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凍結都市  作者: げのむ
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凍結都市 第三話


 ここで補足をする。私たちの生活は、電気、ガス、石油が、毎日常に供給されることで成り立っている。

 家電製品を動かすための電気や、炊事や風呂に使うガスや、自動車を走らせるためのガソリンや、電気をつくる火力発電所を稼動させるための石油やガスがなければ、私たちの生活は維持できない。

 無くても大丈夫だ。昔はクーラーも洗濯機も無い生活だった。またその生活にもどればいい。そう主張する人もいるが、いまさら会社で、そろばんで仕事しろ、パソコンや携帯電話は使うな、と命令されても仕事にならない。できるわけがないのだ。

 そして、これは私たちの生活の面におけるハナシだけではない。各種の産業を含めた経済の面でも、医療でも、文化でも。すべての面で、昔とは比較にならない大量のエネルギーをついやすことで、現代の私たちの世界は成り立っている。

 日本で消費される石油のほとんどは、いまは海外からの輸入に頼っている。

 一日あたりの日本での石油の消費量は、約150万キロリットルになるが、これは東京ドームの約一杯分の量にあたる。

 石油の消費量について、もっとわかりやすくいうと。太平洋戦争の開戦時の頃に、一年間かけて使っていた大量の石油の消費量と同じくらいの油を、現代の私たちはたった六日間で使い切るまでになっている。

 でもこれは日本だけにかぎらない。アメリカや中国の石油の消費量は、この日本の消費量よりも、さらに一桁から二桁は多い。どの国でもエネルギー問題は深刻なのだ。

 いまではもう、産業も文化も私たちの日々の生活も。電気がなければ、石油やガスがなければ、それからつくられるエネルギーがなければ、維持できなくなっている。現代の私たちの生活は、エネルギーの大量消費を前提に成り立っているのである。

(エコに傾倒しても、けっきょくはエネルギーの大量消費の運命から逃れられないのなら。なにかもっと効率よくエネルギーをつくって、途中でロスさせずに送り届ける方法を確立するべきなのだ)

 だからというわけではないが、東京では、特に東京湾のまわりには、この国全体の約四割にあたるエネルギー供給拠点が建設されていて、それらが常に稼働している。

 エネルギー供給拠点とは、つまり。タンカーが運んできた石油の精製設備だったり、原油からつくった石油を入れておく石油タンクだったり、火力発電所だったり、天然ガスの基地のことだ。

 前述のように私たちの生活は、ガソリンや灯油などの原油からつくる石油製品。発電所でつくって送電してくる電気。それから液化ガスからつくる天然ガスの三つが供給されることで成り立っている。

 そして、ガス、電気、石油を供給するための施設や設備は、東京湾のまわりに集中している。

 だから、なにか大規模な自然災害が発生して、東京湾のまわりにあるエネルギー供給施設が被害を受けると、前述した三つが供給できなくなるので、首都は機能しなくなる。私たちの生活は成り立たなくなる。経済も立ち行かなくなる。そういう危機と隣り合わせにある。

 行政側も、そうならないように対策をしている。広域パイプライン網の整備、電源の地域分散化、地域の送電網の強化など。リスクを分散させて、バックアップ機能を高めることで、自然災害にみまわれても(もちろん、それ以外のケースもあるだろうけど)首都が機能停止におちいらないようにしている。

 必要だと思うので、石油だけじゃなくて、天然ガスと電気についても、簡単に説明しておく。

 天然ガスだが、こちらも石油同様に海外からの輸入に頼っている。輸入先は、インドネシア、オーストラリア、マレーシア、ブルネイ、カタールなどになる。

 日本の天然ガスの年間消費量は約1000憶立方メートルになる。用途は発電と、都市ガス用に、大きくわけられていて、発電用にはそのうちの約6割が、都市ガス用には約3割が使われている。

