第2話 巻き込まれ召喚
意識がゆっくりと浮上してくる。
まず感じたのは、ひんやりとした硬い感触だった。背中と後頭部に当たる、石の床の冷たさ。次に、ざわざわという、大勢の人々の話し声が鼓膜を揺らした。知らない言語のはずなのに、なぜか不思議と言葉の意味が頭に流れ込んでくる。
「……いてて」
俺は呻きながら、ゆっくりと身を起こした。昨夜からの徹夜作業で凝り固まった体が、軋むように痛む。
(会社の床で寝てしまったのか……? いや、違うな。うちのオフィスの床は、こんなに冷たくない)
ぼやけていた視界が、徐々に焦点を結んでいく。そして、俺は息を呑んだ。
そこは、見慣れたオフィスではなかった。
天井は、アーチ状の高いヴォールトになっており、そこから吊り下げられた巨大なシャンデリアが、無数の蝋燭の炎で煌びやかな光を放っている。壁は磨き上げられた石材でできており、精巧なタペストリーがいくつも飾られていた。足元には、ふかふかとした手触りの赤い絨毯が、広間の奥まで続いている。
「……なんだ、ここは」
まるで、映画で見たヨーロッパの古城だ。いや、それ以上に豪華絢爛かもしれない。
呆然と辺りを見回していると、自分の置かれた状況がさらに異常であることを理解した。
俺の周りには、十数人の少年少女たちが、同じように戸惑ったり、あるいは興奮した面持ちで立ち尽くしていた。見覚えのない顔ばかりだが、彼らが着ている制服には見覚えがあった。ブレザーにチェックのスカート、スラックス。日本の、どこかの高校の制服だ。
「すげえ……マジかよ、ここ……」
「ねえ、これって、もしかして……異世界召喚ってやつじゃない!?」
「うそ! まじで!? やばい、スマホは……圏外か、当然か!」
高校生たちは、不安よりも好奇心が勝っているようで、目を輝かせながら囁き合っている。その無邪気な反応とは裏腹に、俺の心は急速に冷え切っていく。
(異世界召喚……ね。なるほど、そういうことか)
頭の中では、冷静な自分が状況分析を始めていた。
深夜のオフィスで発生した謎の発光現象。意識の途絶。そして、この非現実的な光景。点と点が繋がり、一つの結論に至る。
(最悪のパターンだな。残業の次は、異世界でのお勤めか。勘弁してほしい)
やれやれ。俺が望んでいたのは、こんな非日常のイベントじゃない。ただ、平穏な日常と、十分な睡眠時間だ。
俺が内心で悪態をついていると、広間の奥にある巨大な扉が、重々しい音を立てて開かれた。
ファンファーレが高らかに鳴り響き、立派な衣装をまとった文官らしき男が、よく通る声で叫んだ。
「国王陛下、並びに王妃陛下、ご入来ー!」
その声と共に、玉座と思しき豪華な椅子が置かれた壇上へ、威厳のある初老の男性と、優雅な微笑みを浮かべた女性が現れた。王と王妃、そしてその周りを固めるのは、いかにもな宰相や将軍といった風体の男たちだ。
高校生たちが「おお……」と感嘆の声を漏らす中、俺はただ冷めた目でその光景を眺めていた。
(プレゼンテーションとしては上出来だな。権威性を示し、相手を萎縮させる。古典的だが有効な手法だ)
玉座に着いた王が、満足げに頷き、朗々とした声で語り始めた。
「おお、勇者たちよ! よくぞ我らの呼びかけに応じてくれた! 我は、このアークライト王国の国王、アルフォンス・フォン・アークライトである!」
王の言葉に、高校生たちはざわめき立つ。
「勇者だって! 俺たちが!?」
「マジか、キタコレ! 俺、最強になれるんじゃね!?」
アルフォンス王は、そんな彼らの反応に気を良くしたのか、さらに言葉を続ける。
「ご存知の者もおるやもしれんが、今、我らの世界は未曾有の危機に瀕しておる。北の大陸より現れた魔王ザルグリードが、その強大な軍勢をもって、我ら人類の生存圏を脅かしているのだ!」
王の表情が曇り、声に悲壮感が滲む。
「我らも、騎士団を率いて果敢に戦った。しかし、魔王軍の力はあまりに強大で、多くの都市が陥落し、民は苦しみに喘いでおる。もはや、我らの力だけでは、この危機を乗り越えることはできぬ……!」
