凍結都市 第五話
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それから数日後の、二月××日。場所は、都内で、大量の中古車をあつかっている、中古車販売店があるあたりだ。
あいにくと、もうそれは無い。テレビのコマーシャルで毎日宣伝されていた、広々とした敷地内にズラリとならべられた、数百台からある中古自動車の車両の列は、すべてが降った雪の下に埋まってしまっている。
いまそこには雪原しかない。雪原の中央あたりに見えている、中古車販売会社が用意した別棟のほかは、もとはそこになにがあったのか、まったくわからなくなっている。
恵子と耕一の二人は、バッテリー切れでスマホの地図アプリが使えないので、耕一があらかじめ入手しておいた、昔ながらの紙の地図を頼りにして、徒歩でここまでやってきた。
そしていま二人は、雪原から突き出ているその別棟を目印にして、大量の中古車が足もとに埋まっている雪原を、その建物をめざしてせっせと歩いていた。
さて数日前に、現業室の気象学者たちが恵子に渡したUSBメモリーだが。あれから、耕一が所有していたタブレット端末と、ガス式発電機を使い、内容を読むことができた。
メモリーに保存されていたファイルの主なものは、全国各地の気象台や観測地点から送られてきた気象観測データを、種類別にまとめたものだった。
その量は、とにかく膨大だった。すべてに目を通すのは、とても無理だろう。その作業をこなすだけで、今年の冬いっぱいはかかってしまうに違いない。
気象データのほかにも、別のファイルがあった。ひらいてみてわかったが、そちらは現業室の職員たちが、集めた気象観測記録をもとに、今回の豪雪が起きた分析を行った、各人の意見や見解をまとめたものだった。その別ファイルにおさめられていた気象学者たちの自説や自論を読むうちに、耕一はそれに夢中になってしまう。
どうやら耕一は、今回の大雪の原因について、彼なりの仮説を立てていたらしい。そこに恵子が持ってきたUSBメモリーに入っていた、気象学者たちの意見を知ったことで、自分の仮説に足りない部分を補足したり、間違っていた箇所を修正できたりと、大いに刺激になった様子だった。
そしてそのあと、恵子は耕一に先導されて、途中でキャンプをしながら、雪が積もった都内を徒歩でここまでやってきた。
恵子は、ようやくたどりついた、雪になかば埋まっている建物を見やる。
あと少しだ。二人は黙々と、目の前に広がる足もとがすべりやすい雪原を歩いて、建物へとむかう。
建物の表面は白く凍り付いていて、雪まじりの風が吹きつける方向にあわせて、大きな雪だまりができている。
今日まで降って積もった雪のせいで、建物の一階にある出入口は、いまでは二人の足もとよりもずっと下になってしまっている。だからそこから建物に入ることはできない。
すでに場所によっては、五メートルから六メートルに達している降雪のせいで、積もった雪は建物の二階の窓あたりにまで達している。おかげで建物にできた雪だまりをのぼって、窓ガラスを割れば、二階の窓から建物の内部に侵入できそうだった。そして、そこから建物の内部にあるものを持ちだせそうだった。(場所によって積雪量が違うので、都内でもすべての建物がこの深さの雪になるわけではない)
耕一の説明によれば、スマホがバッテリー切れになる前に調べたときには、この店の販売用のサイトで、十台以上のスノーモービルが中古車両として売られていた。
スノーモービルは外の販売用のスペースではなくて、いま二人が目指しているあの建物のなかに展示されていた。耕一の説明によれば、そういうことだった。
雪原を先に立って歩きながら、耕一は背後を歩いている恵子に、白い息を吐きつつ、言いきかせる。
「いいかい。建物のなかに入れたら。まず最初に、適当なスノーモービルをさがすんだ。見付けたら、二人でどうにかして、二階の窓のところにまでスノーモービルを運ぶ。ちょうどいい具合に、二階の窓の下にまで、積もった雪がきている。あれなら建物の中から外にだすのも、なんとかできるはずだ」
耕一は背後の恵子の同意をきかずに、スノーモービルが必要な理由を、次のように語る。
「君が持ってきた現業室の気象観測データを読んで、大雪の原因を調べるなら、関東から出て、目的の地域の気象台に行かなければ、それをたしかめられないとわかった。でもいまの関東平野は、雪に閉ざされた陸の孤島になっている。徒歩での関東平野の移動は無理だ。だから雪上車がいる」
「なるほどね。だから、ここにきたのね。それはわかった。あなたがあのあとで、闇市でガソリンを大量に買い込んだ理由も、これでわかった。でもなんで、よりによってこんなときに、関東から出なくちゃならないの?
もしも途中で燃料がつきたら、関東から出るどころか、関東平野を覆った雪原のどこかで立ち往生して、行き倒れることになると思うのだけれど?」
「だから、おれ一人で行くんだよ。燃料だって、つきたら途中で都合するさ。だから恵子ちゃんは、おれが用意しておいた拠点で、待っていてくれ。うまくいけば春が来るまでに、行って帰ってこれるはずだ」
「……」
耕一が主張していることを実行するとなれば、出発後の燃料の入手以外にも、ほかに解決しなければならない問題が山積みのはずだ。
失敗するとしか思えなかったが、恵子はそれを指摘するのは避けた。
いっしょに行動を始めた二人だったが、尾坂恵子は、二方耕一の目的が、自分とは異なるのに気付いていた。
私の目的は、気象庁の職員として、これ以上は雪害の被害が大きくならないように、それをくいとめることだ。
だけど、耕一の目的はそうじゃない。私とは違う。耕一の関心は、関東に大雪を降らせている、この未知の気象現象を解明することだ。降り続く大雪の原因を解明すること以外に興味はないらしい。
雪上車で関東から出て、別地域にある気象台に行くのも。どう考えても、持ってきたUSBメモリーに入っていた本庁職員の仮説の実証を試みたくなったからだ。耕一の考えに合致する仮説をみつけて、どうしてもその仮説を証明したくなったに違いない。
だがそんなことをしても、危機にさらされている都民は救えない。食糧も燃料もなく、夜になれば氷点下を大きく下回る環境で、電気もこない、逃げようにも雪に道路をふさがれて移動できずにいる、大勢の人たちを助けることはできない。
このまま、耕一を行かせてしまったら、結果として大雪がもたらす災害の被害を避けられなくなる。都民に大勢の犠牲者をだしてしまうことになる。
内心ではあせっていたが、それをおもてに出さないように注意をして、恵子はもうすっかりその気でいる耕一に、どうしたらそれをやめさせることができるのか、その方法について考えをめぐらせる。
建物にむかって、雪原を歩き続けていた二人だったが、耕一は雪景色を見ているうちに、違和感を感じて足をとめる。
耕一は、あたりを見回して、自分が感じた違和感の正体をつきとめようとする。
本来であれば、建物が密集した東京で、このような広い雪原はできないはずだった。
ところが、これまで東京に降った大量の雪は、そこにあった小さな建物や、低い建物を埋めてしまい、地上のこまごまとしたものを雪の下に押し込めてしまった。その結果、雪まじりの風が吹きすさぶ、このような広い雪原が都内に出現した。
ただしその雪原も、雪が積もった平坦な雪の原野がただ広がっているわけではない。降ってくる雪が、吹きつける風の力によってあちらこちらで降らせる雪の量を変えて。それによって刻々と変化する雪の堆積物があちこちに生じている。それは、砂丘のように風が吹く方向にあわせて雪が吹きとばされて、それが堆積することで、自然にこしらえられたものなのだ。
よく見れば、雪原からつきだしているほかのビルも、雪原に吹く風の方向にあわせて、とんできた雪が貼りついて、いろいろな形状に変化している。雪に覆われた形状こそさまざまだが、風が吹く方向にあわせて、それぞれの形状はどことなく共通している。
それなのに、雪上車がそこにあるはずの中古車販売店の建物のそばには、それとは違う、形状が整った白い小山ができていた。
耕一は足をとめると、自分を追い越して急いで建物にむかおうとする恵子の防寒着の襟首をつかんで、先に行くのをやめさせる。
ふりかえると、なぜそんなことをするのよ、と不満げな顔で自分を見てくる恵子に、耕一は次のように小声で言いきかせる。
「やっぱり、あそこに行くのは、やめよう。いいか、いまから言うことを、よくきいてくれよ。
いまから、ここから来た道を逆にもどるんだ。おれになにか言われて、そのせいで忘れていた用事を思い出した。そんな、さりげない態度でね」
「え。ちょっ。ちょっと、待ってよ。どういうことよ?」
「それから。決して、絶対に、なにか危険を察知した。そんな態度はとるんじゃない。さりげなく自然に、いつも通りに、落ち着いてふるまうんだ。わかったな?」
「いやよ。せっかく、ここまで来たって、いうのに。そういう気まぐれには、従えないわね」
こちらの忠告をきいて、事情を察して迅速に指示に従ってくれるどころか、不満顔で反論を始める恵子を見て、耕一はしかたなく、別の手段をとることにする。
つかんでいた恵子の腕をひっぱって、耕一は雪原についた二人の足跡をたどるように、来た道を逆方向に、せかせかと歩きだす。