 天然ガスもタンカーで運ばれてくるが、こちらは取り扱っているガス会社が、広域ガスパイプラインをつくって、それを使って天然ガスを関東の各地に送り届けている。

 続いて電気だが、関東で消費される電気は、ご存知のように、東京電力があつかっている。全国の消費電力量は約一兆キロワットになる。そのなかでも最大の電力の消費地は、首都圏で、東京になる。

 そして関東で電気をつくっている火力発電所は、関東地方では内陸よりも太平洋側に。特に東京湾のまわりに集中している。

 今回の大雪がもたらした自然災害は、地震のときのように、べつに火力発電所を壊したわけではなかった。火力発電所を動かすための燃料の供給を断っただけだ。だがこのせいで電気がつくれなくなって、冬の寒い季節なのに電気が使えなくなってしまった。

 政府はこの危機に対して、備蓄していた石油を放出することで、発電所に電力の供給を続けさせようとした。

 でも東京ドームをいっぱいにするだけの大量の石油を毎日消費していたら、緊急時用の備蓄燃料も、あっというまになくなってしまう。

 そこで備蓄分の燃料は、節約しながら利用して、まずは必要なところに送ることが決められた。各地の火力発電所に送る分の燃料も、それぞれの配分が決められた。発電所でつくった電力もまた、送電する先のわりあてが決められた。

 これで当座はしのげたが、備蓄燃料の放出も長くは続かない。なにかもっと有効な対策を講じなければ、電力不足にともなう、さらなる被害が生じるのは、火を見るよりもあきらかだった。


 一月の四週目。そして一月の最終日。この日、東京において電力の使用制限令が発令された。

 電力使用制限令とは、経済産業省、経済産業大臣がだす、政令である。

 発令された理由は、発電所に供給される燃料不足が原因で、23区全域への電力の安定供給ができなくなったせいだっだ。

 発令にあわせて、対象地域の使用電力量を減らしたり、計画停電、といった措置が実行されることになった。

 本来これは、なんらかの理由で電力の供給不足が生じてしまい、経済や国民生活に悪影響をおよぼす、と判断された場合に、行政側が電力の使用制限を国民側に指示するための強制措置として行うものだ。でもなんで電力不足になるのかなんて、あらかじめわかるわけがないので、そのときの事情に応じて、制限される期間、地域、用途が、いろいろと変化する。

(最近だとこれが発令されたのは、東日本大震災のときになる。覚えていると思うが、暑い夏のさなかに、あらかじめ決めた区域と時間を対象に、計画停電が実施された。これは地震と津波で被害をうけた発電所側で、電力の供給不足に対応するためだった。これをやらなかったら、電力会社側が供給する、電力需要を上回る電力が使用されてしまい、そのせいで大規模停電が発生していた。読んだ資料によれば、そういうことだったらしい)

 今回も東日本大震災のときと同様に、各区への送電量が決められると、行う日時を定めて、計画停電が実施された。実施にあわせて都内の対象となった各区は、電気が使えない状態になった。

 電力の使用制限という強制措置が始まっても、病院を始めとする医療機関とその関連設備や、消防局や警察署の重要施設には、送電が続けられた。(考えてみれば、これはあたり前のことだが)

 ほかにもダムや空港といった、電力の供給が断たれると大きな事故が起きるところには優先的に送電がされて、設備の機能を維持させるようにした。

 といっても、雪がやまなくなってからは、ジェット機をはじめ、あらゆる航空機の発着と運航は危険と判断されて、羽田空港、成田空港など、関東にある空港はすべて欠航状態だった。欠航にともない、航空機による空輸もすべて、できなくなっていた。雪のせいで、飛行機を使ってなにかを運ぶことは不可能になっていたわけだ。

 都内にある省庁の建物への送電もまた、例外ではなかった。よほど重要なところならともかく、必要がない省庁の設備は、停電になった。計画停電の対象地域になった気象庁本庁にも、電気がこなくなった。

 電気がこなくなれば、全国各地から送られてくる気象データを本庁で管理する、アメダスのシステムも。気象レーダーからの気象データも。気象衛星ひまわりから送られてくる気象データも。ラジオゾンデやウインドプロファイラーを使った高空からの観測データも。こうした各種の気象観測データを受けとって、集計して分析して予測をする、気象庁がつくった数値天気予報システムも、すべてが使えなくなってしまう。

