3.誰がために忍ぶ
ゾエグ公爵の書斎から出たフェルシアは真っ直ぐに階下へ向かった。階段を降り、一本の廊下の突き当りを目指す。
するとそこにいたメイドが、フェルシアを認めて一枚の質素な扉を開けた。中は薄暗く、じめじめしておりいかにも物置といった雰囲気だ。だが実際は違う。
灯りも乏しい部屋の中央には、一つのベッド。そしてその上へ横たわる影があった。
フェルシアは迷いなくそこへ近づき、跪いて小さく呟く。
「姉様……」
近付いたベッドからは薬品の匂いがうっすらと漂う。握った手も体温が低く、フェルシアはいつも不安になる。
この生白い肢体を、薄い掛布に包まれた女性はリーシャ・グローリーブルー。
フェルシアの実姉だ。
世にはフェルシア以外のグローリーブルーの人間は死んだ、と公表されているが、実は彼女も昏睡したまま生きていた。
しかしリーシャは妹に応えず眠り続ける。やせ細って薄い胸はかすかに、だが確かに上下していた。
たとえそんな姿でもフェルシアは深く安堵する。まだ、己の失態の影響はなさそうだと。
(よかった、昨日と変わりなさそう…)
グローリーブルー家が襲われ、フェルシアがゾエグ公爵に保護されたあの夜、リーシャも同時に救出されていた。
だが再会を喜ぶフェルシアに、公爵はまだ世には知らせない方がよいと囁いたのだ。その方が療養に集中できると。
それに一旦は頷いたフェルシアだったが、やがて公爵から「私が君達を引き受けよう」と言われて強く後悔することになる。
なぜならゾエグ家とはもともとグローリーブルー家とも政敵だ。フェルシアも両親からゾエグ家とは関わらぬよう教えられて育ってきた。
緊急時ならまだしも、そんな人物にずっと身を委ねたいとは思わない。
だがこの時すでにリーシャを人質にとられた状態となっており、フェルシアは唇を噛んで後見の承諾書にサインをする。
それから姉妹の苦境は始まった。
ゾエグ公爵はフェルシアが言う事を聞かない時、失敗した時には必ずリーシャに咎を与えた。今も姉の下肢にある鞭打ちの痕がそれだ。
そうとわかってからフェルシアは日々を必死に過ごした。
生活も勉強も言われるがままこなしたし、家庭教師の折檻や、ゾエグ家親戚の嫌味、嫌がらせにも黙って耐えた。生活は終始監視され、人間関係の自由もない。
挙句にはゾエグ公爵が「お前の姉の治療に必要だ」と言って、大量の採血をされることもあった。どうも、一応は姉を治療しようとしている。その姿勢にフェルシアは賭けていた。
リーシャが目を覚ませばこの邸を逃げ出せるかもしれない。
だが今やその建前さえ嘘で、フェルシアは自分達が搾取され続ける運命だと知っている。
両親や祖父母は亡く、公爵が突入してきたときには兄は消えており生死不明。
リーシャはフェルシアに残されたただ一人の肉親だ。しかし彼女を守るため立ち上がろうにも、枷が重すぎて動けない。これがフェルシアの現状だった。
(でもなんとか…なんとかここから逃げ出さないと…)
姉が手遅れになる前に。
握り続けたリーシャの指がわずかに温かくなる。
顔を上げた先には白銀の髪と今や青白い肌。自分と似た容貌だが、かつて輝いていた青い瞳が覗くことはない。
その後すぐ、時間だと思ったフェルシアは立ち上がった。毎日会わせてはもらえるが、面会時間は異様に短い。
「姉様、また明日来るね」
かがんでそう囁き、愛しい姉の頬に口付ける。そうして静かに踵を返した。
壁際のメイドに容態を尋ね、「お変わりございません」の台詞を聞いてから病室を出る。
だが帰路の途中、先の角から話し声が聞こえてフェルシアは密かに眉を寄せた。
そして案の定、現れたのは見知った人物だ。
「…ああ、こんばんは。フェルシア」
フェルシアへ歩み寄り、鷹揚に話しかけてきたのは一人の青年だった。
今日もよく来たね、と笑む顔は華美だが整っている。
…何も知らなければ、この顔にはしゃいでいられたのだろうか。世間の令嬢達のように。
「こんばんは、アラン様。夜分にお邪魔いたしております」
彼はアラン。ゾエグ公爵家の嫡子だ。
そして公爵にあてがわれた、フェルシアの婚約者候補でもある。
アランはこちらの礼に礼儀正しく返すと、濃い金髪を耳にかけながら喋った。
「…ああフェルシア、僕達は婚約者なのだから。『様』は要らないといつも言っているだろう?そんなにかしこまらなくていいんだよ」
「いえ。おそれ多いことにございます」
(違うわ。まだ婚約していないもの)
フェルシアは心の中で反発しながらも低姿勢を維持する。
「そんなこと言わないでくれ。春には正式な婚約発表だろう?僕も待ち遠しいな」
「式の準備はつつがなく。公爵家の皆々様のご期待に沿えますよう、全力を尽くさせていただきます」
「こちらも順調だよ。でも結婚式はもっと華々しいものにしたいな。僕達の結婚は、国を挙げて祝福されるにふさわしい」
(祝福なんていらない。そもそも、あなたと一緒になんかなりたくない)
二人の間に、もはや本当の意味での意思疎通はない。
なぜなら、初対面の時はこの優しげな態度に騙されたが、フェルシアはもうアランの本性を知っている。
優男風で飄々として見え、その実残忍で他者を傷つけるのも厭わぬ性格。幼いころ、彼女もしっかり被害に遭っている。
だからアランの言動に夢を見たり、彼は優しい、なんて思うこともない。
そのためフェルシアはあえて一線を引き、常に嫁入り前の淑女らしく接していた。
すると、ふとアランが話題を変える。
「…そうだ。父上から聞いたよ」
その口調に彼女は、なぜアランが己の前へ現れたのか確信を持つ。
「あいつの、ライナスの所に行くんだって?」
早くもその全容を聞きつけたのかアランは薄らと笑っていた。
父親と同じく彼もライナスが嫌いだ。理由は敵対派閥だから。そして同級生で学院を過ごす間、ことごとくやりかえされたから、とフェルシアは風の噂で聞いている。
いずれ同じ公爵となるが、己より優秀なライナスを妬んでいるのだろう。
というわけで、そのライナスに関わるフェルシアをアランが見逃すはずもない。
「父上もよく許可したね。君の勇気には感心するな」
「恩ある公爵家の皆様に尽くしたいと、愚かにも考えただけにございます」
「あはは、大恩だって?僕達はそんなこと気にしていないよ、フェルシア」
決して「大」恩とは言っていない。フェルシアはまた溜息をつきたくなった。
「…でも、そうだね。君がそこまで言うなら、誰も止めやしないさ」
もう父上が許可していることだしね、と。
未婚のみならず、数多の女性に請われる唇がニヤリと歪み、評判の金眼がフェルシアを見つめ加虐的に輝く。
こんな風に笑う男だと知れれば多くの婦女子は逃げていくだろう。
「ありがとうございます」
フェルシアは頭を下げるふりでアランから視線をそらした。すると。
「…頑張りなよ。何か成果があるといいね」
音もなく接近したアランがフェルシアの耳朶にそう囁きかけた。
反射的にサッと引く姿に彼は満足そうに笑む。そして「では、またね」と去って行く。
だがアランの背が見えなくなっても、嘲る声はフェルシアの耳に残り続けた。