第1話 異世界の夜明けと現実の重み
扉を押し開けると、くぐもった鈴の音が低く響いた。
古い梁から吊るされたランタンの火は弱々しく揺れ、薄暗い店内にほのかな明かりを落としている。壁はすすけて、床にはかすかな湿気が染みついていた。それでもこの酒場には、いつもどこか心を落ち着かせる空気が漂っている。
「よう、マスター」
俺はいつもの席に腰を下ろしながら、くたびれた声でそう言った。肩の革鞄を椅子の背に掛け、ベルトに下げた短剣を軽く撫でる。刃こぼれをいくつも抱えたその剣は、今日も危うい命綱だった。
「いらっしゃい」
カウンターの奥に立つマスターが、短く応える。白髪混じりの髭を撫でながら、棚から陶製の杯を取り出す。無駄口を叩かない男だが、俺が何を頼むかはもう知れていた。酒場の隅には他に客の姿はなく、ここに来るのは俺のように行き場のない連中だけだ。
「いつもの……頼む」
「ああ」
とろりと琥珀色の酒が注がれ、俺の前に置かれる。湿った木の香りと、少し尖ったアルコールの匂いが立ちのぼる。それをひと口飲んだだけで、体がじわりと熱を帯びた。胃が、今日一日の重みをようやく受け入れてくれる。
この世界に来て、もう何年経っただろうか。
——いや、正確には分かっている。四年と三ヶ月だ。俺は記憶だけはきちんと数えている。だが、それが何の役に立つというのか。
「……懐かしいな」
誰にともなく呟くと、マスターは黙ったままグラスを拭き続けた。
その仕草が、なぜか少しだけ救いになる。
最初に目を覚ましたのは、もっと南の港町だった。石造りの宿屋の、硬い藁のベッド。戸惑いながら飛び起きて、窓から見た海の青さに言葉を失った。あのときの胸の高鳴りは、今でも鮮明に思い出せる。
剣と魔法と冒険。
ゲームの中でしか見たことのない世界が、目の前に広がっていたのだ。
その夜は眠れなかった。街の通りを歩き、露店を眺め、真新しい武具に心を躍らせた。
この世界なら、俺は何にでもなれる。そう信じて疑わなかった。
「……バカみたいだよな」
思わず笑いが漏れた。
マスターはやはり何も言わない。ただ、布でグラスの底を丹念に磨き続けている。
やがて、最初の依頼を受けた日の記憶が胸に浮かぶ。
あれは確か、街道沿いの盗賊退治だった。数日前に商隊が襲われ、積荷が奪われたという話。ギルドで耳にした俺は、初心者でも大丈夫と高をくくっていた。
何もかもが新鮮で、恐怖よりも期待が勝っていた。
「すぐにでも一旗揚げてやるさ」
仲間を組むのが面倒で、ひとりで行くことに決めた。今思えば、それが何より浅はかだった。
……結果は散々だった。
盗賊の斥候に気づかず、背後を取られて殴り倒された。装備や荷物をすべて奪われ、半日を森の中で彷徨った。夜になって、朦朧とする意識の中でようやく街の灯りを見つけたとき、体は震えていた。
それが、俺の「冒険者デビュー」だった。
あれから、期待なんて言葉はずっと喉の奥に引っかかっている。
——想像していたのは、もっと輝かしいものだった。
魔法で敵を一掃し、報酬を山のように積み上げ、宿屋で優雅に酒を飲む日々。
現実は、今日の食い扶持を稼ぐために泥を啜る毎日だ。
「この世界でなら、何もかも変えられると思ったんだ」
自嘲混じりに、またひと口飲む。
喉を通る熱が、わずかに胸の鈍痛を散らしてくれる。
「日本にいた頃は……まあ、ありふれた社畜だったよ。朝から終電まで働いて、休みの日は寝るだけ。つまらない人生だった。だから……だからこそ、憧れたんだろうな」
マスターは手を止めずに、静かに頷いたような気がした。
「こっちに来て最初は、本当に楽しかった。何もかも新しくて、どこまでも自由で……。けど、そのうち気づくんだよ。ここも結局、生きていくには汗をかいて、血を流して、明日の飯を稼がなきゃいけない。夢の世界だと思ったら、ただ別の現実があるだけだった」
語りながら、胸がどんよりと重くなる。
この四年余り、命を落としかけたことは数えきれない。大怪我もしたし、理不尽にゴロつきに絡まれた。モンスターの群れに包囲されたこともある。あのときは本気で「もう終わりだ」と思った。
けれど、それでも生き延びてきた。
それだけは事実だった。
「……思えば、最初に街に来た日の夜も、こんなふうに酒を飲んでたんだ」
苦笑しながら、もう一杯だけ注いでもらう。
外はいつの間にか深い夜に沈んでいた。通りの灯火も少なく、窓越しに見ると、まるでこの店だけが時間から取り残されたようだった。
「お前、よく来るなって思ってるだろ」
視線を上げると、マスターはほんの少し口元を緩めた。
その僅かな仕草が、否定でも肯定でもない、ただの同意のように見えた。
「……いや、分かってるよ。こんなところで飲んでたって、何も変わらないのに」
だが、こうして座っているだけで、ほんの少し息ができる気がする。
何も特別な言葉はいらない。ただ、誰かがいてくれるだけで。
杯を置くと、指先が微かに震えていた。疲れているのか、それとも他に理由があるのか。分からない。
「……結局、俺は何を夢見ていたんだろうな」
それは誰に問うでもない呟きだった。
マスターは相変わらず何も言わず、布でグラスを拭き続けている。
その静かな手の動きが、ひどく遠く感じられた。
思い描いていた理想の冒険者像。
この世界で何かを成し遂げる自分。
気がつけば、どれも薄っぺらい幻に変わっていた。
だが、幻でも構わないのだと思った。
それがなければ、ここまで歩いては来られなかった。
せめてもう少し、この席に座っていよう。
夜が明けたら、また明日の飯を稼ぎに行くのだから。
外の風が、ほんのわずかに扉の隙間から吹き込んだ。
冷えた空気が酔いを少しだけ醒ましていく。
そしてまた、いつもと変わらぬ夜が続いていくのだろう。
全部で5話くらいの予定です