 本庁の観測現業室にならんでいる、たくさんの専用の機器も、いままさにそうなっていた。

 昨日までは、大勢の専門家たちが昼夜を問わずにモニターにかじりついて作業をしていた現業室は、いまはすべてのモニターのあかりが消えてしまい、天井の電灯も暗いままになっていた。

 いま本庁で動いているのは、非常用電源の蓄電池や、ガソリンで動かす非常用発電機からの電気で稼動している、サーバー室にある受信端末と、どうしてもとめるわけにはいかない一部の機器だけだった。

 こんなありさまでも、地震や津波や火山の噴火といった、自然災害が発生する前兆だと思われる観測がされたら、注意報や警報はだすためのシステムは維持されていた。

 気象庁の長官は官邸に出向中なので、その代理として現業室の責任者が、集まってもらった疲れた顔でうなだれている職員たちにむかって、次のように話を始めた。

 先ほどだが、国土交通省の担当者を通じて、私のところにも次のような連絡がきた。これは総理からの指示になる。いまからそれを伝える。このような事態になってしまった以上は、気象庁として国民のためにできることはない。そこで送電が再開されるまでは、気象庁の業務は休止とする。それが政府の決定だ。

 ただし気象予報にともなう関連業務は縮小して続けるので。私をはじめ、各課の責任者と一部の職員は残って、設備の管理を行う。それ以外の者は、各自の判断であとは行動してもらいたい。

 ここにいる職員のなかには、幼い子供がいる者も、高齢者の親がいる者もいるはずだ。この大雪のせいで、都民の生活にさまざまな支障がでている。家族は君たちの帰りを待っている。私の希望を言わせてもらえば、どうか家族のもとにもどって、彼らを安心させてもらいたい。

 我々にできるのは、あとは春の訪れとともに気温が上昇して、雪が溶けて消えるのを待つことだ。それまでどうか、無事でいてくれ。そしてまた再び、ここで顔をあわせよう。みんな、頑張って今日まで職務をまっとうしてくれて、ありがとう。

 責任者の感謝と別れの文句をきいて、別れを告げて、立ち去った者もいた。だが集まっていた職員のなかには、ここにとどまるのを希望する者もいた。というよりも、そうしたがる職員のほうが大勢いた。

 残ることを選んだ職員は、責任者に次のように述べて、彼を驚かせた。

「私も残ります。いいえ、残らせてください。ここで仕事がやりたいんです。それに、ここにはまだ、食糧も飲料水も、発電機を動かすガスもあるんですよね? それなら、ここのがいい」

「おれにも、なにか仕事をさせてください。独り者なんで、帰ったところで部屋のなかはコチコチに凍ってますよ。ここから出たところで、春まで生き抜けるとは思えません。ここで残って、仲間といっしょに、おれができることをやったほうがいい」

「同感です。自分もどうか、お願いします」

 残ることを希望する職員たちの訴えをきいて、責任者は感動するよりも、ハッキリいうと困惑してしまい、彼らにかける言葉を失う。

 尾坂恵子も、その集まりのなかにいた。彼女は、長く続いている泊りがけの職務による肉体の疲労と、こちらも長く続いている緊張状態からくる精神の心労のせいで、麻痺した鈍い心理状態と思考で、さてこれからどうしようか、と自身に問いかける。いったい自分はこれからなにがしたいのか、恵子はあらためてそれを考えてみる。

 そういえばもう三週間あまりも、都内に借りている賃貸マンションに帰っていない。でもあの部屋に帰ったところで、(まずこの大雪のなかを無事にたどりつけるのか、それが疑問だが)電気がこないあの部屋で、春がくるまでのあと一か月半あまりの期間を過ごせるとは、とても思えない。

