38.ぜったいのやくそく
二人で広間を出て階段を降り、沈黙が続く中。先に口を開いたのはライナスだった。
「……フェルシア。来るのが遅くなってすまなかった。殿下から他になにかされなかったか?」
「いえ、特には。あの部屋でお話していたところへ、ライナス様が来られて……」
フェルシアには「他」の意味がわからない。端的に言えばエルヴァルドとは話をしただけ。最後の話は不可解ながら、特に害はなかったはず。
そう考えながらフェルシアは一段下に立つライナスを見る。
「それよりも、申し訳ありません。やはり会場内でお待ちしておくべきでした」
「いいんだ。俺の戻りが遅かったし、殿下の誘いは断れないだろう」
「しかしライナス様もエルヴェリーナ様とご一緒で…。あのお方はもうよろしいのですか?」
そうだ、エルヴェリーナ王女。
うっかり思い込んだが、ライナスの説明によれば二人の間にはなにもなかったのだ。
「ああ、問題ない。すぐに別れようとしたが引き止められてね。君が見たのはきっと一度離れようとした時のことだ。あの後君がいなくなったことに気付いて、やっと辞してきた」
「それは…あの、本当に申し訳ありませんでした。確かめもせずにとんだ思い違いを」
さしもの彼も王女という大輪の花には眩んだかと、見誤った己が情けない。
するとライナスは立ち止まったまま、じっとこちらを見つめた。
「いや……。君にそれほど気にしてもらえたと思えば、案外悪くないのかな」
階段の上で向き合う二人。なにかを訴えるような視線に、フェルシアがそわそわと落ち着かないでいると。
「ライナス様……?」
「……今日はもう帰ろう。話は明日だ」
そうして向けられた背にフェルシアはホッとした。彼に見つめられ、どうしてか鼓動が速まる。変だ。先ほどのエルヴァルドの衝撃的な話のせいだろうか。
(私が本当に王家と血縁だったら、ライナス様はどう思うかしら……?)
「根拠はない」と言いながらも紹介された、一枚の肖像画。あれに全てが詰まっていた。
彼は驚くだろうか。
疑うだろうか。
信じたなら……どんな顔をするだろう?
(それでも、私を側に置き続けてくれる?)
テュリエールとは長年争った間柄。今は国交再開に世間がにぎわっていても、一時的なものだ。まだまだ互いの不信感は根強い。
自分とて昔から敵と教えられ、警戒してきた。ライナスの家だって因縁はあろう。そんな中、グローリーブルー家が敵国王家の遠戚と知れたら……。
途端、フェルシアはぞっとした
発覚したが最後、自分はなにか大きなものを失う。
それはきっと国内での立場全て、そしてライナスとの日々かもしれなかった。
杞憂だったものがいざ現実味をおびるとわからなくなる。
怖い。彼はどう反応するのだろう。
「……シア……?……フェルシア?」
フェルシアはハッと我に返った。見上げた視界に映る、眉を寄せた表情。
「大丈夫か?」
訝しげにされ彼女はやっと気付く。しまった、すっかり考え込んでいたらしい。
「あ……はい、すみません」
「疲れたんだろう。顔色が悪い」
「いえ。問題ありません」
心配してくれる声に申し訳なくなり、フェルシアはまた黙り込む。
さっきからどうも口が重い。返す台詞を考えるが、全てがよい方向に思えなくて。
(そうだわ。この『縁』があれば、ここに置いていかれることもある……?)
