7 その時まで、さよなら
翔太は宣言通り、来るべきその日まで、毎日綾ちゃんに会いに行った。
暗い話は一切せず、できるだけ楽しく時間を過ごせるように努めた。
翔太は毎日が楽しかった。綾ちゃんも毎日たくさん笑っていた。
綾ちゃんも楽しく過ごしてくれていたのなら、それ以上の幸せはない。
それでも、日を追うごとに、徐々に物が片付いていき、代わりに段ボール箱が増えていくさまを見ると、惜別の情は否が応でも込み上げた。
そしてとうとう、その日はやって来てしまった。
七月三十一日の朝、翔太は目覚まし時計の音で目が覚めた。
起きた瞬間に、ついに来てしまったな、と思った。
リビングに行くと、お母さんがキッチンにいて、朝ご飯の支度をしていた。
お母さんも東雲家が引っ越すことは知っている。綾ちゃんのお母さんから聞いたらしい。
今日は運良く土曜日なので、お見送りはお母さんも一緒に行く。
「おはよう、牛乳飲む?」
「うん」
お母さんと朝食を済ませた後、お互いに準備に取り掛かる。と言っても、翔太は着替えくらいのものだ。お母さんが化粧を済ませるのを、点いていたテレビを見るともなく見て待っていた。
「お待たせ。翔ちゃん、準備はできてるの?」
「うん、できてる」
「じゃあ、行こっか」
綾ちゃんの家は、そこまで遠くない。二人で歩いて向かった。
朝の八時過ぎだと言うのに、気温は既に三十度近くまで上がっている。
日本特有の湿気も相まって、じとっとした熱気が体にへばりついてくるようだった。
「寂しくなるわね」
「そうだね」
「引っ越し先がちょっと遠いから、簡単には会えないのが残念だわ」
「お母さん」
「ん?」
翔太はお母さんに顔を向けた。お母さんも翔太を見る。
「僕、それでも会いに行きたい。綾ちゃんのことが、大切なんだ。綾ちゃんが会いたいって言ってくれる間は、綾ちゃんの望みを叶えてあげたい。お金も時間も掛かるし、お母さんとお父さんには迷惑掛けることになるけど、お願いします」
翔太は立ち止まって、お母さんに頭を下げた。
お母さんはそれを見て、呆れたようにため息をついた。
「何言ってるのよ。迷惑なんか、これっぽっちも掛からないわ。さすがにしょっちゅうは行かせてあげられないけど、夏休みとか冬休みとか、たくさん休みがある時には、会いに行ってあげなさいよ。たまにはお母さんも連れてってね」
「もちろん。ありがとう、お母さん」
「青春っていいわね。翔ちゃんの話を聞いて思い出したけど、お母さんたちが学生の頃、お父さん、毎日電車に乗ってお母さんに会いに来てたわ」
「そうなの?」
「そうよ。あー、懐かしいわね。あの頃は若かったわ。若いって、それだけで素晴らしいのよ。翔ちゃんが羨ましい」
三十代前半のお母さんも、世間的には十分若い方だと思うが、お母さんの言う『若い』は、きっと十代までを指しているのだろう。お母さんも一度は十代を経験しているのだから、羨ましいもへったくれもないだろうに。
「あ、そうそう。そういえば、お父さんと動物園でデートしたことがあったんだけど――」
お母さんは懐かしむように、お父さんとの思い出を滔々と話していた。
初めて聞く若かりし頃のお母さんは乙女そのもので、お父さんは意外と抜けているところがあったりして、ちょっと面白かった。
お母さんが思い出話に花を咲かせていたこともあって、綾ちゃんの家にはすぐに着いた感覚だった。
インターホンを押すと、綾ちゃんと綾ちゃんのお母さんが出てきた。
「翔ちゃん、おはよう」
「おはよう、綾ちゃん」
「暑いでしょ、早く入って。家の中、なーんにもないけど」
中に通してもらうと、綾ちゃんの言う通り、家の中には何一つ家財がなかった。まさにもぬけの殻の状態だった。そのせいで、家の中がとても広く感じた。
「広いね」
「そうでしょ。わたしも、こんなに広かったっけ? と思った」
「そういえば、お父さんは?」
「お父さん、今会社行ってる。最後の挨拶だって。だから、今はお父さん待ち。お父さんが帰ってきたら出発するの」
「そっか。本当に行っちゃうんだね」
「うん。あっという間だった。毎日翔ちゃんが来てくれて、本当に楽しかった。楽しすぎて、夜寝るのが怖かったくらい」
「怖い? どうして?」
「夜、ベッドに入った後、毎回思ってたの。あぁ、今日はもう終わりなんだって。これで眠ってしまったらすぐに明日が来て、引っ越しの日が近づいてくるんだって。怖くて泣いちゃう時もあった。」
綾ちゃんは照れを隠すように笑った。
