47.一歩前進
ちゃぷん、と鳴った水音。
(……あれ?結局、二つ目はなんだったかしら?)
フェルシアは足元に映る自分の顔をまじまじと見つめた。
ゆらりとかすかに揺れる水面とこちらを見返す一人の姿。今日は水色のワンピースを着ていて、九年前と比べればすっかり大人だ。浸した両足を動かせば、それはたちまちかき消える。
彼女が今いるのは街外れにある湖だ。
王宮から少し馬車を走らせた、広くて静かな場所。と言っても遠目にはぽつぽつと人影があり、ついさっきなど近くで子供達が泳いでいた。
フェルシアもそれに羨ましくなり、小さな桟橋の上でこうして水中へ足をつけている。
すいすいと水を掻く感触が気持ちいい。湖に来るのも、こうして水に触れるのも久しぶりだ。遥かな峰の雪解け水は意外に透明で、泳いだらもっと爽快だろう。
(……また泳ぎたいなあ……)
思っても口には出せない。やや離れて見守るリリィから、また令嬢らしからぬと仰天されそうだ。
だがそれよりもと、フェルシアは昨夜の懐かしい夢に思いを馳せた。兄ブラッドと過ごした、すっかり忘れていた過去はとても気になる内容で……。
(子供のころの私は、なんて偉そうだったのかしら)
「強い人がいい」とうたう口調は無邪気で大胆だった。今更だが、真面目に聞いてくれた兄には感謝しなければ。
そして回想するうち、フェルシアは気付いたことがある。
あの時どんな人がいいかとブラッドから何度も問われた。そうして考え、これはと思った相手の姿。
強く、しっかりしていて面倒見がいい。
晴れたら外で過ごしたり、なんでもない日常に笑ってつき合ってくれそうな人。
フェルシアが自らの家族を元に描いたイメージは温かく、とても優しい。
だがこれでは、なんというか……とても…………似ていないだろうか?
いつも笑いかけてくれる、あの人に。
「……っ」
フェルシアはまた俯いた。気のせいでなく頬が熱い。
前半があまりにそのままだ。過去というか、ただの夢を見たかと思った。
後半だって酷似している。今まで彼から剣の手合わせを断られたことはないし、突然の外出もすんなり付き合ってくれた。外で過ごすのを嫌う人ではない。
となると。まさか彼は、自分の理想の男性だった……?
子供時代、珍しく兄と結婚について話し、その名前が出たのも運命じみている。しかもその人は今、自分を好きだと言ってくれていて。偶然にも程がある。
中でも不思議といえば、あの時フェルシアは大好きな兄を参考にして考えたが。
(……でも、あの方は)
会えれば嬉しくて、一緒にいると安心する。
二人で何かをすれば一人よりもずっと楽しい。彼の反応が気になって振り返っていれば、時間なんてあっという間だ。
低音の声は心地よく、いつも勇気をくれた。包み込まれるようでずっと聞いていたい。
(兄様とは全然違っていて……)
目が合えばいつも心が跳ねる。綺麗だと思うだけだったのに、今はもっと近くで見ていたい。ずっとその美しい瞳に映っていたい。
手を繋ぐと無性にそわそわする。掌が敏感になったみたいで、それが伝わらないか緊張しきりだ。
微笑まれればまたドキッとして、彼が嬉しそうだと自分も嬉しい。この時間が永遠に続けばと、分不相応に願う。
彼は兄と似ているようで違う。
それに昔の自分はもっと、両親のように穏やかな関係を想像していた。
けれど、こんな気持ちになるのは彼だけだ。
この国に来ても、その顔ばかりが思い出されて。
再会した時には飛び跳ねそうなくらい嬉しくて。
他の女性といるのが許せなくて、ついわがままを言って。
……好きだと言われると、どうしようもなく胸が高鳴って。
(私……?)
思えば彼に触れられて嫌だったことはない。
近付かれても撫でられても、抱き寄せられても。家族以外でそんな相手は初めてだ。
さすがにキスは抵抗したが、あの時は突然のことに驚き、恥ずかしいばかりだった。それさえなければ頷いていたかもしれない。
ということは、つまり……?