大急ぎでここから脱出しようとしながら、耕一は背後で文句を言っている恵子に、自分たちが置かれている立場を説明してきかせる。
「雪原の、あのあたりに、隠れてこちらを待ち伏せてる奴らがいる。建物に入ったところで、こちらを襲うつもりだ。足跡を見付けたんじゃないよ。隠れている奴らは、竹ぼうきかなにかで雪の上に残った自分たちの足跡を消している。警戒心を抱かれないようにするためだ。残念だが、急いでここから立ち去ったほうがいい」
「ええっ、ここまできて、それはないんじゃないの? 別に逃げなくてもいいじゃない。話し合えば、その連中ともわかりあえるかもよ?」
「恵子ちゃん、ちょっと前に闇市で、どんな目にあったのか、もう忘れたのかよ? 隠れてこちらが近づくのを待ちかまえている連中だぞ? 雪にまぎれて相手を襲う、追いはぎや盗っ人のたぐいだ。そんなのにつかまったらどうなるのか。恵子ちゃんにも想像がつくだろ?」
「そりゃまぁ、そうかも知れないけれど。でもそんなの、やってみないとわからないじゃないの。それに」
恵子は反論を続けようとするが、急いで雪原から抜け出そうとする耕一を見て、しかたなく彼女も足取りを早める。
二人は雪原を横切ると、最初にきた道とは違う、別の建物の列に近づく。白いオブジェと化した凍りついた建物の列に近づいたところで、二人の足取りはさらに早まる。
早足どころか、ついには走りだした二人を見て、このままでは逃がしてしまう、と気付いたのだろう。建物のそばにあった、雪の吹きだまりにしては不自然な形状をした、隠れ場所の表面を覆っていた白いシートが内側から持ち上げられる。
そこから這いだしてきたのは、内側につくった隠れ場所のスペースにひそんでいた、上から下まで白い防寒着にして、白い帽子とゴーグルで顔を隠した男だった。
外に出た白い防寒着の男は、シートをめくりあげると横に退いて、隠れ場所の出入口をあけたままにしておく。
大型バイクのエンジンを連想させる、騒々しい回転音が雪原に響きわたる。それといっしょに、隠れ場所からスノーモービルが外に押しだされてくる。
ひらけた場所で暖機運転をするためだろう。外にでたスノーモービルは、その場所にとどまったまま、エンジンを動かし続ける。
暖機運転をすませると、こちらも上から下まで白い防寒着に身をかためた、最初の男の仲間たちが、スノーモービルに乗り込む。
充分にエンジンがあたたまると、二台のスノーモービルの運転手は、レバー式のアクセルを握る。
走りだした二台のスノーモービルは、雪原を抜けると建物のあいだに逃げ込んだ、耕一と恵子を追いかけていく。
スノーモービルとは、一人乗り、または二人乗りの小型雪上車のことで、雪上を走行するために特化された、オートバイと自動車の中間のような車両をいう。
駆動装置として、車両の後部に、タイヤのかわりになるトラックベルト(無限軌道)をそなえている。接地面積が広いそれで雪上を移動するので、雪上ですべって転倒せずに前進できるようになっている。
車体の前部には、スキー板というか、そりがついている。運転手がハンドルを切ると、そりのむきにあわせて、スノーモービルの進行方向が変わる。
日本の法律では、スノーモービルで雪が積もったゲレンデや、雪が積もった山林を移動するときは、なにか特別な免許はいらない。事前に講習会にでて、事故の防止や、自然環境の保護のための話をきけば、それだけでライセンスがもらえる。ただし公道を走る場合は、スノーモービルでも、普通自動車免許や大型自動免許がいる。
大型二輪車と構造が似ているので、製造メーカーとして以前は、スズキ、ホンダ、川崎重工などがスノーモービルをつくっていたが、現在は国内のメーカーはヤマハ一社になってしまっている。ヤマハ以外のスノーモービルを買おうとすると、アメリカやヨーロッパ製のスノーモービルから選ぶことになる。
価格は、新車は150万円から200万円と、軽自動車や普通自動車くらいの購入の費用がかかる。ヤマハのサイトにあるスノーモービルの例でみると、二〇一七年のモデルで安いものが115万円ほどの値段で販売されている。高いモデルは150万円くらいだ。
紹介したページにもあったアドバイスだが、冬のアウトドアやレジャーで遊ぶのに欲しいのなら、中古車をあつかっている販売会社のホームページから、中古のスノーモービルをさがすのが適切だろう。
雪原に隠れて通行人を襲撃する盗賊たちが、雪上車の暖機に手間取っているあいだに、二人は雪原を横切って、また別の建物がならぶ密集地に逃げ込むことができた。
雪になかば埋まった、凍りついた建物の列のなかに踏み入った恵子は、あたりを見回すと、驚きの表情で声をあげる。
「どういうこと、建物が氷の森になっている!」
大雪が降り始めて以来、かたちもサイズもさまざまな凍りついた建物をいろいろと見てきたが、こんなのは初めてだった。
このあたりは、よほど寒いのだろう。雪原から吹き付ける氷点下以下の風がそうさせたのだろう。目に付く建物はどれも、冬の雪山に立ちならぶ木々が氷と雪に覆われる、樹氷の状態になっていた。しかも建物のサイズが大きいので、巨大樹氷やアイスモンスターと呼ばれるものになっていた。
本来は冬の雪山の特定の地域でしか発生しない特殊な現象が、いったいどういう偶然で、こんな都会のまっただなかで生じたのかわからないが。建物はどれも、全体に氷が貼りついて、その上に雪がくっついて、もとの形状とはまったく異なる、氷をまとった白い不気味なものに変化している。
樹氷は、雲をつくって雨を降らせる小さな水や氷のつぶが、風とともに過冷却された状態で山の木々に吹きつけられて、木々の枝や葉を凍らせてしまい、さらにそこに雪がくっついてできるものだ。
樹氷の発生には、上昇気流のような、強い風が吹きつける地形が条件となる。それだけではない。樹氷ができやすい木々が自生していないと、この現象は起きない。
降雪によってこのあたりの地形が変化してしまい、山のように大きな建物が過冷却された上昇気流を生じさせているのか。それともなにかほかに要因が働いているのか。建物の表面を凍らせた氷点下以下の風は、何度もくりかえし吹くうちに、建物の表面に幾重もの氷の層を発達させて、そこに風といっしょに運んできた雪を付着させることで、不気味な白い装飾をこの地域の建物にほどこしたのだった。
巨大樹氷と化した建物のあいだに踏み入った恵子は、雪と氷をまとった大小さまざまな白いそれらが、不気味な怪物たちに見えて、自分がその怪物たちが跋扈する、未知の世界にやってきた錯覚におちいった。
耕一のほうは、こちらに近づいてくるスノーモービルのエンジン音をきいて、どこかに隠れる場所をさがすしかない、と判断する。
耕一は、樹氷におおわれた街中で、どこかに隠れる場所はないか、とさがす。
表面を覆う樹氷のせいで、建物の出入口がどこなのか、見当がつかない。ここが建物の出入口だろう、とあたりをつけて、雪と氷でできたそれを試しに蹴ってみる。
バラバラと崩れ落ちたそのむこうにあらわれたのは、見なれたビルの玄関ではなくて、あたり前だが、二階か三階かの建物の外壁だった。
窓があったがしっかりとロックされている。そこから建物の内部には侵入できない。耕一は恵子の手をひいて、そこから離れると、さらに別の場所をさがす。
何か所か同じことをくりかえして、樹氷の下からあらわれた、建物のベランダの奥に、二人は隠れられそうな場所を見付ける。
建物のベランダは、縦横無尽に発達した樹氷のせいで、氷の穴のようになっている。そこにもぐりこんで身を隠した二人だったが、ふるえがくるくらいになかは冷えきっている。寒さを忘れるために、二人は白い息を吐きつつ、たがいの身をよせあう。
氷点下以下の冷たい空気を吸い込んだせいで、咽喉を痛めたらしい。恵子は苦しい呼吸を整えると、となりにいる耕一に、しゃがれ声で問いかける。
「教えて欲しいことがあるのだけれど。今回の大雪は、いったいなにが原因で起きたの? いつもの冬なら、関東にこんなに大雪は降らないはずよね? 現業室の面々から得たデータで、あなたはなにかを確信したみたいだけど、それをきかせてくれないかしら?」
「いや。そうかも知れないが。なぜこんなときに?」
「だってあなたは、スノーモービルを手に入れたら、原因の解明と事実の確認のために、それの乗って東京から出ていくつもりなんでしょ? だったら、いまきいておくしかないじゃない?」
「たしかに、そのつもりだけどね。でもさ……」
耕一は身をよせあっている恵子を無言で眺めていたが、しばらく考えてから、あきらめた表情になると、小声でこう説明を始める。
「まあいいだろう。こういうことだ。関東は、雪が少ない土地ではあるが、まったく雪が降らないわけじゃない。季節の変わり目には、雪が降る。そしてこの、関東で雪が降る仕組みについては、ほぼ解明されている。これは気象学の基本だから、授業の内容を忘れていなければ、恵子ちゃんも覚えているはずだ。
前にも話したが、この国で日本海側に降る雪は、西高東低という、基本的な冬型の気圧配置がもたらす。でもこちら側の、関東の雪はそうじゃない。関東の雪は、南岸低気圧がもたらす。
日本の太平洋側にあたる南岸に。つまりは日本のこちら側の海に低気圧があるときに。関東では、東京では、雪が降るんだ。