「俺にしろ」とフェルシアへ堂々と笑んだ姿を思い出す。
エルヴァルドの言う通り……に上手くいくかはわからないが、古き血縁が発覚すれば話題作りには充分だ。王太子が正式に婚姻を申し込めば我が国も無視はできなくなる。
もし、ついでに花嫁修業でもしていけと、フェルシアがテュリエールへ置いていかれたら……。
一瞬、フェルシアの思考が停止した。
「フェルシア?」
「ぁ………はい、すみません」
まただ。怪訝な声。
いつの間にかライナスと二歩ほど距離が開き、フェルシアの手はぱたりと落ちていた。またぼんやりしていたらしい。
すると焦って踏み出そうとするフェルシアへ、遮るようにライナスが近付いてきた。そして。
視界から彼が消えた途端、ふわりと両足が浮いた。
「あの…、え………!?」
「歩けないならそう言ってくれ」
瞬く間にフェルシアの視点が高くなる。だがそれは背が伸びたからではない。
しっかり体を支える感触と、真横からの溜息に彼女は目を瞠る。いつもの美貌が間近でこちらを見つめており、そこでやっと状況を理解した。
いつの間にかライナスに横抱きにされている。
「あっ、あの……!」
気付いたフェルシアは焦った。背や脚に感じる腕の力強さは頼もしい。だがどうしてこんなことに。
「ある、歩けます。降ろしてください」
周囲の景色はどんどん過ぎ、ライナスの歩みは止まらない。
「落ち着くんだ。疲れてるんだろう?それに……もしかして酔ったか?」
「よった……?」
フェルシアは数拍考えてから。あ、と思い出した。
そういえば会場でエルヴァルドと話していた時、地方の名産と紹介されフェルシアも杯を重ねた。その際、自分がどれくらい飲んでいたか……。
(勧められて、四……いいえ、五杯……?)
短い時間だったが、一杯は少ないのでグラスを空けるのは早かった。そしてどれも度数は高い。フェルシアはやっとそう自覚する。
「確かに飲んでしまいましたが、大丈夫です…!自分で」
「もう遅いよ。このまま帰るから掴まっていてくれ」
だがライナスは柔らかに、しかし断として拒否した。ならば、とフェルシアが体を捻るが無駄で、更にしっかり抱え直されてしまう。ぎゅっと密着する互いの体に彼女は呆然とした。
(ど……どうしよう……)
布越しに伝わる彼の体温が心地よくて、ドキドキと落ち着かないのに安心する。だが自分を運ばせるのはまずい。そう葛藤するフェルシアの複雑な表情にライナスが苦笑した。
「両手を首に回してくれるか?その方が安定する」
「あ、はい……」
フェルシアは脱走を諦め、おずおずと逞しい肩へ腕を回す。するともういくつか要求があり、彼女はそれに応えることにした。
「もう少ししっかり…」
「…こう、ですか?」
ゴソゴソとしつつ、短いやりとりの末。
最終的にフェルシアはすっかりライナスへ抱き付いていた。
(あれ……?)
彼女は回らない頭のまま、きょとんとする。
考えてみればこんなに男性と密着するのは初めてだ。いつになく近い。ライナスの首元を抱え、このまま俯いて凭れれば、その太い首筋に頬がぴとりと触れそうで。
淑女としてとんでもない体勢だが、ライナスが言うなら正しいはず…。
ぼうっと彼を見上げていると、また優雅な笑みがふわりと向けられる。
「…ああ、そうだな。すぐ部屋に着くだろうからそのままでいてくれ」
褒めるような声と表情に、フェルシアは見惚れて「はい…」と小さく返事をした。
こうしていると、ライナスの深みのあるサンダルウッドの香りに一層包まれる。慣れた香りを吸い込み、フェルシアはとろんと瞼が落ちそうになった。
(あたたかい……)
黙っているとまた眠くなってきた。このまま目を閉じることができればどんなに幸せかと、素面なら思いもしない考えがフェルシアの頭によぎる。
そうして彼女がふわふわと夢見心地で揺られていると。過ぎてゆく視界がピタッと止まった。二人の前には見覚えのある扉が。
「リリィ?俺だ」
「……ライナス様?はい、ただいま」
少ししてゆっくりと開かれる扉。すると現れた人物が、あっと驚いた。
「まあ、お嬢様…!これは一体どうなさったのです?」
「大丈夫だ。少し酔ったようだが、まあ疲れたんだろう。ベッドに降ろすか?」
「はい。お願いいたします」
その会話に一拍遅れ、リリィになんと言おう…とフェルシアが考える間にも、三人はサッと室内へと入る。
廊下と比べ、室内は灯りも控えめで落ち着いた雰囲気だ。そんな中黙ってライナスに身を任せていると、フェルシアはふと彼から漂う香りに違和感を覚える。
(……あ、この香り……?)