そこでかすかな音がして、フェルシアはパッと振り返った。
すると視線の先、岸辺には思った通りの姿が。その人は離れていたリリィに声をかけてから、こちらへ向きなおる。
それを見てやっとフェルシア慌てた。呆けている場合ではない。早く立ち上がらなければ。
しかし、パシャッと足を上げたところで声がかかる。
「……ああ、そのままで」
「ライナス様。どうして……」
まさに今、考えていた人の登場にフェルシアは驚いていた。ほんの一日会わなかっただけでひどく懐かしい。
まごついていると、ライナスは近くまで来てそっと屈んだ。二人の距離が一気に縮まる。
「突然悪い。君に会いたくて探したら、ここにいると聞いたんだ」
「あ……すみません」
手間をかけさせたと、フェルシアは申し訳なくなる。なのに「会いたくて」に反応し喜ぶ自分もいて、急速に自覚する想い。
「いいんだ。……楽しそうだな。俺もそうしても?」
「えっ?」
彼女は目を瞬かせた。ライナスの視線は己の膝下、水遊びをする子供っぽい脚を見ている。
はしたないと窘められるかと思いきや、意外すぎる台詞だ。
「は、はい。どうぞ」
フェルシアはぎこちなく答えた。
どうしても彼と最後にした会話もあり気まずい。それにたった今気付いた己の気持ちもあり、どう振る舞えばよいのかわからなかった。
するとライナスはそっと微笑み、靴を脱いで木板の端から足を下ろした。隣からかすかな水音が立ち、小波がフェルシアの足まで寄せる。
「冷たくて気持ちいいな。湖なんて久しぶりだ」
「はい。……私もです」
そう答えながら、フェルシアは複雑な気持ちになった。二人の間にある、いつもより遠い距離。どちらかが腕を伸ばさねば届かないほどの。これはきっと彼の気遣いだ。
それに安堵するような、惜しむような。相反する感情がせめぎ合う。
ライナスがここまで来てくれ、また話せたことが嬉しい。この間、自分は振り切るようにして帰り、後になって後悔した。もう少し落ち着くべきだったのだ。あれでは誰からも「お子様」と思われて仕方ない。
だから今、自分が彼に言うべき言葉は。
「あの。ライナス様」
「フェルシア、この間はごめん。君を驚かせてしまった」
赤青の瞳が見開かれる。
「え……?」
「後で後悔したんだ。ちょっと揶揄いすぎた。……俺以外にもあんな顔をしたのかと思って、憎らしくなったから」
不意打ちの謝罪に、フェルシアは瞬きも忘れ隣を見上げた。
「もう君がいいと言うまで何もしない。だからそんなに警戒しないでくれ」
心して来たが、想像の倍は辛い。そう言われフェルシアはポカンとした。
頭の中で、「いいえ、謝るのは私の方です」と思うと同時に。
(すごい。初めて見た……)
彼女は驚愕していた。あのライナスが反省している。しばしば自分で遊んでは、悪戯っぽく笑うあの彼が。
それも恐らく本気だ。顰めた眉の下、深い藍の瞳も輝きが鈍っている。顔が整いすぎて気落ちした表情でも迫力があるが。
しかし感心している場合ではない。フェルシアは己の態度がライナスを傷つけていたと知り、それにも驚いていた。
ライナスが湖畔に現れて緊張したのは確かだが、そんな風に見えていたとは。フェルシアはたまらなくなった。
「い、いえ。警戒だなどと。あの日は……最後はちゃんとご挨拶もせず、すみませんでした」
「いいんだ。あれは仕方ない。……もう少し近付いても?」
それにフェルシアは一瞬、逡巡する。
「……はい」
するとライナス少しだけ距離を詰めた。だがそれで躊躇わずに返せばよかったと、フェルシアは大きく悔やむ。
そこで彼女はつい、自らも隣へ身を寄せた。もどかしかったのだ。互いの間に見えない壁があるようで。
だがすぐ我に返ってハッとする。
「あ……す、すみません」