 電気がこない、ということは、暖房も利用できない。電灯もつかない。部屋にある家電製品はすべて使用できない。そういうことだ。水道管も凍っているだろう。となれば、水も使えない。水洗トイレだって流せない。

 それだったら自分も、(買い出しを手伝ったけれど)職員たちみんなでかき集めた食糧と飲料水の備蓄がされていて、発電機を動かす燃料もある。ちゃんと対策がされている、本庁の建物に残ったほうがいい。そちらのが、まだ人間らしい生活ができるはずだ。知った顔の仲間たちと、いっしょに仕事をしていたほうが、まだましだろう。

 両親のことも、もちろん心配だ。でも届いたメールから、無事であるのはわかっている。メールの内容から判断するに、近所の人たちと協力して、なんとかこの大雪のなかでもやっている様子だ。

 だいたい、この状況で自分が両親のもとにもどったところで、なにか有益なことができるとは思えない。だったらこのまま都内に残って、なにか自分がやるべきことを、自分にしかできないことを、やるべきじゃないだろうか。恵子はその、自分がやるべきこと、についてとっくりと考えてみる。程なくして、気持ちは決まった。

 残ると決めた職員たちは集まると、今後どうするのか、いま備蓄してある物資で春まで持ちこたえるにはどうしたらいいのか、そうしたことを話しあっている。

 恵子はその話しあいに参加しなかった。一人きりで現業室からでると、すっかり職員の数が少なくなってしまった、いったいもう何往復したのかもわからない廊下の先にある、私物を置いてあるロッカールームへとむかう。

 この大雪のなかを、歩いて移動しなければならないなら、いったいどんな装備を身につければいいのか。どんなものを優先的に持って行き、どのような行動をとるべきなのか。気象庁の職員たちで集まって、その問題について何度も話しあっていた。

 外出した職員たちが、やってみると予想以上に危険で大変だった雪中での移動の経験について話しあったすえに。どうすれば安全に行って帰ってこられるのか、そのために必要なものはなにか、さまざまな意見をまとめて、気象庁にあった備品や個人的な私物をかき集めると。本庁の皆で自由に使えるように、それをロッカールームに用意しておいてくれていた。

 最初は、衣類だ。服は、次のようになる。上半身は、アウターとして、マウンテンジャケットやマウンテンパーカーやレインウエアを、いちばん外に着る。その下は、下着の上には、汗抜けのよいアンダーウエアを着用して。その上にベースレイヤーや、ミドルレイヤーや、フリースジャケットを重ね着する。

 下半身は、下着の上にインナータイツやパンツを重ね着して。その上に防水された厚手のハードシェルパンツをはく。

 外で行動するときの格好は、基本はこうで、恵子もそうしてきた。

 このほかにも、たとえば吸湿発熱素材という新素材を使った冬服がある。氷点下での行動は、下着の上に着るアンダーウェアがただの綿だと、汗をかくと体温を奪われるせいで、生死にかかわる結果になる。だから登山のときには、下着とアンダーウェアの替えを用意しておいて、汗をかいたらすぐに着替えるようにする。

 でも吸湿発熱素材を使った衣料なら、汗をかいても、それを吸湿して発熱する。さらに乾燥までしてくれるのだ。アンダーウェアや下着をこの新素材を使ったものにかえると、上に着るものを薄手にできる。持ち運ぶ下着も減らせる。動きやすいし、荷物の軽量化にもなる。

(吸湿発熱素材は、人の肌から発散される水蒸気の水分子を吸着して、それを熱エネルギーに変える。これは羊のウールや鳥の羽毛が、湿気を吸うと発熱する原理を利用している。しかもこの素材は、じつは繊維状にした乾燥剤なので、すぐに乾くようにもなっている)

 足回りは、雪のなかを長時間歩いても凍傷にならないように、冬山登山のときにはくようなスノーシューと呼ばれるゴツイのにする。それから雪の上でもすべらないように、靴底に爪をつけるすべりどめである、昔でいうかんじきを現代風にしたアイゼンをくくりつける。

