5 強くて優しい男に
翌朝、翔太は教室に入った瞬間、加治くんと目が合った。
すると、加治くんと取り巻きたちが一斉に笑い出した。
翔太には何がおかしいのか、さっぱり分からなかったが、昨日のこともあって、少しイラッとした。
「おい、瀬戸。昨日はなんで途中で帰ったんだよ。うんこでも漏らしたのか?」
加治くんの言葉に、取り巻きがどっと沸く。
「五年にもなって、うんこ漏らすとかないわー。でも帰ったのは、瀬戸にしては正しい判断だったな。漏らしたままおられたら、臭くてたまらんし」
「ビチグソやったらヤバいな」
「それはヤバい。それやったら、あいつのイス腐ってんぞ」
翔太は腹が立ったが、黙っていた。
「それはそうと、瀬戸。お前、最近ちょっと鬱陶しくなってきたわ。なんか、あいつに似てきた気がするんだわ」
「あいつって、もしかして、あいつ?」
「例の? 不登校になった、あいつ?」
村上くんと橋本くんが囃し立て、加治くんがそれに応じた。
「そーそー。不登校の東雲。そういえば、結構お前と一緒にいたよな。それに、無駄にお前を庇ったりしてよ」
「あー! 確かに。俺、あいつらが一緒に帰ってるとこ見たことあるわ。もしかして、もしかしたら、もしかするかも?」
「おっと、それマジ? もしかして、ラブラブだったりすんのか。ひゅーひゅー!」
「そんなことはどうでもいいけどよ、東雲も勉強できる割には間抜けだってことだな。なんの才もないポンコツのために、正義感振りかざして庇って、そのせいで自分が痛い目に遭って不登校とか、バカすぎんだろ。こいつのバカが移ったのかもな」
綾ちゃんをバカにするのだけは許せない。
そう思った時には、翔太の口が開いていた。
「取り消せ」
「は?」
「取り消せって言ってるんだ」
「おい。お前、誰に向かって言ってるか分かってんのか?」
「お前に言ってるんだよ、加治。今の言葉を取り消せ。綾ちゃんをバカにするな」
加治は両手をパキパキと鳴らし始める。
「お前にしては珍しく、覚悟はできてるらしいな。いいぜ、丁度イライラしてたところだからよ」
加治が近づいてくる。翔太は足が震えていた。でも引き返すわけにはいかなかった。
翔太は昨日、心に決めていた。もう逃げないと。立ち向かって戦うと。
そして、綾ちゃんの居場所を取り戻すんだと――。
加治が腕を振りかぶる。その後は一瞬だった。
加治の拳が翔太の左頬を打ち抜き、翔太は衝撃で地面に倒れ伏した。
それを見ていた女の子たちが「きゃあ」と悲鳴を上げる。
左頬が焼けるように熱く、ジンジンと強く痛みを訴えてくる。
口の中も裂けたようだ。徐々に血の味が濃くなっていく。
女子の一人が教室の外に駆けていった。恐らく先生を呼びにいったのだろう。
翔太は頬を抑えながら、ゆっくりと立ち上がる。
「お、立つのか。お前にしては上出来だな。後、何発耐えられるかな」
翔太はフラフラした足取りで加治の前まで進んだ後、それまでの動きが噓のように、やにわに右の拳を加治の顎に目掛けて突き上げた。
加治は全くの予想外だったようで、翔太の右アッパーをもろに食らった。
これは翔太が事前に考えていた作戦だった。
肉弾戦になった時、翔太はまともに戦えないと加治は考え、油断すると思った。
それだけで十分チャンスは掴めると思っていたが、念には念をと、KO寸前と思わせるような演技をすることで、油断を最大限に高められると考えていた。
翔太の作戦は見事にハマった。加治は仰け反り、仰向けに倒れた。
翔太はすかさず加治の上に跨って馬乗りになり、一心不乱に拳を振るった。
「謝れ! 謝れ! 謝れ! 綾ちゃんに謝れ! お前がここから出ていけ!」
村上くんと橋本くんが、翔太を止めようと腕を絡めてくるが、翔太は気にせず拳を振り下ろし続けた。
すると突然、両脇から太い腕が伸びてきて、あっという間に体を持ち上げられた。
翔太はもがいて抵抗しようとしたが、身動きが取れなかった。
どうやら羽交い締めにされているらしかった。
「落ち着け、瀬戸」
木村先生の声だった。翔太はそこで我に返り、抵抗するのを止めた。
加治くんは完全に伸びていた。
