3 そばにいるだけで
綾ちゃんが学校を休んだ時、越智先生は風邪だと言った。
でも、数日立つと、越智先生は綾ちゃんの欠席について触れなくなった。
それで翔太は、綾ちゃんは学校に来なくなったのだと悟った。
翔太は自分を心底恨んだ。あれだけ時間があったのに、こうなる可能性はあると分かっていたはずなのに、結局最後まで何もしなかった。
綾ちゃんのことが大切だと言いながら、何一つできなかった自分は、ただの大噓つきだ。
綾ちゃんに謝りたかった。守れなくてごめんなさい、何もできなくてごめんなさい、弱虫のポンコツでごめんなさい。謝らなければならないことは、いくらでもある。
でも、自分にはもう、綾ちゃんに会う資格がない。だから、どれだけお互いの家が近かろうとも、綾ちゃんに会いにいってはいけないと思っていた。
そんな折、放課後に校内放送が鳴って、翔太は保健室に呼び出された。
呼び出したのはもちろん、米田先生だった。
保健室のドアをノックすると、中から「はあい、どうぞ」と柔らかい声がした。
翔太がドアを開けると、翔太の顔を見た米田先生は「久しぶりね」と言って微笑んだ。
「どう、調子は?」
まあまあですとか、ボチボチですと言って取り繕うことはできた。でも、米田先生には素直に話してしまっても良いような気がした。
だから翔太は、今の気持ちを隠さずに伝えた。
「最悪です」
「だよね。顔に書いてある」
米田先生はあっけらかんと笑った。
「でも、だからこそ瀬戸くんを呼んだの」
「どういうことですか?」
「はい、これ」
米田先生は、手に持っていた茶封筒を翔太に向けた。
翔太は反射的に手を伸ばし、それを受け取ってしまう。
「なんですか、これ?」
「それは言えない。でも、開けるのもダメ」
「え、どういうことですか? なんで僕に渡すんですか?」
「渡して欲しいの」
「誰にですか?」
「東雲さんに」
綾ちゃんの姿が浮かんだ瞬間、翔太の体は凍りついたように動かなくなった。
きっと顔にも出ていたのだろう。米田先生はわざとらしいニヤついた笑みを浮かべる。
「会いに行ってないんでしょう? どうして会いに行ってあげないの?」
「……そ、それは、えっと、その……」
「恥ずかしいから?」
翔太は首を振る。
「じゃぁ、怖いからだ」
翔太は首を振れなかった。
米田先生に言われるまで、綾ちゃんに会う資格がないからだと思っていた。
でも違った。気づかされた。
本当は、綾ちゃんに会うのが怖かったのだ。拒絶されるのが怖いのだ。
自分がどれだけ弱くても、綾ちゃんを大切だと思う気持ちは今も変わらない。
だから、綾ちゃんに愛想を尽かされているのではと思うと、会いたくても会いに行けなかった。会わなければ、綾ちゃんから突きつけられるまで、それは可能性のままだから。
僕はまた、逃げていたんだ――。
目を背けて、蓋をして、嫌なことから、辛いことから、逃げていたんだ。結局僕は、弱いままなんだ。
「そんな瀬戸くんに、勇気をあげよう」
翔太は顔を上げる。
自分はきっと、縋るような情けない表情をしているに違いないと翔太は思った。
「先生この前、東雲さんに会いに行ったの。色んな話をしたわ。好きなお菓子の話とか、飼いたいペットの話とか、恋の話とかね。楽しそうに話してくれた。でも、最後になって、表情がちょっと曇ってたから、どうしたの? って聞いたの。そしたら、なんて言ったと思う?」
翔太にはまるで見当もつかなかった。
翔太は首を振って、次を促す。
「翔ちゃんのことが心配なんです、って言ったの。翔ちゃんは優しすぎるから、なんでも許しちゃうんです。だから、わたしが代わりに怒ってあげないとダメなんです、って。心配だけど、翔ちゃんはきっと気を遣って、わたしに会いには来ないんです。だから、翔ちゃんの様子が分からないのが不安なんです、って言ったのよ」
翔太は愕然としていた。
僕が優しすぎる? 綾ちゃんは何を言っているんだろう。僕は優しくなんかない。優しすぎるのは、綾ちゃんの方だ。
