第1話 終わらない残業
蛍光灯の白い光が、静まり返ったオフィスを無機質に照らし出している。壁の時計の短針は、とっくに深夜2時を指し示していた。俺、佐藤健司、38歳。中堅IT企業に勤める、しがないプロジェクトマネージャー。手元にあるマグカップの中身は、三時間前に淹れたコーヒーだったものだ。今はぬるいを通り越して、すっかり冷たくなっている。
「……はぁ」
誰に聞かせるともない溜息が、キーボードの打鍵音に混じって虚しく消える。目の前のモニターには、複雑怪奇なソースコードと、遅延に遅延を重ねているプロジェクトの進捗管理表が映し出されていた。隈のせいで一回り小さく見えるようになった目で、赤い警告表示を睨みつける。
その時だった。オフィスの静寂を切り裂くように、切羽詰まった声が俺の背中に突き刺さった。
「さ、佐藤さん! 申し訳ありません! テスト環境のサーバーが……また応答しなくなりました!」
振り返ると、新人の田中が青ざめた顔で立っていた。その手には、震えるスマホが握られている。おそらく、サーバー監視ツールからのアラート通知だろう。
やれやれ。俺は内心で悪態をついた。またか。これで今夜、何度目だ。
「落ち着け、田中。パニックになってもサーバーは復旧しないぞ」
俺は努めて冷静な声を出す。長年の社畜生活で身につけた、無駄な感情を排して問題解決に集中するための処世術だ。
「は、はい! すみません! ですが、明日の朝にはクライアントへのデモが……!」
「分かってる。ログは?」
「はい! 今、佐藤さんのチャットに送りました!」
田中が慌ててデスクに戻り、キーボードを叩く。すぐに俺のPCに通知が来た。送られてきたログファイルを開き、高速でスクロールしていく。膨大な文字列の中から、エラーを示す数行を瞬時に見つけ出す。
「……ああ、やっぱりここか。DBへのコネクションプールが枯渇してる。昨日、修正パッチを当てたはずだろう。誰がやった?」
「そ、それは……僕が担当しました。手順書通りにやったはずなんですが……」
「『はず』で仕事をするなと言ったはずだぞ。手順書を鵜呑みにするな。あの手順書自体、急ごしらえの欠陥品だ。少し考えれば、この設定値じゃ高負荷時に破綻することくらい分かるだろう」
俺の言葉に、田中は俯いて唇を噛み締めている。別に彼を責めたいわけじゃない。そもそも、こんな状況を生み出した元凶は、無能なくせに口だけは達者な上司と、無茶な納期を安請け合いしてくる営業部だ。未熟な若手がバグを埋め込み、俺のような中間管理職がその尻拭いをする。この会社では、それが日常の風景だった 。
努力と忍耐が美徳とされた昭和の時代はとうに終わったはずだが、この会社ではいまだに「気合と根性」という名の精神論がまかり通っている 。俺の価値観はとっくに「ワークライフバランス」だの「タイパ」だのにシフトしているというのに、現実は非情なものだ 。
「(まあ、仕方ないか。新人にそこまで求めるのは酷だな)」
俺は内心で溜息をつき、キーボードに指を置いた。
「田中、設定ファイルをリバートしてサーバーを再起動しろ。俺の方で暫定対応のコードを書く。根本改修はデモが終わってからだ。どうせまた仕様変更が入るだろうしな」
「は、はい! ありがとうございます!」
田中が安堵の表情で駆け出していく。やれやれ、感謝されるために仕事をしてるわけじゃないんだがな。
俺は冷え切ったコーヒーを一口すする。不味い。だが、カフェインを摂取しないと、もう意識が保てそうになかった。
カタカタカタ……。
オフィスに再び、俺のキーボードの音だけが響く。指は長年の経験で、最適化されたコードを勝手に紡ぎ出していく。無駄な処理はない。冗長な記述もない。ただ、完璧に、効率的に、問題を解決するためだけのコード。
これが、俺が20年近く磨き上げてきた、唯一のスキルだった。
(こんなスキル、何の役に立つっていうんだ)
ふと、そんな虚しさが胸をよぎる。
いくら効率的に仕事を片付けても、給料が上がるわけじゃない。むしろ、「佐藤は仕事が早いから」と、さらに面倒な案件を押し付けられるだけだ。定時で帰れば「あいつはやる気がない」と陰口を叩かれ、残業すれば「自己管理ができていない」と評価が下がる。理不尽だ。
(俺の人生、このまま消耗していくだけなのか?)
若い頃は、もっと夢があったはずだ。世界を変えるようなサービスを作りたいとか、自分の会社を立ち上げたいとか。だが、日々の業務に追われるうちに、そんな情熱はすり減り、いつしか「いかに面倒事を避け、定時で帰るか」ということばかり考えるようになっていた。
「……よし、できた」
暫定対応のコードを書き上げ、テストサーバーにデプロイする。数秒後、監視ツールのアラートが緑色に変わった。問題は解決した。
だが、俺の心には何の達成感も湧いてこなかった。ただ、疲労感と虚無感がずしりと肩にのしかかるだけだ。
この不毛な作業が終われば、会社のソファで数時間仮眠を取り、また明日の定例会議に出席する。そしてまた、新たな問題が発生し、その対応に追われる。その繰り返し。死ぬまで、ずっと。
「……やってられるか」
思わず、本音が口から漏れた。
俺の人生、このままでいいはずがない。何か、何かを変えなければ。
そう強く思った、その瞬間だった。
「うおっ!?」
突如、足元の床が、ありえないほどまばゆい光を放った。それはまるで、巨大なサーチライトで真下から照らされたかのような、強烈な光だった。床には、見たこともない複雑な幾何学模様が、青白い光の線で描かれている。
「な、なんだこれは……!?」
オフィス全体が、地震のように激しく揺れ始める。本棚からファイルが雪崩のように落ち、机の上のモニターがガタガタと音を立てる。
「田中! 大丈夫か!」
俺は叫んだが、返事はなかった。それどころか、後輩たちの姿も、見慣れたオフィスの風景も、急速に白く塗りつぶされていく。視界が、真っ白に染まる。
まずい。何が起きているのか全く理解できないが、これは尋常な事態ではない。
しかし、思考はそこまでだった。抗いがたい眠気のような感覚が全身を襲い、俺の意識は、ぷつりと糸が切れるように、そこで途絶えた。