始めは気のせいかと思った。けれど次の瞬間には嗅ぎ分け、確信したフェルシアは眉を顰める。
馴染んだ香りに薄らと潜む、花のような甘やかさ。
連想させるは、プラチナブロンドを靡かせる華麗な容貌。自分とは真逆の豊満な肢体と艶やかな笑み。
間違いない。彼女の香水だ。
(嫌)
途端、フェルシアの中に強い衝動が蘇る。
……そうだ。ライナスがエルヴェリーナとバルコニーへ消えた時、一番にそう思った。
その後は見間違いだろうか。どうしてと、驚愕にかき消され、すっかり忘れていた感情。
「こちらにございます」
「ああ」
温もりに包まれながら感じる、穏やかな声とゆっくりとした足取り。
だがフェルシアは揺蕩うような心地から一転、胸が締め付けられる思いになっていた。
(私、どうしてこんな気持ちになるの……?)
湧き上がる不安。
先ほど置いて帰られると危ぶんだのも重なり、フェルシアの頭がライナスのいない未来で埋め尽くされる。
ここでやっとフェルシアは、自分が酔っていると認めた。
なぜなら、さっきから自分は考え過ぎだ。彼は一方的に別れを告げるような人ではない。
けれど。
(本当にライナス様がいなくなったら、私は……)
今後グローリーブルーの人間を支援するのは外聞が悪いと、彼に嫌がられたら。
自分が明らかな重荷になるならば、むしろフェルシアは自ら関係を絶たねばなるまい。それがここまで助けてくれたライナスへの礼儀だ。
だがそれは嫌だと、本心が叫ぶ。いざ彼が離れてゆく想像をすれば追い縋りたくなる。
「フェルシア、降ろすぞ」
聞こえた声に反応すれば、もうフェルシアは柔らかなスプリングの上にいた。すると腕の中の感触も去っていこうとして……。
「……?もう離していいよ」
「あ……すみません」
促されフェルシアは慌てて、しかし緩慢に手を下ろした。しかし。
「どうした?」
そう尋ねられるが、なんのことかわからない。不思議に思って視線をたどれば、それは己の手元に行きついた。
「ぁ………」
白い指先が紺地の袖を摘まんでいる。まるで引き留めるかのように。
フェルシアは気付いて手を引っ込めようとした。だがどうしてか体が言うことをきかず、代わりにぽろっと言葉が漏れた。
「……帰るんですか?」
「ああ。俺ももう部屋に戻るから、君もゆっくり休むと……」
「嫌です。帰らないでください」
それは突然の響きだった。同時に、やや息を飲む気配がする。
「は?フェル……」
フェルシアはクッとその袖を引き寄せた。そしてがばりとライナスの腕へ抱きつく。
「!おい……!」
頭上から珍しく焦ったような声がし、視界の端で誰かが遠ざかる。
フェルシアは彼の腕をぎゅっと抱いた。温かくて心地よい。今だけ、こうしている間だけは。
彼は確かにここにいる。
「まだ、一緒にいてください」
「フェルシア、それは……」
言ってしまった。けれど、いつもライナスを困らせぬようにと諫める自分もいない。戸惑う気配にも構わず、フェルシアの口はぽろぽろと勝手なことを零し始めた。
「私のことを、置いて行かれるのですか……?」
そう言いながらフェルシアはよりいっそうライナスに縋りつく。サラ…と流れる白銀の下、目元を歪ませ彼女は訴えた。
「嫌です。わ…私も、ライナスさまと一緒がいいです」
彼が行ってしまう。ただそれだけで胸が引き攣れるみたいに苦しい。
いつしか動きを止めた腕へグッと上体を押し付け、フェルシアはすっかり悲痛な顔をしていた。
「置いていかないでください……」
「フェルシア。落ちつ」
「それとも、もう……私のことが嫌になりましたか?」
思えばもうすぐライナスと再会して一年。その間本当に色々あったが、大人の彼からすれば世間知らずの小娘は面倒も多かっただろう。
ならばもうたくさんだ、テュリエールでお幸せにと捨てられてもおかしくない。
(じゃあ、もう駄目ということ?)