 次は荷物だ。背中に背負うザックのなかには、まず小さくたたんだ携帯用の寝袋を入れる。続いて、最低限の下着と着替えを入れてから、食糧やミネラルウォーターのボトルと、ほかに使い捨てのカイロのような緊急時に使う加温アイテムをできるだけたくさんに持っていく。ただしこれは、気温が零下を下回ると使用できなくなるので、その際の準備も考えておかなければならない。(そのほかのこまごまとした品物は省略する)

 頭部には厚手の帽子をかぶって、その上には雪面からの強い反射をふせぐためのゴーグルをつける。手袋をはめると、これから冬山に登山にでも行くのか、という格好と装備になる。

 恵子は持ち物の最後に、雪の上を歩くときの補助に使う、スキーのストックにも似た、杖がわりのアルパインを両手にとる。これはカーボン製で軽くて丈夫な、歩行中に雪中に突き刺して足もとの安全確認にも使える便利なものだ。それに、いざというときには自衛用として使うように、と職員から指示されていた。アルパインを手にとったものの、悩んだすえに恵子は、これは必要ないだろう、と判断して、ロッカールームの持ち物のなかにもどすことにする。

 恵子が雪中の移動のための装備を身につけていると、ノックの音のあとで、そこに彼女の上司である広報課の課長が入ってくると、彼女に声をかける。

「こんなところにいたのか。さがしたぞ。まさかとは思ったが、そうか、ここから出て行くつもりなんだな? よけいな忠告かもしれんが、そんな危険な真似は避けるべきじゃないかね? ここにとどまって、仲間たちといっしょに春までジッとしているべきじゃないかね?」

「いえ、もう決めたことなので。会いたい相手がいますし、私はどうしてもやらなければならないことがあるんです。ですから私は、その相手のもとに行くことにします」

「そうか。君がそう決めたのなら、もうとめられんな」

 恵子が、ザックに荷物をつめながら、自分の提案を拒否するのをきいて、課長はなにもいえなくなる。それでも課長は、出発の準備を続けている恵子に近づくと、防水用のビニールパックに入っているUSBメモリーをさしだす。

「もっていきなさい。これは現業室の連中から、君に渡してほしい、と頼まれたものだ。私にはわからんが、これは、今回の降雪についてこれまで観測した記録を現業室でまとめたものだ。現業室の連中からすれば、これは自分たちの仕事の成果でもあるわけで、だからこそ同僚の君にも持っていてもらいたい。できればなにか有効に役立ててもらいたい。連中から、そう伝えてくれないか、と言われたよ。

 上司である私なら信頼されている、と連中は思ったようだ。いやはや、まったく。私の言うことなど、ちっともききやしない、嫌われている、というのにな」

「そんな。嫌ってなんか、いませんよ……」

 恵子は課長から手渡されたそれを、掌の上において、ジッとながめる。いろいろと考えたすえに、絶対にそれを紛失しないようにと、ビニールパックを小さくたたんでから、肌着の上に着たボタンシャツの胸ポケットにおさめて。さらにボタンをしっかりとかける。これなら荷物をすべて失い、防寒着の上下を脱がされても、服をすべてひっぱがされるような事態にならないかぎりは無くさないないだろう。

 もっとも雪中でそんな事態におちいるとすれば、そのときはきっともう自分の生命の心配をしなければならない、緊急事態になっているだろうから、メモリーの心配どころではないだろうけれど。

 恵子は出発の準備を終えると、上着のポケットからスマートフォンをとりだして電源を入れる。

 スマホはまだ使用できた。政府が緊急時用の燃料をまわして、送電を続けているからだ。

 そこで恵子は、ここのところ忙しくて、連絡をとっていなかった二方耕一のアドレスあてに、メールを送ることにする。

 会って話したいことがあるので、クリスマスのときに待ちあわせた、あの店に来てほしい。クルマは使えないけど、徒歩でむかうから、今日中には到着できると思う。私はそこで待っているから、あなたも早く来て。