ただし、ただ単純に、太平洋側に低気圧があれば、かならずこちら側に雪が降るわけでもない。低気圧が、太平洋のちょうどよいあたりにきたときに、東京に雪が降る。ちょうどよいあたりにこないと、雪は降らない。かわりに雨が降るか。そうでなければなにも降らない」
南岸低気圧。これは、西高東低の冬型の気圧配置とならんで、日本における冬の降雪の仕組みを解説するときに必ずでてくる気象用語になる。
南岸低気圧は、台湾や東シナ海あたりの海上で発生して、太平洋側の海上を北東にむかって移動する低気圧をいう。この低気圧が、地図上の、列島の右側を上にむかって移動しているときに、うまく条件があえば、関東に雪が降る。そして低気圧が、海上のある位置にとどまり続ければ、勢力が弱まって消えるまで、関東に雪が降り続けることになる。
なんだか条件が、ひどく限定されたときのみに生じるケースに思えるが、その考えは間違っていない。関東でめったに雪が降らない理由はこういうことなのだ。複雑な降雪の条件が容易に変化するので、関東の雪は予測しにくいのだ。
「教科書の解説をそのまま引用するとだな。地上の気温が低い冬の季節に、発達した低気圧が太平洋側のちょうどよいあたりにあれば、その低気圧が東京に雪を降らせる。このちょうどよいあたりってのは、だいたい八丈島のあたりになる。八丈島は海にある島だが、距離にして東京から285キロの海の上になる。つまりは、ちょうどそれくらいの距離をとった海上に低気圧があれば、関東に雪が降るんだ。それよりも列島に近すぎると、雨になる。遠すぎると、雨や雪を降らせる雲が陸地に届かないので、なにも降らない」
ここで関東で雪が降る条件について、簡単に解説をしておく。
その条件とは「関東における、上空から地上までの気温」「雲の発生と降水現象をもたらす、低気圧の接近と進路(位置)」になる。これらの気象条件がそろってようやく、関東に雪が降る。
条件のひとつである、「低気圧の進路(位置)」については、耕一が説明をしたので、これは省略する。
まず最初の条件となる、関東の気温だが、これは低くないとならない。このために関東上空に寒気があることが必要になる。資料によれば、上空1500メートルあたりで、マイナス3度から4度くらいだが、ほかの資料ではマイナス6度以下になっている。とにかく低いほどよい。気温が低ければ低いほど、雪は降るし、大雪になりやすい。
上空だけでなく、地上の気温が低いことも、条件として必要になる。目安では3度以下だ。5度くらいだと雪かみぞれになる。もしも地上の気温が高いと、降ってきた雪は雨になってしまう。高すぎると、地上に到達する前に、蒸発してしまう。
この気温の条件を満たすのが、西高東低の冬型の気圧配置がもたらす季節風になる。たしかに西高東低の気圧配置では、関東に雪は降らない。それでもこれが、地上から上空までの気温を低くしてくれることによって、雪が降るための条件が整うのだ。
冬になると日本では、西高東低の冬型の気圧配置によって、列島の日本海側から山を越えて、冷たく乾いた寒気が関東平野に流れ込んでくる。
すると、日本海側から山越えでやってくる冷たく乾いた寒気と、太平洋側からくるそれよりも(相対的に)あたたかい風とがぶつかりあい、関東の沿岸に沿岸前線ができる。
この沿岸前線は、北西部に山脈がある沿岸にあらわれやすい。日本では、関東南岸、四国南岸、東海地方沿岸などで、よく形成される現象となる。
この沿岸前線は、私たちが日頃から天気予報の天気図で目にする前線とくらべると、スケールは小さい。そして、暖気と寒気とが接する部分を前線面が、普通の前線の十分の一程度と、せまい。高さも、おおむね1千メートル以下で、低い。
日本海側から山を越えてきた寒気は、この沿岸前線にせきとめられてしまう。そのせいで寒気が関東平野に滞留していく。冬のあいだはつめたい空気が、関東平野の上空から地上まで、常にたまっている状態になる。
このように、沿岸前線による寒気の滞留のせいで、関東平野の気温が低く保たれるときに、もうひとつの条件となる、太平洋側の海上を南岸低気圧がやってくる現象が起きたとする。すると、この低気圧が生じさせた雲が、雨や雪を降らせる。このときに、滞留する寒気のせいで関東の気温は低いままなので、雪が途中でとけて雨にならずに、雪のままで降ってくる。
南岸低気圧の規模が大きければ、降る雪の量もそれだけ多くなる。低気圧が海上にとどまり続ければ、低気圧の勢力が弱まって消えるまで、雪もまた降り続ける。
このように、いくつかの気象条件が適切にはたらくと、関東で降雪という現象が生じる。発生条件が複雑で面倒なせいで、関東の降雪は予測がつけにくいし、予報も簡単にハズれるわけだ。
太平洋側にくらべると、日本海側の降雪地帯は、冬になると毎年必ず大雪が降る。つまりは前述した、気温と降水量に基づいた降雪の条件が、こちらでは必ず満たされているわけだ。このために冬に雪が降らないほうが、日本海側の地域では異常事態ともいえる。
「というように、関東で雪が降るための条件は、こんなに面倒くさくて、シビアなわけだ。おかげで、日本海側の豪雪地帯で大雪になっていても、関東ではまったく雪を見ない。それがあたり前になっている。だから今回の関東の豪雪は、いま言ったそろいにくい関東での降雪の条件がすべてそろったからだ、とも考えられる。でもね……」
耕一は恵子にそこまで語ると、説明をいったん中断して、耳をすませる。
どうしたの、と恵子が問うと耕一は、雪上車のエンジンの音がきこえなくなった、と小声でかえす。
それから、耕一は考え込む。やがて、自分なりに結論に達した、といった態度でうなずくと、恵子に次のように言いきかせて、自分はそっと立ちあがる。
「おれがもどってくるまで、ここに隠れていてくれ。どうやら連中、スノーモービルで走りまわってさがすのをやめて、おれたちが出てくるのを待っているらしい。
こうなると持久戦になってしまい、こちらには分が悪い。仕方ないから、おれがおとりになって、あいつらを別の場所まで連れてだして、そこで撃退する。
ついでにあいつらが乗っている雪上車を奪いとって、それを使わせてもらうことにする。ワザワザこんなところにまで来たのは、雪上車を手に入れるためだったんだしな。よし、そうしよう。そう決めた」
「そんなの、無理に決まってるじゃない! どうやってあなた一人で、盗賊たちと戦うつもりなの? だまし討ちでも狙っているの? いえそんなことをやったところで、とても対抗なんて出来そうにはないけれども」
「まあ、見ていろって。うまくやるから。とにかくはまず、あいつらの前に出て行って、注意をひきつける。そのあとは、別の場所に誘い出して、こちらに有利なやりかたで反撃する。これでかならず、うまくいくさ」
「……自信たっぷりに力説しているけどね。私にはちっとも成功しそうに思えない、ずさんな計画に思えるのだけどね。返り討ちにあい、ひどいことになる展開しか想像できない。やっぱり、やめるべきよ。だって、そうしないと、きっと」
なにか理由をつけて、恵子に自分の行動を制止されてしまう前に、耕一は、それじゃ行ってくる、と二人が隠れていた樹氷のあいだから、音を立てないように外に出ていく。
一人残された恵子は、しかたないので、樹氷に覆われた隠れ場所の奥で、指示された通りにジッとしているよりない。
出て行った耕一を、どうやら野盗たちは発見したようだった。雪上車のエンジンの音が再び響くと、よくききとれない幾人かの怒鳴り声とともに、それが近づいて大きくなる。
そのあとは、逃げた耕一を追って行ったのだろう。エンジンの音と人声は、恵子がきたのとは違う方向にむかって、遠ざかっていって、小さくなっていく。
恵子はそのあいだも、樹氷のあいだにすわりこんで、両脚を両腕でかかえて、小さく身を縮めて、息をころしてジッとしていた。
声が遠ざかると、あたりは再び、吹き抜けていく風の音や、落ちてきた樹氷が砕け散る音や、そんな音以外はきこえない、静まりかえった世界にもどる。
恵子は、ほかにできることもないので、背中を凍りついた建物の外壁に押し付けて、寒さに耐えるために身を縮めて、両腕でわが身を抱きしめた格好で、ひたすらにアタマを働かせて考え続ける。
耕一だが、このあとはどう行動するだろうか? 本人は雪上車を奪いとれると考えているようだが、私には失敗する展開しか思い浮かばない。きっと返り討ちにされるだろう。やはりとめるべきだったろうか。とはいえ、もしも成功したら、どうなるんだろうか?
耕一の目的は、今回の大雪の原因をさぐること、この異常気象の解明だ。そのために、盗賊連中から雪上車を奪うつもりでいる。
出発するのに必要なだけの燃料と、少量だが当座の食糧に、生活必需品は、耕一本人が身に付けている。(そのほかにも闇市で買った、油紙に包まれた小ぶりな荷物もあった)
でもそれ以外の、ここまでくるのに使った、移動したルートを書き込んである地図や、帰りのぶんの食糧や諸々の必需品は、自分の荷物袋のなかに入っている。
もしも首尾よく雪上車を手に入れることができたら、耕一はそのあと、どうするだろうか? 自分にはなにも告げずに、それに乗ってここから出発するんじゃないだろうか? 耕一の性格を考えたら、そういう行動をとってもおかしくはない。というよりも、そうするために耕一は、私にここに残るように指示して、一人で出て行ったんじゃないだろうか?
