53.あの時のこと
カタン、カタンと規則的な振動と、ガラス越しに流れる風景。外に広がる野山をゆるやかな風が抜け、辺りはいたって平和な雰囲気だった。
だが対照的に、フェルシアのいる車内は沈黙に満ちている。
(えっと……ど、どうしよう……?)
彼女は膝上の両手をきゅっと握った。
ちら、と見る斜め向かいにはライナスが座っている。使用人は皆出ていって二人きり。しかし彼もまた外に目を向け、じっと黙っていた。事情があり帰路の途中で同乗したが、ここに座ってから会話がない。
どことなく気まずい。だがこれはきっとテュリエールでの事が原因だ。王宮の広間で彼とした、キスとか結婚だとか、あの大胆な話の。
テュリエールを発つ前は人混みにいたので、ライナスと話すのもあまり緊張しなかったが、こうして密室で向き合うとどうしていいかわからない。
「……どうした?何かあるのか?」
「え、あ……はっ、はい」
ライナスの声にフェルシアの両肩が跳ねる。何度も盗み見ていたので、彼も不審に思っただろうか。
彼女が顔を上げれば、涼やかな瞳と目が合う。白昼にて、日差しを孕んだ双眼は紺碧にも似てとても美しい。そう感心しながらフェルシアは口を開いた。
「あの……先週の反乱では助けてくださりありがとうございました。あの後も大変忙しかったと聞いています。お疲れではありませんか?」
「いや、問題ないよ。ありがとう」
そう答える姿に疲労は伺えない。反乱後に夜遅くまで働き、この一週間余りも移動続きなのにさすがだ。だがそこで続いた問いにフェルシアは目を泳がせた。
「だが助けたと言っても、大したことはしていない。……君がどうしてああなっていたのか、詳しく聞いていなかったな」
「それは、ですね……」
フェルシアはきゅっと手を握り合わせる。「ああなって」とはエルヴァルドと隠し通路にいたことだろう。やはりこの説明からは逃れらないと、フェルシアは躊躇いつつ事情を口にした。
「あの前に王宮内での戦いに巻き込まれまして……。そこで出会った殿下が、出口を案内するとおっしゃったのです」
「それで、あの壁の中にいたのか」
彼女も頷く。そうだ。自分は脱出できると思い暗闇に入った。
「は、はい。その後は、お話しした通りです。殿下の話をお断りしたところで扉が開いて……」
「フェルシア?君はわかっているはずだが?」
素早く挟まれた言葉に、フェルシアは「えっと……」と口籠る。最も聞きたい箇所を飛ばすなと、彼はそう言っている。
あの時壁に入り、広間に出ようとした途端、エルヴァルドの雰囲気が変わった。
いつの間にか壁際に追い込まれ、頬をとられて。……それでやっとフェルシアも抵抗したなどと、この力強い目の前ではとても言い辛い。
「……途中で、殿下と婚姻の話になりました。それをお断りしましたら………一度でいいから、口づけをと。それで」
「あの男、やはり一度殴っておけばよかったな」
フェルシアは目を剥く。今、ハッキリと物騒な台詞が聞こえた。聞き間違いではない。
「ライナス様……!」
滅多なことを、と彼女は焦る。仮にも相手は王太子だ。だがそこで向けられた鋭い視線にフェルシアはかすかに震える。
「もし君が正式に俺の婚約者であればその程度文句は言わせない。そうでなくとも、他にも後悔させる手段はいくらでもある」
あの場では仕方なく物理的手段に訴えなかった。しかし報復を諦めたわけではない。そう示すような口調にフェルシアは固まる。
(……これからのテュリエールとの交渉、大丈夫かしら?)
固唾を呑む己へ静かに、しかし確固とした声は続く。
「君も。軽い接触から後戻りできない関係に追い込むのは簡単だ。警戒に昼も夜もない。……だから気を付けるよう言ったつもりだったが?」
「……すみません」
それについては反省しかなく、フェルシアは項垂れる。自分は有事を利用し唆された。
「相手が悪い上、異常事態だったからな……。だが、今後はより注意してほしい」
小さな溜息が聞こえ、フェルシアはおずおずと顔を上げる。見ればライナスの瞳から鋭さは消えており、彼女は少しホッとする。
あの広間でエルヴァルドと対峙した時、ライナスは糾弾の姿勢を隠さなかった。だが日頃、激情を見せることなど滅多にない人だ。どう説明したものか悩んでいたが、心配し過ぎずともよかったかもしれない。
そう思い、フェルシアが胸を撫で下ろしていると。
「で?彼を拒んでいる内にあんなことになっていたと、そういうことでいいのか?」
「!……は、はい。いつの間にかああなってしまって」
「……そうか。まあ、俺も君達の騒ぐ声で仕掛けに気付いた。確かに殿下の言うような雰囲気じゃなかったな」
「そうなのですか?」
言われフェルシアは目を丸くした。壁の中でエルヴァルドと言い合ううち、自分も声が大きくなっていたらしい。あの時はとにかく相手を拒否をしようと必死だった。
「そういえば、扉を開けた時に言って……」
続いたライナスの言葉にフェルシアは息を飲む。
「!ライナス様。あれはお忘れください……!あ、ほら。外がとても綺麗で……」
まさかあれを聞かれたのかと、彼女は慌てて顔を背けた。
すると目に映ったとある光景。それを見て動かなくなるフェルシアの前で、ライナスも外へ顔を向ける。
「……ああ。もう入ったか。降りてみるか?」
目を見開き、黙り込むフェルシア。しかし願ってもない誘いに、彼女は窓から目を離せぬまま尋ねた。
「……よいのですか?」
「もちろん。そのために来たんだろう?」
車外に広がるなだらかな丘。その穏やかな景色へ時折、鮮やかな青がひらりと舞った。