7.遠い光
そのしばらく後。
実習初日にしてフェルシアはすでに困っていた。
「あの、ガーランド准尉」
「ルルリエね?」
「ルルリエ・ガーランド准尉…」
「もう一度言ってくれる?」
「………ルルリエ先輩」
最終案で呼べば、彼女は「何かしら?」と渋々といった風に返事をする。一応認めてくれたらしい。
だが全く以て不明だ。通常、上官は性と階級で呼ぶ。
朝に、ルルリエが「皆そう呼んでるから」と言ったのは一部のことだ。
なぜなら本舎を出てからの道中、その名を呼び捨てたのは尉官ばかりだった。この基地は士官が多いので「皆」と表現してもおかしくはないが…。そもそもフェルシアは学生なので相応しくない。
フェルシアはこのやりとりの発端を思い出す。
質問のため「ガーランド准尉」と呼びかけた時のこと。途端、振り返った相手にジッと見つめられた。
訴えとも非難ともつかぬ視線。疑問を浮かべる己へルルリエが言う。
『私ね、妹がいるの』
『はい』
『十八歳でね、あなたと同い年でしょう?』
『…はい』
『だからあなたに、准尉だなんて呼ばれると何だか寂しくなってしまうの』
だから、で飛躍する謎理論。フェルシアの常識が覆された瞬間だった。
『隊の中だけでいいから、名前で呼んでほしいな』
ねっ?と念押しされ、果たして。
…フェルシアは早々に折れることとなった。だがさすがに敬称は外せず、「ルルリエ先輩」で収まったことに安堵する。
しかし名で呼ばせたがるとは、ずいぶん打ち解けた態度だ。これもなにか作戦の一環だろうか。
フェルシアは気を取り直し不可解な上官へ話しかける。
「あの建物はなんでしょうか?」
訓練場の端、己が指した小屋を見てルルリエも口を開く。
「ああ…。あれは魔獣の研究所よ」
魔獣。野山に生息し、人や家畜に害を成す存在のことだ。軍では魔獣駆除も主な仕事なので、研究施設がここにあってもおかしくはない。
だがルルリエの言葉に、フェルシアはふと考える。八年前の、黒い獣が次々と森を飛び出し、人里や館を襲った光景を。
(どうやってあんなに大量に襲わせたの…?)
家族が絶命した夜、グローリーブルー領に来襲した魔の大群。ここ数年、あれは人為的な現象だったのでは、とフェルシアは疑っていた。きっかけはとある話を立ち聞きしたことだ。
となると容疑者はあの人物だが、その動機と手法がわからない。彼はどうして自分達姉妹を「捕獲」したのか。
そうしてつい黙ったフェルシアに何を思ったのか。顔を上げると、傍らのルルリエが眉を寄せていた。
「…ごめんなさいね。よければ次に行きましょうか」
その声にフェルシアは一つ目を瞬かせた。これは…悲しげな態度、だろうか?
己の過去は国内で有名だ。そこへ魔獣の話をしてしまったと、ルルリエは感じたのだろう。これが普通の反応なのかもしれない。だが…。
「はい。ありがとうございました」
フェルシアが礼を述べ、そっと返された笑顔はやはり少し翳っていた。そこでやっとフェルシアは彼女の態度を確信する。
信じられないが、ルルリエは本当に己を憐れんでいる。
たとえそれが一時的でも、儀礼的な対応でも。フェルシアは他人のそんな反応を初めて見た。
ゾエグ家に引き取られてから今まで、無表情か負の感情しか向けられてこなかった身には衝撃的だ。
ここ八年、己は性根の歪んだ人々とばかり接してきた。
「まあ、おかわいそう…」と言った後、背後で「いい気味だわ」と囁く貴族を始め、家族を悼んでくれる人なんて見たことがない。
そのため、フェルシアの心に疑念が芽生える。ルルリエは思っていた人物像と違う、と。
彼女は朝からずっと己の世話を焼いてくれ、他の隊員に接するのと同じくフェルシアにも朗らかだ。ライナスはともかく、彼女まで疑うのは余計だっただろうか…。
フェルシアは悩み、目の前の姿をちらりと見る。
その背はいつか捨てた素直さそのものに見え、木漏れ日が射すように眩しかった。