「いや、そのままで。やっぱりこれくらいが話しやすいな」
おそるおそる見上げれば、ふわりと嬉しげな笑みがあって。フェルシアはつい頬を染めた。
思えば距離を詰めるのは毎回彼からで、自ら近付いたことはほとんどない。
けれどこれでもう、いつも通りの距離だ。フェルシアも心から怒ったのではないので、わだかまりはない。
そうして安堵しているとライナスが何気なく問うた。
「なにを見ていたんだ?」
見れば彼の瞳はもう穏やかで、フェルシアもそっと口を開く。
「あ、えっと……、水が綺麗で……さっきまで近くで子供たちが泳いでいて、楽しそうでした」
ぽつぽつと話したのは、ただ感想のつもりだった。それなのに相手は隠された本音をちゃんと拾う。
「そうか……。君は泳ぐのも上手そうだ」
「どうしてそう思うのですか?」
ついフェルシアが返せば、あっさりと返ってくる声。
「冬にスケートをするなら、夏はそれだと思った。君は大人しくボートを漕ぐだけじゃないだろう?」
また論外にお転婆だと言われ、フェルシアは口籠った。もはや手遅れだが、今からでも「子供のころはお淑やかだった」にならないだろうか。
「当たりだろう?」
「……はい」
つくづく、ライナスはこちらのことをわかっている。
それはこの一年弱で関係を築いた結果であり、フェルシアが自分を見せてきた証でもある。この人ならと、無意識に心を開いたことの。
だが、昔の行いは多少隠すべきだったかもしれない。
「あの。子供のころのことです。今はしません」
「そうなのか?」
最近は淑女らしくしている、とフェルシアが主張すればライナスは首を傾げる。
……そういえば自分は、つい数日前も彼に木登りを披露したのだった。これではまるで説得力がない。
「……ライナス様は、泳いだことはありますか?」
フェルシアは不利を悟って話題を変えた。すると少し意外な返答がある。
「ああ。一時期、父が鍛錬の一環だと言って領内の湖で練習をしていた」
「鍛錬、ですか」
目を丸くすればライナスは苦笑した。その表情が優しくて、フェルシアはいつも見惚れてしまう。
「ああ。ただ今のところ使わないな。海にもほとんど行っていないし……」
「そう、ですよね」
フェルシアは頷いた。内陸の貴族にとって深い水場は危険なだけだ。ライナスだって庭の池で遊ぼうと泳ぎを覚えたわけではない。
その言葉に、水泳とはやはり大人がするものではないのだな……と、フェルシアは少し残念になる。
もしかするとこうして水に触れるのも最後だろうか。彼女は惜しみ、白い爪先をゆるりと泳がせた。すると。
「だから、そんなに泳ぎたいなら、今度うちの領に行こうか。君がしたいことなら俺も喜んで付き合うよ」
「え………」
ふと顔を覗き込まれ、フェルシアは目を見開く。
「水源が近い湖だからとても綺麗なんだ。きっと君も気に入る」
いつの間にか「泳ぎたい」を見抜かれたこともだが、それよりも。
フェルシアは驚愕していた。答え合わせをしている気分だ。過去と現実、さっきと今の。
「外で過ごす」どころではない。ライナスはなんと、水遊びまで一緒にしてくれるらしい。自分より遥かに大人なのに。本気だろうか。
心の中には、さすがに冗談だと首を振る自分もいて、フェルシアがすっかり呆けていると。ライナスは途端に申し訳なさそうな顔をした。
「フェルシア?ごめん、突然すぎたかな」
また珍しい表情にフェルシアは我に返る。
「い、いえ……!あの」
ぼうっとしていた。返事をしなければ。
そういえばオリヴィエ領に誘われたのは初めてだ。それは単純に嬉しい。
「驚いただけで。……嬉しいです。よろしければぜひ。ですが、私などがお邪魔してよいのですか?」
