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祈りの天秤  作者: 青野 乃蒼
第三章 親友がくれたもの

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2 罪

加治くんと綾ちゃんが一触即発の騒動を起こした翌日、加治くんの機嫌は見るからに悪く、騒動のことを引きずっていることは明らかだった。


綾ちゃんも普段通りを装っているようでありながらも、加治くんの方は一切見ようとせず、無言の圧力を放っていた。


空気は当然ピリつく。他の生徒もそれは感じ取っているようで、教室内はいつにもなく静かだった。


加治くんは機嫌が悪いと、嫌がらせが多くなる。

ストレス発散も兼ねているのだろうから、それは必然と言える。



一時間目の授業が終わると、加治くんは席を立った。

翔太はそれを横目で見ながら、もう始まってしまうのだろうなと身構える。


しかし加治くんは、翔太のいる廊下側ではなく、なぜか窓側の方に歩いていく。


どうしたのかと思っていると、窓側一列目と二列目の間の通路に入ったところで方向転換し、教室の前方へ進路を変えた。


翔太には意図が掴めなかった。

教室を出るなら間違いなく遠回りだし、いつも連んでいる村上くんや橋本くんの席は、その列にはない。


まさか、と思った時には、既に加治くんの足が後ろに振りかぶられていた。


加治くんの足は振り抜かれ、綾ちゃんの机を大きく揺らした。綾ちゃんの肩が小さく跳ねる。これが昨日の仕返しであることは、火を見るよりも明らかだった。


加治くんは何事もなかったかのように、無言で通り過ぎていく。

綾ちゃんは驚いた表情をしていたが、加治くんによる犯行だと分かると、射殺さんとばかりに加治くんを睨みつけていた。


加治くんが教室から出ていくと、近くにいた女子たちが綾ちゃんに駆け寄って「大丈夫?」と声を掛ける。

綾ちゃんはすぐにいつもの表情に戻って「大丈夫よ」と応じていた。


昨日の今日なので、加治くんが教室に戻ってきたら、綾ちゃんは非難しに行くのではないかと翔太は内心ヒヤヒヤしていたが、綾ちゃんは何もしなかった。


昨日のようなことにならなくて良かったと、翔太は安堵した。


これで加治くんは昨日の仕返しができたわけなので、次からはこれまで通り翔太に嫌がらせをしてくるだろうと思っていたし、実際に翔太にちょっかいを出してきた。


綾ちゃんに手を出されるくらいなら、自分に出される方がよっぽどマシだと思っていたので、これで良かった。


それなのに、加治くんはこれで終わりだと思うなとばかりに、午後にも同じように綾ちゃんの机を蹴った。綾ちゃんも同じように黙って受け流していた。


翔太はそれを見て、もうダメなのかもしれない、と思った。

綾ちゃんはきっと、加治くんの憂さ晴らしの標的に加えられてしまったのだ。




放課になって翔太が帰ろうとした時には、綾ちゃんはもういなかった。

翔太は慌てて学校を出て、綾ちゃんを追いかけた。


川沿いに出ると、綾ちゃんはすぐに見つかった。


「綾ちゃん、待ってー」


綾ちゃんは振り向いて、立ち止まってくれた。

翔太は綾ちゃんの元に走る。


「綾ちゃん、大丈夫?」

「ん? なんのこと?」

「いや、今日は散々な目に遭ったなと思って」

「あー、そのことね」


綾ちゃんは呆れたような表情を浮かべた。


「あんなのは大したことないよ。あのバカザルがすることなんて、放っておけばいいの。そしたら、そのうち飽きるから」

「そうかなー。僕には懲りずにやってくるんだけど」

「わたしはそれが一番許せないの。この際だから、このまま矛先をわたしに変えてくれたらいいのよ」

「そんなのダメだよ! 綾ちゃんが苦しむ必要なんてないでしょ。というか、苦しまないといけない理由なんかないのに」


翔太は真剣に言ったのに、綾ちゃんはなぜか噴き出すように笑った。


「それ、翔ちゃんが言う? 苦しまないといけない理由がないのは、翔ちゃんだって同じでしょ」


綾ちゃんに言われて、ハッとした。

自分にも、苦しまないといけない理由なんてないじゃないか。


「それは、確かに……」

「だからさ」


綾ちゃんが、翔太の顔を覗き込むように体を傾げる。


「一緒に戦おうよ。あんなやつに負けてられない。こんな理不尽、許せない。許しちゃいけない。だから、戦おう。大丈夫、わたしたちならできる。二人なら、きっと勝てるから」


綾ちゃんの笑顔が弾けた。


自分は弱い。戦い方も知らない。だから、この先もずっと、理不尽に耐え続けるしかない。そう諦めていたのに――。


綾ちゃんの言葉を聞いただけで、根拠なんて一つもないのに、なぜだが立ち向かえるような気がした。





やはり加治くんは、綾ちゃんを標的の一人に加えたらしかった。


次の日も、そのまた次の日も、加治くんは綾ちゃんに嫌がらせをした。

綾ちゃんも変わらず、無言の抵抗を貫いていた。


翔太は加治くんに言ってやりたかった。

「やめろ」と。「綾ちゃんに手を出すな」と。


だが、あの時感じた勇気のようなものは、一体どこへいってしまったのかというほど、翔太の足が加治くんに向くことはなかった。


そうこうしているうちに、着々と日々は過ぎ去っていき、日を追うごとに加治くんの嫌がらせはエスカレートしていた。よっぽど綾ちゃんの態度が気にいらないらしい。


最初こそ、通りすがりの偶然を装うような、机を蹴ったり筆箱を落としたりといったものだったが、今は教科書やノートを破いたり、ランドセルを隠して帰れなくしたり、上履きを校外に放り投げていたりと、大胆で悪質なものとなっている。


これはもう、イジメだ。


長きに渡って加治くんの被害を受けている翔太でさえ、これほどまでに悪質な嫌がらせは受けていなかった。


それなのに、綾ちゃんは抵抗することなく、ひたすら無言で耐え続けている。だがその裏で、筆舌に尽くしがたいほどの憤怒と辛苦を感じているに違いない。


現に、綾ちゃんは笑うことが少なくなった。笑っても、作り笑いなのが分かるほど、本来の爛漫さが失われている。

教室では、友達とおしゃべりするよりも、一人で考え込んでいたり、机に突っ伏している時間の方が多くなっている。


日々弱っていく綾ちゃんを見るのは、自分が傷つけられるよりも辛い。

それでもまだ、翔太は加治くんに立ち向かっていくことができなかった。


それが情けなくて、申し訳なくて、翔太は綾ちゃんと一緒に帰る度に謝った。

でもきっとそれは、綾ちゃんのためではなかったのだと思う。


綾ちゃんを守らねばならないという責任から逃れるため、綾ちゃんのそばにいることでその責を果たせていると自分に錯覚させるため。全ては自分のために謝っていたのではないか。


その証拠に、綾ちゃんが「翔ちゃんのせいじゃない」と言ってくれる度に、翔太は心のどこかで安堵していた。


このクラスに、加治くんを止めようと思う人はいない。

だから、加治くんを止められるのは、きっと翔太だけだった。


立ち向かうべきだった。戦うべきだった。這いつくばってでも、止めるべきだった。例えこの身が傷つけられようとも、加治くんの前に立ちはだからねばならなかった。


でもそうしなかった。

安堵という蜜の味を知り、免罪符を得て、綾ちゃんの大切な人として果たすべき義務を放棄した。


その罪を、天は見逃してなどくれはしなかった。



綾ちゃんは、学校に来なくなった。

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