第5話 辺境の街クロスロード
謁見の間を後にし、重厚な扉が背後で閉まると、俺は大きく息を吐いた。喧騒と緊張感から解放され、ようやく一人になれたという安堵感が全身を包む。窓から差し込む柔らかな陽光が、埃っぽくも静かな廊下を照らしていた。
「さて、と」
俺は懐から、先ほど王から下賜された革袋を取り出した。ずしりとした重み。中には銀貨が10枚。これが俺の異世界における最初の資本金だ。
俺は頭の中で、新たなプロジェクトを立ち上げた。
『プロジェクト名:異世界における早期リタイア計画』
『目標:経済的自立を達成し、誰にも邪魔されない平穏なスローライフを実現する』
『第一フェーズ:情報収集及び環境分析』
まずは、この世界の「仕様」を徹底的に把握する必要がある。通貨の価値、物価、地理、社会構造、そして潜在的なリスク――例えば、魔物や盗賊といった、俺の平穏な生活を脅かす可能性のある要素についてだ。
俺は城の出口へと向かいながら、思考を巡らせる。城の衛兵たちは、俺が謁見の間にいたことなどまるで覚えていないかのように、無関心に前を向いている。それでいい。注目されないことこそ、俺が望むものだ。
巨大な城門をくぐり、城下町へと足を踏み入れる。
王都は、石畳が整然と敷かれ、白壁の美しい建物が立ち並ぶ、清潔で壮麗な街だった。行き交う人々も、身なりの良い貴族や商人が多い。しかし、その空気はどこかよそよそしく、見えない壁があるように感じられた。
(ここで腰を落ち着けるのは得策じゃないな。政治的な面倒事が多すぎる)
貴族たちの権力争いや、勇者パーティの動向。そんなものに巻き込まれては、早期リタイアどころではない。俺が求めるのは、もっと自由で、実力主義が通用する場所だ。
情報収集の基本は、人が集まる場所だ。俺は、昼間から営業している酒場を見つけ、中へと入った。木の扉を開けると、エールと煮込み料理の匂いが鼻をつく。客はまばらで、カウンターでは数人の男たちが酒を酌み交わしていた。
俺は一番端の席に座り、無愛想な店主に声をかけた。
「エールを一つ。それと、何か腹にたまるものを」
「あいよ」
運ばれてきたエールは、ぬるいがコクがあり、疲れた体に染み渡る。一緒に頼んだのは、硬いパンと豆のスープ。味は素朴だが、悪くない。俺はゆっくりと食事をしながら、他の客たちの会話に耳を澄ませた。
「聞いたか? 西の森で、またオークの目撃情報があったらしいぜ」
「やれやれ、騎士団様は何をしてるんだか。クロスロードのギルドにでも依頼を出した方が早いんじゃないのか?」
「クロスロードか。あそこは荒くれ者が多いが、腕利きの冒険者も集まるからな」
(クロスロード……冒険者ギルド……)
俺のアンテナが、その単語に反応した。
俺はスープを飲み干すと、会計を済ませるついでに、店主に尋ねてみた。
「すまない、一つ聞きたいんだが。そのクロスロードという街は、ここから遠いのか?」
店主は、俺のくたびれたスーツ姿をちらりと見て、答えた。
「あんたみたいな旅人かい? ここから西へ、馬車で4、5日ってところだな。冒険者でも目指すのかい?」
「いや、まあ、そんなところだ。仕事を探していてな」
「なら、ちょうどいいかもしれねえな。あそこは辺境の交易都市で、いつも人手不足だからな。ギルドに行けば、何かしらの仕事は見つかるだろうよ。もっとも、ゴブリン退治だの薬草採りだの、ろくな仕事じゃねえがな」
ゴブリン退治、薬草採り。結構じゃないか。派手な英雄譚より、よほど俺の性に合っている。
俺は礼を言って店を出た。目的地は決まった。
