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祈りの天秤  作者: 青野 乃蒼
第三章 親友がくれたもの

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20/21

7 その時まで、さよなら

翔太は宣言通り、来るべきその日まで、毎日綾ちゃんに会いに行った。

暗い話は一切せず、できるだけ楽しく時間を過ごせるように努めた。


翔太は毎日が楽しかった。綾ちゃんも毎日たくさん笑っていた。

綾ちゃんも楽しく過ごしてくれていたのなら、それ以上の幸せはない。


それでも、日を追うごとに、徐々に物が片付いていき、代わりに段ボール箱が増えていくさまを見ると、惜別の情は否が応でも込み上げた。


そしてとうとう、その日はやって来てしまった。




七月三十一日の朝、翔太は目覚まし時計の音で目が覚めた。

起きた瞬間に、ついに来てしまったな、と思った。


リビングに行くと、お母さんがキッチンにいて、朝ご飯の支度をしていた。

お母さんも東雲家が引っ越すことは知っている。綾ちゃんのお母さんから聞いたらしい。


今日は運良く土曜日なので、お見送りはお母さんも一緒に行く。


「おはよう、牛乳飲む?」

「うん」


お母さんと朝食を済ませた後、お互いに準備に取り掛かる。と言っても、翔太は着替えくらいのものだ。お母さんが化粧を済ませるのを、点いていたテレビを見るともなく見て待っていた。


「お待たせ。翔ちゃん、準備はできてるの?」

「うん、できてる」

「じゃあ、行こっか」


綾ちゃんの家は、そこまで遠くない。二人で歩いて向かった。


朝の八時過ぎだと言うのに、気温は既に三十度近くまで上がっている。

日本特有の湿気も相まって、じとっとした熱気が体にへばりついてくるようだった。


「寂しくなるわね」

「そうだね」

「引っ越し先がちょっと遠いから、簡単には会えないのが残念だわ」

「お母さん」

「ん?」


翔太はお母さんに顔を向けた。お母さんも翔太を見る。


「僕、それでも会いに行きたい。綾ちゃんのことが、大切なんだ。綾ちゃんが会いたいって言ってくれる間は、綾ちゃんの望みを叶えてあげたい。お金も時間も掛かるし、お母さんとお父さんには迷惑掛けることになるけど、お願いします」


翔太は立ち止まって、お母さんに頭を下げた。

お母さんはそれを見て、呆れたようにため息をついた。


「何言ってるのよ。迷惑なんか、これっぽっちも掛からないわ。さすがにしょっちゅうは行かせてあげられないけど、夏休みとか冬休みとか、たくさん休みがある時には、会いに行ってあげなさいよ。たまにはお母さんも連れてってね」

「もちろん。ありがとう、お母さん」

「青春っていいわね。翔ちゃんの話を聞いて思い出したけど、お母さんたちが学生の頃、お父さん、毎日電車に乗ってお母さんに会いに来てたわ」

「そうなの?」

「そうよ。あー、懐かしいわね。あの頃は若かったわ。若いって、それだけで素晴らしいのよ。翔ちゃんが羨ましい」


 三十代前半のお母さんも、世間的には十分若い方だと思うが、お母さんの言う『若い』は、きっと十代までを指しているのだろう。お母さんも一度は十代を経験しているのだから、羨ましいもへったくれもないだろうに。


「あ、そうそう。そういえば、お父さんと動物園でデートしたことがあったんだけど――」


お母さんは懐かしむように、お父さんとの思い出を滔々と話していた。


初めて聞く若かりし頃のお母さんは乙女そのもので、お父さんは意外と抜けているところがあったりして、ちょっと面白かった。


お母さんが思い出話に花を咲かせていたこともあって、綾ちゃんの家にはすぐに着いた感覚だった。


インターホンを押すと、綾ちゃんと綾ちゃんのお母さんが出てきた。


「翔ちゃん、おはよう」

「おはよう、綾ちゃん」

「暑いでしょ、早く入って。家の中、なーんにもないけど」


中に通してもらうと、綾ちゃんの言う通り、家の中には何一つ家財がなかった。まさにもぬけの殻の状態だった。そのせいで、家の中がとても広く感じた。


「広いね」

「そうでしょ。わたしも、こんなに広かったっけ? と思った」

「そういえば、お父さんは?」

「お父さん、今会社行ってる。最後の挨拶だって。だから、今はお父さん待ち。お父さんが帰ってきたら出発するの」

「そっか。本当に行っちゃうんだね」

「うん。あっという間だった。毎日翔ちゃんが来てくれて、本当に楽しかった。楽しすぎて、夜寝るのが怖かったくらい」

「怖い? どうして?」

「夜、ベッドに入った後、毎回思ってたの。あぁ、今日はもう終わりなんだって。これで眠ってしまったらすぐに明日が来て、引っ越しの日が近づいてくるんだって。怖くて泣いちゃう時もあった。」


