16.知ることで
あれから二年経った今、フェルシアは「オリヴィエ少佐はちょっとおかしい人だ」と思っていた。
陽の射し込む静謐な室内にて。
己の席についたフェルシアは、パラ…と紙をめくる。目の前にはずらりと並んだ文字と図式。それらはいくら手元を動かして次々と現れ、きりがない。
それは束どころか小山となってフェルシアの両脇にも積まれていた。
だがここでフェルシアの役目はそれらを読むことではない。書き損じやサイン漏れなど、一見して不備がないかの点検だ。
フェルシアはチラッと数メートル先を見た。そこでは大きな執務机でライナスが粛々と執務をこなしている。
その姿はいたって姿勢よく、朝から急用で書記官が消えたことに困った様子もない。
「どうした?何かあったか?」
「…いえ。特には」
フェルシアはサッと目を逸らした。疑問ばかりだが、正直に尋ねるわけにもいくまい。
しかしライナスはこちらの機微に聡い。全くもって不思議だが、この二週間、内心を言い当てられることがたびたびあった。
だから今もフェルシアがこの不可解な―――少佐の部屋に机を持ち込み、仕事を手伝う学生、という構図に疑問を持っていると、きっと気付いている。
なぜ私をここに置いたのですか。そんな疑問を胸にフェルシアは手を動かし続けた。ライナスがこれらの書類を読む前準備のために。
これは本来ルルリエがやっている仕事だ。だが彼女がいない間、予定の空いたフェルシアに「じゃあ、私の仕事を手伝ってもらおうかな」と微笑むライナスを断れるわけがない。
(……でもどうしてこの部屋なの?)
ライナスとずっと同じ空間にいると緊張する。せめて別の部屋でやらせてもらえないかと、フェルシアは悶々としていた。
その姿へライナスが「なにかに似てるな…」と考えていたなどと、知るよしもなく。
彼女は一山チェックし終わるたび書類を執務机へ運ぶ。する何度か往復したところでライナスが顔を上げた。
「不備はあったか?」
「はい。いくつか。該当の隊に返却するべきでしょうか?」
「頼めるか?よくわからないものはこっちに回してくれ」
ピッと直立し、「わかりました」とフェルシアも返事をする。もう週末になるので早めに届けるべきか、と思っていると。
「…ああ、フェルシア。昼は予定があるか?」
「いえ、特には」
昼?とフェルシア訝しむ。昼休憩のことだろうが、自分には「一応食べる」以外の予定はない。
するとライナスは意外な提案をした。
「なら一緒に食べないか?今から家の者が持ってくるんだが、毎回食べきれないんだ」
フェルシアは目を瞬かせた。これはどういう状況だろう、と。
「…すまない。嫌だったら断ってくれて構わないよ」
「あ…いえ。…私などが、よいのですか?」
「もちろん。じゃあその書類を配り終えたら休憩にしよう」
「はい。わかりました」
苦笑したライナスに慌て、間もなくまとまった話に。自席に戻りながらフェルシアは内心首を捻る。
フェルシアを執務室に招き入れて重要書類を触らせ、あまつさえ食事に誘うとは、やっぱり彼の考えていることはわからない。
(やっぱりちょっと変……いえ、変わった方なのかしら……?)
無防備すぎやしないかと、口には出せない言葉を頭に浮かべながら。
フェルシアは書類の束を持ち、ライナスに見送られて執務室を出た。
* * * * * * *
貴族にとって昼食は気楽な席だ。食材や食べる順番など、他の時間と違って決まりがない。
外食はもちろん、公園へランチバスケットを用意して赴くこともある。
(そういえば…昔はよく家族でピクニックに行ったわ……)
自然豊かな領地で過ごした子供時代。フェルシアも家族と共に湖畔に行き、青空の下で団らんした。
今と違ってよく食べたので、兄姉からいつも「フェルは自分達よりも大きくなる」と揶揄われたものだ。あのころはとても平和で、楽しくて……毎日が幸せだった。
そう懐かしみながら、フェルシアは応接セットのソファに座り、ライナスがバスケットを開くのを待っていた。「私がやります」と申し出たのを、あっさり断られたためだ。
ずっと立場も上の人を働かせるなんて、ひどくそわそわとする。
「どうした?そんなに構えなくていいぞ?」
別にとって喰いはしない、とライナスが笑う。それへフェルシアは生来の負けん気が顔を出す。自分はそんなに怯えて見えただろうか。
「…いえ。そんなことはありません」
「そうか?」
ライナスはどこか楽しそうだ。
始めはただ笑われている、と思うだけだったが、最近はその種類にも色々あるとわかってきた。…といっても、今の表情はやはり揶揄うようだったが。
そうしてやりとりしつつ、彼がパチンと留め具を外し、バスケットの蓋を開く。