そうじゃないか、と考え始めると、その可能性もある、そうかもしれない、きっとそうだ、そうに違いない、とだんだんエスカレートして、そうだとしか思えなくなってしまう。
ジッとしていられなくなって、恵子は立ちあがると、隠れ場所から抜けだして外に出る。
樹氷に覆われた建物のあいだの雪上には、耕一の足跡が、まだハッキリと残っている。雪上の足跡をたどることで、恵子は耕一のあとを追いかけ始める。
耕一が歩いた足跡は、しっかりと残って続いていたが、足跡をたどるうちにそれが変化していく。最初は歩いていたのが途中でむきを変えると、そこから走りだしたのだろう、歩幅がひらいて、足跡の形状も不明瞭になっていく。
だがその走り続ける靴跡も途中から、その上にかさねるようについた雪上車の軌道のあとのせいで、ちゃんと読み取れなくなる。
耕一は宣言した通りに、雪上車の盗賊連中に追いかけられて、別の場所へと移動していく。防寒仕様の厚手のブーツの靴底と、雪上車の軌道のあとは、たがいに交錯しながら、先へ先へと続いている。
スノーモービルの軌道のあとは、二組ある。追跡者たちは、二台のスノーモービルにそれぞれ乗って、耕一を追いかけている。
走って逃げる耕一の足跡は、移動する雪上にある障害物にあわせて、右へ左へと移動しながら、先へと続いていく。
足跡を追いかけるスノーモービルの軌跡は、まるで足跡を踏みにじるように、そのあとに続く。
恵子は、耕一とスノーモービルの雪上の追いかけっこの痕跡をたどって、樹氷化した建物の列の奥へと、さらに踏み込んでいく。
いったいどうやっているのかサッパリわからないが、耕一はスノーモービルの追跡者につかまらないで、上手に逃げ続けている。靴底と軌道のあとが、途中でとぎれずに連続していることから、恵子にもそれくらいは理解できた。
恵子はてっきり、雪上に残されている痕跡を追いかけている途中で、耕一とスノーモービルの連中が争っている場面にでくわすか。そうでなければ、拘束された耕一がスノーモービルの連中に引き立てられているのを見ることになるだろう、と思っていた。
でも恵子が予想したようにはならなかった。耕一は逃げながら、スノーモービルでは侵入できない建物の路地に入り込んだり、進路上にある障害物や段差をうまく利用することで、スノーモービルの追跡をかわして、追いつかれないように逃げ続けていた。
そして恵子は知るよしもなかったが、耕一は、ついには追っ手をふりきってしまっていた。スノーモービルで追跡を続けていた盗賊たちは、追ってきた耕一の姿を見失ってしまった。
盗賊たちはしかたなく、手わけしてこの周辺を調べることにした。その際に、仲間の一人を、耕一を見失った位置に待機させておいて。追っている二人のうちのどちらかが姿をあらわしたらつかまえるように、そいつに指示しておいた。
ちょうどそこに、事情を知らない恵子が、ノコノコと姿をあらわしたのだった。
スノーモービルの連中は、これまでやってきたのと同じやりかたで、雪上車の軌道のあとを、少しもどってからボロ布をまきつけた長い棒できれいに消しておいた。
白い息を吐きながら、せっせとここまで歩いてきた恵子は、雪上の痕跡がそこでぷっつりととだえてしまったせいで、どうしたらいいのかわからなくなってしまい、キョロキョロと周囲を見回すと、行ったり来たりとそのあたりをウロウロし始める。
雪上をうろついていた恵子は、雪にまぎれて隠れている盗賊の一人が自分の間近にいることに、まるで気付かなかった。
スノーモービルは、発見されないように車体を白く塗装してあったが、ほかにも白い防水シーツを積んできてかぶせてあった。エンジンを停止させてから、白い防水シーツの上に雪を少々かぶせておけば、同じ白色にまぎれて遠目には発見できない。
恵子もそれは同じだった。このあたりにはもうだれもいない。いたとしてもとっくに移動したあとだ。そう思っていた。
もう少し先を調べてみよう。恵子がそう考えているときに、恵子の背後で、再稼動させたエンジンが、不意にけたたましい音をたてて始動する。
びっくりした恵子は、いま通ってきたばかりの背後を、驚いた表情でふりかえる。
さっきまでは、樹氷化した白い建物と、雪が積もった白い道と、大小さまざまな雪の白いかたまりしかなかったそこに、いまは別のものが出現している。
かぶっていた白い防水シートをひきおろして、積もった雪を払い落とすと、その下からあらわれたのは、白いスノーモービルの車体と、運転席にまたがってこちらを見ている、防寒マスクとゴーグルを装着した人物の白い面だ。
恵子は大きく目を見開くと、また正面をむいて、あわてて逃げだす。
スノーモービルにまたがった白の防寒着姿の盗賊は、スノーモービルを発進させると、雪の上をヨタヨタと走って逃げている恵子に、あっというまに追いついてしまう。
盗賊は、スノーモービルで恵子を追い越す寸前に、クラッチを握っていない、あいているほうの腕で、スノーモービルの車体の側面にくくりつけておいたキャリーバッグから、おさめておいたバットのグリップをつかんで引き抜く。すれ違いざまに、逃げる恵子の背中を、背後から思いきりバットで殴りつける。
「うっ」
なにが起きたのか、恵子にはサッパリわからなかった。背後から、つきとばされたような強い衝撃を背中にうけて、前のめりに転倒すると、顔面から雪のなかにつっこむ。
狙い通りに獲物を転倒させたのをたしかめると、白い防寒着姿の人物は、少し先でスノーモービルを停車させる。白い防寒着姿の人物は、スノーモービルを降りて、倒れている恵子のもとに、バットを手に近づいていく。
うつむけに雪のなかに倒れて、みっともなくもがいていた恵子は身を起こすと、自分を倒した武器を手にこちらにせまってくる白の防寒着姿の相手を見て、しりもちをついたままであとずさって大声で訴える。
「わ、私は、気象庁の職員で、尾坂恵子っていう者よ? この名前を、きいたことがあるでしょ? じつは私は、あなたたちをこの大雪から救うための方法を、仲間といっしょにさがしている最中なのよ。
私たちの試みがうまくいけば、大雪が降る原因を解明できるだろうし、効果的な大雪の対策だって見付かるはずよ! もしかすると、そうならないかもしれないけど。とにかく私は、そうなる、と信じて頑張っているのよ。
だから、どうか。雪に苦しめられている大勢の人たちを助けるために、私たちに協力をしてくれないかしら? 私たちに手を貸してくれないかしら?」
だがいまや、盗賊と化して同じ都民を襲うようになったその人物は、恵子の訴えに耳を貸さなかった。
恵子は相手を説得しようと、さらに大声でまくしたてようとする。だがその恵子の胸のあたりを狙って、警告もなしに横殴りにバットの一撃がとんでくる。騒々しい訴えは、苦しげな声に変わる。
なにが起きたのかわからずに、苦痛と恐怖におののいている恵子を見下ろすと、白い防寒着姿の人物は、マスク越しのくぐもった声で、次のように言いきかせる。
「持っている荷物をもらう。それから、いま着ている防寒着も、靴も脱いで。すべてこちらに渡せ。逆らったりすれば、もっと痛い目にあわせるからな。
こんな世情じゃ、ケガをしても医者の手当てはあてにできない。手足の骨を折られたら、だれかに助けてもらわなきゃ、この冬を乗り切れなくなる。そうなりたくなかったら、こちらの言う通りにしろ。命令に従わないと、もっとひどい目にあわせるぞ?」
「なにをいってるの! 従えるわけがないでしょう? 防寒着に靴まで奪われたら、夜になったら凍死してしまう。そうならなくても、寒さで衰弱して病気になる。それじゃ、どのみち助からない。荷物はあげるから、それはかんべんして!」
恵子は必死に抗議するが、相手がまたバットをふりあげるのを見て、あわててそのくちをつぐむ。
どれだけ大声をあげても、自分の訴えが相手に伝わらないのを知ると、恵子は涙ぐんだ目で、いまや自分を窮地に追い込んで、殺しにかかっている相手にむかって、くやしい気持ちを少しでもまぎらわせるために、ふるえる声で抗議をする。
「なぜ、わかってくれないの? 私たちがやっていることをここでダメにしたら、この災害を解決する機会が失われてしまうのよ? そうなったら、もう二度と再び、この雪害をくいとめられないかもしれない。それがわからないの? そうなってもいいの?」
わかってくれるはずだ、と信じて再度行った恵子の訴えをきいても、彼女が救おうとしている都民の一人は、それに耳を貸さなかった。この人物にとって大切なことは、なによりも重要なことは、そういうものではなかったからだ。
必死に訴える恵子を鼻で笑うと、その相手は、自分が優位なのを充分に理解した態度で、おびえている涙目の恵子に、次のように言いきかせる。
「なるほど、そうかい。あんたは、そういうことのために苦労しているんだね。それならあたしは、あたしの家族と仲間たちのために、こんな苦労をしているんだよ。見たところ、あんたの持ち物や服は上等だから、いただいたそいつを闇市に持っていけば、きっといい値で売れる。そうでなくても、燃料や食糧に交換できる。
あたしだって、あたしの仲間たちを食わせなきゃならないんだ。いまは、あんたが言っていたそのほか大勢を救うよりも、家族の今夜のディナーをどうやって都合つけるかで、アタマがいっぱいなのさ。
そういうわけだから、あたしの仲間たちが、皆が無事にこの冬を生きのびたそのときは、あんたが言ったことをもう一度ちゃんと考えてみることにするよ。それでいいだろ?」
「ぐっ」
返す言葉を失い、怒りの顔つきでにらみつけてくる恵子にむかって、その相手はダメ押しで、次のように問いかける。
「それから、もう一人、あんたといっしょにいた奴がいたよね? そいつはいま、いったいどこに隠れているのさ? かばうつもりで嘘をつくなら、たしかな居場所を教えるまで、あたしがまたあんたを痛い目にあわせるからね?」
防寒着を重ね着していたせいだろう。骨折はしていないようだ。でもバットでぶん殴られた背中と胸のあたりが、ズキズキと痛む。
脈打つ痛みのせいで、なにをしなくてもあぶら汗が浮かんできて、呼吸が不規則に荒くなる。殴られたときに、肋骨だけじゃなくて、肺を動かす筋肉をどこか痛めたのだろうか。それとも、肺そのものにダメージがあったのかもしれない。
そこまでされても、自分の信念をつらぬいて、盗賊と化した都民を説得できればリッパだったろう。だけどひどい痛みは、恵子からその気力と行動力を奪ってしまった。恵子は怒りにまかせて、涙声で訴える。
「知らないわよ! わからないわよ! そんなの、私が教えて欲しいくらいよ!」
息をするのもつらいはずなのに、雪の上にうずくまっている恵子は、その痛みに耐えて、というよりもやけっぱちの憤りの感情のままに、大声でわめいて、目の前にいる相手をたじろがせる。
そのときだ。爆発音だとわかる、ドォオオンッ、という大きな破裂音が、二人がいるのよりもずっと高い場所で響いた。二人は反射的にふりかえって、視線をそちらにむける。