もう遅かったと、妄想の果てにフェルシアは泣きたくなる。
二人の縁はこれまでだ。こうして引き留めるのも迷惑極まりない。そう気付いた彼女がそっと腕を緩めると。
「すみませんでした。では、私は……」
「いい加減にしなさい」
遮る声にフェルシアはピクッと肩を震わせた。同時に胸元の体温がするりと逃げていく。
まずい。ついにライナスを怒らせてしまったと、彼女は青ざめる。だがライナスはそのまましゃがむと、なんとフェルシアの前に膝を付いた。
不安にゆらめく赤青の瞳。それを真っ直ぐ見つめる表情に怒りはなく、ただいつもの美しい夜空色が輝くばかり。
「……強く言ってすまない。フェルシア、よく聞いてくれ」
慣れた穏やかな響き。フェルシアも顔を上げると、今度はライナスから手を伸ばしてくれ、そっと両手を握られた。それはまるで、離れはしないと示すよう。
強張る心が、トクンと脈打つ。
「まず、俺は君のことが嫌になったりしていない。むしろ逆だ。絶対にそこだけは間違えないでくれ」
ゆっくりと言い聞かせる声は、ひどく優しくフェルシアの耳を震わせた。
「それに今帰ろうとしているのは、このまま俺がここにいてはまずいからだ。君の名誉に関わる。わかるな?」
「……はい」
「明日の午後にまた来るよ。君こそ、この部屋で待っていてくれるか?」
当然の説明に、段々と理性の戻ってきたフェルシアは「わかりました……」と頷く。
ライナスがここで夜を明かせば、二人の間になにもなくとも噂になろう。知っている。わかっている。それでは彼に迷惑がかかってしまう。
けれどそうではなくて、不安なのは。
「それとも。もしさっきからの話がちゃんと帰国したい、という意味なら」
ピクリと細い肩が揺れる。
それを見て、ライナスは安心させるようにぎゅっとフェルシアの両手を握った。
「約束しただろう?君が嫌だと言うまで俺は君の側にいる。これからも君の無事の帰国へ全力を尽くすよ」
「それは、本当ですか……?」
その申し出にフェルシアは目を瞬かせる。
去年の秋、夕暮れの教会にて。あれはともすればただの雑談で、しっかり覚えているのは自分だけだと思っていた。しかし彼はちゃんと守ってくれるのだ。
「本当だ。君は帰りたいんだろう?」
「はい。もちろんです……!」
フェルシアは込み上げる喜びのまま頷いた。帰りたい。ここに一人残されるのは嫌だ。
この派遣が終わったらライナスと公爵邸へ帰り、またいつもの日々を過ごすのだ。たとえ仮の住まいでも今やあの邸が自分の帰る場所。それはきっと、彼がいるから。
いつしかライナスはフェルシアにとって唯一無二の存在になっていた。
(私、この方と離れたくない)
邸で飼っている白い鳥。あの子がなぜ自分のもとに戻ってくるのかずっと不思議だった。しかしたとえ自由が削がれても、己の居場所はここだと決めたのだろう。
フェルシアだってライナスの側にいたい。……一人で生きろと言われる、その日までは。
「大丈夫だよフェルシア。俺も始めから、ちゃんと君を連れて帰ると決めている。君が望むなら尚更譲れないな」
「本当に、本当にいっしょに帰ってくれますか?」
自らも手を握り返し、前のめりになってフェルシアは尋ねた。
蝋燭に照らされ、白い壁へ映る二つの影。小さな一方が、そっともう一方へ傾く。
「ああ、約束しよう。そんなに言うなら嫌がっても連れて帰るぞ?」
「はい。ぜひお願いします」
いまだ燻る不安にかられ、彼女は深く頷いた。
そうだ、それがいい。間違いがあっては困るので強制連行してもらおう。
「ぜったいに、絶対におねがいします」
じいっ、とライナスを見つめフェルシアが念押しする。するとどうしてか笑われてしまった。
「本当にどうしたんだ……?はいはい。子供みたいだな」
この歳になってひどいと、彼女はムッとする。
「こどもではありません。もう十九です」
「ふ……ああ、そうだな。子供ではないからこそ……フェルシア」
フェルシアはふいに左手を離される。それを不思議に思っていると、ライナスはその手をフェルシアの頬へ伸ばした。
そっと頬を撫でられ、フェルシアは慣れぬ感触に肌を震わせる。
