番外編 ピクニック
昔は一家でよくピクニックをした。
「フェル!はやくはやくー!」
「はあい…!」
急かす声に当時九歳のフェルシアは駆け足を早める。ゆく先は緑の茂みを抜けた向こう。そこには大小二つの影が待っている。
木漏れ日の落ちる小道を駆け抜け、立ち止まったフェルシアは、そこにいた姿にむくれてみせた。
「姉さま、行くのがはやいわ!」
「あら、先に行ってと言ったのはあなただったでしょう?」
「それでも、よ」
抗議し、抱きつくフェルシアへリーシャが目を細めて笑う。姉の温かな笑顔と柔らかに頭を撫でてくれる手が心地いい。
「まったくわがままねぇ。そんなに好き放題ばっかり言って。あなたと将来結婚する人は大変ね?」
「フェルは好きなようにしてていいのさ。どこにも行かず、うちにずっといるといい」
意地悪な問いに答えてくれたのは、姉の隣にいた兄のブラッドだ。今年十四になる、グローリーブルー家の嫡男で、姉妹と同じ白銀の髪に青い瞳の美しい少年。
その言葉にフェルシアは途端、笑顔になる。
「うん!私、ずっとずっとここにいるわ」
「そうなの?私は、すてきな人を見つけてお嫁に行きたいわ」
「えっ…姉さまは行ってしまうの?」
しゅん…と妹が顔を曇らせれば「あっ」とリーシャが慌てる。
「もう、わかった!わかったから」
「リィも結局はフェルに甘いじゃないか」
姉妹のいつものやりとりを見て兄が笑う。しかたないわね、とやっぱり甘やかしてくれる姉も大好きだ。
そうしてひとしきり兄姉に甘えてから、フェルシアはやっと眼下の風景に気付いた。
「わあ…すごい」
おおきい、と呟く自分へブラッドが「すごいだろう」と紹介する。
「うちの領地で一番の湖だ」
そこにあるのは大きな湖だった。広く平らな水面には綺麗に晴れた空が映っている。
三人の立つ丘上から見下ろすと、まるで草地にぽっかりと現れた青い円のよう。風が吹けばわずかな小波が立ち、なんとも壮大で穏やかだ。
「ここに来るのは久しぶりだわ」
「フェルは初めてだもんな。落ちたりするなよ」
笑顔から一転、揶揄うブラッドへフェルシアも反論する。
「心配ないわ、兄さま。私もう泳げるもの」
誇らしげに言えば、彼はまたおかしそうにした。どうして笑うの、と今度はそちらに迫ろうとしたフェルシアはしかし、逆にその手を掴まれきゅっと握られる。
「はは、ほら…もういいから。行くぞ」
「お父様達が待ってるわ」
姉より一回り大きい手に、不満を残しながらもフェルシアが頷けば、今度は反対の手を取られた。リーシャだ。
両脇を大好きな兄姉に挟まれ、フェルシアはそれだけで笑顔に戻った。
「うん!」
容姿の似た兄妹が、笑い合い軽やかに丘を下る。その無邪気な光景を見ていたらしく、たどり着いた先で両親も微笑ましげに迎えてくれた。
「やっと来たか」
敷物に座ったまま、そろって畔へ降りてきた子供たちへ声をかける壮年の男性。現グローリーブルー伯爵、兄妹三人の父ブレンドンだ。
「ふふ、待ってたのよ。みんな転ばなかった?」
次いだ台詞は夫人のアレシア。三児の母だというのにいまだ若々しい容貌は姉妹とよく似ている。
「はい。父さま、母さま」
「お待たせしました」
兄妹は顔を見合わせると、教わった通りに両親へ挨拶をした。フェルシアも淡いブルーのスカートを持ち上げて頭を下げる。
間を置いて顔を上げれば両親はニコニコと嬉しそうで、どうやら合格らしい。
(…よし!完ぺきだわ)
フェルシアは内心グッと手を握った。
もっとも彼らは末娘へ甘い。だから少し間違えたところで「可愛いわねえ」と笑うだけなのだが。そうとわかっていても、真面目に作法を習得中のフェルシアは達成感があった。
「さあ食べましょうか。みんなお腹が空いたでしょう」
アレシアの声に三人はわっと子供らしく両親の傍へ集まる。周囲にいたメイドが給仕を始め、フェルシアは彼女らの手元に興味深々だった。
一家の傍らに置かれた大きなランチバスケット。
フェルシアはこうして家族で過ごすことが大好きだが、ピクニックの一番楽しみと言えばこれだ。