すると色とりどりの光景が現れた。楕円形の底にずらりと詰められた料理達。芸術のように美しい様にフェルシアは感嘆した。
「とてもお綺麗ですね…。いつもこのように?」
「たまに、だな。本当はルルリエも誘おうと思ったんだが、タイミングが悪かったよ」
確かにこれは一人分の量ではない。男性でも三人分はありそうだ。そうフェルシアが頷きながら、フリルのようなレタスを眺めていると。
「じゃあ、どれが食べたい?」
その声に、フェルシアはハッとした。ライナスが小皿を持って聞いてくる。まさか…。
「…あの、閣下。自分で取りますので…」
「まあそう言うな。私に任せてくれ。せっかく一緒に食べてくれるんだ、このぐらいさせてくれないか?」
「いえ、それは………」
色々突っ込みたかったが、ライナスはすっかりそのつもりで待っている。深まる笑みにフェルシアは折れ、結局バスケットの端から順に注文した。
(こんな贅沢なことがあっていいのかしら)
公爵のライナスに給仕させていいのはきっと王族だけだ。間もなく、「どうぞ」と差し出された皿をフェルシアは恐縮しきりで受け取った。
彼はどんな動作をしていても優雅だ。自ら配膳しても嫌味ひとつなく、むしろ戸惑うフェルシアの態度を面白がっていた。
それへ悔しさか、申し訳なさか。渦巻く気持ちのよくわからぬまま、フェルシアもライナスの動作に合わせて食べ始める。
だがその一口で彼女は固まった。数秒そのままでいると、ライナスが問いかける。
「…どうした?」
フェルシアは我に返った。向かいの表情はなにか問題だったかと、怪訝そうだ。
「……あ…、いえ。とてもおいしい、です……」
コクンと飲み込み、誤魔化すようにティーカップを持った。だが内心は驚きでいっぱいだ。
久しぶりに食べ物を美味しいと思った。
フェルシアは手の中をまじまじと見た。だがこれは、ハムとレタスを挟んだだけのシンプルなサンドイッチだ。
(なにが違うのかしら……?)
考えるがわからない。ゾエグ公爵邸でもたまに食事をするが、あそこの料理は砂利を噛んでいる気分になる。
今の自宅、クローネ邸でも同様だ。二年前の記憶もあって気分が悪くなるので、到底一食分も食べられない。
じっと考え込めば、いよいよライナスが眉をひそめる。
「本当にどうしたんだ?口に合わなかっ…」
「い、いえ。美味しいです。こんなに美味しいものは初めて食べました」
あ、と口を噤むフェルシアへ。数拍遅れでライナスが笑った。
「…なあ、どういう意味だ?それはただのサンドイッチだ。褒めるならもう少し、手の込んだ料理に言うといい」
「あ…ですが……」
彼女は焦る。つい本音が漏れてしまった。ライナスが不快に思っていなければいいが…。
どうしよう、とフェルシアが俯いていると、彼はふと笑いを収めた。
「…すまなかった。もしかして、本当にそう思ってくれたのか?だとしたらとても光栄だ」
「いえ…、差し出がましいことを申しました」
「そんなことはないさ。笑って悪かった。そう言ってくれるのなら、どんどん食べてくれ」
そう言われフェルシアは目の前を見た。本当は初めて食べる他家の味も苦手だ。しかしサンドイッチに感動したからか、不思議と他の料理も美味しそうに見える。
「もしかしてサンドイッチが好きなのか?それなら他にも種類があるよ」
「あ…は、はい。そうです。ありがとうございます」
好物だったことにしておこうと、フェルシアは頷いた。多くは食べられないので、もう一つの卵が入ったものだけ貰う。
だがフェルシアはそれにも感動した。
また一口で固まる彼女へ、察したライナスが今度こそ吹き出すように笑う。
「ふ……、大丈夫か?」
「…あ、はい…。あの、…少佐のお家は大変素晴らしい料理人をお抱えなのですね…?」
「ああ…確かにいつもよくやってくれるが…。君が普段食べてる物とそんなに違うのか?」
フェルシアは迷った。これは何と答えるべきかと。
まずい、のではないはず。…いや、わからない。もしかしたら嫌がらせで、ロクでもない味付けで供されていることもありうる。
だが安易な発言はできず、「それは……」と口籠っているとライナスが微笑んだ。
「家の者に言っておこう。君が絶賛してくれたと。きっと喜ぶ」
「はい…よろしくお願いします」
彼はなにかに気付いたのだろう。それ以降もフェルシアは時折、ついサンドイッチを眺めたが、同じ質問をされることはなかった。
やがて食べ終え、またライナスが片付ける姿を見ながら。フェルシアは思い切って口を開いた。
室内にて二人きり。今は休憩時間で、いつもの事務的な雰囲気も和らいでいる。
今なら言える気がした。あの時の感謝を。
「あの」
すると彼と目が合う。深い紺藍。先月会った時はただ静かで美しいと思うばかりだった。
けれど今は、ちゃんと人らしい温かみがあると気付いている。
