第4話 弱さの告白
今日はひどく寒い夜だった。
霧雨が降っていて、街灯の光が白くぼやけて見える。
俺はフードを深く被り、どしゃぶりでないのを幸いとしながら酒場の前に立った。
気づけば、この店に来るのが習慣になっていた。
居心地が特別いいわけじゃない。ただ、ここに来ないと、どこにも行き場所がない気がして。
扉を押し開けると、温かな灯りと、湿った木の匂いが迎えてくれる。
その匂いだけで、ほっとする自分がいた。
「……」
言葉もなく、カウンターに腰を下ろす。
マスターはちらりと目を向けただけで、何も尋ねず酒を注いだ。
いつもの琥珀の酒が、ゆっくりと満たされる。
「助かる」
ようやく絞り出した声が、ひどく掠れていた。
今日の依頼は、単なる荷車の護衛だった。
道中で盗賊に襲われかけたが、商隊の傭兵たちがほとんど片付けてしまい、俺は荷物を抱えて後方で震えているだけだった。
それだけのことだ。
怪我もなければ、大きな損失もない。
けれど。
あのとき剣を握った手が、恐怖で力が抜けていた。
喉の奥で声が詰まり、逃げ出したい気持ちに必死で蓋をしていた。
仲間の傭兵が戦うのを見ているだけで、胸が痛くなるほど惨めだった。
思えば、この四年間ずっとそうだった。
剣を握れば剣術の才能のなさを思い知り、
魔法を学ぼうとすれば、基礎の詠唱すら覚えられない。
ダンジョンに挑んでも、碌に探索することもできない。
何度も夢想した。
この世界に来たのなら、きっと特別な力が眠っているんじゃないかと。
何かの偶然で、俺だけに許された力が目覚めるんじゃないかと。
だが、そんなものはどこにもなかった。
才能も、運命も、奇跡も。
あるのは、ただ生き延びるために必死に動いて稼ぐ日々だけ。
「……結局、俺は何もできないんだよな」
ぽつりと呟く。
マスターはただ黙って、グラスを拭いている。
「最初はさ……ほんとに、何だってやれる気がしてたんだよ」
杯を両手で包むと、冷えた指先に酒の熱が滲む。
少しでも体に力が戻ってほしくて、ひと口流し込んだ。
「剣も魔法も冒険も、全部……俺がこの世界で特別な何かになれるって、本気で思ってたんだ」
苦笑が洩れる。
空虚で、哀れで、どうしようもない声。
「でも、気づいたんだよ……」
掌を見つめる。
ひび割れた皮膚と、古い小さな傷跡ばかりが目につく。
「俺は、特別じゃなかったんだな」
それを認めるのが、これほど苦しいことだとは思わなかった。
「ただの……平凡な人間なんだよ。会社でも、ここでも。どこに行っても……俺は大して変わらない」
視界が滲むのを、酒のせいにすることもできなかった。
「努力すれば報われるって思ってた。諦めなければ、いつかは結果がついてくるって……。でも、現実は違うんだな」
マスターは何も言わない。
その沈黙が、逆にありがたかった。
否定も慰めもいらない。
ただ、この情けない言葉を受け止めてほしかった。
「何度も怪我をした。何度も死にかけた。……それでも、何か変わると思ってたんだよ」
声が震える。
「でも、何も変わらなかった。生きてるだけで精一杯だ」
両手で顔を覆った。
もう酒の香りすら感じられなかった。
「……怖いんだよ」
喉の奥から絞り出すように声が洩れる。
「また同じように、盗賊に囲まれて、足がすくんで、今度こそ殺されるんじゃないかって。……怖いんだ」
泣き言だった。
みっともなく、惨めな、何の価値もない言葉。
「才能がないのも、運がないのも分かってる。それでも、ここで生きていくしかないんだって分かってる。でも……」
掌の隙間から、ぼたぼたと涙が零れ落ちる。
「……つらいんだよ」
酒場の空気は、ひどく静かだった。
泣き声が、こんなに大きく響くとは思わなかった。
「この世界に来たのに、何もできない自分が情けなくて……全部投げ出したくなる」
声が震えて、言葉が途切れそうになる。
「でも、帰る場所もない。死ぬのも怖い……」
嗚咽が、耐え切れずに漏れた。
「どうしたらいいんだよ……」
マスターはやはり何も言わなかった。
けれど、その沈黙に、責める気配は一欠片もなかった。
ただ、目の前のグラスを黙々と拭きながら、俺が落ち着くのを待ってくれていた。
どれくらい、そうしていたのか分からない。
泣き疲れて、涙が尽きるころ、ようやく顔を上げた。
視界が滲んで、ランタンの光がにじんでいた。
「……ごめん」
情けない声が、掠れて出る。
マスターはようやく手を止めた。
「謝ることじゃない」
低く、静かな声だった。
「飲んでもいい。泣いてもいい」
マスターの視線が、真っすぐにこちらを見ていた。
その目に深いものを見た気がした。
「だが、明日を諦めるな」
短い言葉。
けれど、胸の奥にずしりと落ちた。
俺は何も言えなかった。
言葉にならない何かが喉を詰まらせて、ただ頷くことしかできなかった。
「……ああ」
涙と酒に濡れた頬を袖で拭く。
少しだけ、息が吸えるようになった気がした。
「もう一杯だけ、もらっていいか」
震える声で言うと、マスターは無言で酒瓶を取り上げた。
杯に注がれた酒の香りが、どこか懐かしく感じられた。
きっとまた、同じように悩むだろう。
恐怖も、惨めさも、消えることはない。
でも、明日を諦めない。
その言葉だけが、今夜の支えだった。