二人がいま立っている、降雪によりできた仮の地表はちょうど、樹氷化した高層ビル群と、このあたりでもひときわ高い、巨大な高層ビルが凍ってできた雪山のふもとだった。爆発はその巨大な雪山の、頂上あたりで起きた。
見ていると、その巨大な雪山の山頂部分にある雪のかたまりに、亀裂が入って音もなく動きだす。下にむかって、雪のかたまりがゆっくりと崩れ始める。
爆発の衝撃で、高層ビル群の頂上部分から、目安でも数百トンからありそうな巨大な雪のかたまりが、滑り落ち始める。雪のかたまりは、周囲の雪を動かして、さらにその下へと動いていく。二人がいる方向へと流れてくる。
最初の爆発がそれまでしっかりとくっついていた雪に断裂を生じさせてしまい、そこから大規模な表層雪崩れになったのだ。
比較するものがないせいで正確な大きさはわからないが、ここから見ても端がどこなのか見極められない雪の白い津波が、二人がいる方角に。つまりはこちらにむかって、物凄いスピードでせまってくる。
雪崩れは、二人がいる方に、せまってくる。
だったら逃げればいいだろう、と考えるかもしれないが。雪崩れの速度は速くて、規模も大きくて、走ってどうにかなるものではなかった。
白煙をまきあげて、雪面にあるものを呑み込みながらこちらにせまってくる雪の津波を見て、盗賊の一人は捨てゼリフもなしに、一目散にその場からダッシュで逃げだした。
停めておいたスノーモービルに飛び乗ると、一挙動で始動と発進をさせて、せまってくる雪崩れに呑まれる前に、横移動する最短距離で、雪崩れの圏内から脱出しようとする。
恵子もまた、こちらにむかってくる雪崩れを見て走りだすと、横移動して雪崩れの勢力範囲内から抜けだそうとする。だが走り続けられずに途中でとまると、荒い息継ぎをしながら、うつろな表情で、自問自答をする。
「いやこれは、走ったくらいじゃ、どうにもならないよね? こういうときにやれる最善の対策って、なんだっけ? えーと、たしか」
次の瞬間、足もとの雪面が動きだすと、沸騰したようにわきあがって、恵子を呑み込んでしまう。
恵子を呑み込んだ雪の奔流は、さらに下にむかって、進行方向上にあるものを次々に呑み込みながら、勢いよく流れていく。
以前に、ゲリラ豪雨のときに地下街の出入口で遭遇した、押し寄せる大水にさらされたあの現象を、規模をとんでもなく大きくして、破壊力を引きあげたようなものだった。
雪崩れに遭遇した際の間違ったアドバイスとして、雪のなかを泳いで雪崩れの雪の波の上にでろ、というのがあるが、それは間違いだ。だいたい、そんなことができるわけない。
表層雪崩は、場合によっては時速二百キロ以上の速さで襲ってくる。呑まれれば、木や岩に激突しなくても、雪にもまれて打撲傷や骨折する場合が多い。雪崩れの速度が遅くなったら、埋まらないように上にでるくらいはできるかもしれないが、それだって常人には無理だろう。
(雪崩れには、全層雪崩と表層雪崩がある。全層雪崩れは、雪山に積もった雪がいっせいに流れだすものだ。表層雪崩は、下層の雪は残るが、表層にあたる弱層の雪が流れだすものだ。
全層雪崩のが規模は大きい。でも雪山でスキーヤーや登山者がまきこまれるのは、表層雪崩のほうになる。表層雪崩は、下にある雪の層の上を上にある雪が滑り落ちてくるので、速度が速くて、そのせいでけっこうな破壊力がある。しかも前兆もなく突然に発生する)
あっと思ったときには、足もとをさらわれて転倒してしまい。気付いたときには雪の奔流のなかを、きりもみ回転しながら、ものすごい勢いで流されていた。
目がまわる。轟音が耳もとで鳴り響いている。なにもできない。洗濯機の回転槽に放り込まれたようだ。雪は固形物なので、振り回されながら、その固形物が全身にぶつかってくる。恐怖のあまりに叫び声をあげるが、自分のその声が轟音にかき消されてしまう。
意識を失いそうだ。でも気絶をしたら、そのまま雪の下に埋まる展開になる。だからせめて意識をハッキリと保とうとするが、それもあやしくなってくる。
雪崩れに呑まれていた時間は、数十秒間か、長くても数分間だったろう。でも恵子はそれがいつ終わったのかわからなかった。あとで思い出すこともできなかった。
気が付くと、尾坂恵子は、雪のなかに埋まっていた。
ショックから脱した恵子は、とっさに自分の身体のまわりにある大量の雪を押しのけて、自由になろうとする。ところがそれができない。体全体にかかる雪の重さが大きすぎるせいだ。
大変だ。とんでもないことになった。どうしたらいいんだろうか。とにかくまずは、私が置かれている状況を把握して、適切な行動をとらなくちゃならない。
雪崩れに遭遇したら、どうするべきなのか。以前に耕一と話したことを、恵子は頭をふりしぼって思い出そうとする。
雪崩れで雪のなかに埋まっても、だからといって、そのせいですぐに命を落とすわけではない。雪の下でも、じつは数十分間は生きていられる。そのときに正しい対処さえすれば、その数十分間をさらに引き伸ばせる。それだけ救助される可能性が高くなる。
雪崩れにあった際の知識としてよく使われるものに、雪に埋まったら15分以内に助けないと死亡する、というのがある。
でもこの知識の本当の意味は、もう少し違っている。この知識のもとになったのは、雪が多いスイスで雪崩れにあった被災者の統計をとった資料になる。(ほかにもヨーロッパや北米の統計、イタリヤやカナダの統計、という記述で、さまざまなHPでとりあげられている)
この知識によれば、雪に埋まっても15分以内に発見されて掘りだされれば、生存率は92パーセントで、ほぼ間違いなく助かる、とある。
だがそれも35分後には、間違いなく助かる状態から、生存率は半分以下の30パーセントにまで低下する。1時間後では、さらに低下して20パーセントになってしまい、130分後だと生存率は3パーセントと、ほぼ絶望的になる。
生存率をパーセントであらわすせいか、この統計の意味はわかりにくい。自分なりにわかりやすく説明してみるが、たぶん次のようになると思う。
雪に埋まった被災者の死因は、雪に体温を奪われて弱っていく低体温症だと思いがちだが、実際はそうではない。その9割以上が窒息になる。
(雪崩埋没時の死因は、75から94、6パーセントが窒息死。5、4から23、5パーセントが外傷死。1パーセントあまりが低体温症になる)
なるほど雪が気管につまって窒息するのか、と納得しそうになるが、それも違う。じつは被災者が雪中で窒息する確立は、最初の15分を超えたところから、じょじょに高まっていくのだ。
たしかに顔のまわりにある雪は呼吸のじゃまになる。でもそれ以上に、被災者の口と鼻からでる呼吸の熱で、顔に密接している雪が溶けて水になると、それが氷結して氷になる。この氷が鼻と口をふさぐので、被災者は窒息死するのである。(15分間は大丈夫なのは、氷がまだ充分にできていないからで、15分後から氷による窒息が始まるからだ。これをアイスマスク現象という)
だから雪崩れで埋まった際の正しい生存方法は、両腕の掌を顔の前に持ってきて、呼吸するための空間を確保することと、顔の前に氷ができないようにすること、になる。
これは手を使えばすぐにできるように思える。語り手もそう考えていた。だが実際に埋まってみた経験者の感想では、そんなことはとても無理だ、とある。雪の重みで身体が動かせなくなるので、両手を顔の前に持ってこれなくなるのだ。(だから雪崩れの際のサバイバル術では、雪崩れがおさまりかけて弱まったときを見計らい、埋まる前にあらかじめ両方の掌を顔の前にもってくるように、とある)
(雪降ろしをやっている最中に屋根から落ちて、雪に埋まって死亡する人の話をきいたことがあるかもしれない。これも原理は同じで、雪崩れにくらべればまるで少ない雪の量でも、いったん埋まると身動きがとれなくなってしまい、窒息して死亡するのである)
雪崩れで埋まってしまい、その状態で意識があるのなら、助かるためにやるべきことは、じつは「雪を食べること」になる。どういうことかと言うと、両手を動かせなくても、顔の前にある雪を食べることで空間を確保できれば、(アイスマスク現象を一時的に回避できるので)窒息しない。生き延びられる。そういうことになるのだ。
だから助かるための知識を、もっと正確に解説すると、次のようになる。
雪に埋まっても、最初の15分間は無事だが、15分間を越えると氷ができて鼻と口をじょじょにふさいでいく。30分後には五分五分くらいの確立で、1時間後には確実に、このせいで窒息死している。だから鼻と口を氷でふさがれないために、顔の前に空間を確保したり。顔に氷ができないように、顔の前の雪を食べるのが、延命のためのとる正しい行動になる。
ただしこれを実行できたとしても、雪に埋まったままでは、窒息死以外の別の原因で、けっきょくは死をまぬがれない。外傷や低体温症で死亡する場合のリミットは、2時間ほどになる。
恵子は雪のなかで、腕を動かそうとしたが、どんなに頑張ってもそれができないのを知ると。教えられた通りに顔を動かして、届く範囲のまわりの雪を食べて、顔に氷が生じないように、呼吸がふさがれてしまわないように、空間をつくった。
応急処置だが、そのおかげで息がラクにできるようになって、恵子は安堵する。
雪に埋まってしまい、雪に身体をおさえつけられて身動きできない状態で、恵子は自身に言いきかせる。
さっきの爆発は、耕一がやったものだ。それは間違いない。
ここまで彼が持ってきたガソリンを気化させてから、引火させて爆発させたんだ。その爆発で、さっきの雪崩れを起こしたんだ。
そんなことをやったのは、襲われている自分を助けるためか、本来の目的である雪上車を手に入れるためだろう。
だったら耕一は、私が雪崩れに巻き込まれて雪に埋まったのを知っているはずだ。だから私を救出するために、まもなく耕一がやってくる。私はそれを待てばいい。
いいえ、ちょっと待って。助けられるのをジッと待っていたら、間に合わなくなるんじゃない?
救助隊の到着を待っていたら、雪崩れの被災者は助けられなくなる。これが救助の基本だ、と耕一も言っていた。
やるべきことは、その場にいる人たちに協力してもらい、埋まっている遭難者たちを雪中から一刻も早く掘りだすことだ。そうしなければ、助けられる人も助けられなくなる。
だいたい、高層ビルの屋上階で、さっきの爆発を起こしたのなら、耕一があそこからここまでくるのに、どれくらいの時間がかかるだろうか? 30分間か? 1時間か? もっとかかるはずだ。さらにそこから、雪に埋まっている私の位置を特定して、雪中から掘りださないとならない。
無理だ。どう考えても、救出されるのを待っていたら、私は助からない。雪で窒息するか、そうでなければ雪に体温を奪われて低体温症で死亡している。
私の力で、雪の外にでなければ、私はここで死ぬことになる。
地上は、どちらだろうか?
