48.独占欲
頭上から響くそれは重たげで、見れば街の方から鈍色の雲が迫っていた。いつの間にか周囲にいた人々も消えている。
フェルシアとライナスだけが湖岸に取り残されていた。
「降りそうだな……。とりあえず馬車に戻ろう」
「は、はい」
さっきまで晴天だったが、そろそろ夕立らしい。夏らしい天候に足を上げれば、小走りでリリィが近付いてきた。
そうして靴を履き、さあ帰ろうとまた二人きりになった時。こちらに背を向けるライナスを見て、フェルシアは一つの重大事案を思い出した。
(あ!あれを言っておかないと……)
『明日の夜、一人で彼の部屋に行ってみようと思うの』
昨日、エルヴェリーナに囁かれた夜這い宣言。今夜、ライナスの部屋にエルヴェリーナが行くかもしれない。
フェルシアは周囲を見渡すが、広大な湖畔は閑散とし、今なら聞く者はいない。密かに警告するのにうってつけだ。
そう思い口を開きかけて。ふと彼女は気付いた。
(……あれ?これってもしかして……余計なお世話……?)
ピシャーン、と脳内に閃く考え。
もし……もしも、ライナスがエルヴェリーナの訪いを喜ぶなら。
彼がふしだらな真似を歓迎するとは思えないが、万一、ということもある。
それにフェルシアは恋人ですらない。自分がこの警告をしようがしまいが、彼の選択に影響はないだろう。
(でも……私は言わないままでいいの?)
よくない、と心の底から声がする。妙齢の男女が部屋に二人きり。なにをするかは明白だ。
自分はエルヴェリーナがライナスの隣に並ぶだけで胸が痛む。彼への想いに気付いた今、他の女性を室内へ入れる彼を想像しただけで……この場に立ち尽くしそうだった。
それに黙って見過ごせば、今後「王女となにかあったのでは?」と悶々とするのは目に見えていた。なぜなら、もうすでに振り回されている。
フェルシアは躊躇う。けれどその間にも目前の姿は歩き出していて。
待って、と思った時にはもう、指が彼の袖をつまんでいた。
「どうした?」
「あ……いえ、あの」
すぐ振り向くライナスに、フェルシアはパッと手を離す。引き留めたはいいが、なんと切り出すべきか。
フェルシアは俯き、両手をぎゅっと握った。
「今夜王女殿下がそちらに行くそうです。まさかとは思いますが、お気をつけください」と、さらりと言えたら。でも実際はライナスの気持ちにも応えぬまま、迷うばかり。
焦りに駆られフェルシアは口を震わせる。
「お……っ………」
「お……?」
「お…………女の人が、夜中に部屋に来たら……どう、しますか………?」
この答え次第でもう聞くのははやめておこう。そう思いフェルシアはおそるおそる相手を見る。
「どう?……それは君が、か?」
「あ、ち、違います……!」
ぶん、と首を振った。自分が行く側なんてとんでもない。
「なんだ。残念だな」
フェルシアは思わず彼を見上げた。頭上の瞳は意外に真剣で、ぽかんとする。
たまらず尋ね、返ってきた予想外の反応に。フェルシアが固まっていると、ライナスはおかしそうに笑った。
「どうもしないよ」
「どうも……?あの、それは……?」
意味を測りかねていると、当然のように答えられる。
「ああ。そういう事はたまにあるが、いつもすぐに帰ってもらうからな」
「え……『たまに』あるんですか?」
ということは何度も遭遇済かと、フェルシアは目を丸くした。ライナスに近付く女性は多そうだが、まさか現場はあの邸だろうか。
「家ではなくて、外泊先だ。扉から普通に訪ねてくるのは一番多くて、寝室へ入ったらベッドに邸のご令嬢がいた時はさすがに驚いた」
その後もライナスが実例をいくつか挙げ、貴婦人達の数々の仕掛けを披露し終わったころ。フェルシアはやや青ざめていた。
「い、色々とあるのですね……」
フェルシアは彼の実体験を聞き、他人の家の鍵に意味はないと知る。
「君も気をつけてくれ。睡眠薬やらを混ぜた飲み物を運ばせて、効いたころに忍び入る、とかな」
怖い。その手口よりも女性側の執念が。