綾ちゃんは照れを隠すように笑った。


「でも眠気には勝てないから、いつの間にか寝てるの。それで、朝起きても同じことを思うの。あぁ、引っ越しの日が一日近づいちゃったなって」

「それ、分かるよ。僕も同じだった」

「ほんと?」

「うん、本当だよ。毎日寝る時に思ってた。泣きはしなかったけどね」


翔太の皮肉に、綾ちゃんは見事に反応した。頬を膨らませて、リスのような顔になる。

怒っているけど、それはそれで可愛いなと翔太は思った。


「あと、さっき言いそびれちゃったけど、僕も毎日綾ちゃんと会えて、本当に嬉しかったし、楽しかった。ありがとう。最高の夏休みだった」

「だった。って、まだ始まったばっかりだよ? 八月まるまる残ってるし」

「そうなんだけど。綾ちゃん以外に友達いないし、もう夏休みっぽいことはしないだろうなと思って」

「夏休みっぽいことって?」

「夏祭りとか、花火とか、そういう夏って感じのイベントのこと」

「なるほどね。でも、家族とは行くんでしょ?」

「行かない」

「どうして?」

「僕は綾ちゃんと行きたかったんだ。だから、今年は行かない」

「今年はって、来年だって無――」

「無理じゃない。無理じゃないよ」


綾ちゃんは、少し困ったような顔をしている。

翔太が駄々をこねているように聞こえているのかもしれない。


でも、本当に無理じゃない。さっきお母さんに頼んだから。

きっと大丈夫。


「来年は、僕が綾ちゃんに会いに行く。会って、一緒に夏祭りに行く。花火を見るんだ」

「ほんと?」

「本当だよ。約束する。僕は来年の夏、必ず綾ちゃんに会いに行く」

「約束だからね?」


綾ちゃんが小指を立てる。

翔太は、綾ちゃんの小指に自分の小指を絡めた。


「うん、約束」

 

ガチャッと玄関のドアが開く音がした。


「ただいまー」


綾ちゃんのお父さんが帰ってきた。出発の時間だ。




全員で玄関に向かった。先に翔太とお母さんが外に出る。

後から、東雲家の三人が出てきた。


「これでお別れだね」と綾ちゃんが切り出した。


「うん。でも一生会えないわけじゃない。さっき約束したから、とりあえずは一年間かな」

「そうだね。でも、それでも一旦はお別れだから、やっぱり寂しい」

「手紙、手紙書くよ。そしたら寂しくないでしょ?」

「うん。それならきっと、寂しくない。待ってるから」


綾ちゃんはそう言うと、顔をすっと翔太に寄せる。

翔太は綾ちゃんの動きを目で追うのがやっとで、どうしたのかと思う時間すらないほどに一瞬だった。


綾ちゃんの唇が、翔太の頬に触れる。


「えっ……」


あまりにも突然の出来事に、翔太は驚きで体が固まってしまう。


綾ちゃんは翔太から離れると、逃げるように車に飛び乗った。


綾ちゃんが乗り込むと、車はすぐに発進した。

車の中から、綾ちゃんは笑顔で手を振っている。頬には少し赤みが差しているようにも見えた。


車はどんどん小さくなり、綾ちゃんの顔はぼやけて人影になる。

やがて角を曲がって見えなくなった。


翔太はそれを、最後までぼんやりと見ていた。

頬にはまだうっすらと、綾ちゃんの感触が残っている。





綾ちゃんとお別れをしたその日の夕方、翔太は空き地へと向かった。


茂みの前に立って、シヴァを呼ぶ。

何度も呼んだが、やはり今日も出てきてはくれなかった。


翔太は綾ちゃんと同じように、シヴァにも毎日会いに行っていた。

だが、一度も姿を見ることができなかった。


この現実世界において、成立しえない不思議な力を持っていたシヴァ。

今思えば、きっと天国から下界に降りてきた神様か、宇宙からやって来た地球外生命体だったのかもしれない。


そう思えば、突然現れ、突然消えてしまったことも納得せざるを得ないように思える。


でも、なぜシヴァは、翔太の前に姿を現したのだろうか。

翔太はずっと考えていた。


現れた時期と消えてしまった時期、そしてその間に起こった数々の出来事から、翔太は一つの答えを導き出した。


シヴァはきっと、僕に立ち向かう勇気を与えてくれるために現れたのだ。


翔太は今まで、自分の弱さにかこつけて、自ら戦おうとはしなかった。それ故に、シヴァに甘え、その力を利用した。

でも、最後はシヴァが止めてくれた。自分で戦えと言ってくれた。シヴァが翔太を変えてくれたのだ。


シヴァのことを話しても、きっと誰も信じてはくれないだろう。でも、信じてもらう必要なんかない。確かにシヴァは、翔太の中で存在していたのだから。


「シヴァ、ありがとう」


そよ風が翔太の髪を揺らす。

シヴァの微かな匂いが、鼻を掠めたような気がした。

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