真っ暗なはずなのに、雪中でかすかにものが見えるのは、雪を透過して光がここまで入ってくるからだ。
そういうことなら、光が入ってくる方向が上になる。つまり私は、あおむけに身を起こした体勢で雪中に埋まっている、ということになる。
(ちなみに雪が白いのは、雪の結晶に入った光が乱反射をくりかえし、それが白に見えるからだ。雪そのものが白いわけではない)
それだけじゃない。呼吸の熱で溶けた雪が、水になって顔を伝わっている。感触から判断すると、水滴は下にむかってしたたっている。ということは、この位置から上にむかって掘り進めば、雪の外にでられるはずだ。
ありがたいのは、こうして雪に埋まってはいるが、さほど深くないらしいことだ。深く埋まっていたら、外から透過してくる光が、こうして見取れるはずがない。地上までの距離は1メートルもないだろう。きっとそうだ。
だったらどうにかして、雪中で腕と足を少しずつ動かして空間をつくればいい。手足を動かしたり身体を揺すって、雪中に空間をこしらえる。空間をつくって、両手が動くようになったら、上にある雪を崩していく。上半身を外にだせたら、続いて下半身も抜きだす。そうすれば、雪の外にでられるはずだ。雪のなかから脱出できるはずだ。生きて外にでられるはずだ。
恵子は自分がやるべきことを頭の中で一通りまとめると、雪のなかで身体を少しずつ動かして、身体のまわりに空間をこしらえようとする。その様子は、地中にもぐりこんだ幼虫がサナギになる前に、身体を前後に動かしてタコツボ状の穴をつくるのに似ていた。
ただし、小さなムシほどの身体能力も、体力も技量も持ち合わせていない恵子は、すぐに力つきてしまい、こんなのとても無理だ、ほかの方法にしないと! と音をあげてしまう。
あきらめちゃ、ダメだ。なんでもいい。どうにかして、雪のなかに身体を動かせるだけのすきまをこしらえるんだ。腕を動かせるようにしたら、頭上にある雪をとりのぞく。そうすれば、雪中から脱出できる。
やるべきことは、それだけだ。助かるには、それをやればいい。簡単じゃないか。
恵子は自身にそう言いきかせて、雪中で何度となく奮戦を続けた。雪のなかで身体を動かそうと、腕や足、背中や腰に、力を込め続けた。
試みては失敗する、それをくりかえすこと何度目かで。恵子は雪中で大声をあげると、だれか助けて、身体が動かせない、ピクリともできない、と叫んでいた。
でもその悲鳴もけっきょくは、胸を雪におさえつけられているせいで、絞りだすような、かぼそい、弱々しい声にしかならない。そして声は、周囲を覆う雪の厚い壁に吸収されてしまい、地上までは届かない。
どんなに頑張っても、雪に埋まった状態からは抜けだせない。何度試みてもダメだ。雪中からの脱出はできない。うまくいかない。助からない。
恵子は薄暗い雪中であえぎながら、呻くように自身に言いきかせる。
「こんなの、どうやったって、無理だ。終わりだ。おしまいだ。いくらあがいたところで、ここで、このまま私は……」
体力だけでなくて、気力もつきかけているのだろう。恵子のなかで、それまで彼女を駆り立てていた、強く激しい感情が弱まっていく。気持ちはくじけたが、そのかわりに、冷静な判断力がもどってくる。
恵子は、だんだんと鈍ってきた思考力と、あきらめに似た麻痺した気持ちで、いったいなんでこんなことになってしまったんだろうか、と自問自答を始める。
すべては、この雪のせいだ。雪が降りやまないせいで、私はひどい目にあったすえに、こうしてここで、雪に殺されようとしているんだ。
雪さえ降らなかったら、雪がやみさえしたら、私は気象庁の職員として、普段とかわらない幸福な生活を送れていたろうに。
私はこのまま、ここで雪に殺されてしまうのだろうか? そうだ。脱出できずに雪中に埋まったままでいれば、間違いなくそうなる。私を押しつぶすと、身動きできない状態に拘束しているこの大量の雪が、私の命を奪い取る。
雪が憎い。ものすごく雪が憎い。でもよく考えてみれば、たしかに雪は憎いけれど、雪に怒りをぶつけても、状況がよくなるわけじゃない。もちろん、私が助かるわけでもない。そもそも、どうして雪がやまないのか、それすらわかっていないのだから。
なぜ、関東では降らないはずの雪が、今年にかぎって、こうして降り続いているのだろうか? いったい、その理由はなんだろうか?
これが自分の生涯で最後の時間になるかもしれないのに、恵子はその貴重な残り時間を使い、寒さと呼吸困難で麻痺しかけている思考力をはたらかせて、今回の関東の降雪の理由について考え始める。
関東における降雪は、南岸低気圧がもたらす。南岸低気圧とは、列島の太平洋側の海上を東に進み、北上する低気圧だ。この低気圧が、関東に雪を降らせる。
ただしそれも、大陸側からやってくると、日本海と山脈を越えて関東平野に吹き込む寒気が。つまりは冷たい空気が、関東にとどまっているあいだだけにかぎられる。
関東の雪は、大陸側から日本海を越えてやってくる寒冷で乾燥した空気と、太平洋側からくる温暖で湿潤な空気がなければ、生まれないわけだ。
このように発生条件が限定されていて、しかも面倒なせいで、関東ではめったに雪が降らないし、雪が降ってもすぐにやんでしまう。たとえ大雪が降っても、数日間でやんでしまう。
この条件をもとに仮説を立てるのなら、次のようになる。強い勢力の低気圧が太平洋上の定位置にとどまり続けていなければ。あるいはその定位置に、線状降水帯のように、新しい低気圧が入れ替わりつつ次々に誕生していなければ。関東で長期間にわたって、雪が降り続けることはない。
過去の例から考えても、関東で記録的な大雪が降ってもそれが短期間で終わってしまったのは、発達した低気圧がやってきても(勢力が弱まる前であっても)上記の発生条件からすぐにはずれてしまったからだ。
それなのに、今年にかぎって。どうして関東で雪が長期にわたって降り続けているのだろうか?
これで何度目かも知れないが、その理由について考えてみる。でもやっぱりわからない。
しかたがないので、考えかたを変えてみることにする。こうなったら原点にかえって、どうして雪が降るのか、その理由について、もう一度よく考えてみよう。
なぜ雪が降るのか、といえば、それは低気圧が雲をつくって、雨を降らせるからだ。そのときに上空から地上にまで冷たい空気があれば雪が降ってくるし、あたたかい空気であれば雪が雨になって降ってくる。つまりは低気圧が、雪を降らせる原因なのだ。
それでは、低気圧とはなんだろうか? 低気圧について、考えてみよう。
天気は、気圧によって変化をする。気圧とは、地面にかかる空気の圧力のことをいう。
空気は熱くなると、軽くなるので浮く。つまりは上がる。冷やされると、重くなるので空から下りてくる。つまりは、空から落ちてくる。
空気が空から落ちてきているときには、地表にかかる空気の圧力は高くなっている。この状態を、高気圧という。
その反対に、上空にむかって空気がどんどん上っているときには、地表にかかる空気の圧力は低くなっている。この状態を、低気圧という。
熱くなっている空気は、水蒸気を多く含んでいる。だから低気圧ができているところでは、たくさん雲ができるし、雨が降る。台風にもなる。低気圧がくると、このようなわけで天気はくずれやすくなる。
その逆に、高気圧だと雲ができないので、空は晴れて晴天になる。またこのとき、気圧が高い方から低い方へと空気がながれるので、風が生まれる。これが季節風にもなる。
(西高東低の冬型の気圧配置のとき、大陸から日本にむかって季節風が吹くのは、こういうわけだ。
熱せられた空気は上空へとのぼる。水蒸気を多く含んでいる上昇する空気が、上空で冷えて小さな水滴の集まりである雲をつくって、雨を降らせる。また水蒸気は上空で凍って、小さな結晶になる。これが雲をつくって、雪を降らせる)
さっきの仮説をもう一度なぞることになるけれど、つまりは、いまの状態は。関東からちょうどよい距離にある海上に、暖かい空気が常に空にのぼっている場所ができていて、その場所で昨年末からずっと、雲が生まれ続けていて、その雲が雪を降らせ続けている。そういうことなんだろうか?
いや、そうじゃない。もしもそうなら、気象庁は八丈島付近で発生する低気圧の存在を観測して特定している。この事実を、国土交通省を通して政府に進言しているし。低気圧の発生原因はつきとめられなくても、低気圧への対策として、なんらかの行動をとっているはずだ。
そもそもこの程度のことなら、私にだって理解できる。本庁の現業室で、気象の専門家である同僚たちが、あんなに四苦八苦したりはしない。彼らがあんなに苦しんでいたのは、彼らでも対処できずに判断に苦しむような、なにかよくわからない気象現象が起きていたからだ。
恵子はそこで、日本が世界一の豪雪国だ、という事実を思い出す。
いままですっかり忘れていたが、私たちが暮らしている細長い列島になっている日本は、冬のあいだは大雪が降るのが常態になっている地域が、国土の半分もある国なのだ。
私たちは関東で暮らしているせいで、雪は降らないのがあたり前だ、だから今年は異常事態だ、大事件だ、天変地異だ、と勝手に思い込んでいた。でも日本海側の豪雪地帯や、特別豪雪地帯で暮らしている人たちからすれば、鉄道の線路や道路が大雪で埋まって使えなくなるのは、毎年起きる、ごくあたり前のことなのだ。
耕一も言っていたじゃないか。あっちじゃ、交通機関が雪で埋まるのは、季節の風物詩にもなっている。だから雪に埋まってしまった線路や道路を、どうやって利用できるようにするのか、そのための対策がされている。
鉄道は列車に除雪車両をつけて1時間に一本に減らす。道路は広くつくって除雪した雪を道の端に積みあげる。冬のあいだはこうなるものだから、という前提で、燃料や食糧や生活用品を市町村の自治体が備蓄しておいて、冬の大雪を乗り切ろうとする。
関東に大雪への免疫がないので大惨事になっているが、ほかの地域はこの異常事態を、従来からの対策で乗り切ろうとしているわけだ。
思えば最初から耕一は、大雪に対してピリピリと神経質になる私に、いまから対策をうっても仕方がない、とまるでやる気がない態度で応じていた。
大雪の被害を軽減する有効な対策をうつよりも、今回の大雪の被害を教訓に来年にそなえたほうがいい、と始終他人ごとの態度でいた。
それは、なぜだろうか? あれはもしかすると、大雪に対してヒステリックで、過敏に反応する私がおかしいのであって、ほかじゃあたり前のことだ、と言いたい、耕一なりの意思表示だったんじゃないだろうか。
いや、それはない。さすがに、それはおかしい。低体温症のせいで、判断力や思考力がおかしくなっている。
今回の自然災害で、大勢の被災者がでている。経済はもとより、それ以外の方面への被害も大きい。なによりも関東地方の各都市は、この雪のせいで壊滅しかけている。
これだけの惨状を前にして、この国じゃよくあることだ。関東だけが特別なんだ。そんな理屈は通用しない。
雪中に閉じ込められているせいで、正しい判断や思考ができなくなってきている。早いところ、ここから軌道修正をするべきだろう。
それじゃ、関東以外で冬に大雪が降るのは、なぜなのか? そもそも、関東地方で大雪が降らないのは、どうしてなのか? そのわけについて考えてみよう。
じつは関東の雪は、二月の方がよく降る。真冬よりも、冬の終わりや春先にかけての方がよく降る。だから、雪が降れば関東は春になる、と言われるくらいだ。
その理由は、海温の上昇によって、この頃から南岸低気圧がやってくるようになるからだ。でも今回の大雪は、南岸低気圧がくるよりもずっと早い、昨年末から始まっている。となるとだ。今回の大雪は、南岸低気圧以外の要素が働いていることになる。
それにだ。冬の季節になれば、年末から必ず雪が降りだす日本海側の気候とくらべて。太平洋側は、特に関東地方は、年末は雪が降らないのが特有の気候になっている。
同じ列島のなかなのに、どうして列島の日本海側では大雪が降って、こちら側では雪が降らないのだろうか?
