12.実力
翌日の夜。フェルシアはぐるぐると大きく手を回していた。
手に持つのは大きなスプーン。それで大鍋いっぱいのシチューを混ぜている。
周囲にはテキパキと働く人達。隊の調理班は今日も無駄なく、キャンプの一角を行き交っていた。その隅に並んだ火の前で、フェルシアは鍋底が焦げないよう慎重に努める。
これは完全に雑用だが、否やはない。実はさっきまで肉焼き係だったが、肉を真っ黒に焦がし、「これならできるよな?適当に混ぜとけ」と言われ彼女はここに立っていた。
(ただ焼くだけだと思ったのに、難しいのね…)
フェルシアは己の失敗を悔いる。
他の肉を見ている隙に、他方が黒焦げとは…厳しい世界だ。そういえば学院でも全て突っ込んで煮るシチューしか作ったことがない。あれに比べれば肉焼きは相当高難度だ。
「興味があるならやってみるか?」と勧めてくれたテッドには申し訳ないことをした。
「…あれ。お前さっき肉の前にいなかったか?こっちがいいのか?」
するとまたテッドが側を通りがかった。不思議そうにされても、フェルシアはなんともやるせない。
「…少し焦がしてしまいまして。これならできるだろうと、譲っていただきました」
「ははっ。あれは難しかったか。まあ慣れてないとな」
見上げれば彼はなんでもない事のように笑う。それにフェルシアはまた驚いた。
(…あれ?もっとがっかりされると思ったのに…)
自宅、というかゾエグ公爵の管理下では、言われた通りに事が進んでいないと周囲から睨まれ、詰られる。
それとは真逆の反応だった。フェルシアは今日までテッドの部下だが、失態だと捉えないのだろうか。
「まっ気にすんなよ。あんまやることはないだろうが、料理を覚えといて損はないぞ」
「はい、あの……申し訳ありません」
とうとう、気にするな、とまで言われフェルシアはたまらなくなった。きっとこれは、むしろ謝罪を待っているのだ。
しかし。
「え?ああ。本番でやらかすと焦げたのを喰うはめになるからな。今のうちに失敗しておけ」
一瞬なんのことかと、瞠目した彼はすぐ苦笑した。その表情はどこかおかしそうで、フェルシアはポカンとする。怒るどころか、もっと失敗していいと言われた。聞き間違いだろうか。
今は演習を追え、多めに持ち込まれた食材で調理をしている際中だ。確かに多少失敗しても支障はなさそうだが…。
フェルシアがぱちぱちと目を瞬かせていると、テッドは誰かに呼ばれて行ってしまった。
残されたフェルシアはまたぽつんと立ち、鍋の番を続ける。だが少し前とは心境が違っていて、頑張ろう、と強く思いながらせっせと手を動かした。
そうこうするうち、いっせいに食事が始まり、そして終わる。隊によっては盛大に騒ぎ出すそうだが、さすがライナスの隊。片づけを終えた後も皆きっちりと行動し、順番に休憩を回している。
そんな束の間の自由時間を、フェルシアは焚火の前で過ごした。
揺らめく炎からパチ、パチッ…と音がして、なんとなく心が穏やかになる。
(もう一週間か…。今のところ、特になにもないのよね…)
ここ最近、フェルシアは意外にも穏やかな日々を過ごしていた。
たまに学院で受講と自習、トーナメント予選試合を。自宅でも家人と話すことはなく、ただひたすらに日常を消化する毎日。
だが実習で基地にくると違った。隊では毎日色んな人達と話す。
やはり皆から遠巻きにはされているが、用事で接するのは少し慣れてきた。今回の演習でも、班内で必要な会話はできたので、邪険にされたり、避けられてはいないらしい。昨夜、衛生兵の彼に礼を言われた時など密かに驚嘆した。
さっきのテッドも気さくな人物の一人だ。じっと調理場を見る学生を面白がり、調理班に声をかけるとは予想もしなかった。
おかげでフェルシアは初めての経験をし、最後は焦げなかった鍋に「よし。もういいぞ、おつかれさん」と言ってもらえた。
(このまま、一ヶ月が終わってしまうのかしら?)
