4 おでかけ
お父さんが帰ってきた日でもあり、加治くんが学校に復帰した日でもあるその日から、一週間ほどが経過していた。
加治くんはまだ松葉杖に慣れていないようで、移動教室の時などは村上くんや橋本くんといった取り巻きに「脇がいてぇー」と愚痴を言っている。
加治くんが動く度に松葉杖が、カシャン、カシャン、と音を立てるので、なんだかロボットみたいだなと翔太は思った。
今のところ、加治くんから嫌がらせは受けていない。
綾ちゃんが言ったように、ちょっかいを出すほどの余裕がないのだろう。
この様子なら、当面は被害を受けずに済みそうだなと、やや楽観的に考えていた。
家ではお父さんが戻ってきて、瀬戸家はすっかり日常を取り戻した。
相変わらずお父さんの帰りは遅いが、以前よりは少し早くなった。
忙しいなりに、お父さんの努力が垣間見えて、翔太は嬉しく思っている。
そんな折、学校で翔太は、綾ちゃんに話しかけられた。
「翔ちゃん、最近元気いいね。顔色も見違えて良くなったし」
「そう? もしそうなら、それは綾ちゃんのおかげだと思うよ」
「え、わたし? なんで? わたし何かした憶えないよ」
綾ちゃんはきょとんとしている。本当に心当たりがないのだろう。
「この前、加治くんのことで励ましてくれたよ」
数瞬の間があって、綾ちゃんの目がパッと見開かれる。
どうやら思い出したらしい。
「確かにそんなこともあったね。でもそれって、わたしがただペラペラ喋ってただけで、何かしたことにはならないと思うんだけど」
「僕はあの日、綾ちゃんの言葉で救われたよ。言葉を貰った本人が言うんだから、間違いないでしょ? だから、綾ちゃんのおかげ」
「翔ちゃんがそこまで言うなら、そういうことにしといてあげようかな」
えへへ、と綾ちゃんがはにかむように笑った。
「じゃあ、助けたお礼として、一つお願い聞いてくれない?」
「うん、いいよ。僕ができることならなんでも」
「今週の土曜日、一緒に買い物に行って欲しいの」
「分かった。家族で出掛ける予定はなかったと思うから、多分大丈夫」
「じゃあ十時に迎えに行くからね」
楽しみだねーっと言って、綾ちゃんは席に戻っていった。
翔太は人混みがあまり好きではない。なので、自分が余程欲しいものを買いに行く時を除いては、買い物を楽しいと思ったことはないし、行きたいとも思わない。
それなのに、今回は嫌と思うどころか、少し楽しみだとさえ思った。
なぜこんな気持ちになったのか、翔太は不思議でならなかった。
家に帰ってからお母さんに、綾ちゃんと出掛けることになったと話した。
「いいわねー。どこに行くの?」
お母さんに尋ねられてから、翔太は気づいた。
どこに行くのか聞いていない。おそらくその辺のスーパーだろうと思っていた節もある。
でもよくよく考えると、女の子が買い物に行くのに、その辺のスーパーで済むものだろうか。きっと答えは否だろう。
「聞いてない」
「聞いてない? もー、翔ちゃんったら。おっちょこちょいね」
「てっきりその辺のスーパーとかかなって思い込んでた。でも、もしかしたら違うのかも」
「そりゃそうよ。綾ちゃんがわざわざ誘ってくれたんだから。綾ちゃんのお母さんに電話して聞いてみるわね」
「うん、お願い」
お母さんはスマホを持って、リビングを出ていった。
それにしても、どうしていつもお母さんは電話が長いのだろう。
お出掛け先を聞くだけのはずなのに、今回もしっかり三十分以上電話していた。
それでも、普段よりは短い方ではある。後に晩ご飯の支度が控えていたからかもしれない。
お母さんは戻ってくるなり、開口一番「電話して良かったわ」と言った。
「どうだった?」
「ショッピングモールに行くんだって」
「そんな遠いところまで行くの?」
ショッピングモールのような豪奢な建物は、ここ中浦町にはない。
中浦町民がショッピングモールと言えば、それは重信市にあるショッピングモールを指す。
中浦町から重信市までは、早くても車で一時間半は掛かるので、ショッピングモールへの買い物は、一日掛かりのお出掛けとなる。
「そうみたいよー。電話しておいて良かったでしょ?」
「そうだね。でも、どうやって行くんだろ? 電車かな」
「綾ちゃんのお母さんが車出してくれるって。それで色々話して、お母さんも行くことになったから」
「そうなんだ。僕は別にいいよ」