この違いを生んでいるのは、なんなのだろうか?
二方耕一は、自分を追跡してくる盗賊たちを撃退するのに、闇市でひそかに買い入れておいた工事用のダイナマイトを使用した。
ダイナマイトと、時限装置がわりの目覚まし時計で、アナログな爆発物をこしらえると、それを爆発させて雪崩れを起こしたのだ。
耕一は、追ってきた盗賊たちを、雪崩れが発生しやすい地形である雪山のふもとにまで誘い込んでから。そこでいったん姿をくらまして、当人は雪山となってしまった高層ビルの建物内へと入った。
耕一はまず、ビルのなかで機械室でガソリンで動く非常用の発電機を発見すると、雪上車の燃料として持ってきたガソリンでそれを稼動させた。それから動きだしたエレベータのなかに、スイッチを入れた手製の爆発物を置いて、エレベータを屋上階へとむかわせた。
耕一のもくろみ通りになった。エレベータは屋上階あたりに行ったところで爆発をして、その衝撃で雪崩れが起きた。
あとは雪崩れがおさまったら、隠れていたビルから出て、雪に埋まっている雪上車を掘りだして、それを手に入れればよかった。
ところが、もくろみ以外のことが起きた。あれだけ隠れ場所でジッとしているように、と言いきかせておいた尾坂恵子が自分を追ってノコノコと姿をあらわすと、盗賊ともども起きた雪崩れにまきこまれてしまったのだ。
耕一は隠れていたビルのなかを走って機械室にまで行くと、エレベータをとめようとしたが、まにあわなかった。いったん始動させた時限式の爆発物も停止させようがなかった。
雪崩れがおさまると、隠れていたビルからとびだした二方耕一が、すぐさまにやらねばならなかったのは。あたり一面に積みあがった、ぼう大な量になる雪崩れの雪のなかから、埋まっている恵子をさがすことだった。
雪山の上から滑り落ちてくると、そのまま勢いよく地表部分にぶちまけられた大量の雪は、落ちる途中にあったものを壊したり、もぎとったりして、それをすべて、地表にまで運んできていた。
たとえば津波のあとは、大量の水がどこかに流れていって消えるから、あとには大量の残骸が散乱することになる。でも雪崩れのあとは違う
そこには、どれだけあるのかもわからない、ここまで運ばれてきた、とにかく大量の雪があった。耕一はそれを目にすることになったわけだ。
耕一は息大急ぎで、雪崩れでできた新しい雪の丘のひとつに登ると、そこから大声で、尾坂恵子の名前を呼んだ。しかし、返事はない。
雪崩れに呑まれて流されても、流れている雪の波の外側にのっかれば、雪崩れの堆積物の表層部分にでてくることもある。それを期待したが、だめだった。
考え込んでいる余裕はなかった。この大量の雪のどこかに埋まっている人一人を、どうにかして見付けだして、大急ぎで掘り出さなければならない。
遭難した際に使うビーコンを持たせておけばよかった、と耕一は後悔する。雪崩れに呑まれた被災者を、制限時間内に発見する方法はいまのところ、大人数で雪の中に探索用の棒を突き刺すか、持たせたビーコンで位置を特定するか、それくらいしか方法がないのだ。
それでもわずかな望みをたくして、眼を凝らして雪面をさがしていた耕一は、できたばかりの乱雑に積みあげられた雪の堆積物のなかに、小さくぽつんと、雪とは違うものを見付けた。
すべてが白色の世界のなかに、防寒着の上着の腕だろう、白とは色が違うものがつきだしている。
雪に埋まってしまった遭難者が、身動きがとれない雪のなかで、それでもどうにかして片腕だけでも雪の外にだしたのだ。
走りだすと、雪を蹴散らして、そこまで行く。かけよって膝をつくと、両腕で雪をかきわけてとりのぞいてから、雪に埋まっている人体を大急ぎで雪中から掘りだそうとする。
雪のなかから、全身が雪まみれになった、防寒着を着た人のかたちをしたものがでてくる。尾坂恵子だった。耕一は、恵子の上半身の両脇に自分の腕を入れると、つくったばかりの雪の穴なかからひっぱりだそうとする。
そのときだった。意識を失っているとばかり思っていた尾坂恵子が、耕一の腕をつかむと、凍りついていたまぶたを大きくひらいて耕一を見て、ふるえ声ではあったが、なぜだか嬉しそうな、熱に浮かされたような口調で呼びかけてくる。
「……わかったわ。地形なのよ。そうでしょ? 列島の中央を走る山脈が、豪雪地帯と、雪が降らない地帯とに この国をわけている。大雪が降るか、降らないかは、この山脈のどちら側に暮らしているか、で決まる。
つまりは、この山脈の部分でなにかが起きていて、そのせいで日本海側の地域では当然だった冬の大雪が、私たちがいる関東地方でも起きるようになったのよ。
だからあなたは、雪上車を手に入れて、山脈地帯にある地方の気象台に行って、それを調査しようとしている。そうよね? そうなんでしょう?」
「あのね、恵子ちゃん。君は雪崩れにまきこまれたんだ。だからまずは、自分がどうすれば助かるのか。それを考えたほうがいいよ? 余力があるのなら、考察よりも、凍傷にならないように手足の先をあたためたり、マッサージをするとか、そういうことを頑張ったほうがいい」
どうやら長時間、雪に埋まっていたせいで、正常な判断力を失っているらしい。耕一は、掘りだした恵子の身体を雪の上に横たえるが、そうするあいだも恵子は、見えない相手に話しかけたり同意を求めたりと、意味不明のことを続けている。
そうよ。そうなんだわ。山脈と平野の地形が。そういうことよね、ウフフフ。どうして気付かなかったのかしら、ウヘヘヘ。
雪崩れにまきこまれると、雪にもまれて身体に負荷がかかるせいで、骨折や脱臼といったさまざまな外傷を負う。耕一はまず、雪の上に横たえられた恵子の身体を調べてみて、あちこちに打撲傷を負っているが、目立った外傷はないのをたしかめる。
ほかにも、体温が低下していて、衰弱しているが、これは一時的なものだ。一般的な処置で回復するはずだ。
耕一は、背中のザックをおろすとくちをあける。雪中でも休息をとれるように、と持ってきた防水断熱シートをとりだすと、それで恵子の身体をくるむ。
ビルにもどって木製品を運んでくると、それを燃やしてたき火をおこす。
持ってきたボンベ式のガスコンロを点火して、湯をわかす。砂糖をたっぷり入れた、あたたかい飲み物をつくって、それを恵子に飲ませる。
ついでに、ぬるい湯のなかに恵子の手足をひたして、恵子の凍傷の治療をする。
最初は朦朧としていたが、たき火にあたって、あたたかい飲み物を飲んで、回復をしたのだろう。二杯目の飲み物をつくって、カップをわたす頃には、恵子は、ありがとう、と返答できるようになっていた。
たき火を前に、飲み物を飲んでいる恵子を前に、もう大丈夫だ、と耕一は安堵すると、再び彼は雪崩れのあとにむき直る。
このどこかに雪上車が埋まっている。それをなんとかして見付けだして、掘り出さないとならない。
耕一はとにかく、雪原に歩みだすと、ついでに持ってきた雪国用の刃の広いスコップで、雪上を掘り始める。
ここで尾坂恵子が口走っていた、山脈と平野について語ることにする。というか、これをやらないとまとめられない。
前述したように、日本は世界でもほかに類をみない豪雪国である。温暖な冬とやや暑い夏が特徴になる、中緯度の温帯気候にある国だ。なのに、毎年冬になると、なぜか必ず大雪にみまわれる国でもある。しかも大雪にみまわれるのは、列島の日本海側の地域ばかりに集中している。
でもそれはなぜか、住んでいる私たちは意外にそのわけを知らない。気にかけることもない。興味を持つのは、自分たちの生活が雪におびやかされたときくらいだろう。
なぜ大雪が降るのか。そのわけだが、それは大雪を降らせるくらいに、大量の水分を含んだ季節風が、冬のあいだ、この国にむかって吹くからだ。
雪を降らせるものは、これまでのことからわかる通りに、低気圧になる。大量の水分を含んだ熱せられた空気が上昇して、上空で冷やされて雲をつくって、それが雪を降らせる。
そこに高気圧が冷たい空気を運んでくると、関東の降雪の仕組みのところでやったように、雪が雨にならずに、雪のままで降ってくる。
もう少し専門的に解説をするなら、本来ならば、低気圧と高気圧の二つの気団がぶつかる、前線と呼ばれる境界面で、雪は降りやすい。そういうことになる。ところがだ。日本列島の日本海側で雪が降る仕組みは、これとは違っている。
冬の季節。地軸の傾きと太陽からの日射量の関係で、ユーラシア大陸の東側には、冷たく乾燥した空気が生じている。この冷たくて乾燥した空気は、つまり寒気は(陸風の発生と同じ仕組みで)、陸よりも暖かい海側にむかって吹く。これが冬の季節風になる。
冷たく乾いた冬の季節風は、大陸から海を越えて日本列島へと吹いてくる。冬のあいだは、ずっと吹き続ける。(しかも冷たくて重いので低い位置を吹く)
大陸から日本列島へと吹く、この冷たく乾いた季節風は、途中にある日本海上で、大量の水蒸気を取り込む。このせいで、冷たく乾いた季節風から、冷たくしめった季節風になる。
日本列島の日本海側までやってきた、この冷たくしめった季節風は、列島の日本海側からさらに太平洋側にむかって吹く。このとき、この冷たくしめった季節風が、列島の日本海側に大雪を降らせるのだ。
この理屈に従うなら、日本海側だけじゃなくて、私たちがいる太平洋側にも、冬は大雪が降りそうに思える。でもそうはならない。なぜなら列島の太平洋側に行く前に、列島の中央あたりを縦に走る脊梁山脈が、冬の季節風の進行をふせぐからだ。