確認したわけではないが、恐らく一発目のアッパーを食らった時点で伸びていたのではないかと思う。
木村先生が翔太の左頬にそっと触れる。
「瀬戸、殴られてるな。痛みはどうだ、少しは耐えられそうか?」
質問の意図が測りかねたし、少しとはどれくらいの時間なのか分からなかったが、この痛みは耐える以外に方法がないので、翔太は頷いた。
「じゃあ、とりあえず生徒指導室に行こう。保健室はその後だ」
翔太は木村先生の後を追うようにして、生徒指導室に向かった。
生徒指導室では、こういう時にはお決まりの、一部始終の説明と理由を聞かれた。
一部始終については、ありのままを偏見なく説明した。
理由については、綾ちゃんをバカにされたのが許せなかったのと、先に手を出してきた加治くんに対する仕返しだ、とだけ伝えた。
木村先生は怒声を上げるでもなく、指導という指導もしなかった。
強いて言えば、「瀬戸が手を出すのは意外だったな。でも、ちょっとやりすぎだ」と苦笑していたことぐらいだ。
その後、越智先生がやって来た。
木村先生から事情を聞き、翔太にもいくつか質問したと思ったら、足早に生徒指導室を出ていった。
越智先生は終始オロオロして落ち着きがなかった。
今時、小学校で暴力沙汰などめったにない。おそらく、こういう経験がないのだろう。
越智先生が出ていってからしばらく待っていると、今度は越智先生と一緒にお母さんが入ってきた。
これだけのことをしでかしたのだ。親が呼び出されることは、おおよそ予想がついていた。それでも、仕事を抜けさせてしまったことは申し訳なく思った。
お母さんは一瞬、翔太に心配そうな顔を向けたが、すぐに木村先生に向き直り、「ご迷惑をお掛けして、申し訳ございません」と謝った。
その後、木村先生がお母さんに事情を話し始めた。話を聞き終えたお母さんは、再び謝罪していた。
一通り話が終わると、越智先生が「では参りましょうか」と言った。
木村先生が事情を話している最中に、越智先生のスマホが鳴って中座していたので、その時に何らかの連絡を受けていたのだろう。
どこに行くのかは告げられなかったが、翔太も呼ばれた。
木村先生は呼ばれず、生徒指導室に残ったまま、翔太たち三人を見送った。
向かった先は保健室だった。
ドアを開けると、そこには米田先生と加治くん、それから加治くんのお母さんがいた。
加治くんの顔は真っ赤に腫れあがっている。明日にはもっと腫れるのではないかと思った。
越智先生からそれぞれに軽く紹介があった後、お母さん同士がペコペコと謝り合って、そのまま解散となった。
翔太は、保健室に入ってから出るまで、誰とも目を合わさないように俯いていた。
米田先生とは少し話がしたかったが、他の人がいる中では話したいことも話せないと思い、結局は米田先生の方も見なかった。
帰りはお母さんの運転する車で帰った。帰りの車の中でお母さんは「今日はお母さん、もう仕事休みだから」とだけ言って、それ以降はお互いに無言だった。
家に着くとお母さんは、「話があるからリビングに来て」と言った。
翔太は同意して、お母さんと一緒にリビングに向かう。
リビングのテーブルには四脚あるが、お母さんが先に座ったので、翔太はお母さんの対面になる椅子に座った。
翔太はここにきてようやく、お母さんと正面から向かい合った。
お母さんは、怒りも、心配も、悲しみもない、いつもと変わらぬ表情をしている。
「翔太。お母さんは今日のこと、先生方から聞いたけど、やっぱり翔太の口から聞いておきたいの。どれだけ時間が掛かってもいいから、お母さんに話してくれる?」
「うん、分かった。全部話すよ」
翔太は初めて、全てを打ち明けた。
長い間、加治くんたちから嫌がらせを受けていたこと。
綾ちゃんが翔太を庇ったことで、彼らの標的に加えられてしまったこと。
それが段々エスカレートしていって、綾ちゃんが学校に来れなくなったこと。
そして、今日のこと。
お母さんは終始聞き役に徹していて、翔太の話を遮ることなく聞いていた。
シヴァのことは話さなかった。
話したところで信じてもらえそうにないし、話さなくても影響はないと判断した。