それに大体の手法は邸の当主も一枚噛んでいそうだった。なんとしても娘を送り込まんとする意志が感じられる。ライナスはなんでもないように語るが、自分ならトラウマになってしまいそうだ。
「世間ではよくある話さ。俺を好きだと言ってくれる娘も、家の事情を説明する娘もいた。そして皆、最後には一度でいいからと言う」
「それは……」
フェルシアは口籠った。どうしてそう言うのか何となくわかる。人身御供でもなんでもと、無理やり彼に縋ろうとした結果だ。
「一度でも関係を持てば後でなんとでも言えるからな。皆必死だ。毎回それを宥めて帰らせるんだよ。他所に泊まる時は内も外も、いつも複数で監視させている」
肩をすくめるライナスにフェルシアは躊躇いがちに頷いた。公人として保身のためにも人目は必要だが、こう言われると空おそろしい。
ライナスはずっと守っている。己の家門を狙う数々の罠から。それに応じるのではと、軽はずみに彼を疑ったことをフェルシアは恥じた。
以前長く関わった男が遊び好きだったからか、女性の誘いは原則喜ばれると思い込んでいたかもしれない。反省だ。
(同じ人間とは思えないわ。ライナス様は根本的に違う……)
この手法に落ちる男性がいるのはきっと確かだ。だがライナスのように警戒する人もいる。それを知り、彼女がホッと一息ついていると。
「で?急にどうしたんだ?誰からなんと言われた?」
鋭い質問にフェルシアはうっと怯む。
安心するのはまだ早い。ライナスは女性の誘いを安易に受ける人ではない。となると、残る問題は相手が一国の王女ということか。
ベッドに潜り込んできた相手がそこらの婦女子でない場合は?
それでも彼ならばつまみ出せる?
疑問も尽きぬまま、フェルシアは重い口を開く。
「えっと……、昨日の話なのですが」
さっきの質問も大概だが、これも同じくらい躊躇われる。だがフェルシアは思い切って言った。
「……エルヴェリーナ様が今夜、ライナス様の部屋に行くとおっしゃいまして……それで……お伝えしなければと思ったのです。……あの。念のため、ですが」
なんとかそこまで言うと、フェルシアはちらりと頭上を伺った。一体、どんな反応をされるのか。
「王女殿下が、それを君に?」
「はい。昨日のサロンで、最後に教えてくださいました」
フェルシアはもごもごと言い添える。
「あ、あの。たぶん、そういうことだと思います……?」
はっきり言うなんてとてもできない。頼むから伝わってと、濁しつつ補足するが。果たして。
訝しげな表情だと思ったら途端、なぜか彼が俯き、手元に口を当てて……笑われている?
フェルシアは驚く。
「あの……?ど、どうして」
自分はひとしきり悩み、恥ずかしさも抑えやっと打ち明けたのに。それともまたおかしなことを言ったかと、フェルシアが訝しんでいると。
「いや……うん。事情は分かったよ。だがそれで?俺はどうしたらいいんだ?」
「えっ?」
戸惑っていると図星を突かれ彼女は固まる。どうしたらいい、なんて。
(それは……)
もちろん、エルヴェリーナを部屋に入れないで欲しい。彼女の誘いを拒んで欲しい。でもそれを言う資格は自分にはなくて、土壇場で迷っていた。
押し黙るフェルシアにライナスが悪戯っぽく笑う。
「教えてくれないのか?なら今夜、もし彼女が部屋に来たら入れてしまうかもしれないな。王女殿下を追い返すのも忍びない」
その声はわざとらしくて本気には聞こえなかった。けれどフェルシアはつい慌てる。
「あ、あの……?」
「いつも通り断ることもできるが、少し勇気がいりそうだ。そうだな、可愛い恋人が悲しむと知っていれば、すぐにでも帰ってもらうんだが。……どうしようか?」
「そんな……」
微笑みながらの問いに開いた口が塞がらない。
思いもしなかった提案。だがこれに応えれば告白したも同然だ。
これは……自分の男女関係へ口を出すなら、望みを最後まで言え、と。信じられないが、ライナスはそう言っているのだ。
赤くなったり、青くなったり。口を閉じたり開いたりして。フェルシアが狼狽えていると。