そしてこの脊梁山脈が、列島の日本海側に冬のあいだは大雪を降らせる、とても重要な、もうひとつの仕組みとして働く。
細長い日本列島の中央あたりを、まるで列島の背骨のように縦に長く続いているのが、脊梁山脈になる。(脊梁山脈は、日高山脈、木曽山脈、赤石山脈、四国山脈、紀伊山地、九州山地、などからできている)
大陸から吹いてきた、日本海上で水分をたっぷりと取り込んだ冬の冷たい季節風は、脊梁山脈までくると、この高い壁にぶつかる。それによって、(熱い空気である低気圧じゃないのに)脊梁山脈に沿って上昇することで、上空で雨雲になる。これが大雪を降らせる。このせいで、列島の日本海側は、冬のあいだは豪雪地域になる。
脊梁山脈で水分を失った季節風は、そのまま山越えをすると、再び冷たく乾いた風になって、列島の太平洋側にやってくる。これが関東地方では、山から吹き降ろしてくる冷たく乾いた風になって、関東平野にたまる。そして季節の変わり目に、太平洋側の海上を、南岸低気圧がちょうどよい距離にやってきたときに、関東地方に雪を降らせる。
つまりはこの、日本列島を二分する長い山脈の壁が、水分を多く含んだ冬の季節風を上空へと持ちあげることで、列島の日本海側に雪を降らせる。そしてこの国を、豪雪地域と、そうでない地域とにわけているのだ。
この仕組みのせいで、列島の日本海側の地域は、冬のあいだは平野部でも積雪量が2メートルから3メートルに達する、世界有数の豪雪地帯になるのである。
脊梁山脈が大雪を降らせるのなら、脊梁山脈の日本海側の山のあたりの降雪量は、とんでもないことになるはずだ。そして実際にそうなっている。平野部にもよく降るが、日本海側の山間部の降雪量はさらにとんでもなくなるのだ。(くりかえしになるが、立川黒部アルペンルートなどが、よい参考例になる)
これが日本列島の降雪の仕組みである。そして関東地方ではこの仕組みが、三国山脈と関東平野によって行われている。
三国山脈は、群馬県と新潟県の県境にある、茂倉岳、谷川岳、仙ノ倉岳、三国山からなる山脈をいう。谷川岳周辺の山々を中心に、三国山脈は、まるで関東平野を取り囲むようにならんでいる。地図でたしかめてもらえば、それがよくわかるはずだ。
水分を多く含んだ季節風は、この三国山脈のところで持ち上げられて雲に変わると、日本海側の地域に雪を降らせる。そのあとは、水分を失い、冷たく乾燥した冬のからっ風になって、関東平野に吹き下ろしてくる。
関東平野は、西南日本の山系と、東北日本の山系とがまじわる位置にある、日本最大の平野だ。東西約140キロ、西北約110キロの平野となり、中央部が低く、周辺にゆくにつれて高くなるために、関東構造盆地、あるいは構造盆地とも呼ばれている。
恵子が言っていた山脈と平野とは、これをさしていたわけだ。
さてこれで、山脈と平野についての説明はすんだので、雪崩れのあとで耕一と恵子の二人になにがあったのかを語ることにする。
その後、大変な苦労をしたが、それでも二方耕一は、雪中に埋まっていた雪上車を見付けて掘りだして、手に入れることに成功した。
雪上車はボディがへこんだ程度で、エンジンをかけると始動した。ちゃんと暖機運転をすれば、問題なく走行もした。
そこで耕一は、持ってきた荷物を雪上車に積み込んで、シートにまたがると、今回の大雪の原因を調査するために、短期間の旅行へと出発した。
広大な雪原となった関東平野を雪上車で横断して、その先にある三国山脈の気象台を目指したのである。
尾坂恵子が心配していた身勝手な選択と行動を耕一はしたわけだが、恵子はそんな耕一を、無責任だ、と非難はしなかった。それどころか、私も調査に同行する、と言いだした。
いったい、どんな心境の変化があったのか。尾坂恵子は、耕一の反対を押し切って、最終的には自分の主張を認めさせてしまった。
耕一は恵子の同行を許すと、恵子が乗るための雪上車をもう一台用意して、二台の雪上車に旅行に必要な荷物をそれぞれ積み込んで、二人でいっしょに出発した。
恵子が乗ることになったもう一台の雪上車も、盗賊たちから得たものだった。じつは雪中に埋まった雪上車を掘ってさがしているときに、耕一は目的の雪上車といっしょに、埋まっていた盗賊の一人をみつけて、そいつを救出することになった。
雪中に埋まっていた盗賊は、長時間雪の下にいたせいで、瀕死の状態にあった。手足に凍傷を負い、意識を失っていた。それでも耕一の適切な処置で一命をとりとめた。
雪に埋まっていたその人物を、どうにか制限時間内に救助できたのは、雪崩れの発生に気付いて集まってきた盗賊たちが、遭難した仲間の救出に協力したからでもあった。
耕一の指示のもとで、仲間を救うことができたので、その礼として盗賊たちは雪上車二台を渡したのだった。
耕一もまた、雪上車へのお礼というわけでもないが、盗賊たちに頼みごとをした。
じつは自分は都内に、燃料と食糧、生活物資を備蓄した隠れ場所を用意してある。
ほかの都民にみつかれば、物資は盗まれ奪われて、隠れ場所も占拠されてしまう。そこで自分たちがもどってくるまで、その隠れ場所の留守番を頼めないか。
そちらの全員が暮らせる量はないけれど、二人くらいなら、留守のあいだは備蓄物資を消費してもいい。この条件で、どうかお願いできないだろうか。
雪中から救助された仲間の負傷と衰弱はひどく、治療と養生をさせるべきだった。そこで盗賊たちのうちから一名がその仲間につきそい、耕一が用意した隠れ場所だというその廃工場に寝泊りして、耕一と恵子がもどってくるまでそこの留守をあずかることになった。
そこには二人で一冬を暮らすなら充分な量の燃料と食糧が用意してあったので、これはとても簡単な仕事に思えたが、やってみるとそうでもないのがわかった。
夜のあいだ、盗賊たち二人はたき火をおこしたので、その火につられてやってきて、廃工場にある物資を奪おうとする、飢えて凍えた大勢の都民たちと、毎夜二人は争うことになったからである。
普通に考えれば、耕一と恵子の二人は、助け合いながら目的地へと向かい、降雪が続く原因を解明しようとするだろう。困難を乗り越えて、豪雪に苦しめられている、この国の人々を救う方法をみつけだして、それを実行しようとするだろう。
耕一と恵子の二人だけでは無理なら、気象庁本庁に残っている同僚たちにも協力をあおいで、国土交通省を通じて現政府に働きかけて、この国の総力を持って、その対策を実行しようとするだろう。
その方法は、現政府が貴重な備蓄燃料を使っても稼動させていた携帯電話の基地局と電話網を利用した、なにか一風変わった対策かもしれない。
ただしそうなるのは、いまよりも、もう少し先になる。それに、それが成功するかも、まだわからない。だから、いまここで語るべきではない。
だからそちらでなく、二人がたどりついた三国山脈にある気象台で、二人が解き明かすことになる、関東地方を雪で埋めた、今回の自然災害の原因について語ることにする。
関東地方を始め、列島の日本海側の地域や、太平洋側の各地で続いている異常な降雪は、いったいなぜ起きたのか?
耕一と恵子の二人は、三国山脈にある気象台にまでやってくると、そこの気象観測機器を用いて、本来ならば脊梁山脈を越えないはずの多湿な冬の季節風が、いまは越えてきているのを知った。
今年の冬の季節風は、多くの水分を含んでいて、熱を持ち強く吹いていた。この変化した季節風が、関東地方に雪を降り続けさせていたのだ。
さっきも説明したように、日本列島における降雪は、冬の季節風が日本海上を通過するときに、大量の水蒸気と熱をそこで取り込むことで起きる。(だからもしも日本海がないと、列島で大雪は降らなくなるし、冬はいま以上に冷たい風が吹くだけの季節になる)
ところがその日本海に、これまでにない変化が起きていた。日本海を流れる暖流が、例年よりも多い水蒸気と熱を放出していた。このせいで水蒸気と熱を従来よりも多く取り込んだ冬の季節風が、脊梁山脈の壁を越えて、太平洋側の地域にまで大雪を降らせるようになっていたのだ。海流と季節風に生じた変化が、日本列島に異常気象をもたらしていたわけだ。
そしてそれは(私たち人類の活動とは関係なしに起きる)温暖化と呼ばれる現象が原因だった。
地球規模ではなくても、世界各地で進行する温暖化現象によって、海流と気流(季節風)に気象庁でも予測しきれない変化が生じてしまい、それが今回の自然災害をもたらしていたわけだ。
それについては、今回の話ではとても語りきれないので、次回にまわすことにする。
尻切れトンボに思えるかもしれないが、これで充分だと思う。なぜならば、たしかに大雪がもたらした被害は深刻だったけれど、世界の終わりだ、と悲観をしたり、我々は滅亡する、と絶望することでもないからだ。
耕一も言っていたが、けっきょくのところ、あと一か月も経過すれば、季節は変わるからだ。季節が変わり、冬が終わって春がくれば、私たちを苦しめてた雪も消えてしまう。
そうなれば、この自然災害も終結する。冬の季節が終われば、解決する。自然に帰結する、のである。
ただし冬はまたやってくるのだから、それにそなえなければならない。私たちがやるべきことは、耕一も言っていたように、今回の異常気象の原因をつきとめて、また同じ自然災害が起きる前に、必要な対策を行い、被害をくいとめることなのだ。
とはいえ、それがうまくいくかどうかは、現時点ではわからない。なぜならそれは、私たちの今後の努力と頑張りにかかっているからだ。