学校に行けなくなるほどの苦痛を受けて、心はボロボロになっているはずなのに、それでも綾ちゃんは、僕のことを心配してくれている。何もできなかった僕なんかのことを――。
それに比べて僕はどうだ。綾ちゃんに会う資格がないと自分をごまかし、綾ちゃんに拒絶されることを恐れ、綾ちゃんから逃げていた。全て、自分のため。綾ちゃんの気持ちなんて微塵も考えてはいなかったじゃないか。
綾ちゃん、僕は優しいんじゃない。ただ弱いだけなんだよ。
「瀬戸くん」
米田先生の声がワントーン下がった。
「東雲さんは、瀬戸くんに会いたがってるよ」
「で、でも……」
綾ちゃんに合わせる顔がない。それどころか、ここまでくると本当に、綾ちゃんに会う資格はない。
「好きな人に会うのに、必要な資格なんてないのよ。会いたいと思う気持ちがあれば、それだけで十分よ」
翔太は唖然として、奇異の目で米田先生を見つめていた。
今考えていたことが、どうして米田先生は分かったのだろうか。心が読まれたのか。もしかして、米田先生はエスパーなのか。
「どうして? って顔してるわね」
米田先生はいたずらっ子のように笑った。
「これも東雲さんが言ってたの。翔ちゃんはきっと、わたしに会う資格がないとか思ってますよ、って。わたしに会うのに、資格も理由もいらないのに、って笑ってた。東雲さんってすごいね、瀬戸くんのことならなんでも分かるみたい」
きっと、そう。僕のことはお見通しなのだろう。だから、もしかしたら、僕が綾ちゃんに会いに行かない理由も、本当は分かっているのかもしれない。
「それじゃあ、最後に先生から一つだけ。女の子は寂しがりやさんです。一人だと、寂しくて泣いてしまいます。でも、好きな人がそばにいるだけで、まるで花が咲いたように明るく元気になります。そして今、瀬戸くんが会いに行くだけで、救われる女の子がいます」
一拍の間をおいてから、米田先生は言った。
「会いに行ってくれる?」
綾ちゃんを守ることができなかった、弱くて情けない自分でも、綾ちゃんの力になれることが本当にあるのなら、僕は――。
「行きます!」
「ありがとう。じゃあ、お願いね」
米田先生の微笑みは、まるで我が子を慈しむように優しかった。
綾ちゃんの家の前に立った翔太は緊張していた。
あれだけ米田先生に鼓舞されても、不安が完全に消えることはなかった。
深呼吸をして決意を固めてから、インターホンを押す。
ピンポーンと音がしてから数秒待つと、ガチャっと音がした。
その音は、インターホンからではなく、玄関から響いた。
ドアが開くと、そこには綾ちゃんが立っていた。
「翔ちゃん、いらっしゃい」
「うん、久しぶり、綾ちゃん」
綾ちゃんの表情は穏やかだった。やや翳りは残るものの、学校から離れたことで、落ち着きを取り戻しているのだろうと思った。
「先に部屋上がってて。わたし、お茶とお菓子取ってくるから」
「あ、待って、綾ちゃん」
既に歩き出していた綾ちゃんを、翔太は慌てて引き留めた。
「これ、米田先生から。中身は何か聞いてないけど」
「ありがとう。親に渡しとく」
綾ちゃんは封筒を受け取って、リビングの方に消えていった。
翔太は綾ちゃんに言われた通り、二階にある綾ちゃんの部屋に向かった。
部屋に入って少し待つと、綾ちゃんがお茶とお菓子を載せたお盆を持ってきた。
翔太は緊張で渇いていた喉を貰ったお茶で潤してから、口を開いた。
「綾ちゃん、今まで会いに来なくてごめん」
綾ちゃんはクスリと笑った。
「いいよ。ちょっと遅かったけど、今日来てくれたから許してあげる。だけど、もう謝らないでね。翔ちゃんは何も悪くないんだから」
「で、でも……」
「もしまた謝ったら、一生口利いてあげないからね」
「うん、分かった。もう、謝らない」
「それでよろしい」
綾ちゃんはむふんと鼻を鳴らして、得意気な顔をした。
しかし、綾ちゃんの表情はすぐに元に戻る。