全てを話し終えると、お母さんは一度天を仰いだ後、肘をテーブルについて、両手で顔を覆った。
その状態が続いたので泣いているのかとも思ったが、嗚咽が聞こえてくることはなかったので、頭を整理しているのだろうと思い、翔太は待ち続けた。
長いこと静寂が続いた後、お母さんはようやく手を離し、深いため息をついた。
「お母さん、全然知らなかった。翔ちゃんは控えめな性格だし、物分かりが良くて何でも受け止めちゃうところがあるから、もしかしたら、そういうことされてるのかもって思ってはいたの。でも、そんなに前からされてるなんて……。気づいてあげられなくて、ごめんね。お母さん、母親失格だわ」
「そんなことないよ。僕はお母さんやお父さんに心配掛けたくなかったから、バレないようにしてたんだ。だから、気づけなくて当然なんだよ。お母さんは何も悪くない」
「それでも気づくのが母親、助けるのが母親なのよ。本当にごめんなさい。これからはもっと翔ちゃんのこと、ちゃんと見るようにするから」
「いや、それは、ちょっと過保護が過ぎるんじゃない? だって、ほら、僕、もうちょっとしたら中学生になるわけだし」
お母さんはクスッと笑った。翔太は今日初めてお母さんが笑うところを見た。
「バカね。中学生になったって、大して変わらないわよ。まだまだ子供だわ」
「そういうものかな?」
「そういうものよ」
二人して笑う。ようやく空気が穏やかなものに変化した。
「そういえばそうと、今日は珍しく反抗したのね」
「珍しくじゃなくて、初めてだよ。人を殴ったのも初めてだった。お陰で両手の甲がめちゃくちゃ痛い」
「初めてだったかー。そりゃそうよね。翔ちゃんが人を殴るなんて、想像がつかないもの。でも、どうして反抗したの?」
答えるのが気恥ずかしくてごまかそうとも思ったが、もうほとんど話してしまっているので、隠しても仕方がないように思えた。
「僕が嫌がらせを受けている時、綾ちゃんは身を挺して庇ってくれたのに、綾ちゃんが嫌がらせを受けても、僕は一度も綾ちゃんを守ってあげられなかった。僕はそれが悔しくて、情けなくて、申し訳なかった。だから、変わりたかったんだ。大切な人をちゃんと守れる、強くて優しい男になりたいって思ったんだ。それで今日は、加治くんが綾ちゃんをバカにしたから、腹が立ったのもあるけど、勇気を振り絞ってやっちゃいました」
「そう、そうだったの。翔ちゃんは立派よ、偉いわ。変わりたいと思って、自分で自分を変えられる人って、案外少ないのよ? だから、それができた翔ちゃんは、本当にすごい。殴りすぎちゃったのは、あんまり褒められないけど」
お母さんが、意地の悪い笑顔を向けてくる。
翔太は苦笑するしかなかった。
「それは、ごめんなさい」
「褒められないとは言ったけど、悪いとは言ってないわよ。お母さんも、今回の件は全然悪いと思わないわ。だって、これまでずっと嫌がらせを受けてたのよ。一回ぐらいボコボコにしたって罰なんて当たらないわ。むしろ、神様の変わりに天誅を下したようなものなんだから、神様に感謝してもらってもいいくらいよ」
「ありがとう、お母さん。でも、ちゃんと反省はするよ。人を殴ったら、自分も痛いんだって知ったし。僕はこの手を、人を傷つけるためには使わない。これからも、大切な人を守るために使うよ」
夕方、お母さんに「外の空気が吸いたい」と言って、翔太は外に出た。
手にはこっそりと持ってきたパンがある。
外の空気が吸いたかったのは嘘ではないが、本来の目的はもちろん、シヴァに会うためだった。
昨日の今日なので、若干の不安と恐怖はあった。
でも、昨日はあんなことがあって、パンをあげられなかったので、行かないという選択肢はなかった。
それに、シヴァのお陰で、家族に代償を引き受けさせずに済んだのだ。ちゃんとお礼を言わなければならない。
茂みの前に着いたが、シヴァは出てこなかった。
辺りをウロウロしてみたり、名前を呼んでみたりしたが、それでもシヴァは出てこなかった。
昨日のことを、まだ怒っているのかもしれない。
翔太は諦め、茂みに向かって「シヴァ、また明日」と言い置いて、空き地を後にした。




