13.ささやかな温もり
白い雪の上に、ひしゃげたものがいくつも落ちている。
それらは周囲を赤黒く汚し、近くに立つ幹にもべったりと色を付けていた。
フェルシアは赤青の瞳を見開いて立ち尽くす。
どうして。どうして。頭の中はその言葉ばかりに支配されていた。
白い毛皮は引き裂かれ、黒く染まって。内側からぐちゃぐちゃに荒らされた彼らが動くことはもうない。
自分はただ、彼らと戯れていただけだ。
ここにいるよと教えられ、足繁く通っていただけ。
だがそうして愛らしい姿で、家族を喪い、塞いでいたフェルシアの心を温めてくれた命はもう―――どこにもない。
無惨に散らされてしまった。
この惨劇を見つけ、どれくらい時間が経っただろう。寒さに強い四肢も冷え、まるで棒のようになっていた。
すると突然、背後でサク、サク…と足音がする。フェルシアはハッと振り返った。
そこには一人の少年がいた。
金髪に金眼の、先週できたばかりのフェルシアの新しい友人だ。
だが近付いてきた彼は、青ざめて震えるフェルシアを見て……。
「ぁ……っ!」
ドクン、と心音を鳴らしフェルシアは目覚めた。
目前には見慣れた天蓋。だがまだ夜のように暗く、ふと首を回せばいつもの自室の風景があった。
今のは夢だ。
懐かしい、だが決してよい思い出ではない。あれは十歳のころ、もう他人を信じてはいけないと、自戒のきっかけになった出来事だ。
けれどどうして今更、と息をついてフェルシアは思い出した。
今日も実習の日だ。
* * * * * * *
その後、ウェルゴールド基地内にて。
フェルシアは朝焼けを見上げていた。早番で馬を世話した帰り道、夜明けの空がとても綺麗だ。
清々しく射す日が広い敷地内を照らしている。
近ごろ、早朝の気温もだいぶ低くなった。フェルシアは迫る季節を想う。今年は寒いだろうか、と。
(雪がたくさん降るといいなあ……)
冬は好きだ。
厳寒の故郷で、一家そろって過ごしたのを思い出す。
グローリーブルー領は北の辺境だ。冬になれば雪に閉ざされ、「陸の孤島」などと揶揄されるほどの。
だがあそこには幸せで楽しくて、なにものにも代えがたい、フェルシアの思い出の全てが詰まっていた。
自領から離れて八年経つが、あれから残された領民達がどうしているのか、そして…実家のマナーハウスがどうなっているのか。懐かしむと同時に、いつも不安になる。
生きてあの地に戻れるだろうかと、フェルシアが目を細めた瞬間。
ガサッ、と音がした。
フェルシアは反射的に振り返る。すると。
目が合った。
「ニャー……」
彼女は驚き、その姿が茂みから出てくるのを見守る。
小道の先に現れたのは白黒の短毛に青い瞳の猫だった。野良のようだが、どこか小綺麗ななりをしている。どうやって基地に迷い込んだのだろう。
そうやって観察する間にも、猫はフェルシアへトトト…と寄ってきた。
フェルシアは大きく後退る。
それを見た猫がピクッとこちらを見上げた。長い尾を立ててじっと仰ぐ姿勢で「にゃあん」と鳴く。
甘えた声音ときらきらしい一対の瞳は、まるで「だめなの?」と聞くようだ。
そんなねだるような仕草へフェルシアは戸惑う。しかしそれは苦手だから、ではない。
実はフェルシアは大の猫好きだ。
柔らかな毛並み、愛くるしい鳴き声と仕草にはとても癒される。
だが、過去、己の愛でた動物がどうなったことか。だから今も触れるわけにはいかなかった。
そうしてフェルシアが意を決し、この場から去ろうとした時。
「ルナ、おいで」
突然の声に、一人と一匹が目を瞠る。
フェルシアが驚いて振り向くと、そこには思った通りの姿があった。軽やかに寄ってきた小さな姿にかがみ込んでいる。
「オリヴィエ少佐。おはようございます」
「おはよう。猫は苦手か?」
よしよし、と白黒の毛並みを撫でるライナスの手は淀みない。フェルシアはまさかと思って問うた。
「…もしや少佐が飼っておられるのですか?」
「違うな。いつも厩舎付近にいる子なんだが、数年前に誰かが連れてきたらしい」
「そうなのですか…」
今、ライナスが呼んだ「月」が名前なのだろう。ルナはすでにゴロゴロ…と喉を鳴らし、彼にとても懐いているようだった。
(いいなあ……)
なんて気持ちよさそうなのかしら、と見入っていたフェルシアはハッと我に帰る。
これ以上ここに居てはまずい。…ついつい、羨ましくなってしまう。
フェルシアは両手をぎゅっと握り、踵を返そうとした。だがそこへ何気ない声がかかる。
「君も撫でてやったらどうだ?喜ぶぞ」
「え?いえ……」
やはり早くここを去るべきだった。上官にこう言われるともの凄く断り辛い。
「そう言うな」