王都の西門近くにある馬車乗り場で、俺は「クロスロード行き」の乗合馬車の切符を銀貨1枚で購入した。残りは銀貨9枚。コスト管理は重要だ。
馬車は、屈強な御者に引かれた二頭の馬が牽引する、屋根付きの荷台のようなものだった。乗り心地はお世辞にも良いとは言えず、ガタガタと絶えず揺れる。同乗者は、行商人風の男と、故郷に帰るらしい若い夫婦、そして俺の4人。彼らは道中、和やかに談笑していたが、俺はほとんど口を開かず、窓の外を流れる景色を眺めていた。
広大な麦畑、どこまでも続く草原、鬱蒼とした森。見るものすべてが新鮮だったが、俺の頭の中は、今後の事業計画でいっぱいだった。
数日後、馬車はついにクロスロードに到着した。
王都の洗練された雰囲気とはまるで違う、活気と混沌が入り混じった街。道は舗装されておらず、雨が降ればぬかるみそうだ。木造の建物が所狭しと立ち並び、その間を、屈強な鎧姿の男や、軽装の女、ローブをまとった魔術師らしき者など、多種多様な人々が行き交っている。酒と汗、そして家畜の匂いが混じった、荒削りな熱気が街全体を包んでいた。
(……いいじゃないか)
俺は、この街の空気が妙に気に入った。ここは、貴族の顔色を窺う必要のない、実力と結果がすべての世界だ。俺のスキルを試すには、うってつけの環境と言える。
俺は馬車を降りると、他の乗客には目もくれず、真っ直ぐに街の中央にある、ひときわ大きな建物へと向かった。掲げられた看板には、剣と盾を交差させた紋章が描かれている。冒険者ギルドだ 。
ギルドの建物に一歩足を踏み入れると、むわりとした熱気と騒音が俺を迎えた。酒場で飲んだくれている者、仲間と次の依頼について相談している者、武具の手入れをしている者。壁一面には、依頼書らしき羊皮紙がびっしりと貼られた巨大な掲示板が設置されている 。
俺がキョロキョロと辺りを見回していると、受付カウンターの中から、気だるげな声が飛んできた。
「登録かい? 新人さん」
声の主は、ポニーテールにした赤毛が印象的な、20代半ばくらいの女性だった。美人だが、その目には長年の業務で培われたであろう、諦観の色が浮かんでいる。
「ああ、そうだ。手続きを頼む」
俺が応じると、彼女は一枚の羊皮紙とペンをカウンターに置いた。
「名前と、出身地を書いて。出身地が言えないなら、適当でいいよ」
俺は「サトウ・ケンジ」、出身地は「東の果て」とだけ記入した。彼女はそれを一瞥すると、小さな針を取り出した。
「じゃあ、指先をちょっと貸して。ギルドカードを作るのに、血が一滴いるから」
言われるがままに人差し指を差し出すと、チクリとした痛みが走った。彼女は、俺の指から滲み出た血を、手のひらサイズの金属板に垂らす。すると、金属板は淡く光り、表面に俺の名前が刻まれた。
「はい、これで完了。あんたも今日から、ここクロスロードギルドの末席だ。依頼はそこの掲示板から好きなのを選んで、カウンターに持っておいで。健闘を祈るよ、新人さん」
彼女はそう言って、あくびを一つした。
俺は礼を言って真新しいギルドカードを受け取ると、ギルドの隅にある、空いていたテーブル席へと向かった。
これで、ようやくスタートラインに立てた。
俺は椅子に深く腰掛け、誰にも見えないように、静かに息を吐いた。
(プロジェクト『異世界早期リタイア計画』、フェーズ1完了。これより、フェーズ2『自己リソースの分析と初期タスクの選定』に移行する)
俺は目を閉じ、意識を集中させた。
まずは、俺の唯一にして最大の資産である、あのスキルの仕様を徹底的に確認しなければならない。