50.闇の中、二人きり
「まあ、ごきげんいかが?アレス」
広間に響いた声にフェルシアはますます驚いた。
エルヴェリーナだ。優雅で自信に満ちたそれは、華やかな笑みを思い出させる。やはり姿は見えないが、堂々と扉の前に立っているのだろう。
だが、なぜライナスと共にいるのか。
「王女殿下。ご無事でようございました。お怪我は?」
「ないわ。だってあなたが送った者達は手慣らしにもならなかったもの」
「……それは、とんだ無礼を。では、ここでもう一度お相手させていただきましょう」
ピィッと指笛が鳴る。それからすぐ複数の足音がバタバタと聞こえて……ラダンはまた仲間を呼んだらしい。複数の気配にチャッと刃を構える音もした。
「……お父様が悲しむわ。あなたのことを気に入っていたのよ?」
「それは存じ上げませんでしたな。都合よく利用されているだけと思っておりましたゆえ」
さも残念そうなエルヴェリーナとラダン。二人のやりとりに高まる緊迫。
ライナスは口出しせず見守っているが、これでは彼も戦いに巻き込まれる。じりじりと踏み出す広間内の雰囲気にフェルシアは腰を浮かせた。
「あの、私」
自分も行かなければ。傍観している場合ではない。
だが目前の壁を押してみるがびくともせず、フェルシアは慌てて傍らを見上げた。
「問題ない。ヴェーナは当然として、ライナス(あいつ)も強いんだろう?」
返ってきた平然とした口調。それに瞠目すれば、あっという間に戦闘は始まり、キィンッと甲高い音が重なった。
フェルシアは焦る。今すぐここから出るにはエルヴァルドだけが頼りだ。
「そんな。どうか開けてください。私だけでよいのです。早く行かないと」
「断る」
「殿下……?」
どうして、と彼女は隣を見上げた。相手の顔はどこか楽しげで、なにを考えているのかわからない。
するとエルヴァルドがスッと手を上げ、それはフェルシアの背後へと伸びた。
「じき終わる。あいつらに任せておけ。……その間に少し楽しむか」
どうすれば出られるのか、彼女がその疑問でいっぱいでいると。真横にトン、と手をつかれる。
フェルシアはハッとして一歩下がった。しかし背がすぐ硬いものに当たる。壁だ。一瞬でフェルシアは追い詰められていた。
「あの、なにを……」
暗い中、間近に迫るエルヴァルドの姿。フェルシアが驚いていると、彼はそっと口を開いた。
「フェルシア。あの話、俺は本気だった」
「え……?」
耳元で囁かれ、彼女はピクッと肩を揺らす。
「婚姻の話だ。俺は本当にお前でもいいと……いや、違うな」
驚きに揺れる赤青の瞳と、それを射抜く紅の瞳。炯々とした輝きにフェルシアは息を飲んだ。
「お前を俺の妃にしたい。あの男はやめて俺のところに来い」
それを聞きフェルシアはいっそう目を見開いた。
「エルヴァルド様……」
二度目の求婚だ。けれど前回よりも明確な台詞に彼女は座り込んだまま固まった。
「恋人くらい、諦める理由にはならない。婚約すらしていないくせに、舐められたものだな」
「ぁ……」
適当な言い訳はするなとエルヴァルドが目を眇める。前回は笑って逃がしてくれたが、今のエルヴァルドは本気だ。
迷った末、フェルシアは一番の疑問を口にした。
「どうして私なのですか?他にも相応しい方はたくさんいらっしゃるのでは……」
テュリエール国内にも高位の令嬢は大勢いる。それに自分達はまだ会って間もなく、こんな風に求められるのは違和感があった。
「そうか?お前も充分強く賢く、美しい。それに……見ていて奇妙で面白い。大人しそうに見えて我が強く、目も正直だ。そうやって俺に文句がある時もな」
「!……すみません。そのようなつもりはありませんでした」
フェルシアは慌てて俯く。自分の視線がうるさいなんて自覚はなかった。
「それがいいと言っている。その愛らしい唇が、ものを言えず震えているところも。噛みつきたくなる」
「……あの。……あまり、そういうことは……」
ライナスで少しは慣れたつもりが、やはり熱く見つめられるのは落ち着かない。この、背を伸ばせば顔が重なりそうな距離も。早くこの人から離れなければと、本能が騒ぐ。
「相変わらずだな。だがそこがまた良い。……で、返事は?どうなんだ?」
ふっと笑われ、フェルシアは口籠った。きっとこの間の返事は無効だ。なぜなら自分は本心での答えを出さなかったから。
今日こそ答えろと、そういうことらしい。