「…二年前、少佐が私を助けてくださった件なのですが…。その節は、大変ありがとうございました」
ライナスがピタッと手を止める。その様子に躊躇いながらもフェルシアは述べた。
「私が階段から落ちたところに居合わせたと伺っています。お怪我はございませんでしたか?」
もう年月が経ってしまったが、果たして彼は覚えているだろうか。だがたとえ忘れ去られても、フェルシアはずっと礼を言いたかった。彼は確かに己の命を救ったのだ。
するとフッと零された笑みに彼女は目を丸くする。
「…なんだ。知ってたのか」
「医師に聞いたな」と言われ、フェルシアは強く後悔した。やはり本当に彼だったのだ。当時、意識を失っていなければすぐに感謝できたのに。
「ご挨拶が遅れたことも、大変申し訳ありませんでした」
「気にしないでくれ。あれはたまたま通りがかっただけさ。君こそ、怪我はなかったか?」
「はい。おかげさまで全く問題ありませんでした」
確かに感謝していると伝えたくて、フェルシアは立ち上がって深く頭を下げた。数段とはいえ、階段から落ちたのだ。彼がいなければどうなっていたことか。
あの数日後、フェルシアの体調を管理する医師からゾエグ公爵へ報告がいき、家庭教師の行き過ぎた指導は取りやめになった。おかげでフェルシアは生き延び、今ここにいる。
「…あの時、君は熱中症に栄養失調だと先生から聞いたが。今は大丈夫なのか?」
「あ…はい。あの日は暑かったので…」
フェルシアは暑いのが苦手だ。他の生徒もバタバタ倒れるような猛暑日は、彼女には特に辛かった。
「いや、そっちじゃないな…。食事の方だ。今もあまり食べているようには見えなかったが」
バスケットを閉じながらの台詞に、フェルシアはつい、きょとんとした。
「そう…でしょうか?いつもの倍は食べたのですが…」
サンドイッチ二切れに林檎一欠片、そして紅茶を一杯飲めば充分すぎるほどだ。それに久々にちゃんと味がするものを食べた。実際の量以上の満足を感じる。
だがライナスは納得していないらしい。彼は男性なので、殊更フェルシアが小食に見えるのだろう。
「そうか…。無理はしなくていいが、少しずつでも何か食べた方がいい。訓練もあるからな」
「はい。支障のないよう努めます」
その言葉で理解する。彼は上官として体調管理をしろと言っているのだ。
フェルシアは深く頷く。二年前医務室で目覚めた時も、あわや死ぬところだったと知り、ちゃんと食べようと思えた。
(こうして生きて今日を迎えられた。少佐には一生感謝しなくちゃいけない)
それに加え、美味しい料理まで振る舞ってくれて。束の間、彼が聖人にも見えてくる。
…いや、実際そうなのかもしれない。
正体などわからないと自分が思っているだけで、あの悪徳なゾエグ公爵と対する人間だ。清廉潔白とまではいかずとも、国のためになる人物の可能性は高い。
そこまで考え、フェルシアはもう一つ重大なことを思い出した。
「そういえば…、あの年無事に叙爵されましたことも、遅ればせながらお祝い申し上げます」
二年前、突如ライナスが学院を去った理由。それはきっとこれが原因だった。おそらく急遽のことで準備に忙しかったのだろう。
ライナスが学院を去って三か月後、彼の叙爵に世間は祝いに沸き、恩人の慶事をフェルシアも心の中で喜んだ。
すると、それを聞いた彼が花咲くように微笑んだ。
「ありがとう。嬉しいよ」
赤青の瞳が見開かれる。その表情は、フェルシアが今まで見たどれよりも温かくて…。
薄いカーテン越しの陽が、重厚な室内を照らす。
そこに座る彼は美しかった。さらさらと揺れる黒髪に、控えめに輝く瞳。そして整った顔が緩やかに微笑めば、まるで一枚の絵画のようだ。
端正な身のこなしや青い軍服がその華やかさを際立たせる。そして。
(この方は、もしかして……)
自分の知る、狡猾で残酷な大人ではないのかもしれない。
ちゃんと血の通って、他人を思いやれる……信ずるに値する人間ではないかと、フェルシアは思えた。
なぜなら、自分はこの表情に影を一つも見つけられない。
ただただフェルシアの言葉が嬉しくて、感謝している。そんな風にしか見えなかった。
戸惑う。胸に込み上げる、この不意打ちの衝撃を……どう処理すべきかわからない。
(……やっぱりこの人、苦手だわ……)
自分に人を見る目はない。窮地に駆け付け、親切げに声をかけてきた人間に騙され、今その代償を払っている最中だ。だからライナスだって自分を助けてくれるとは限らない。
だがまるで異世界のような彼の笑顔に、束の間フェルシアは見惚れた。
窓辺に咲いた青い花。それが少しだけ、前よりも見やすい位置に移動していることに気付きながら。
なぜ人は夢を見るのか。
フェルシアはその答えを痛感した。