3 嬉しい誤算
越智先生の言葉通り、村上くんは休みが長引いて一週間も学校に来なかった。
風邪ではなくインフルエンザだったらしい。
休み明けの村上くんは元気そうで、体調はすっかり元に戻っていたようだったのだが、翔太に対して嫌がらせをしてくることはなかった。
また始まってしまうのか、と憂鬱な気分になりながら身構えていた翔太には嬉しい誤算だった。
それでも、いつ再開されてもおかしくはないという不安は払拭されず、心の中では「このまま平穏な日々が続きますように」と毎日静かに祈っていた。
お母さんは最初の一週間こそおとなしくしていたが、「もう大丈夫!」と言って、それからは家事を再開した。
久々に家事をするお母さんは何だか楽しそうだった。
そんな働き者のお母さんにしては、一週間もよく耐えてくれたと思う。
お母さんの傷が完治して、指を気にする素振りも一切なくなった頃、翔太が最も待ち望んでいなかったことが起きた。
翔太が教室に入ると、男子が一点に集まっていた。
そこは長らく空席だった場所。その席には今、人が座っている。
右足には白いギプスが嵌めてあり、机の横には松葉杖が立て掛けられている。
それは紛れもなく、加治くんだった。
崖から突き落とされたかのように、翔太の心は急転直下で落ちていった。
いつかは戻ってくると分かっていた。でも越智先生は全治約二か月だと言っていたから、それはもっとずっと先だと思っていた。それなのに、こんなにも早く戻ってくるなんて――。
村上くんも加治くんも戻ってきた今、もう穏やかな日々など期待できない。
昨日までが遠い昔のように懐かしく感じられた。
「翔ちゃん」
呼ばれて我に返ると、目の前に綾ちゃんが立っていた。
「あ、綾ちゃん」
「どうしたの? こんなところでぼーっとして」
綾ちゃんにそう言われて、教室の入口に突っ立ったままだったことに気づいた。
「え、いや、なんでもないよ」
「そう? でも顔色悪いよ。大丈夫?」
「うん、大丈夫」
「ちょっと来て」
綾ちゃんは急に翔太の腕を掴むと、教室の外へと歩いていく。
「え、ちょっ……綾ちゃん、どうしたの?」
「いいから」
少し歩いて、人がいないところで綾ちゃんは止まった。
振り向いた綾ちゃんは翔太の目を見る。
一瞬の間を置いて、綾ちゃんは口を開いた。
「加治くんのことでしょ?」
図星の翔太は驚いて、何も返事ができなかった。
綾ちゃんは翔太の様子を見て、是と受け止めたらしい。
「大丈夫、心配ないと思う」
「なんで? なんで分かるの?」
綾ちゃんは微笑を浮かべる。
そこには、呆れたという風合いも混ざっているように感じられた。
「だって、まだ松葉杖突いてるんだよ? 多少はまだ痛みもあるだろうし、そんな状態で人にちょっかい出す余裕なんてないよ」
「それは確かに、そうかも」
「でしょ? それに今あんな状態だから、みんなに注目されて気分が良いはず。だから尚更だよ」
「そういうものかな?」
「そういうものだよ」
にわかには信じ難い。
でも綾ちゃんがそう言うのなら、きっとそうなのだろうと翔太は思った。
「ありがとう。ちょっと気持ちが楽になったよ」
「そうみたいだね。さっきより顔色が良くなってる。さっきなんて、翔ちゃんの顔真っ青だったんだからね」
「そうだったんだ。心配かけてごめんね」
「全然だよ。わたしは翔ちゃんに元気でいて欲しいだけだから。翔ちゃんが元気だったら嬉しいし、わたしも元気になるの」
綾ちゃんの気持ちはとても嬉しい。
でも翔太には、綾ちゃんの気持ちが分からなかった。
だって自分は、そんな大した人間ではないのだから。
「そういうものなの?」
「そういうものだよ」
綾ちゃんはニコッと笑う。
今度は少し照れているようにも見えた。
翔太は綾ちゃんの笑顔を見て、心がじんわりと温まっていくのを感じた。
「そろそろ戻ろっか。朝の会始まっちゃう」
「そうだね」
この笑顔をずっと見ていたい――。
そんな気持ちが、翔太の胸をかすめていった。
今日のところはひとまず何事もなかった。
綾ちゃんと帰りながらそんな話をしていると、綾ちゃんは「復帰初日なんだから当たり前でしょ」と言った。確かにそうだなと翔太は思った。
続けて綾ちゃんは「初日から友達でもない人にちょっかい出してたらビックリするよ。それ、逆に大好きじゃん! ってなる」とも言った。
綾ちゃんは冗談で言ったつもりはないだろうけれど、翔太はそれが面白くて笑った。
綾ちゃんも翔太に釣られるように笑っていた。
家に帰ると、玄関にお父さんの革靴が並べて置いてあった。
久々に見るお父さんの靴だった。
翔太は半ば脱ぎ捨てるように急いで靴を脱ぎ、リビングに走った。
勢いよくドアを開けると、テーブルの席にお父さんとお母さんが座っていた。
「お父さん!」
「おぉ、翔太、おかえり」
お父さんは立ち上がり、翔太に歩み寄ろうとした。
翔太はそれを待っていられず、突進するかのように走ってお父さんに抱きついた。
お父さんは翔太の頭を撫でながら、優しい声で「ごめんな」と言った。
その言葉で堰が切れた。感情と涙が、滂沱のごとく一気に溢れ出す。
「お父さん、どこ行ってたの! なんで僕とお母さんを置いて出て行ったの! もう帰ってこないんじゃないかって心配したんだよ! お母さんがケガして大変だったんだよ! そんな時にお父さんがいないなんて、お父さんはお父さん失格なんだから……」
そこからは言葉にならず、翔太は声を上げて泣いた。
お父さんはまた「ごめんな」と言った。
翔太が泣き続ける間、お父さんは翔太をずっと抱きしめて、翔太の背中を撫で続けていた。
翔太が落ち着いてきた頃になって、お父さんはゆっくりと口を開いた。
「ごめんな、翔太。勝手に出ていってしまって。翔太の言う通り、お父さんはお父さん失格だ。本当にごめん」
お父さんは目を閉じて、少し頭を下げた。
「お父さんがいない間のこと、お母さんから聞いたよ。お母さんがケガした時、助けてあげたんだってな。それに、ケガが治るまで家事も手伝ったって。翔太は凄いな、本当に偉い。お父さんなんかより、よっぽどお父さんらしいよ。本当にありがとうな」
お父さんは優しく翔太の頭を撫でる。
この大きくて暖かい手の感触は久しぶりだった。
翔太はまた泣きそうになるのを、なんとか堪える。
「お父さん」
「ん?」
「もう出ていったりしない?」
「あぁ、もう出ていったりなんかしない」
お父さんは淀みや躊躇いもなく、ハッキリと言い切った。
そこには父親として、男としての覚悟が感じられた。
「約束だからね」
「約束する。男と男の約束だ」
お父さんはそう言って、翔太を強く抱きしめる。
翔太もお父さんを抱きしめ返す。
ちょっと痛い。
でもそんなことがどうでもよくなるくらい、温かくて、嬉しくて、幸せだった。
その日翔太は、お父さんとお母さんの寝室に入った。
川の字になって三人で寝るのは数年ぶりだ。
せっかくだから色々おしゃべりしようと思っていたのに、翔太はあっという間に眠ってしまっていた。
いつもより布団の中が温かかったからかもしれない。




