10.セラン
実習三日目。この日もフェルシアはライナスの執務室に出入りしていた。
予定通り、ルルリエに付いて雑務の手伝いや報告の見学している。
「……ということですが、どうしましょう?」
「なら四番小隊に回せ。物資の件はさっき団内で話がついたから、来週頭まで待て。次の演習は計画通りだ」
「了解しました」
目前でテキパキと進む会話にフェルシアは感心していた。ルルリエの簡潔な報告もだが、一息で全て答えてしまうライナスが見事だ。
彼は家と役職で忙しいはずだが、このスピードで万事進むのなら、ちゃんと寝る時間があっても納得である。
しかも今のところライナスが焦ったり、苛々しているのを見たことがない。その落ち着いた態度にもフェルシアは驚いていた。
(この方、あの親子とは全然違うわ…。いえ、私の家族とも、だけど)
部下への指導、叱責を除き、ライナスは基本的に穏やかな人だ。
頻繁にフェルシアを呼びつけてねちねちと詰るゾエグ公爵や、嘲笑うように絡んでくるアランとは真逆だ。そして相手の表情をよく見ているらしく、フェルシアがなにか疑問を持っているとすぐに説明をくれる。
初めて出会うタイプの人だ。この数日でフェルシアはそう確信した。
そんなわけで真剣に二人を見守っていると。ルルリエが背後の己を振り返る。
「フェルシア。すぐ戻ってくるからそのままでね」
フェルシアも「はい」と頷いた。
そうしてルルリエは部屋を出て行った。残されたのは、またペンをとるライナスと、壁際に佇むフェルシア。
室内に沈黙が落ちる。
カリカリ…と鳴るかすかな音を聞きながらフェルシアはじっと直立し続けた。
するとふと、ふわりと柔らかな風が頬を撫でる。同時に覚えのある香りがして、フェルシアはハッと顔を向けた。今のは…。
すると思った通り、そよぐカーテンの下に懐かしいものが見えた。どきっと胸が高鳴る。
「……ああ。珍しいだろう?」
すぐにライナスに気付かれ、あ、とフェルシアが思っていると。立ち上がった彼はこちらを手招きした。
「近くで見てごらん」
その声にフェルシアもサッと歩き出す。
間もなく彼女が立ち止まったのは、ライナスが見ている窓辺だった。手を伸ばした彼が、そっと紺色の布地を持ち上げる。
すると二人の前に小さな鉢植えが姿を現した。カーテンに擦れ、瑞々しい葉や花弁がふるっと揺れる。それはまるでお辞儀をしたようで、なんとも愛らしい。
(セランだわ…)
フェルシアは感慨深くその花を見つめた。
カーブを描く濃緑の葉、その間から伸びる細い茎。頂点でいくつも軽やかに咲いた独特の青も美しい。
草花にしては存在感があり、単体で花束にするには控えめな立ち姿。
見るのは数年ぶりだが、凛とした雰囲気も変わっていない。
「よく咲いているだろう?」
「はい。…ですがどうしてここに?」
フェルシアはつい尋ねた。セランは寒冷地を好むので、基本王都では育てられない。最後の記憶でも切り花として売られていたのみだ。
「近頃は私の領でも栽培していてね。暖かい気温に適応したものがあるんだよ」
「そんなことが…?すごいですね…」
フェルシアは素直に感動した。セランと言えば北方の特産だと思っていたが、それが覆ったというのか。
だが確かに、この一株はとても元気そうだ。花の影にはまだまだ蕾もあるし、きっと丁寧に世話をしているのだろう。
感嘆したフェルシアが飽きずに花を見つめていると。
「よかったら持って帰るか?」
「え……?」
フェルシアは我に返った。ぼうっとして変な顔をしていたかもしれない。
「邸にもまだいくつかあるんだ。珍しいならあげるよ」
目の前ではライナスが微笑んでいた。その表情は自然で、とても無理をしているようには見えない。
だが促されたフェルシアは後悔する。懐かしむあまり気が緩んでしまったと。
彼女は慎重に口を開いた。
「お心遣い痛み入ります。ですが…」
ライナスは警戒すべき相手だ。決して何かを受け取ることはできない。…たとえ本心では羨んでいたとしても。
「この子はここに咲いて喜んでいるように感じます。これからもこの日向に在るのがよろしいかと」
それに間違っても己の手元には置けまい。持って帰ったが最後、少し目を離せば使用人に捨てられる。
ゾエグ公爵の指示で、フェルシアの周囲に余計なものは何一つ置かせてもらえない。
そんな非道を、ライナスは思ってもみないだろうが…。
「そうか」
静かな声にフェルシアは顔を上げた。隣の表情は静謐で気分を害した様子はない。どこか、彼女の言葉を見定めているようにも感じる。
それに少し気まずくなり、フェルシアはさりげなく視線を戻した。
ガラス越しの陽を浴びて咲くセランの花。それは活き活きとしていて、フェルシアの台詞は本心だった。ここでなら元気に咲き続けられるだろう。
(あなたは、ここが好き?)
セランは産まれた時から側にあった、フェルシアにとって分身のようなものだ。
それが伸びやかにそよいでいると、とても満たされた。ここには温かくて静かで……優しい空気があると、そう思えてくる。
束の間、フェルシアは故郷を想って青い花を眺めた。