第2話 明日の食い扶持
木の扉を押し開けると、酒場には昨日よりわずかに客が増えていた。
それでも空席は目立つ。奥の丸テーブルでは、顔に古傷のある戦士風の中年が一人で酒を飲んでいた。カウンターには、いつものマスターが静かに立っている。
俺は一歩中へ入り、今日は人恋しさからか少し躊躇ってから席に向かった。
「よう、マスター」
「いらっしゃい」
その短い返事が、どこか沁みた。
朝から街の掲示板を見て回り、二つの仕事を掛け持ちしていた。
一つは街道沿いのゴブリン退治。小規模な群れで、農夫たちの畑を荒らしていたのを討伐した。もう一つは、商人の荷車の護衛だ。たった半日分の道のりだったが、報酬はそのぶん少ない。
「今日も疲れたなぁ……」
カウンターに腰を下ろすと、革の鎧がごとりと鈍い音を立てた。肩を回すと、鎧の継ぎ目が軋む。
「ゴブリン相手にあちこち走り回らされてな。あいつら、ちょこまか動くから厄介だ」
「油断は禁物だな」
「ああ……」
相槌を打ちながら、マスターが酒を注いでくれる。
琥珀色の液体が、疲れでささくれた心を少しずつ和らげていくようだった。
「相変わらず稼ぎも少なくてな……」
杯を手に取りながら苦笑する。
「……ゴブリン退治が銀貨三枚、護衛が二枚。五枚合わせて、ようやく数日分の生活費ってところだな」
「そうか」
言葉少なに頷くマスター。その顔には、何かを悟っているような諦念があった。
冒険者というのは、つまるところ消耗品だ。武具を維持し、怪我を癒やし、日々の食事を賄う。そのために、また依頼を受ける。報酬は、やることなすことすべてが経費に消えていく。
結局、どれだけ働いても懐が潤うことはほとんどない。
「……まったく。夢のある職業じゃなかったよな」
自嘲気味に呟くと、マスターは器用に片眉を上げた。
「夢ばかり見てると、足元を掬われる」
「そうだな」
思わず笑った。
最初の頃は、ゴブリン退治なんて朝飯前だと思っていた。ゲームでは弱い雑魚だったし、いくらでも相手にできる気でいた。
だが現実のゴブリンは、小さくてすばしこく、何よりこちらを殺す気で襲ってくる。歯と爪を剥き出しにし、仲間同士で獲物を追い詰めるあのしつこさ。最初に本気で噛みつかれたとき、腕の肉が裂ける音を今でも夢に見る。
「それでも、やらなきゃ飯も食えないんだよな」
杯を傾けると、奥の丸テーブルの戦士がちらりと視線を寄越した。
目が合うと、無言で頷かれた。
知らない相手だが、たぶん同業者だろう。似た匂いがする。
少し気まずくなり、目を逸らして酒をあおった。
――護衛の帰りにギルドへ寄ったとき、受付嬢が言っていた。
「最近は依頼が減っています。大きな討伐隊が組織されて、定期的に駆除が進んでいるから」と。
それはありがたい話だが、同時に、俺の稼ぎも先細るという意味だ。
冒険者はいつだって過剰供給だ。特別な腕前もなければ、厳しい選別でふるい落とされていく。
「装備の修理代も馬鹿にならないしな……」
革鎧の袖口をつまんで見ると、縫い目が一部ほつれていた。
冒険者ギルドの鍛冶屋に頼めば補修はできるが、銀貨一枚は確実に飛ぶ。
それに薬草や携行食も、また補充しなければならない。
金の心配は尽きない。
「いつまで続けられるか……」
思わず呟いた声が、酒場の中に小さく溶けた。
そのとき、奥の戦士が立ち上がり、こちらへ近づいてきた。
そして目の前で立ち止まった。
「……珍しいな。どうかしたか?」
俺が言うと、戦士は無言で肩を揺らし、隣の席に腰を下ろした。
よく見ると、鎧には古い剣傷がいくつも刻まれている。
長く戦ってきた証だ。
「新人かと思ってたが、もう何年も続けてるんだな」
「まあ、一応な。……続けてるだけで、立派に食えてるわけじゃない」
「それでも、続けてるだけで大したもんだ」
低くしわがれた声に、少しだけ救われる気がした。
マスターが新しい酒を注ぎに来る。戦士の杯にも同じ酒を注ぐと、無言のまま戻っていった。
「この稼業、なまじ夢を見た奴ほど早く折れる」
戦士がぽつりと呟いた。
火の揺れる灯りに照らされた横顔は、酷く疲れていた。
「お前もそうだろ。最初は楽しくて仕方なかったんじゃないか?」
「……まあな」
苦笑を漏らすしかなかった。
その通りだ。転生したばかりの頃、俺は何でもできる気がしていた。
だが結局、俺は何者にもなれていない。
毎日同じような依頼を繰り返し、飯と装備を繋ぐだけの日々を送っている。
「それでも、続けるしかないんだよな」
戦士は返事をしない。ただ、小さく酒を仰いだ。
その目は、どこか遠い場所を見ていた。
「マスター」
俺は視線を上げて声をかける。
カウンター越しにマスターがこちらを見る。
灯りの下で、年季の入った皺が浮かんでいた。
「……マスターも昔は冒険者をやっていたのか?」
「ああ」
あっさりと返事が来た。
少し意外だった。
この寡黙な老人が、かつて剣を振るい、命を賭けて戦っていたのか。
「何年くらいやってたんだ?」
「二十年だ」
短い言葉に、どこか重みがあった。
俺も戦士も、思わず顔を見合わせる。
「それだけ続けて……どうして辞めたんだ?」
マスターはグラスを拭く手を止めなかった。
視線を落としたまま、ゆっくり言葉を継いだ。
「……続ける奴は続けるし、やめる奴はやめるだけだ。特別な理由なんて、誰も持ってない」
静かな声だった。
だが、なぜか胸に深く染みた。
二十年も続けた人間が言う「やめる奴はやめるだけだ」という言葉は、理屈ではなく真実の響きがあった。
続ける理由も、やめる理由も、きっと大したことじゃないのだ。
ただ、その日その日を生きていけるか、それだけだ。
「……そう、か」
俺はわざとらしく息を吐いた。
笑いたかった。だが、笑うには少し疲れすぎていた。
「……いつまで俺は続けられるかな」
戦士が目を伏せる。
マスターは何も言わず、またグラスを拭き続けていた。
俺は、ただ静かに杯を傾けた。