「もちろん。君ならいつでも大歓迎さ。ああ……そうだ。最近両親が君に会ってみたいと急かしてくるんだった。よければついでに会ってくれると嬉しい」
「ご両親に……?わ、わかりました」
フェルシアは居住まいを正す。そうだ、ライナスの家族にきちんと挨拶をせねばなるまい。
(ご両親がいなければ、私がライナス様と会うこともなかったのよね。命の恩人も同然だわ。ここはしっかりご挨拶をしないと……)
すると、なにやらジッと見つめる視線に気付く。それに振り向けばライナスと目が合って……なぜか軽く溜息をつかれた。
なにやらよからぬ予感にフェルシアが訝しんでいると。
「いや……。どうして俺の両親が君に会いたがると思う?」
「それは、私がライナス様にお世話になっているから、では……?」
そこで続いた言葉にフェルシアはまた目を剥いた。
「違うな。息子が好きな女性を、親として見定めるつもりなんだろう」
信じられない台詞に彼女は固まる。
「あ、あの。まさか……っ?」
「もう言ったのですか?」と、言いかければライナスは首を振った。
「両親にはまだ言ってない。だが手紙で君の件も含めやりとりするうちに、なにか察したようだ。……会いたいと、催促が増えたのは春からかな」
そう言われ、春になにかあったかと、フェルシアが記憶を掘り起こせば。
「……ステラ様……?」
ぽろっと、一つの名前が蘇る。
「あなたのような娘が家に来てくれれば」と言った美しい人。ライナスの妹であるステラは、四月半ばにあっさりと婚家へ戻ったが……。
まさか彼女からオリヴィエ家前代夫妻へなにか伝わったのか。そう唖然とする自分へ、同意の目が向けられる。
「まあ、詳しくはわからない。それでもいいなら来てくれ。両親にはちゃんと説明するし、君が快適に過ごせるよう準備しておくよ」
「は、はい。ありがとうございます」
うわぁ……とフェルシアは紅くなる頬のまま俯く。いきなり、彼の両親に会うことになってしまった。
(私、まだライナス様に返事をしてもいないのに…?)
ライナスの言う通りなら、オリヴィエ家に世話になった礼だけでは彼の両親は納得しないだろう。
ならば自分も相応の心構えがいるのではないか。もしや彼はそれを促そうとこの話をしたのだろうか。
ライナスの隣に立つ覚悟を。
「……っ」
ついふるりと肩を震わせれば、見かねた声がかかる。
「フェルシア?どうか気軽に来てくれ。俺の言い方が悪かった。また驚かせてはかわいそうだと思っただけだよ」
「え?あ、そ……そうなので……あっ、いえ。ああの……」
そうなのですね、と言いかけて焦る。早とちりだなんて恥ずかしすぎる。
だが慌てて舌がもつれ、フェルシアはすっかり挙動不審になった。それを見たライナスが、つい、と言わんばかりに笑う。
「……なんだ。もしかしてそのつもりで来てくれるのか?」
「!ち、ちが……」
もう限界だと、彼女はとうとう押し黙る。
うっかり本音を漏らしそうになる。自覚したばかりで、まだ口には出せない想いを。
下を向けば、彼に言われ伸ばした白銀がさらさらと横顔を覆った。
(……えっと……先に、私はあの告白の返事……をしないといけなくて……。でもそれって、いつ言えば……?)
そもそも、自分は彼に応えていいのだろうか?
もっと考えるべきことがあるのでは?
垂れた髪の影で、フェルシアがぐるぐると考えていると。突然、ふっと視界が明るくなり、細い肩がピクッと跳ねた。
「……顔が赤いよ。まったく……まだ待つべきなら、簡単にそんな顔をしないでくれ」
囁くような声。この髪を掬い、頬の近くにある指先が……熱い。
肌に触れてないのにどうして。
それにますます心臓がうるさくなって。どうしよう、とフェルシアがぎゅっと目を瞑ったその時。
突然、ゴロゴロ……と低い音がした。