6 迎えに行くから
「それじゃ、行ってくるわね。お留守番よろしく」
「いってらっしゃい」
平日の朝、翔太はお母さんが仕事に行くのを見送った。
平日にお母さんを見送るなんて、体調不良で学校を休んだ時以外にはなかったなと、翔太はぼんやりと思った。
二階の部屋に戻ると、窓からランドセルを背負った小学生や、スーツを来た大人が歩いているのが見える。いつもなら、自分はあの中の一人だった。
翔太は窓から目を逸らして、ベッドに横たわる。白一色の見慣れた天井が無機質に広がっている。
今日は終業式がある。これで五年生の一学期は終了だ。
だが、翔太は学校に行けなかった。
あの日、乱闘騒ぎを起こした翔太は、自宅謹慎処分を言い渡され、翌日から学校に行っていない。既に七月に入っていたこともあり、自宅謹慎は一学期の終業式の日まで、ということになっている。一学期が終われば、長い長い夏休みに突入だ。
つまり翔太は、みんなよりも一足先に夏休みに入っていた。
自宅謹慎ではあったが、翔太は毎日のように外出していた。
綾ちゃんの家に行っておしゃべりをして、シヴァに会いに行った。
でも、シヴァはあの日以来、顔を見せてはくれていない。
お母さんも外出を咎めたりはしなかった。
むしろ歓迎するかのように、いつも玄関に家の鍵を置いてくれている。
日中はほとんどゲームをして過ごした。
家に子供一人では、これぐらいしかすることがないし、そもそも外は暑すぎて出る気にもならない。
学校側の配慮で、夏休みの宿題はお母さんを通じて先に渡されていたので、たまに気が向いた時は、夏休みの宿題をした。
夕方、十六時頃、翔太は家を出る。向かう先は、綾ちゃんの家。
今日も同じ時間に家を出た。
時刻的には夕方だが、日差しの強さは昼間とまるで変わらない。腕がじんわりと痛い。まるで太陽が皮膚を焼き焦がしているようだ。
綾ちゃんはいつものように、明るく迎え入れてくれた。
翔太は滴る汗をハンカチで拭いながら、綾ちゃんとリビングに入った。
翔太が毎日通うようになったからか、最近はリビングで過ごすようになった。テレビがあるので、それで動画やアニメを観て感想を言い合ったりする。
「引っ越しの日、決まったの」
アニメを一本見終えた後、綾ちゃんは感想を述べるかのように、さらっと言った。
「そう、なんだ」
驚きはしなかった。いつかこの日がやって来ることは、分かっていたから。
でも、落胆せずにいられるほど、受け入れることはできていなかった。
翔太は加治くんとの一件を、綾ちゃんに話していた。
綾ちゃんに話した時、綾ちゃんは大層驚き、翔太の腫れた頬を心配し、そして「ありがとう」とお礼を言った。
きっと綾ちゃんは、このことを綾ちゃんのお母さんに話したと思う。
でも、そんなことで綾ちゃんのお母さんの気持ちが変わることなんてない。一寸にも満たない微小の期待はしながらも、翔太はそう思っていた。
「七月末、三十一日だって」
「早いね。もうすぐだよ」
「うん。学校が始まる前に、向こうでの生活に慣れておいた方がいいってことになって」
「そっか」
そこで会話が途切れた。広いリビングが静寂に包まれる。
外を走っているトラックのエンジン音が、やけに大きく聞こえた。
突然決まったタイムリミットのせいで、二人でいられる時間はもう残り僅かになってしまった。
もっと話していたい。せめて、限られた最後まで目一杯、綾ちゃんと言葉を交わしたい。
それなのに、何も言葉が浮かんでこない。離れたくないという思いだけが、翔太の頭と心を埋め尽くしていた。
「……やだ」
綾ちゃんはポツリとこぼすように呟いた。
翔太は綾ちゃんを見る。綾ちゃんは俯いたままだった。
「嫌だよ、翔ちゃんと離れるの。なんで引っ越さなきゃいけないの。わたし、何か悪いことでもしたのかな。わたし、そんな悪い子だったのかな」
綾ちゃんは顔を上げ、上目遣いで翔太を見る。
大きな瞳には、溢れんばかりに涙が浮かび、今にも零れてしまいそうだった。
翔太が言葉を掛けようとした瞬間、綾ちゃんは翔太の胸にしがみついてきた。
やがて、声を上げて泣き始めた。
「やだ、やだ、やだ。行きたくない。翔ちゃんと離れたくない。もう会えないなんてやだ。どうしたらいいの。どうしたら、行かなくて良くなるの。教えて。教えてよ、翔ちゃん。お願い。……翔ちゃん、助けて」
最後は消え入りそうな声だった。
綾ちゃんの悲痛な叫びは、翔太の心をえぐった。
これまでの出来事が、まるで走馬灯のように次から次へとフラッシュバックしていく。
この結末に辿り着くまでに、一体どれだけチャンスがあっただろうか。
いくらでもあった。僕がほんの少し勇気を出して、加治くんに立ち向かっていれば、この結末を迎えることは、絶対になかったはずだ。
僕は最後まで、綾ちゃんを守ることができなかったんだ――。
翔太は綾ちゃんを強く抱きしめた。悔しくて、悲しくて、辛くて、翔太の目からも涙が零れた。
「ごめん。綾ちゃん、ごめん。守れなくて、ごめん。僕が弱いせいで、こんなことになってしまったんだ。本当にごめん」
突然、翔太は胸の辺りに軽い衝撃を受けた。拳で小突かれたような感覚だった。
「……謝るな」
綾ちゃんが震える声で怒った。
それで翔太は、はたと思い出した。
この前、綾ちゃんに言われたんだった。次謝ったら一生口利かない、と。
翔太は慌てて訂正する。
「ごめ……、あ、いや、えっと、今のなしで! もう謝らない、謝らないから」
「うん」
翔太は静かに、綾ちゃんを抱きしめ続けた。
綾ちゃんを抱きしめながら、綾ちゃんと過ごせる残り僅かな時間に思いを馳せていた。
綾ちゃんが引っ越してしまうことはもう変えられない。どれだけ足掻いても、残り時間が増えることはないし、確実に減っていく。
それなら、残りの時間はできるだけ楽しく過ごしたい。できるだけ綾ちゃんには笑っていて欲しい。
それが今の僕にできる、せめてもの恩返しだ。
「綾ちゃん。僕、最後の日まで、毎日来るから。来るなって言われても来るから」
「そんなこと言わない」
「ありがとう。じゃあ遠慮なく来れるよ。それとさ……」
翔太は綾ちゃんから離れて、綾ちゃんの顔を見た。
綾ちゃんと目が合う。綾ちゃんの目は、まだ少し潤んでいた。
「僕、絶対に会いに行くから。綾ちゃんがどれだけ遠くに行ったって、絶対に会いに行く。子供の間は難しいかもしれないけど、それでもどうにかして会いに行く。大人になったら、きっと簡単に会えるよ。スマホもあるから、連絡だってすぐに取れる。大人になるまでまだ少し時間が掛かるけど、それまで待ってて。僕が必ず、迎えに行くから」
「うん。待ってる」
綾ちゃんは笑った。
曇天が晴れ渡っていくような、清々しくて眩しい笑顔だった。
そうだ。僕は、その笑顔を、ずっと、見ていたいんだ。