 手早くテキストを作成して送信すると、耕一からの返信がくるのを待つ。ところが、それがこない。恵子はあきらめて、(バッテリーをもたせるために)スマホの電源を切る。まずは自分が、指定した場所をめざして、ここから出発することにする。

 本来であれば、計画停電の地域に指定されているので、電話会社の設備もすべて使用できないわけで、携帯電話も使えないはずだった。

 だが政府としては、電力会社に指示をして、(全部ではないにしろ)基地局や交換局への送電を優先させることで、なにかあった場合には政府からの緊急の連絡を国民に伝える最後の手段として、携帯電話の緊急メールを利用できるようにしていた。

 とはいえこうして、携帯電話のメールが使えても、電力の供給不足で計画停電になっている地域は、スマホや従来の携帯電話の充電できない。けっきょくは端末が先にバッテリー切れになってしまうのだった。


 気象庁本庁から、車での移動で10分たらずの距離にある、東京駅に近い、二階建ての建物を使った、人気のカフェテリア。

 昨年末のクリスマスのときに訪れて以来、恵子は忙しくて、ずっとそのカフェテリアを利用していなかった。

 でもこうなったら、待ちあわせの場所に指定したカフェテリアに行かなければならない。徒歩での移動なら、本庁の建物から出発して、かかっても二時間から三時間で到着する距離だろう。

 店は閉店しているかもしれないが、建物は残っている。カフェテリアに到着したら、そこで耕一を待つようにする。夜を過すことになったら、最悪その建物の中に入って、雪と夜の寒さに耐えればいい。

 電気がこない建物のなかでも、夜はすごせる。泊まり込みを続けていた本庁の空き部屋で、毛布をかぶって夜の寒さに耐えるのにも、もうなれた。

 それにいまはロッカールームの備品から持ってきた、マイナス15度まで耐えられる寝袋がザックに入っている。これがあれば夜も大丈夫だ。恵子はそう考えていた。

 でもいい加減に、そんなに容易にはいかないことに気付いてもいい頃合いだった。雪が降り続けて、降った雪が積もるとどうなるのか。それがなにをもたらすのか。尾坂恵子にはそのあたりのことが、根本的にわかっていなかった。

 この国の降雪量が多い地帯では。特に山岳地帯では、一日の降雪量が一メートルを越えることもある。(富山県真川では、一九四七年二月二八日に、日降雪量が180センチになった記録がある)

 重大な災害をもたらす冬の大雪を、豪雪という。豪雪は、予想もしなかったことをもたらす。春の雪解けの季節には、雪崩れや洪水を引き起こす。降雪量が多い地域では、地形そのものを変化させる。

 前述のように、一晩で一メートルを越える積雪さえあるのだ。積もった雪のせいで地形が変わってしまい、雪が降る冬のあいだ、何度となく、それがくりかえされる。だから地図があっても、山岳地帯では雪による地形の変化で遭難事故が起きる。

 恵子はとりあえず、東京駅にむかって道沿いに移動していけばいい、と考えていた。雪が降りだしてから、最初は軽自動車で、ここ最近は徒歩で、買い出しのために東京駅の周辺を移動している。だから大丈夫だろう。雪に埋まった白く変わった東京の風景も、吹きつける雪が張りついて白くなった建物も、どちらも見馴れている。

 だがこの一か月あまりのあいだで、大量の雪が降って積もったことによって、東京の地形がどのように変化したのか。恵子はそれを考慮していなかった。

 じつはもう、道路というもの自体が雪に埋もれてしまい、消滅していた。目印にして進むつもりでいた特徴あるビルや、東京駅の建物も、その多くが雪に埋まってしまっていた。

 もう自分が知っている、いつもの見なれた東京駅周辺の光景はどこにもない。区画化された東京の見なれた町の風景は、いまはもう雪の下だった。雪に覆われた白い世界だけが、そこにある。恵子がよく知っている、掃除された清潔な通りも、色とりどりの建物の列も、雪に埋まっている。白く凍りついた高層ビルも、いまでは吹きつける雪に埋まりかけていて、新しい大きな雪山や、雪の丘になろうとしている。

