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祈りの天秤  作者: 青野 乃蒼
第一章 二人目の友達

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3 犬との出会い

今日は一日中、何もされなかった。


ごく稀にだが、こういう日もあったりする。理由は本人に聞かぬ限り分かりようもないが、体調が悪かったり、翔太に構う余裕がない時などがそうなのかもしれない、と翔太は推測している。


では、今日の彼はどうだったかと言えば、体調が悪い感じはしなかった。

だから、なぜ今日は無傷で済んだのか分からないのだが、分かる必要はないし、もっと言えば理由なんてどうでもいい。無傷で済むならそれに越したことはない。


翔太は少しだけ気分良く、帰路の川沿いを歩いていく。


「待てよ、瀬戸ぉー!」


背後から翔太を呼ぶ声がする。

声の主は、加治くん。


楽園に続く梯子を気持ち良く登っている最中に梯子を外されたような、絶望に近い感覚。

先ほどまで感じていたささやかな幸福は、ぬか喜びへと姿を変え、泡のように弾けて消えた。

遠足は家に帰るまでが遠足であるように、学校もまた家に帰るまでが学校なのだと思い知る。


翔太は足を止め、失望感を悟られぬよう平然を装って振り向いた。

走ってきたのは、加治くんとその取り巻きの一人である橋本くんだった。


「おいおい瀬戸。俺たちを置いて先に帰るなんてひどいやつだな」


何を言っているのか。友達よろしく仲良く一緒に帰ったことなんて一度もない。

ひどいと言うなら、それは加治くんの方だ。君が僕と帰る時は決まって……。


「はい、これ。いつものとこまで頼むな」


翔太は加治くんからランドセルを受け取る。続いて橋本くんのも受け取る。

彼らは鳥籠から解放された鳥のように、身軽さを謳歌するように縦横無尽に走り回る。


翔太は、加治くんのランドセルを前側に提げ、橋本くんのは両手で持って、必死に歩く。

翔太と彼らの家の分岐点まで――。



着いた時には両腕はパンパンで、もう力は残っていなかった。

翔太がランドセルを渡すと、彼らは「じゃあ」とだけ言って帰っていった。

これもいつも通り。礼など言われたことはない。


重荷から解き放たれはしたもののヘロヘロの翔太は、重い足を引きずりながら、何とか残りの道を歩いた。


家まで後少しというところに、テニスコートを二面ほど作れそうな広い空き地のような場所がある。

実際には空き地ではなく、敷地内の道路沿い左隅に建っている、プレハブ小屋の所有者の土地だ。


一角に高さ二メートル、横一メートルほどの鉄製のラックがあり、そこに大小様々な塩ビパイプが乱雑に置かれているのと、トラックから下ろしてできたような砂の小山が一つあるが、それ以外は何もない。


今後他の理由で使う予定があるのかもしれないが、現状だけ見れば完全に土地を持て余している。

田舎らしい土地の使い方だ。


何となく彷徨わせていた翔太の視線が、一点を捉える。

空き地の道路沿いの反対側、山へと続くその茂みの手前に、犬のような獣が横たわっているのが見えたのだ。


翔太は疲労感など忘れ、獣の元へと駆け寄った。


その獣は犬で間違いないようだが、翔太が近づいても微動だにせず、目を閉じたままだった。

骨と皮がくっついているかのように痩せ細っており、死んでいるかとも思ったが、お腹の辺りが僅かに上下しているのに気づいた。


生きてる!