そこでフェルシアは一瞬目を閉じて……次に瞼を開けた時、その双眸は真っ直ぐエルヴァルドを捉えた。
「……大変残念ですが、私めは殿下にお応えできません」
「そうか。理由は?」
エルヴァルドの反応に驚きはない。やはり彼はわかっていて、その上で改めて問うている。
意を決しフェルシアは口を開いた。
「私はライナス様のことをお慕いしています。他の方との結婚は考えられません……ので」
尻すぼみな告白は、すぐに暗がりへ溶けてゆく。エルヴァルドが肩を竦めるのがおぼろげに見えた。
「ふん……。結局あいつか」
とうとう言ってしまったと、フェルシアは高鳴る胸を押さえる。誰かを想う気持ちを打ち明け、これほど緊張するなんて知らなかった。
「また断られるとはな。そんなに俺を拒んだ女は初めてだ。ますます興が乗るな?」
「えっ……?あの、殿下」
「冗談だ。そんな相手に無理に迫るほど馬鹿じゃない」
焦ればすぐにひっくり返され、彼女は脱力する。本当にエルヴァルドも気の抜けない人物だ。警戒の解けぬフェルシアを一瞥すると、彼は視線を移した。
「……そろそろ出るか。もう終わったようだ」
「え……あ、はい」
気付けば騒がしかった壁の向こうは静かになっている。
ライナス達はどうなったのか。負けたはずはなく、もしかしたら二人とも出て行ったのかもしれない。
(ライナス様もご無事でいるといいのだけど)
ゴクリ、と息を飲みフェルシアは扉が開かれるのを待つ。
だが、数秒待っても目の前が開けることはなく。突然、エルヴァルドがこちらを向いた。
「……気が変わったな。帰国の前に一度顔を貸せ」
「は……?」
ぐいっと腕を引かれ、フェルシアはまた壁を背にしていた。わけもわからないまま、一瞬で互いに元の態勢に戻る。
蹲る彼女の前にエルヴァルドも膝をつき、その頬へ両手を添えた。
「動くなよ」
そう言って顎を掴まれ、頭上の顔が近付いてきて。察したフェルシアは一拍遅れで身動ぎした。
「え……?あっ、ちょ……やめてください……!」
(きっ、キス……!?)
突然の求めに抵抗するが、王族相手では怯んでしまい、彼女は躊躇いながら逞しい肩をぐいぐいと押した。
「暴れるな。頭を打つぞ?まったく……」
必死に顔を逸らすフェルシア。今度は後頭部に大きな手を添えられ、彼女は余計混乱した。
「あ、ありが……じゃないです!さっ触らないでください……!」
近い。
それにいつの間にか腰を抱かれ、頭を抱えられれば令嬢として危機感も高まるというもの。
相手は鍛えている男だ。一度掴まってしまえば逃げ出すのは難しい。
「お前、ここまできて今更断るつもりか?いい加減にしろ」
耳元で聞こえる溜息に、フェルシアも焦り言い募った。
「そ、れはこちらの台詞です!殿下がここから出られると言ったためで……!私は、こんなつもりでは」
「用が済んだらな。ほら、大人しくしていればここから出してやる。こんな所で俺といるなど、公爵に知られたくないだろう?」
「!それは……」
エルヴァルドの揶揄にフェルシアは動揺した。
ライナスにだけは。こんな風に隠れて異性と密着するはしたない女だと思われたくない。だから早くここから出して欲しい。なのに。
フェルシアの背を冷や汗がつたう。
「諦めろ。大した警戒もせず、口実に引っかかったお前も悪い。もしかして、少しはそのつもりだったんじゃないか?」
「は……?ち、違います!」
めちゃくちゃだ。勝手に都合よく受け取めて、やっぱりエルヴァルドは理解し難いと、彼女は反論する。
「そんなわけはありません。殿下、もう止めてくださ……っ?」
すると、ぐいっと両手で押す先が、途端に軽くなる。
フェルシアが「えっ」と思う間にも軽く引っ張られ、今度は手に固い感触があった。これは……床の木板だ。まさか今、自分はエルヴァルドの上にいる?
膝に触れる冷たさとあやふやな視界。だがそれでも危機的状況は変わらない。フェルシアはなんとも大胆な態勢のまま応酬を続けた。
「別にいいだろう?唇の一つや二つ、減りはしない」
「やっ……。私は減ります!」
また頬を取るエルヴァルドに彼女は身を震わせる。そうして思ったままを口に出した。
「きっ、キスは……好きな人としたいので……!」
そう小さく叫ぶと同時。真横でズッとかすかな音がして。
鮮やかに開ける視界。
それに二人が眩しさに目を細めれば、場に軽やかな声が響いた。
「あら……ごめんなさいね、二人とも。お邪魔しちゃった?」