「なんて、偉そうなこと言ってるけど、わたしも翔ちゃんに謝らないといけないことがあるの」
「え? 綾ちゃんが僕に謝らないといけないことなんてある?」
「あるよ。わたしは翔ちゃんに、「一緒に戦おう」なんてカッコいいこと言って、翔ちゃんを巻き込んでおきながら、翔ちゃんを見捨てて逃げた。無責任もいいとこだった。本当にごめんなさい」
綾ちゃんはそう言って、頭を下げた。
「それは違うよ。無責任と言うなら、それは僕の方だよ。綾ちゃんは僕のために戦ってくれた。でも僕は、綾ちゃんのために戦えなかった。一緒に戦おうって言ってくれたのに、僕は戦っていなかったんだ」
「翔ちゃんは、ずっと戦ってるじゃん。ずっと前から。それをわたしは、ただ見ているだけで助けなかった」
「それも違うよ。綾ちゃんはいつも、僕を助けようとしてくれてた。僕がそれを止めてただけだよ」
「そう。わたしが怒ろうとすると、翔ちゃんはいつも止めるのよ。それだから、あのおサルは調子に乗って……ってあれ? なんか話、逸れてない?」
「うん、逸れたね。でも、いいよ。謝るのはもう終わりにしよう。せっかく久しぶりに会ったんだし、楽しい話をしようよ」
「そうだね、そうしよう」
二人で苦笑し合って、それからは他愛もない話でおしゃべりをした。
米田先生がエスパーなのではないかと思った話もして、綾ちゃんは大いに笑ってくれた。
久々に見る綾ちゃんの笑顔は、まるで大輪の花が咲いたかのように可憐で、眩しくて愛おしかった。
あっという間に時間が過ぎ、そろそろお開きという段になってから、綾ちゃんは「あのね」と言って、話を切り出した。
「もしかしたらわたし、転校するかもしれない」
翔太はあまりの衝撃に言葉を失った。
青天の霹靂とは、まさにこのことを言うのだと思った。
「学校を休むのって理由がいるじゃない? 数日なら体調不良でごまかせるけど、ずっと休むとなるとそうはいかない。だから、親に今回のことは全部話すしかなかったの。そしたら、転校しようって話になった。当然よね、子を守ろうとする親なら。わたしが親でも、きっとそうする。だって、これが一番確実で、手っ取り早いもの」
綾ちゃんはすらすらと続きを話している。
でも、翔太は茫然自失になっていて、綾ちゃんの言葉は何一つとして頭に入ってこなかった。
「でも、わたしは嫌だって言ったの。今の友達と別れるのは辛いからって、また一から友達作るのは大変だからって。でもダメだった。今の友達とは学校では会えなくなるけど、二度と会えないわけじゃないって、綾ならすぐに友達ができるって。何を言っても諭された。米田先生の封筒は、きっと転校に関する書類なんだと思う」
綾ちゃんは両手で膝を抱え、その膝に顔を埋める。
「転校なんて嫌だよ。最悪、学校に行かなくたって勉強はできる。でも引っ越したら、翔ちゃんとは会えなくなる。そんなの……」
そこで言葉が途切れた。代わりに、嗚咽のような声が漏れてくる。それは次第に大きくなり、慟哭へと変わっていった。
綾ちゃんが泣いているのを、翔太は初めて見た。
翔太も泣きたい気分だったが、自分が泣くのはなんだかお門違いな気がして、必死に耐えた。
自分と会えなくなるからと言って泣いてくれる綾ちゃんに、何かしてあげたい。
それなのに、何をすれば綾ちゃんのためになるのか分からなかった。
翔太はいつも泣く側で、いつも綾ちゃんに慰めてもらっていた。
だから、誰かを慰めた経験がなく、慰め方を知らない。
でも、綾ちゃんが慰めてくれる時、綾ちゃんがしてくれる全てが、優しくて温かかった。翔太はそれを思い出した。
翔太は綾ちゃんのそばに行き、いつも綾ちゃんがしてくれていたように、背中をそっと撫で、囁くように「大丈夫」と言った。
綾ちゃんは泣き止むどころか、更に声を上げて泣いた。
でも翔太は動揺しなかった。自分が綾ちゃんにされた時と一緒だったから。
翔太は、綾ちゃんの背中を優しく撫で続けた。