翔太は一目散に家へ戻った。

玄関でランドセルを放り投げ、冷蔵庫から牛乳、食器棚から受け皿を取って、再び空き地へ向かう。


犬は倒れたままだったが、匂いを嗅げば起きるかもしれないと思い、牛乳を注いだ皿を鼻先に置いた。

 

少し待ってみたが、犬が起きる気配はなかった。

それでも呼吸は続けているので、生きていることは間違いない。


翔太は恐る恐る犬に手を伸ばし、上下しているお腹の辺りにそっと触れた。

僅かだが、体温を感じた。生命の温もりだった。

翔太は頑張れと念じながら、ゆっくりと撫で続けた。


夕方を通り越し、夜と言って差し支えないほどに空から明るさが失われた頃、犬の体が反射のようにピクリと動いた。

驚いた翔太は撫でていた手を一瞬止めてしまったが、すぐさま動かし辛抱強く撫で続ける。



やがてゆっくりと、犬は瞼を上げた。焦点を合わせるような間があって、そこから徐々に四肢が動き始める。やおら顔を上げ、体はそのままに腹這いの状態になる。


目の前にある牛乳に気づいてしばらく眺めた後、ゆっくりと舌を伸ばして、一舐め。


そこからはもう止まらなかった。規則正しくひたすらに舌を動かして、牛乳を飲んでいく。

翔太はその光景を見てホッとした。なぜだか嬉しくもさえあった。


受け皿に注いでいた牛乳はあっという間に無くなった。犬の口の周りは真っ白だ。


「美味しかったか?」


そう言って翔太は空になった受け皿に、とくとくと牛乳を注いでやる。


これを三度繰り返したところで、手持ちの牛乳が切れてしまった。当然、受け皿は空っぽだ。

犬は尾を振って次を待っている。


「ごめんよ。もう無くなっちゃった」


やがて、犬は待っても注がれないことに気づいたのか、小さく「くぅん」と鳴いた。

パンなどの食べ物も持ってきた方が良かったなと反省していると、翔太はふと気づいた。

 

もう夜だ!

 

空はすっかりと黒く染まり、燦然と輝く星々が僅かに光を放っていた。


「じゃあね! また明日来るから!」


翔太は別れを告げた後、勢いよく立ち上がり急いで家に帰った。





翌日は雨が降っていた。


ざーざーと言うほど強くはないものの、しとしと言うには控えめといった感じで、つまりはしっかりとした雨だった。


朝、通学前にちらっと空き地を見渡してみたが犬はいなかった。

朝だし茂みの奥の方でまだ寝ているのかもしれないと思っていたが、放課後に覗いてみても犬の姿は見えなかった。


どこか遠くに行ってしまったのかもしれない、と少し寂しい気分に駆られながらも、念のためと茂みの方に足を運んだ。昨日犬がいた場所まで行ってみたが、姿は見えないし現れる気配もない。

やっぱりいないなーと思っていると、やにわに茂みから「ガサガサッ」と音がした。


「おわっ!」


翔太は驚きながら音がした方に目を向けると、そこから犬がひょっこりと顔を覗かせた。


「あぁ、ビックリした……。驚かせないでよ」


驚かされてつい文句を言ってしまったが、まだいてくれたことが嬉しい。

それと同時に、昨日は牛乳しかあげられなかったことを思い出した。


「ちょっと待ってて。食べ物を取ってくるから」


翔太は雨も気にせず走って家に帰り、食パンを袋ごと引っ掴んで空き地に戻った。

犬は先ほどと変わらず、茂みから顔だけ出して待っていた。

 

犬の前で屈んで傘を肩に掛け、袋から食パンを取り出す。パンを一口大にちぎり、それを差し出す。

犬は確かめるようにくんくんとパンの匂いを嗅いだ後、翔太から受け取るようにそっと口に入れた。


「美味しいか?」


ついそう尋ねずにはいられないほど、この犬に愛着を感じ始めていた。

 

犬がすぐに平らげてしまうので、次から次へとパンをちぎっては与えた。

その食べっぷりを見ながら、ふと気になることがあった。


初見では毛色などから柴犬みたいだと思っていたのだが、よく見てみると犬にしては少し耳が長いような気がする。それに顔つきもどこか犬っぽくない気もするし、今は見えていないが尻尾はふさふさで長かったような……。


狐に見えなくもないと思ったが、中浦町は北海道でなければ北国でもないので、それはあり得ないだろうと棄却した。


疑いだすと色々なところが気になってくるのだが、それもそのはずで、翔太は動物に明るくないのだ。


「まあ、いっか」


翔太は追究を諦めて、元の通り柴犬ということにした。

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