そこで一度言葉を切った王は、壇上から俺たち一人一人を見渡し、力強く言った。
「故に、我らは古の秘術を用い、異世界より救世主を召喚することにしたのだ! そう、そなたたちこそが、この世界を救うために選ばれし『勇者』なのである! どうか、我らに力を貸してはくれまいか!」
王の演説が終わると、広間は一瞬の静寂の後、高校生たちの興奮した歓声に包まれた。
「うおおおお! やるぜ、やってやるぜ!」
「私が……勇者……!」
彼らはすっかりその気になっているようだ。若さとは、かくも無邪気で、そして無謀なものか。
俺は一人、腕を組んで溜息をついた。
(要するに、だ。自分たちの都合で勝手に人を呼びつけておいて、『世界がヤバいからタダで戦え』と。しかも、拒否権はなさそうな雰囲気だ。……ブラック企業も真っ青な要求だな)
前職で何度も聞かされた、聞こえのいい言葉で無茶な要求を押し通そうとする経営陣のプレゼンと、何ら変わりはない。俺の心は、一ミリも動かなかった。
すると、王の隣に控えていた、長い髭をたくわえた魔術師らしき老人が一歩前に進み出た。
「陛下。それでは、勇者様方に授けられし『スキル』の鑑定の儀を執り行いましょう。皆様、こちらへ」
老人に促され、俺たちは広間の中央に集められた。そこには、台座に乗せられた大きな水晶玉が、淡い光を放っている。
「この『神託の水晶』に手を触れることで、皆様がこの世界に来るにあたって女神様より授かった、特別な力……すなわち『スキル』が明らかになります。さあ、どなたからでも」
魔術師がそう言うと、一人の快活そうな、いかにも運動部といった雰囲気の男子生徒が、意気揚々と前に進み出た。
「俺が一番に行きます!」
彼は自信満々に水晶に手を触れる。すると、水晶はまばゆい光を放ち、その表面に文字が浮かび上がった。
魔術師が、驚きと喜びに満ちた声で叫ぶ。
「おおっ! なんと! スキルは【聖剣召喚】! 伝説の勇者が持つと言われる、至高のスキルの一つでございますぞ!」
「よっしゃあ!」
少年がガッツポーズをすると、他の高校生たちから「すげえ!」「さすが田中!」と歓声が上がる。
次に、おとなしそうな眼鏡の女子生徒が、おずおずと水晶に触れた。
「こ、これは……【大賢者】! あらゆる魔法の理を解き明かす、最高の魔法系スキル! 素晴らしい!」
「え……私が……?」
少女は信じられないといった表情で自分の手を見つめている。
それからというもの、鑑定は次々と進んでいった。
【竜騎士】、【聖女】、【結界魔術】、【神速】……。
まるで当たりくじを引くかのように、高校生たちは皆、強力で分かりやすい、いかにもファンタジー世界の英雄といったスキルを授かっていく。そのたびに、広間は王や大臣たちの賞賛の声と、高校生たちの歓声で満たされた。
俺は、その光景を少し離れた場所からぼんやりと眺めていた。
(スキル、か。俺にも何かあるのだろうか。だが、戦闘系の面倒なスキルは勘弁願いたい。できれば、誰にも注目されず、さっさとこの場から解放されるような、地味で役に立たないスキルがいい)
早期リタイアしてスローライフを送るのが夢だった俺にとって、「勇者」などという役職は、残業や休日出勤よりも性質が悪い。何しろ、命がかかっている。リスクとリターンが全く見合っていない。
やがて、制服を着た高校生たちの鑑定がすべて終わった。そして、最後にポツンと残された、私服姿の俺に、全員の視線が突き刺さる。
「……あの、おっさんは誰だ?」
「さあ? 召喚に巻き込まれた一般人とか?」
「だとしたら、スキルなんて持ってないんじゃないか?」
高校生たちのひそひそ話が聞こえてくる。王や大臣たちも、興味なさげな、あるいは値踏みするような視線を向けていた。
やれやれ。どうやら、俺の番らしい。
俺は面倒くささを顔には出さず、無表情のまま、ゆっくりと水晶の前へと歩みを進めた。