31.先輩と後輩
タタッ、と遠ざかる背を見ながら口を開いた。
「大丈夫か?」
それはただ気遣う言葉。そして今最も適当なものだった。
『ハース公爵出席の晩餐会が襲撃を受けている』と王宮へ走った一報。
それを聞いてなお予定の会合へ出席し続け、部隊の安否がわかった瞬間にはわずかに表情を緩ませたのみ。そして当人を見てやっと激情を垣間見せた男へ。
爵位に相応しく、また高官としての姿勢を堅持した後輩へ贈る、大変ふさわしい声かけだった。
しかし。
「…ありがとうございます。非常に心配しましたが、彼女や皆が帰ってきてくれて安心しました」
返ってきた声音にウォルフは機嫌が急降下する。
穏やかに微笑むいつもの涼しげな顔。予想が外れたと、ウォルフは口元を鋭く鳴らす。
「チッ、つまらん。…もう戻ったか」
「なにやらご期待に沿えず、残念です」
フェルシアを待つ間もっと遊んでおけばよかった。
先ほどまでこの生意気な後輩はひどく気を張り、去年、彼女を虐げていた公爵家の館を叩いた際と似たような顔をしていたのだ。
そのくせ己の背後で待機する姿は静かで、現場に飛び出すこともなく、なにも知らない人間から見れば「冷静に対応を考えている」としか思われなかっただろう。しかしその焦燥がわかるだけにウォルフは逆に苛々した。
見ていてまどろっこしい。行きたいなら行けばいい、と。
つくづく似た二人だ。
違う点といえば片方がまるで状況を理解していないことか。しかしこれはいずれ解消されるだろう。
ウォルフは以前街中でライナス達と会った後、妻から「ねえ、あのお二人はいつ結婚なさるの?」と聞かれた。一目でそう思われるほど、ライナスとフェルシアは他人にしては距離が近く、まとう雰囲気が似ている。
ライナスがその気ならくっつくのも時間の問題だ。
「…しかし、お前も人間だったか…」
「それをあなたが言うのですか?」
今季一の感嘆、いつも泰然とした後輩の緊迫を揶揄すれば、案の定の答え。
それにウォルフも率直に返してやった。
「昔からくそ生意気で、図体だけでかくなりやがって。忠告してやる。そんなに心配なら首輪でもつけて繋いでおけ」
* * * * * * *
首輪でもと言われ、―――できるならそうしている、とライナスは思った。
フェルシアを所有したいわけではない。だが受け取ってもらえるなら首飾りでもなんでも贈る。
けれど現状は小さなピンや仕事用の剣を身に着けてもらうのがせいぜいだ。
そんな細やかな現実を突きつけてくる相手をライナスも見返す。
「そうおっしゃるなら、日ごろからフェルシアを焚きつけて無茶をさせるのも止めてください」
「お前の方がよっぽど無茶苦茶だろうが。仕事を放ってこんな所まで駆けつけるとはな」
「…代役は頼みましたので、きちんと努めてくれたことでしょう。それに使節の件は元より優先して調整しておりましたから」
ウォルフに目を眇められライナスは苦笑した。彼は昔から表情が鋭く、おかげで社交場ではすっかり令嬢達に避けられている。
そしてそれをいいことに時々、自分はウォルフに話しかける。主にしつこい相手を避けるために。
「へえ…。必死に追いついてよかったな?あいつ、喜んでたじゃねえか」
そうと知っていて改めない豪胆さ。こちらが困って見せれば、なんだかんだ追い払わないでいてくれる彼の面倒見のよさは尊敬している。
ウォルフに「必死」と見透かされ、ライナスは肩をすくめる。
「…そうであれと願うばかりです。しかし此度の通り、私がおらずとも彼女は立派に務めを果たしましょう」
自分は所詮保護者。まだ婚約者ですらなく、彼女の選択を見守ることしかできない。
だから今は。
「フェルシアは強いですから」
日々見せる気丈な横顔は真っ直ぐで、社交や政治に浸かり、性根の歪みそうな己を清廉たれと正してくれる。
いつも自分が隣にあることを許し、美しい瞳で見つめ返してくれる人。
その歩く道を少しでも照らしたい。
「……それにしても」
遠目にて膝をつき、怪我人と話すフェルシアは、夏夜に舞い降りた天使のようだ。
もし彼女が看てくれるなら、自分は怪我を作ってでも毎日医務室へ通う。もしくは軍医になって傍らで補助してもらうのも捨てがたい。
そんなくだらない妄想をしつつ、ライナスはさもしみじみといった風に零した。
「あなたから心配されたのは初めてです。先輩も人の子だったのですね…」
すると隣であからさまに眉を寄せられる。もう完全に強面だ。
「チッ。うるせえ。今後お前とあいつの予定を全部逆にするか?」
「ふ…。いえ、これは出過ぎたことを」
それでは私用でフェルシアに会えなくなる。ライナスは笑みを深め、「それは怖いですね」と謝ってみせた。
初めて会ってから十年。ウォルフも有言実行の人だと、ライナスは身をもって知っている。
* * * * * * *
フェルシアは聞こえた声に振り返った。
見れば明るい階段の下で笑むライナスの姿がある。
それにフェルシアは少しホッとした。今夜はすっかり心配をかけ、彼の表情はずっと硬かったから。
だが旧知のウォルフといれば話題は尽きなかろう。あの笑顔を引き出してくれた上官へ彼女は深く感謝する。
「…では私も戻ります。お大事になさってください」
「ああ。今日は本当にお疲れ」
早くライナスのもとへ戻ろうと、フェルシアは話していた同僚と別れ立ち上がった。