「じゃあ、そういうことだから。予定しといてね」
お母さんはそう言って、パタパタとスリッパを鳴らしながら足早にキッチンへ向かう。
どうやら予定より少し、長電話が過ぎたらしい。
予定当日の土曜日、綾ちゃんたちは十時五分前にやって来た。
両家のお母さんが「よろしくねー」と言い合って、それからおしゃべりを始める。
車に乗ってからすればいいのに、と翔太は思わずにはいられない。
綾ちゃんは白を基調とした総花柄のワンピースを着ていて、いつも結んでいない髪はハーフアップでまとめている。普段とは違う綾ちゃんの姿は新鮮で、純粋に可愛いなと翔太は思った。
でもなぜか「可愛い」とは、気恥ずかしくて口にできなかった。
「綾ちゃん、今日はオシャレだね。似合ってるよ」
綾ちゃんは少し顔を赤らめながら、ニコッと笑う。
「ありがとう。可愛いでしょ、今日のスカート」
綾ちゃんはデザインがよく見えるように、スカートの裾を少し持ち上げる。
「うん、可愛いよ」
今度はすんなり言えた。スカートに対しての言葉だったからかもしれない。
「そろそろ行くよー。二人とも車に乗ってー」
翔太のお母さんがそう言って、全員が乗り込み終えると、運転席に座っている綾ちゃんのお母さんが元気良く「しゅっぱーつ!」と声を上げた。
それに「おー!」と綾ちゃんが右手を突き上げて応じる。
翔太のお母さんも少し遅れて、綾ちゃんに倣うように「おー!」と手を上げた。
東雲家はいつもこうなのかなと思いつつ、綾ちゃんの溌剌さはお母さん譲りなんだなと得心した。
道中、翔太は綾ちゃんとおしゃべりしたり、景色を見たりして過ごした。
そういえば聞いていなかったと思い、今日の目的を綾ちゃんに聞いてみたが、「内緒。着いたら教えるね」と言って教えてくれなかった。
運転席と助手席で隣り合うお母さんたちは、終始ほぼ止まることなくおしゃべりしていた。よくもまあそんなに話すことがあるなぁと逆に感心する。
車で揺られること、約二時間。ようやくお目当てのショッピングモールに到着した。
綾ちゃんは車から降りるなり、両手を目一杯突き上げて、縮こまった体を伸ばしていた。
それがなんとも気持ち良さそうで、翔太も釣られて両手を伸ばす。得も言われぬ快感が全身に広がっていく。血流が一気に加速し、意識が遠のいていくような浮遊感を覚える。
「二人とも、行くよー」
「はーい」
翔太と綾ちゃんはハモるように返事をして、少し先に行っているお母さんたちの後を追った。
店内に入った瞬間、喧噪が翔太の耳に押し寄せた。
入口なのでまだ大したことはないが、歩を進めるに連れて騒がしさが増していくのだと思うと、少し気が滅入る。
土曜日のお昼時とあって、店内には結構人が入っていた。
「どうする? 予定通りでいい?」と言うのは、綾ちゃんのお母さん。
「えぇ、そうしましょう」と答えたのは翔太のお母さん。
プランが決まると、綾ちゃんのお母さんは、綾ちゃんにスマホを渡した。
「もし何かあったら、翔太くんのお母さんに電話を掛けてね。電話の掛け方は分かるでしょ?」
「うん、大丈夫だよ」
「それと、安全確認のために一時間おきに電話掛けるから。ちゃんと出てね」
「分かった」
綾ちゃんのお母さんは翔太の方を向く。その顔には、やや不安の色が見える。
それは無理からぬことだろう。この広大なショッピングモール内で、可愛い小学生の娘から目を離すのだから。どれだけ手を尽くしたとて、自分の手から離れていては不安が消えることはない。
「それじゃあ、翔太くん。綾のことお願いね」
「はい、分かりました。綾ちゃんのこと、ちゃんと守ります」
綾ちゃんのお母さんの表情が、少し緩んだような気がした。
お母さんたちとの別れ際、翔太はお母さんに声を掛けられた。
「翔太、本当に頼んだわよ。何かあったら、絶対に綾ちゃんを守るのよ」
「分かってる」
言われなくても分かっている。男の子が女の子を守るのは当然だ。
だからさっき、綾ちゃんのお母さんに決意表明したんじゃないかと翔太は思ったが、お母さんに念押しされたので、改めて決意を固めた。
――綾ちゃんのことは、絶対に僕が守る。
お母さんたちと手を振り合って別れる。
お母さんたちの後ろ姿は、あっという間に人混みの中へと紛れていった。
「翔ちゃん、どうする?」
「綾ちゃんの行きたいところに行くのでいいよ。僕は特にお目当てはないからね」
