8.少しだけ
午後、フェルシアはオリヴィエ大隊の訓練を見学していた。
もう夏も終わり。ふとそよぐ風が涼しいころだ。
だがそんな秋晴れの下、汗を滂沱する面々を見ていると、フェルシアは自然と自領での子供時代を思い出す。なんて懐かしいんだろう。
正確には、そこへ飛ばされる怒号の数々にも、だが。
「誰が構えを解けと言った!」
「申し訳ありません!」
「よく見ろ!相手の足にも注意を払え!」
「ハッ!」
「もういい。十周追加!」
「ハッ!」
各々向かい合って剣を交わす隊員達。それへ怒号……否、「指導」をしているのは、ほかならぬ隊長のライナスだった。
(父様もうちの騎士にもの凄く厳しかったなあ…)
今やすっかり学院の形式に慣れたが、フェルシアも武門の子だ。子供のころは領地の騎士と共に、毎日倒れそうなほどの運動量をこなした。おかげで体だけは丈夫に育ったし、実家の剣技を身につけられたが。
そしてそれはライナスも同様らしい。オリヴィエ家も生粋の武家、彼の厳しさは生家由来だろう。
天と地ほど身分に差のある人に、フェルシアはつい親近感を感じた。
「フェルシア、大丈夫?疲れたでしょう」
そんな彼を目で追うフェルシアへ声がかかる。隣に立つルルリエだ。
彼女はさっき、フェルシアが前半の運動に参加しているのも見ていた。
「いえ。問題ありません」
「そう…?うちはちょっと厳しいって評判なのよねぇ…」
苦笑いして肩をすくめるルルリエへフェルシアは小さく頷く。
今は上官の指示通りにできなかったり、剣戟に負けた側の罰として、腕立て伏せや訓練場外周を命じられるのだが、皆その数が容赦なく溜まってきている。これは、訓練が終わってもしばらく外で苦しむことになりそうだ。
確かにこれが平均的な訓練とは思えない。第一、大隊長自らの指導とは異例だ。
「少佐はいつもご指導をされているのですか?」
普通なら佐官かつ貴族の彼は、悠々と執務室で過ごすか、自邸から指示を飛ばすこともできるのに。そう思って問えば、ルルリエは困ったように笑った。
「週に二回くらいかしら。自分の目で確かめないと気が済まないそうよ」
閣下らしいわ、と言う口調は淀みない。さすがは彼の書記官、すでにこの光景に違和感はないらしい。
フェルシアはやはり驚きを強めた。ライナスは珍しい働く貴族、なのだろうか。
基本、貴族は労働を厭う。
議会でも軍部でも、役職は名誉職扱いだ。真面目に出勤するもしないも自由。
フェルシアは辺境防衛に忙しかった両親のもとで育ち、軍備の大切さを知っている。だから実際に働く人物の下で、どんどん仕事を回すべき……とは思うのだが、昔からの慣習は強固だ。
そこへきて公爵でもあるライナスが現場を重視している、というのは意外だった。朝一番に執務室へいたことといい、まさか…。
「毎日ちゃんと出勤される方なんだけどね…。やることが多いからこれ以上は顔を出せない、って残念そうにしてたわ。……隊の皆にとっては良い、のかもだけどね?」
「……すごいですね」
予想が当たったフェルシアはそう返す以外なかった。
ライナスは公爵位なので王城の議会にも出ているはず。加え佐官の任を全うし、領地経営や資産管理をこなし、さらに仕事を求めるとは。逆に働きすぎだ。
あの優雅な笑みに隠された努力に、フェルシアはつい感服した。彼のような人がいるなら、この国もまだ捨てたものではない。
(…もしかして、彼も私が思っていたような人じゃない…?)
ふと、フェルシアは既視感に襲われる。
自分は始めから、ライナスも己を利用しようとする狡猾な大人、と見ているが違うのだろうか。
だが今はわからない。なにせ関わり始めたばかりだ。けれど…。
「ふふ。びっくりした?」
その声に、フェルシアはハッと隣を見た。ルルリエは微笑んでこちらを見ている。
「訓練は厳しいし、普段の課業もきっちりやらせるから、この隊は嫌だって言う人もいるけどね。あなたはどう思う?」
その問いに一瞬躊躇ってから。フェルシアは慎重に口を開いた。
「…素晴らしいと思います。基礎を怠っては、本番になろうが何もできません」
本心だった。訓練は目的ではなく手段だ。これを怠って先へ進めるわけがない。
そう答えれば、果たして。
「ええ、私もそう思うわ。…といっても、私は彼らを助けるのが仕事だから。応援も込めてちゃんと働かないとね」
そう言って頷くルルリエは誇らしげだった。
彼女は傍らのテーブルにかがむと、正解、とでもいうようにこちらへ水の入ったコップをくれる。それをありがたく受け取りながら、フェルシアは改めて辺りを眺めた。
ライナスだけでなく、各隊長も見回っているので隊員達は皆必死だ。……とても今日からの実習生を気にする余裕などない。
フェルシアはこの状態にも密かに驚いていた。
朝からもの珍しそうな視線はあるが、睨んだり、鬱陶しげな雰囲気ではない。
思い出せば学院入学時、フェルシアは同級生から散々無視されたり悪口を言われた。学院では好成績を続ければなぜか皆静かになったが、基地ではどうだろう。
軍派閥の最たる場所だ。もっとひどい目に遭うはず。
それとも初日だから様子を見られているのか、そう判断がつかないでいると。また優しい声が聞こえた。
「フェルシア。これから頑張ってね。短い間だけど、ここがどんな所かあなたにもわかって欲しいわ」
フェルシアは目を瞬かせる。他人から応援されるのも久しぶりで、一瞬、己がここへ来た目的を忘れそうだった。
(この人は…きっと本気でそう思ってくれているのだわ)
そう気付くからこそ後ろめたい。
真っ直ぐな榛色の瞳は温かくて、やはり彼女は何も知らないのだろうか。
ならば、とフェルシアは小さく口を開いた。
「…はい、ありがとうございます、ルルリエ先輩」
それを聞いた相手に目を丸くされ、少し落ち着かなくなりながら。
フェルシアは怒号と呻き声で地獄と化す訓練場を眺め続けた。