ほら、と。ライナスがそっとルナを抱きかかえる。小さな肢体は抵抗もなく、くたっとしてされるがままだ。
「…とても大人しいのですね」
「ここに来てもう四年かな。毎日誰かしらが構っているから慣れたものだ」
なるほど、と頷きながらフェルシアは一歩引いた。
ライナスがルナを抱いて歩み寄ってくる。
「猫は嫌いじゃないんだろう?」
「普通です」
「だったらほら」
何度も促され、フェルシアは背に冷や汗を滲ませた。するとその顔色を見たのか、ライナスがピタリと足を止める。
「…もしかして、触れないのか?」
きっと猫に触れると発疹が出るとか、そういった懸念だ。しかしフェルシアはそれも「いえ……」と否定してしまった。
間違えた。そういうことにしておけば良かったと、後悔するが遅い。
「ふ……、早く撫でて欲しそうだぞ?」
なぜかおかしそうに笑って迫ってくる上官と、きらきらとした青色の瞳。
数拍悩み、ついにフェルシアは折れた。自然にこの場を離れるタイミングはとうに過ぎている。
彼女は大きな腕の中へおそるおそる手を伸ばす。そうしてそっと指先を小さな頭に乗せれば。
(わあ……)
滑らかな手触り。さらさらと撫でれば温もりも心地よい。
「大人しいだろう?」
「はい。とても人馴れしていますね」
少しでも人に脅かされようものなら、こんなにも安らいではいられまい。
「うちはやっぱり犬好きが多いが、皆この子は特別のようだ」
「とても可愛がられているのですね」
きっと日々の課業における癒しなのだろう。ごろにゃんと甘えるルナを前に、骨抜きになる皆が容易に想像できる。
心地よさに細められた青い瞳。微笑むようなルナの顔に、こちらも愛で具合に拍車がかかる。本当に可愛い。
間もなく、フェルシアはそっと手を降ろした。
「…もういいのか?」
「はい。ありがとうございました。……少佐はここで何を?」
「いや、君とこの子が見えたから様子を見にきただけだ。すまないが、君が大きく避けたのを見て笑いそうになった」
フェルシアは押し黙った。なんとライナスは、始めから見ていたのだ。
「笑いそうになった」と言うが、実際に笑ったのではないかと、つい疑惑の目を向ける。それを察知した彼も悪びれず嘯く。
「この子から逃げる者を初めて見たんだ。仕方ないだろう?ほら、また構ってくれと言っているぞ?」
「にゃー…」
くりくりの両目が「もっと」と言わんばかりに訴える。
フェルシアは溜息を抑え、そっと一歩退いた。
「いえ…はい、また」
そう答えたが、きっともう触れることはない。
昔ゾエグ公爵家にいたころ、己が可愛がっていたという理由だけでアランは兎達を惨殺した。子供が散らかしたように雪の上へ広がった光景は、今も忘れられない。
しかし決意と感情はまた別物で、いまだルナを抱く腕にフェルシアは羨ましくなった。
するとライナスがフッと笑う。
「そんなに好きなのか?」
「…何がでしょうか」
「猫が、だ」
ルナを見すぎてしまっただろうか。そう悔やむが遅い。
人気のない小道の上で、二人と一匹。この平穏さにまたうっかり気が緩んでいた。
「いえ特には。普通です」
「そうか?今、それ以上に見えたんだが」
「気のせいかと存じます」
口端を上げたライナスが「そうか?」と呟く。
…猫好きとばれたところで問題はない、とは思うが…。なぜだかここは素直に頷けない。
フェルシアは、警戒する相手にどこまで話をすべきかと、たじろいでいた。だがそれ以上に、ここで認めたら「負け」な気がする。特に根拠はないが。
しかしライナスはすでに確信しているらしい。
「飼ったことは?」
「…子供のころ、実家にいましたが…」
「では好きだな」
「どうしてそうなるのでしょう。普通です」
「好きじゃないのにわざわざ飼うのか?」
「邸の者がネズミを払うために住まわせていたようです」
「そうか。では、触ったことは?」
「それは何度も…」
あ、とフェルシアは己の失言に気付く。
早くも、ライナスの目が「好きでもないのにわざわざ触りに?」とこちらを揶揄している。
(もう…。この人、なんだか苦手だわ…)
自分が猫を好きだと知ってなにが楽しいのか。変な人だと、腹いせのような言葉が頭に浮かび、フェルシアはまた己を情けなく思った。
ライナスと言い合いのようになったのは初めてだ。自分は負けず嫌いなので、少し感情的になってしまったのが敗因か…。
「…いえ。では、私はこれで失礼させていただきます」
「ああ。また後でな」
もはや失意よりも気恥ずかしくなりながら。フェルシアは退散しようと、笑う上官から目を逸らす。
向けた背へ、それでもまだ揶揄うような視線を感じながら。