11.行軍演習
子供のころ、フェルシアはふらりと消える子供だった。
好奇心旺盛で、一度集中すると周りが見えなくなる。
それが家族や彼女をよく知る者の感想だ。
本人もそれをわかっていて、「気をつけなくちゃ」とは思うのだが…。結局は気になる全てを追い、どこまでも走ってしまう。
中でも特にフェルシアを誘うのは時折森を漂う赤い霧だった。木登りをしたりかくれんぼをしたりと、兄妹で遊んでいる時にも、突如目の前にふわふわと浮かぶもの。
それに彼女はどうしてようもなく惹きつけられ、いつも手を止めてはその正体を追った。
つられて森の深部に入れば、やがて赤い霧は視界を遮るように濃くなる。
しかしその頃にはもう、赤青の瞳が追うのは空中ではない。
地を蹴って己へ駆けてくる黒い獣だ。
* * * * * * *
ザシュッ、と手元から黒い飛沫が散る。フェルシアはその穢れも難なく躱し、背後を振り返った。
辺りは暗く、時折風で木々がザァッと唸る。頭上には月が出ているが、枝葉に遮られ、地上に届く光はわずかだった。
(…皆とすぐに合流しないと)
そんな不気味な森の中でフェルシアは次の目標を決め、スタスタと歩き出す。剣を抜いたまま、血濡れた草地に数匹もの死骸を残して。
今、フェルシアは実習の一環で王都の郊外に来ていた。
オリヴィエ隊での数日間の行軍演習だ。
数人編成の班に分かれ、いくつかの場所を経由しながら最終地点を目指す。フェルシアもそのうち一つの班に同行していた。
だが開始二日目にして彼女は一人きり。先ほど魔獣の襲撃があり、いつのまにか班員が散ってしまった。
(さっきまで一緒にいた彼はどこかしら?)
近くにいるはず、とフェルシアが考えていると。
「…わぁっ…!」
遠く聞こえた悲鳴に、フェルシアは反射的に走り出した。夜目が効けば何に躓くこともない。
茂みを飛び越え、なだらかな坂道で木を避ける。すると目先に二つの影が見えた。
その、今にも重なりかける一人と一匹の間へ。フェルシアは割って入り、捉えた一点へ刃を降り下ろした。
鋭く獣を貫く白刃。その途中、カシャン、とかすかな音がした。
「……………え?」
そうして毛むくじゃらの塊がドッと地に伏す。すると隊員はやっと気付いたようだった。襲われる瞬間、彼は目を瞑っていた。
「え?…フェルシ…?えっ…?」
「…大丈夫ですか?もうこの辺りにはいないようです」
突然現れたフェルシアに男性隊員は目を白黒させる。目を閉じたら魔獣が倒れたと、仰天しているらしい。
「あ…いや、ありがとう。助かったよ」
彼は衛生兵だ。戦闘慣れしておらず、今にも剣を取り落としそうである。
だがさすがに腰を抜かす、とまではいっておらず、フェルシアにホッとして見せる。
「いえ。とりあえず解散地点に行くべきでしょうか?」
「そうだな。静かに行動しよう」
改めて二人は行動を開始した。すると皆同じ考えで動いていたらしく、間もなく全員合流する。
すると班長のテッドが真っ先に尋ねた。
「おい、フェルシア。怪我はないか?」
驚いたフェルシアが「問題ありません」と返せば、相手は安堵する。と、そこへ突っ込みが入った。
「班長。俺の心配はないんですか?」
「アホ。どう考えてもこっちが優先だろうが。学生に何かあったらどうする。それに…」
どこからともなく飛ぶ軽口に、テッドが溜息をつく。それを横目にフェルシアは目を丸くしていた。
(一応、『学生として』心配はされるのね…)
人に案じられたのは久しぶりで、彼女はもの珍しくテッドを眺める。だが。
「野郎の前に女子の心配だろうが。しかもフェルシアだぞ。何かあったら俺が少佐に睨まれる」
次いだ台詞も色々予想外で、彼女はまたきょとんとした。その意味を問いたくなっていると、テッドはまた振り向いた。
「そういえば、お前らの方にほとんど走っていったと思うんだが。あれはどうした?」
彼の言う通りだ。小一時間前、十匹ほどの魔獣が襲来し、そのうち七匹がフェルシアと衛生兵を追いかけていた。
すると衛生兵が首を傾げる。
「…?いえ、自分には一匹だけでしたが」
「私も一匹だけです。後はいつの間にか消えていました」
フェルシアも続けて言えば、テッドは怪訝そうにした。魔獣は獲物を執念深く追う。それが何匹も消えたのが腑に落ちないのだろう。
それでもフェルシアは真実を隠した。
本当は先ほど、七匹全てを処理したのは自分だ。常人なら二人がかりで一匹のところを、彼女なら一人で複数相手取るのもわけない。
しかし学生の身でどうしてそこまで、と疑問を持たれるのも面倒だった。
「そうか…?わかった。…じゃあ皆、作戦を再開するぞ」
その一言でサッと場が引き締まる。皆無言で頷き、班長の指示を待つ。
フェルシアも気を引き締め、また班の最後尾に付いた。