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後日談 灯を守る者

 夜の帳が落ちる頃、私はいつも同じ仕草で暖炉に薪を足す。


 ひび割れた太い丸太を炉に投げ入れると、炎がひときわ高く噴き上がり、鈍く色あせた梁に赤い光を踊らせる。

 この店を始めて、もう何年が経っただろうか。

 かつて自分も剣を握っていた。

 冒険者と呼ばれ、時に命をかけて報酬を得てきた。

 だが今はただ、こうして誰かの帰る場所を用意している。


 暖炉の火は、人を黙らせる。

 強がりも、威勢も、涙も、等しく溶かしていく。

 だからこの灯は、私にとって大切なものだ。


 今夜は、あの若い男が来なかった。

 このところ毎晩、顔を出しては杯を傾け、言葉を落としていった。

 ニホンという国から来たと言っていた。

 どこか遠い異国ではなく、遠い世界から流れ着いたという彼の話は、最初は夢のように思えた。

 だが、何度も耳にするうちに、奇譚ではなく現実として根を張り始めた。


 彼がここに来はじめた頃を思い出す。

 まだ鎧は真新しく、目には希望の光が残っていた。

 それでも、深いところにはいつも怯えが潜んでいた。

 それはよく知っている表情だ。

 戦いを覚えた者が隠しきれない、かすかな死の恐怖。

 私自身、若い頃は同じ顔をしていた。


 だから、言葉は少なくていいと思った。

 何かを教えるつもりも、慰めるつもりもなかった。

 ただ、ここにいればいい。

 泣き言をこぼし、酒を飲み、また立ち上がる。

 その繰り返しが、冒険者には必要だと知っていた。


 彼の言葉を、私はずっと聞いていた。

 この世界に来た日のこと、帰れないことへの戸惑い、何も変えられない自分への絶望。

 そのどれもが、私には他人事ではなかった。

 剣を捨て、店を始めたとき、同じことを思ったからだ。


 ――結局、自分は何者でもなかった。


 どれだけ戦果を積んでも、ただ名もない傭兵の一人でしかなかった。

 仲間を失い、何も成せず、やがて老いていくだけの人生。

 あのとき、自分の生きてきた年月を呪いもした。

 だが今思えば、それでも生きていたことが唯一の意味だったのだと思う。


 酒場の隅には、古びた木箱が置いてある。

 中には、かつて私が使っていた剣が納めてある。

 錆びついて、今では斬れ味など残っていない。

 それでも、手放せずにいるのは、あの頃の自分を嫌いきれないからだろう。


 窓の外を見る。

 夜霧が薄く流れ、街灯がかすかに瞬いている。

 あの若い男は、また朝になれば新しい依頼に向かうのだろう。

 恐れも迷いも消えはしない。

 だが、歩みを止めずにいる限り、きっと何かを掴む。


 ……そう信じたい。


 カウンターを磨きながら、ふと目を閉じる。

 剣を振っていた頃、たった一度だけ思ったことがある。

 もし自分が戦うだけで終わるのなら、せめて誰かが生きる道を見守りたい、と。


 その願いが、こんなかたちで叶うとは思わなかった。

 だが、悪くない。

 誰もが英雄になれるわけじゃない。

 むしろ大半は、日銭を稼ぐために足掻き、泥に塗れ、泣きながら生きていく。

 それでも、その灯を消さずにいられるなら、それだけで充分だ。


 店の扉がわずかに動いた。

 音もなく入ってきたのは、別の常連の若い女剣士だった。

 彼女は黙って席につき、視線だけで挨拶をする。

 私は黙って頷き、酒を注いだ。


 ここに来る者は、皆何かを背負っている。

 立場も歳も過去も違うが、同じ孤独を抱えている。

 それを、私は知っている。


 だから、余計な言葉は必要ない。

 酒と灯りと、少しの沈黙があればいい。

 そうしてまた、明日に向かう力が湧いてくるのなら。


 ふと思い出す。

 あの男が、最後に言った言葉。


 ――結局、やるしかないんだ。


 どこか吹っ切れたような顔をしていた。

 恐れは消えていなかった。

 だが、恐れに飲まれなくなった。


 人は、すぐには強くなれない。

 何度も躓いて、泣き言を吐いて、それでも立ち上がる。

 その繰り返しが、本当に少しずつ人を変えていく。


 あの背中は、そういう変わり方をしていた。


 「世話になった」と、あの夜に言われたことを思い出す。

 別に何もしていない。

 ただ、ここにいて、酒を注いだだけだ。

 それでも、彼が礼を言いたいなら、私は受け取る。


 この場所は、そういうものだ。


 剣を置いた者も、戦い続ける者も、道を失った者も、

 等しく夜を越えるために集まる。

 その灯を絶やさぬよう、私はここにいる。


 夜が深まる。

 窓の外の霧は濃くなり、街の音が遠のいていく。

 暖炉の火はまだしばらく持ちそうだ。

 カウンターの上を拭きながら、私は小さく息をついた。


 かつての自分に、この今を見せたらどう思うだろう。

 戦いに明け暮れ、傷と喪失だけを積み重ねていた自分に。

 何も残せなかったと思い込んでいた自分に。


 ――そう悪い人生でもなかった、と言ってやれるだろうか。


 多分、まだ答えは出ない。

 だが、こうして誰かの小さな居場所でいられることは、

 自分が生きてきた証に思えた。


 灯りを守るだけの人生でもいい。

 誰かが帰ってきてくれるなら、それでいい。


 カウンターの先、空いた席をちらりと見る。

 あの若い男が、またここに座るだろうか。

 剣を握って、泥に塗れて、疲れ果てた顔で戻ってくるだろうか。


 ――きっと、そうなる。


 人はそう簡単に強くならない。

 何度も泣いて、迷って、それでも生きる。

 そして、またこの店に帰ってくる。


 私はその時も、同じようにここにいるだろう。

 変わらぬ灯と、同じ酒を用意して。


 それでいい。

 それだけで、いい。


 夜が明ける。

 また朝が来る。

 それは新しい戦いの始まりであり、終わりのない日常でもある。


 だが――

 どんなに長い夜も、必ず終わる。


 私は、炎が揺れる暖炉に目を落とした。

 その光が、この小さな酒場を、今日も優しく照らしていた。



最後まで読んでいただきありがとうございます

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