「……そうか。なにも言われないなんて残念だ。善処するが、今夜もしそんなことがあれば、愛する人に突き放された悲しみで、たまには誘惑に負けてしまうことも」
「だっ、だめです。帰っていただいてください……!」
その台詞に、昨日から散々した想像が頭によぎって。気付けばフェルシアは身を乗り出していた。
ハッと口を押さえるがもう遅い。目の前でライナスは笑みを深めた。
「ふ……っ、わかったよ、フェルシア。もしもの時は王女殿下にも即刻出ていってもらおう。君からそんな風に熱烈に想われて、俺は本当に幸せ者だな」
言ってしまったと、顔を真っ赤にしてフェルシアは俯く。本当にもう、さっきからドキドキして心臓が痛いくらいで。それにこんなに嬉しそうにされるのも……予想外だ。
ふるふると羞恥に悶えていると、とりなすような声がする。
「……まあ、どうせ冗談さ。彼女は王女なんだ。君は揶揄われたんだよ」
「え……?あ……そ、そうですよね」
フェルシアは我に返り頷く。自分はもしエルヴェリーナが本気だったらと、疑うばかりだった。万が一を危惧するほど彼女は魅力的だ。
「それに約束したろう?君が口を聞いてくれなくなったら俺はとても困る」
その台詞にフェルシアは目を瞬かせて……思い出す。
『ライナス様も、私以外の女の人と二人きりにならないでください……』
『守らないと、許しませんから』
『それは……破ったらどうなるんだ?』
『……罰として、一週間口をきいてあげません』
(……お、思い出したくない。恥ずかしすぎる……!)
翌朝になり、フェルシアが闇に葬り去ろうとした例のやりとり。ちゃんとした約束かも不明な、酔っ払いの戯言。それをライナスはきちんと覚えていると言う。
ここでまたとぼけたら、あの時よりひどい目に遭いそうだ。そう危険を察知したフェルシアは慌てて頷く。それを確認してからライナスが続ける。
「だから、君も約束を守ってくれ。他の男に襲われたりしたら全力で逃げるんだ。そしてすぐに俺か、他の頼れる人を見つけてくれ。できるな?」
「はい」
自分を覗きこむ顔は真剣で、これは本当に案じてくれていた。
返事に満足したのか、ライナスがかがんでいた姿勢を直す。それでフェルシアが話は終わりかと思っていると。
「ああ……もしどうしても心配なら今夜、俺を監視しに来てくれ。君なら歓迎するよ」
フェルシアはきょとんと目を瞬かせて……。
「し、しません……!」
意味に気付き彼女はブンブンと首を振った。治まりかけた頬がまた熱くなる。
夜に男性の、それもライナスの部屋なんて想像もつか……いや、淑女として想像してはいけない。また揶揄われたと、見上げれば楽しそうな表情が。その瞳が甘く感じてフェルシアはますます狼狽える。
すると突然、ポツッとなにかが頬に落ちた。冷たい。
「あ……」
空を仰げば、頭上はすっかり曇天だった。
話し込むうちにまた時間が経っている。もう本当に行かなければ。
「急ごう。これを」
「……ありがとうございます」
ライナスが素早くジャケットを脱いでフェルシアの頭にかけ、ふわりと彼の香りに包まれる
この優しさが、自分だけのものだったらいいのに。ついそう思い、彼女がきゅっと黒い布地を握っていると。
「フェルシア」
彼女が見れば、降り出す雨の中、大きな手が差し出されていた。どきりとし、つられて手を伸ばせば迎えるように手を引かれる。
熱い。今度こそ本当に。触れ合った掌が、頬が、今までになく。
ぎゅっと力強く握られれば、トクトクと鳴る脈が伝わる気がした。それに気付かれたくないような、気付かれたいような。強い気持ちがせめぎあってフェルシアは前を見た。
こんな自分を彼はどう思っているのだろう。
強まる雨の中。一歩先を行く腕も背も、水滴をまとって揺れる黒髪も。こうして気遣ってくれる優しさも。
全て、自分にとってかけがえのない人。
(ああ……。私、本当にライナス様のことが)
最近、彼といると胸が高鳴って……少し苦しい。
その後ろ姿に痛いほどの想いを抱えながら。フェルシアは優しく手を引かれ湖を離れた。
夏の終わりまで、もう少し。