「わかった。じゃあそうするね」
「ところで、綾ちゃんはお腹すいてない?」
「うん、大丈夫。今日はいつもより遅い時間に朝ご飯食べたからね。翔ちゃんは?」
「僕も綾ちゃんと同じ。だから大丈夫」
ここに着く時間がお昼時になるのは事前に分かる。だから、普段より朝食の時間を遅らせることでお腹がすく時間も遅らせ、お昼時の混雑を回避する、とお母さんは言っていた。
綾ちゃんも朝食が遅かったのなら、お母さん同士で作戦会議でもしたのかもしれない。
「じゃあとりあえずお店回って、お腹すいてきたらご飯食べに行こう」
「そうだね。そうしよう」
お店に向かう道すがら、綾ちゃんに回答を保留されていた件を翔太は思い出した。
「そういえば、車の中では教えてくれなかったけど、今日の目的ってなに?」
「実は来週、お母さんの誕生日なの。だから、そのプレゼントを買おうと思って」
「そうだったんだ。綾ちゃん、偉いね。何買うかは決めてるの?」
「決まってないの。考えてはみたんだけどね。お店回って決めようと思ってるから、アドバイスよろしくね」
翔太は誰かにプレゼントを贈った経験がない。翔太は完全に力不足であり、綾ちゃんは明らかに人選を間違えている。
しかし、そんなことを暴露しても仕方がないので、翔太は「期待しないでね」とだけ言っておいた。
最初に入ったお店は雑貨屋だった。
綾ちゃんは翔太を引き連れて、お店の端から端までゆっくりと見て回った。
途中何度か商品を手に取って、矯めつ眇めつしたり、値札を見てうんうん唸ったりしていた。
綾ちゃんが品定めしている隣で、翔太も密かに、何かいいものがないかと目をきょろきょろさせていた。
翔太は今まで一度も、お母さんとお父さんにプレゼントをしたことがない。
綾ちゃんの買い物の目的を知った時、針で刺されたように胸がチクリと痛んだ。
情けなくて、恥ずかしくて、申し訳ないと思った。
お母さんの誕生日は過ぎてしまっているが、それでも何もしないよりはマシだ。
そう思って商品を見ていたのだが、何を選んだらお母さんは喜んでくれるのか、まるで分からなかった。
「次のお店に行こっか」
店内を周り終えた綾ちゃんは、何も買っていなかった。
「いいのなかった?」
「いくつかは気になるのあったけど、他のお店のも見てから決めたいかな」
「そっか、そうだよね。じゃあ、次行こっか」
次のお店も、ややテイストは違うが雑貨屋だった。
品揃えのカテゴリーも半分ほどは先ほどのお店と同じで、目新しい感じはあまりしなかった。
丁度店内の半分ほどを見終えた頃、綾ちゃんが持っているスマホが鳴った。
画面には『翔太くんママ』と表示されている。
翔太は腕時計(普段は全く付けないが、今日は付けておけとお母さんに言われた)を見る。時刻は十三時だった。
そういえば、少しお腹がすいてきたような気がする。
何度か会話のやり取りがあった後、綾ちゃんは電話を切った。
「お母さんたち、これからご飯食べるんだって。わたしたちもそろそろ食べる?」
「僕は少しすいてきたかな。綾ちゃんはどう?」
「言われてみれば、お腹すいてるかも。でもお腹ペコペコって感じでもないから、ここ見終わってからご飯にしない?」
「いいよ。そうしよう」
方針はすんなり決まり、店内の遊覧を再開した。
前半とほとんど同じくらい時間を掛けて見て回ったが、綾ちゃんはこの店でも買わなかった。
お昼は大人から子供まで大人気のマクドナルドにした。
十三時を過ぎた店内は既に山場を超えているようで、騒がしいということはなかった。
ファストフードということもあるが、商品は注文してからすぐに届いた。
二人が頼んだのは定番のハッピーセットだ。
綾ちゃんと向かい合い、談笑しながら食べるハンバーガーの味は、いつもより美味しく感じられた。
食べ終えて一息付いていると、綾ちゃんが持っているスマホが鳴った。
見なくても分かるのに、翔太は反射的に腕時計を見る。時刻は十四時丁度だった。
今回も綾ちゃんは、二言三言話して電話を切った。
「そろそろ出ようか。もう前半終わっちゃったし、後半は本気出さないと」
ショッピングモールに滞在できるのは十六時まで、と事前にお母さんから聞いている。夕飯を家で食べるなら、復路の時間を考えると妥当だろう。
なんとかお母さんが喜ぶものを見つけたいと、翔太も気合を入れた。




