第3話 遠い故郷
今夜の酒場は、ことさら静かだった。
外は霧が出ているらしく、窓越しの街灯がぼんやりとかすんで見える。
扉を開けると、いつもの低い鈴の音が鳴った。だが、今日はそれすらも耳に重く感じられた。
「……よぉ」
声にならない声を押し出すように、俺はカウンターの席に腰を下ろした。
マスターは短く頷くだけで、いつものように無言で酒を用意してくれる。
「助かる」
酒が注がれる音が、場の空気をゆっくりと染めていく。
とろりとした琥珀の液体が、杯に満ちるその光景を、俺はしばらく眺めていた。
口をつける前から、喉の奥が勝手に熱くなるような気がした。
「今日は……いや、今日も、ろくでもない一日だった」
誰に話すでもなく、ぽつりと呟く。
依頼そのものは簡単なものだった。指定された森で薬草を摘み、それを指定の場所に届けるだけ。誰とも戦わず、血も流れない。
それでも、心が重かった。
帰り道の小道で、ふと、思い出してしまったのだ。
この世界に来る前の、自分の部屋の匂いや、深夜のコンビニの灯り。
ありふれた、けれど何もかもが遠くなった風景。
「……スマホのアラームで起きて、朝のニュースを流しながらシャワー浴びて、インスタント味噌汁啜ってさ。電車で揺られて会社に行って、残業して、帰りにセブンで唐揚げ棒買って……」
マスターは黙って話を聞いていた。
その姿勢に甘えるように、俺はさらに言葉を続けた。
「バカみたいに同じ毎日だったんだ。だからこそ、何か変えたくてさ。いや、そんなに大それた願いがあったわけじゃない。ただ……あの頃は、毎日が窮屈だった」
カウンターの上に、両手を組んで伏せるように体を預ける。
視界が少し傾き、酒の液面がゆらゆらと揺れた。
「でも、いざこうして異世界に来てみれば、なんだ……結局、同じなんだよな。働かないと食えないし、誰も助けちゃくれない」
現代日本にいた頃。
あの息の詰まる満員電車の中で、「別の世界に行けたらなあ」なんて、ふと考えた。
異世界転生なんてものが現実にあるわけがない、そう思っていたはずなのに、気がつけば見知らぬ宿のベッドに寝ていた。
最初こそワクワクしたが、時間が経つにつれて頭がおかしくなりそうになった。
文字が分からず、食べ物の味が違い、水の匂いすら異質だった。
時計も、スマホも、冷蔵庫も、エアコンもない。
あまりに違いすぎて、むしろ夢の中にいるようだった。
「最初はな……すぐに元の世界に戻れると思ってたんだ」
握った杯の中の酒が、かすかに震えていた。
自分の手が、わずかに震えているのが分かる。
「でも一週間が過ぎて、一ヶ月が過ぎて、それでも戻れないって分かって……。それで、ようやく受け入れたんだ。ここが、俺の現実なんだって」
言葉にして初めて、胸の奥の冷たい部分が少しだけ溶ける。
四年の間、どこかでずっと、喉に小骨のように刺さっていた感情だった。
「帰りたいわけじゃない。でも……思い出すんだよな。あの狭いアパートの一間。こたつに入ってテレビ見て、スマホでゲームやって……」
ぽつりぽつりと話しながら、俺はいつの間にか目を閉じていた。
まぶたの裏に、かすれた風景が浮かぶ。
年末に一緒に鍋をつついた同僚。実家から送られてきた米。
連絡も取れなくなった、あの世界の家族の顔。
「……母さん、元気かな……」
自然と漏れた言葉に、マスターの手が一瞬止まった。
それを感じ取った自分に、また胸が痛くなる。
「父さんは……たぶん、俺がいなくなったこと、相当怒ってるだろうな。俺のやることなすこと、文句ばっかりだったし……。でも、父さんなりに心配してたんだよな……きっと」
杯を置き、顔を両手で覆った。
酒の酔いではなく、胸の奥からじわじわと込み上げるものに耐えきれなかった。
普段は忘れていられる。
だが、ふとしたきっかけで、それは決壊する。
その時だった。
マスターが、黙って新しい酒を一杯注いだ。
見れば、それはいつものものより香りの強い、上等な酒だった。
「……これ」
「奢りだ。飲め」
それだけ言って、マスターはまた黙々と別のグラスを磨き始めた。
俺は何も言えず、ただ杯を手に取った。
香ばしい香りが鼻を抜け、ひと口飲んだ瞬間、体の芯に熱が走る。
涙が出そうだった。
しばらく、ふたりとも何も喋らなかった。
酒場には他の客の気配もなく、ただランタンの火が揺れている。
木の軋む音、遠くから響く鐘の音。
外の霧の匂いが、わずかに店内に漂っていた。
静かだった。
しんと静まるこの空気が、ただただありがたかった。
誰かに「大丈夫だよ」と言ってほしいわけじゃなかった。
頑張れとか、負けるなとか、そういう言葉もいらなかった。
ただ、こうして黙って隣にいてくれる人がいるだけで、心が救われることもある。
ふと、マスターの手元を見た。
相変わらず無言で、だが丁寧に、器を拭いている。
「……マスター」
「ん?」
「ありがとう。今日は、ちょっと無理だった」
「ああ」
それだけ。
それだけでよかった。
世界を救う物語でも、王になる冒険譚でもない。
誰の記憶にも残らない、ただの一日。
でも、それでも生きている。それだけは、確かに意味がある。
俺は静かに、目の前の杯を持ち上げた。
その酒の重みが、いつか見た夜景の光と同じくらい、遠くて、暖かかった。