何も起こらず、有意義に実習を終える。そんなことがありえるのか。
ちなみにほぼ毎日ゾエグ公爵に実習の報告書を上げているが、今のところ、あの男の興味を引くものはないようだ。
だがフェルシアは、この隊での時間を心地よく感じていた。
なぜなら家や学院よりも、ここにいる方がよほど充実している。人間として扱われている気分になれた。それに……。
「フェルシア。眠くないか?」
「は……いえ、問題ありません」
フェルシアは腰を上げようとして「そのままで」と制される。この隊で自分へよく話しかける筆頭人物、ライナスだ。
背後から現れた彼はそのままフェルシアの隣の椅子に座った。
「演習はどうだった?大活躍だったそうだな」
「…あの…そのようなことはないと思うのですが」
その尋ねにフェルシアは怪訝になった。
「大活躍」とは、どういう意味だろう。
「ああ。演習中に出た魔獣をほとんど倒したそうじゃないか。さっき向こうで君の武勇伝が回っていたぞ」
「……すみません。それはどのようなものでしょうか?」
「『襲いくる魔獣を次々倒して、風みたいに俺のところへ駆け付けてくれたんだ』だったかな。結局何匹やったんだ?」
フェルシアは押し黙った。口ぶりからして情報源は例の衛生兵だ。
いつの間に思い込まれたのやら。だがそんな嘘じみた話をライナスは信じるのだろうか。
「確か二匹だったかと…」
「そうなのか?例の魔獣が出た辺りを調べさせたら、ちょうど死骸が七体落ちている所があったよ。綺麗に一撃で仕留めてあったそうだが」
不思議だな?と問うような微笑みにフェルシアは息を飲んだ。
これは信じているのではなく―――気付かれている。
(どうして調べて…ううん。やっぱりちょっと苦しい言い訳だったんだわ)
魔獣が獲物を置いて消えるのは不可解だ。その生態を調べている軍として、テッドの報告をライナスも妙に思ったのだろう。
フェルシアは重い口を開いた。
「申し訳ありません。そういえば、途中で倒したものも含めれば七匹はいたやもしれません」
「…そうか。思い出してくれてよかったよ。また謎が増えるところだった」
そうして深まる笑みに、フェルシアは気まずく背筋を伸ばした。これは論外に「次からちゃんと報告するように」と言われている。
「それに君は夜の森にも物怖じしないと、テッドが褒めていたよ。魔獣の対応といい、ずいぶん慣れているんだな」
「いえ。学院にてよくご指導いただきましたので…」
「そうか。最近の学院は、夜中に魔獣を何匹も相手にするような立ち回りを教えているのか?」
ちら、と視線を寄こされフェルシアは一瞬黙った。
もちろん学院でそんな教えはない。ライナスは自分がなぜ魔獣狩りに慣れているのかと、そう問いたいのだ。
「…そのようなことは。ですがあの時は必死でしたので。神が味方をしたのでしょう」
実戦経験のない普通の学生なら、暗闇の中を逃げ回るのがせいぜいだ。しかしフェルシアはどうすれば簡単に魔物を倒せるか知っていた。
そう明かすわけにもいかず、彼女はなんとか無難に返す。するとライナスはまたフッと笑んだ。
「そうか…。まあ、君の実力を考えればなにも不思議はないな。これからも期待しているよ」
「はい。ありがとうございます」
一旦許してくれたらしいと、腰を上げる上官にフェルシアは内心溜息をついた。
ライナスはいつも自分をよく見ている。そして毎日なにかしら話しかけてきて、「あれはどうだった?」などと聞いてくる。監視が目的なら感想を聞いてアドバイスする必要はない。
…それがまるで、見守られているようで。
フェルシアは改めて己に念じる。
絆されてはいけない。
信じてはいけない。
だがライナスと接するたび、フェルシアは逆に己の心が汚れている気がした。