのはありがたかった。

それに、米田先生との会話は楽しくて、話している間は嫌なことを忘れさせてくれた。

 

 

 

楽しい時間というものは得てしてあっという間に過ぎるもので、六時間目の授業の終わりを告げるチャイムが鳴った時には、シンデレラも零時の鐘が鳴った時はこんな気持ちだったのかもしれないなと、少し感傷的になったほどだった。


今日の授業は全て終わったので、後は下校を残すのみ。

ランドセルは教室に置いてあるので、一度教室に戻らねばならない。


加治くんはもう下校しているだろうが、万が一を考えると少し怖い。

とは言え、そんなことを言っていては、いつまで経っても帰れない。


翔太は何とか自分を奮い立たせて立ち上がった。


「それじゃあ先生、そろそろ教室に戻りますね」

「はい、分かりました。足は大丈夫? もう痛くない?」

「はい、大丈夫です。本当にありがとうございました」

「いいえー。保健の先生って、『また来てね』って言いづらいのよね。ほら、瀬戸くんみたいにケガで来た子とかだと、何だかケガを歓迎してるみたいじゃない? だからあまり言わないようにしてるんだけど――」


そこで一瞬、ほんの一瞬溜めのような間があった。


米田先生は変わらず微笑んだまま。


でも僅かだが確実に違った。

嘘でも冗談でもお世辞でもお為倒(ためごか)しでもなく、大人として真剣な空気を強く感じた。


「何かあったらいつでも来てね。先生、ここでずっと待ってるから」


米田先生なら――。


話してみてもいいのかもしれない。

もしかしたら、何とかしてくれるかもしれない。


翔太はそう思った。そう思える人を初めて見つけた。

たったそれだけのことなのに、翔太の心は軽くなった。


「はい、分かりました。本当にありがとうございます。それじゃあ――」


さようなら、と言おうとしたところで、背後のドアが勢いよく開けられた。


「翔ちゃん!」


翔太は驚いてビクッと肩を跳ねらせた後、すぐさま後ろを振り向いた。


「あ、綾ちゃん」


綾ちゃんは急いできたとばかりに息を切らせ、両手には翔太のランドセルを持っている。


すると突然、米田先生が笑い出した。


「なあんだ。瀬戸くんにもちゃんといるじゃない。素敵なお友達――」


米田先生が安心しているように、翔太には見えた。

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