籐で編まれた蓋が開かれる瞬間はとてもわくわくする。
「わあ……!」
開かれたバスケットの中にはぎっしりと料理が詰まっていた。色とりどりのそれらは目にも楽しく、いつもフェルシアを飽きさせない。鮮やかな箱庭を眺めるようで、毎回どんな景色が広がっているのか楽しみだ。
赤青の瞳を輝かせて料理の取りわけを待っていると、姉の声がした。
「フェル、しっぽが生えてるわよ」
意味がわからず振り返るとリーシャは悪戯っぽく笑う。
「なんだか、ご飯をじっと見つめる猫みたいね?」
「えっ…?…姉さま、へんなこと言わないで」
食事を待ってうずうずとする猫のようだ、と揶揄されフェルシアは納得できない。猫は好きだが、さすがに一緒だと言われるのは変だ。
けれど料理をジーッと見つめていたのは否定できない…。そう複雑になっていると父も笑う。
「フェルは相変わらず食べることが大好きだなあ」
「父さままで。ひどいです!」
ついに頬を膨らませてみせれば、思わぬ援護が入った。
「あら、いいじゃない。私も食べるのが大好きだわ。フェルはどれが食べたいのかしら?」
アレシアも身を乗り出し、フェルシアと一緒になってバスケットを覗き込む。
「はい…!えっと、チキンステーキとお花のサラダと、この丸パンと…」
「ふふ、全部とってもらいましょうね」
そう言ってまるく柔らかな頬にキスしたアリシアはメイドへ目配せした。そうして二人で次々と皿に乗せられる料理を眺める。
「やっぱりよく食べるなあ」
「フェル、私より大きくなってしまうのかしら…」
と、やっぱりブラッドとリーシャが苦笑するが、食欲旺盛な末娘は気付かない。今最も大切なのは、食べたいものがどれだけ自分の皿に乗るのか、だ。
すると、ブラッド達と並び母子を眺めていたブランドンが子二人へ向き直る。
「まあ、食べることは身体作りに重要だぞ。二人もしっかり食べなさい」
「そうね、お父さま。フェルはもう私より強いのよ」
「もう僕に迫る勢いだ。あれがその源なのかもしれませんね」
皿を渡され、「わあっ」と母の隣ではしゃぐ末っ子を前に、親子の会話は続く。
グローリーブルー家の子は礼儀作法よりも先に剣技を習得する。そして先月、フェルシアは二歳上の姉に打ち合いであっさり勝ってしまった。
リーシャは己に武芸の才はないと割り切っているので驚いただけだが、時折ブラッドともいい勝負をするので、内心、兄がひやひやしているのを彼女は知っている。
苦笑するブラッドへブランドンも目を細めた。
「そうだな…。だが、フェルは特別かもしれないな」
「それは…、どういう意味でしょう?」
驚いたブラッドが声音を落として尋ねる。父の声に含みを感じ、聞かずにはいられなかったのだ。
食べる量もさることながら、フェルシアの身体能力は血縁の中でも群を抜いていた。おかげでブラッドは妹から強い尊敬の念を向けられながらも、年々彼女を返り討ちにするのに苦労している。これにはやはり理由があるのかと。
明らかな違いと言えば、やはりフェルシアの赤い右眼か。それを以前、ブランドンは兄妹へ「おそらく先祖返りだ」と説明したが…。
それと関係あるのかと、ブラッドが問おうとすれば。
「いや―――フェルは、特別可愛いだろう?」
父の脈絡のない台詞に、ブラッドとリーシャがきょとんとする。それにも構わず、ブランドンはそっと二人の背を押した。
「あれだけ私達に可愛らしさを発揮しないといけないんだ。そのぶん食べないとな?…ほら、お前達も食べなさい」
しっかり食べて、しっかり動くんだよ。そうもっともらしく話を終わらせる父に、リーシャが小さく笑う。対してブラッドは「また父上がよくわからないことを言っている」という顔をしてから、バスケットの側で目をきらきらさせる妹へ近づいた。
「…どうしたの?」
そこでやっと三人の注目に気付き、フェルシアがきょとんと振り向く。
しかしそのピンク色の唇の端には、すでに小さなパン屑がついていて。直後、アレシアも含め一家四人を更に笑顔にさせたことは言うまでもない。