「でも眠気には勝てないから、いつの間にか寝てるの。それで、朝起きても同じことを思うの。あぁ、引っ越しの日が一日近づいちゃったなって」
「それ、分かるよ。僕も同じだった」
「ほんと?」
「うん、本当だよ。毎日寝る時に思ってた。泣きはしなかったけどね」
翔太の皮肉に、綾ちゃんは見事に反応した。頬を膨らませて、リスのような顔になる。
怒っているけど、それはそれで可愛いなと翔太は思った。
「あと、さっき言いそびれちゃったけど、僕も毎日綾ちゃんと会えて、本当に嬉しかったし、楽しかった。ありがとう。最高の夏休みだった」
「だった。って、まだ始まったばっかりだよ? 八月まるまる残ってるし」
「そうなんだけど。綾ちゃん以外に友達いないし、もう夏休みっぽいことはしないだろうなと思って」
「夏休みっぽいことって?」
「夏祭りとか、花火とか、そういう夏って感じのイベントのこと」
「なるほどね。でも、家族とは行くんでしょ?」
「行かない」
「どうして?」
「僕は綾ちゃんと行きたかったんだ。だから、今年は行かない」
「今年はって、来年だって無――」
「無理じゃない。無理じゃないよ」
綾ちゃんは、少し困ったような顔をしている。
翔太が駄々をこねているように聞こえているのかもしれない。
でも、本当に無理じゃない。さっきお母さんに頼んだから。
きっと大丈夫。
「来年は、僕が綾ちゃんに会いに行く。会って、一緒に夏祭りに行く。花火を見るんだ」
「ほんと?」
「本当だよ。約束する。僕は来年の夏、必ず綾ちゃんに会いに行く」
「約束だからね?」
綾ちゃんが小指を立てる。
翔太は、綾ちゃんの小指に自分の小指を絡めた。
「うん、約束」
ガチャッと玄関のドアが開く音がした。
「ただいまー」
綾ちゃんのお父さんが帰ってきた。出発の時間だ。
全員で玄関に向かった。先に翔太とお母さんが外に出る。
後から、東雲家の三人が出てきた。
「これでお別れだね」と綾ちゃんが切り出した。
「うん。でも一生会えないわけじゃない。さっき約束したから、とりあえずは一年間かな」
「そうだね。でも、それでも一旦はお別れだから、やっぱり寂しい」
「手紙、手紙書くよ。そしたら寂しくないでしょ?」
「うん。それならきっと、寂しくない。待ってるから」
綾ちゃんはそう言うと、顔をすっと翔太に寄せる。
翔太は綾ちゃんの動きを目で追うのがやっとで、どうしたのかと思う時間すらないほどに一瞬だった。
綾ちゃんの唇が、翔太の頬に触れる。
「えっ……」
あまりにも突然の出来事に、翔太は驚きで体が固まってしまう。
綾ちゃんは翔太から離れると、逃げるように車に飛び乗った。
綾ちゃんが乗り込むと、車はすぐに発進した。
車の中から、綾ちゃんは笑顔で手を振っている。頬には少し赤みが差しているようにも見えた。
車はどんどん小さくなり、綾ちゃんの顔はぼやけて人影になる。
やがて角を曲がって見えなくなった。
翔太はそれを、最後までぼんやりと見ていた。
頬にはまだうっすらと、綾ちゃんの感触が残っている。
綾ちゃんとお別れをしたその日の夕方、翔太は空き地へと向かった。
茂みの前に立って、シヴァを呼ぶ。
何度も呼んだが、やはり今日も出てきてはくれなかった。
翔太は綾ちゃんと同じように、シヴァにも毎日会いに行っていた。
だが、一度も姿を見ることができなかった。
この現実世界において、成立しえない不思議な力を持っていたシヴァ。
今思えば、きっと天国から下界に降りてきた神様か、宇宙からやって来た地球外生命体だったのかもしれない。
そう思えば、突然現れ、突然消えてしまったことも納得せざるを得ないように思える。
でも、なぜシヴァは、翔太の前に姿を現したのだろうか。
翔太はずっと考えていた。
現れた時期と消えてしまった時期、そしてその間に起こった数々の出来事から、翔太は一つの答えを導き出した。
シヴァはきっと、僕に立ち向かう勇気を与えてくれるために現れたのだ。
翔太は今まで、自分の弱さにかこつけて、自ら戦おうとはしなかった。それ故に、シヴァに甘え、その力を利用した。
でも、最後はシヴァが止めてくれた。自分で戦えと言ってくれた。シヴァが翔太を変えてくれたのだ。
シヴァのことを話しても、きっと誰も信じてはくれないだろう。でも、信じてもらう必要なんかない。確かにシヴァは、翔太の中で存在していたのだから。
「シヴァ、ありがとう」
そよ風が翔太の髪を揺らす。
シヴァの微かな匂いが、鼻を掠めたような気がした。