「君も約束してくれ。もう俺以外の男と二人きりになってはいけないよ」
「それ、は……っ?」
長い指が、耳の前を何度も擦る。まるで、付いてしまった汚れを落とすように。
肌を滑る音が耳、そして全身に響いて。フェルシアは初めての感覚にピクッと首を竦めた。
「ん、ライナスさま……?」
「……こういう事になるからな。約束できるか?」
「はい……わかりました……?」
やっと手を止められ、彼女はふるりと震えながら返事をする。
冷静に考えればライナス自身はいいのか、と疑問を持つところだが。すっかり酩酊し、ぼんやりとしたフェルシアは気付かない。
「よし。いい子だ」
ふ、と微笑む彼に見惚れた。静かな部屋の中、この瞳が自分だけを映すことがフェルシアは堪らなく嬉しい。ずっとこのままだったらいいのに、と願ってしまう。
「……では、ライナス様も」
「うん?」
「ライナス様も、私以外の女の人と二人きりにならないでください。……王女さまでもだめ、です」
普段の自分なら絶対に言わない台詞だ。けれど今は考えたままが素直に口をついた。だってもう、あんな思いはしたくない。
「フェルシア、それは……」
すると彼が何事か言いかける。だがフェルシアは即答してくれないのかと、赤青の瞳を大きく揺らした。
「だめなのですか?どうし」
「いや違う。……駄目じゃないよ。わかった。そうしよう」
不安になったのも束の間、ライナスが素早く頷く。すると途端、フェルシアは唇を綻ばせた。
「ではやくそく、ですね」
「ああ、約束だ」
ふわ、と小花のように花開く笑み。それに瞠目するライナスにも気づかず、フェルシアは思うまま喋り続けた。
「守らないと、許しませんから」
「破ったらどうなるんだ?」
「……罰として、一週間口をきいてあげません」
「なるほど、それは怖い。なら俺も罰を考えないとな」
ふわふわと笑みながら交わされる、二人きりの誓い。
それが意味する独占欲も知らず、フェルシアはただただ上機嫌だ。加えて彼から優しく頭を撫でられれば調子にも乗ろう。
「そうだな……。じゃあ、君が破ったら『なんでも一つ言うことを聞く』でどうかな?」
「……?わかりました」
果たしてこの提案を、フェルシアはすんなりと受け入れた。
ちなみにこれは自信があるとか、口約束を軽んじているからではなく、本気でただなんとなく頷いている。あるとすれば、ライナスの言うことだから悪いようにはならない、という思いのみ。
「本当にいいのか?」
「はい。……どうしてですか?」
「…………いや、いいんだ。まったく、君は酔うと本当に危ないな」
なぜかライナスが訝しそうにする。それへ首を傾げ、フェルシアがぱちぱちと目を瞬かせていると。
「……さて。俺はもう帰るよ」
「ぁ……」
腰を浮かせるライナスへ、しゅんと萎れるようにフェルシアの笑みが消える。揺れる瞳でおそるおそる見上げれば、また優しく頭を撫でながら彼が苦笑した。
「心配するな。また明日、今後について話し合おう。……こんな所で男にそんな顔をすると、食べられてしまうぞ?」
「たべ……?」
フェルシアはふと周りに目を向ける。ここは寝室、そして己が座るのはベッドの上だ。しかし。
(なにを…?わたしを……?)
思考もあやふやで、なにを言われたのかさっぱり分からない。それに自分は食べても美味しくなさそうだ。
「はぁ……まあいいか」
すると降ってきた溜息に、フェルシアがきょとんとしていると。瞬く間に彼の顔が降りてきて……。
ちゅ、とかすかな音と額へ感じる熱。
「ゆっくりおやすみ、フェルシア」
これには流石にフェルシアも固まった。頬を染め、口元を震わせる。
「……はい。ライナスさまも、おやすみさいませ」
「ああ。ではな」
そう言って頭をもう一撫でし、今度こそ背を向けるライナス。それを見送り、彼女は呆然と額へ手を当てた。
額にキスなんて子供の時以来だ。思えば家族にされた時はちょっと嬉しい、くらいだったのに。
(……ライナス様だと、なんだか……)
どきどきと高鳴る心臓をもう片手で押さえながら。
顔を赤くしたフェルシアは、扉の外でリリィに声をかける背をずっと見つめ続けた。