 外にでて、恵子は歩きだしたものの、雪に埋まろうとしている東京の街なかで、白い息を吐きながら、ぼう然と立ちつくす。

 それでも今日は、天候が落ち着いていて、雪もやんでいるからだろう。防寒着で着ぶくれて体型がわからない、帽子とゴーグルに隠れて顔もわからない、大勢の都民たちが外に出ている。驚いたことに、けっこうな人数だ。

 着ぶくれた都民たちは、雪原になりかけている東京の街なかを、ペンギンの群れのようにヨチヨチと、ヨタヨタと、どこかにむかっている。べつに散歩のつもりで外出したわけでないらしい。出会う人たちが皆、バックパックやデイバックといった荷物袋を背中にしょって、肩かけのカバンやバッグをさげているからだ。恵子にもそれは理解できた。

 恵子が呼びかけて近づこうとすると、たいがいの人が歩きにくい雪のなかを、荷物を守るようにモタモタと逃げていく。

 こんな雪のなかを、こんなに大勢の人たちが、いったいなんのために出歩いているのか、恵子にはさっぱり見当がつかなかった。

 だが恵子もまた、皆と同じように雪上をモタモタと、ヨタヨタと歩いて、ようやくもとはカフェテリアだった建物にたどりついて、それを知ることになった。

 もとカフェテリアだった建物は、降り続ける雪のせいで、雪の下に埋まってしまっていた。そのかわりにその場所には、べつのものができていた。

 そこにはブラックマーケットがあった。大勢の都民たちが集まって、非合法の食糧品や医薬品や日用品を売り買いする場所ができていた。

 つまりは、闇市が誕生していたのである。


 海外だとブラックマーケットといえば、武器やらドラッグやら禁止されている危険物をあつかう、非合法の場所を意味する。

 でもこれを日本にして、闇市といいかえると、戦中戦後の、その当時は禁止されていたヤミ米をはじめ、イモや干し魚や豆類といった、いろんな食い物を路上で露店のかたちで売っている場所のイメージになる。

 映画やテレビドラマにでてくる闇市といえば、戦中戦後の服装をした大勢の人たちが露店に群がって、食糧を買いあさったり、衣類や鍋やカマや薬や、とにかく必要とされるものはなんでも売り買いしている、活気ある場所として描かれる。でも同時にそこは、横流しの品や、盗品や、密造品もあつかっているので、それを食べて死んでも、それは食べた奴の責任という、ひどい場所でもあった。

 なぜそんなものが生まれたのかといえば、空襲で交通網が破壊されたせいで、物流停滞となり品不足になったのが原因だった。(よくかん違いされるが、単純に品不足だったんじゃなくて、地方に物資があっても、それを都市まで運ぶ方法がなかったのだ)

 それからもうひとつ、食糧管理法という悪法が原因だった。食糧管理法は、すべての物資を配給制にして、品不足を統制して解消しようという法律だった。ところが国民の生命線となる、その肝心の物資の配給はしょっちゅう遅れるし、そもそも配給する物資の量が少なかった。

 飢えているのに、配給物資じゃとても足りなかったわけだ。そこで国民側は、食管法など無視して、足りない分を自分たちで勝手にどこぞから調達して、非合法に売り買いするようになった。それが行われていた場所が、闇市だった。

 だがいま、雪に閉ざされてしまい、物資不足におちいった東京のどまんなかに出現した現代の闇市は、過去のそれとは若干違っていた。

 戦後の闇市のように、ゴザを敷いて、売り物を地面にならべて売ったりすれば、売り物が雪に濡れてダメになってしまう。下には降った雪が積もっているし、上からは新しい雪が降ってくるからだ。

 雪を避けるために、ビニールシートの天幕が屋根がわりに張ってあって、それがずっと先まで続いている。運んできたパイプを骨組みにしてつくったらしい。下にも、必要な場所にはビニールシートが敷いてある。

 そうやってつくった売り場のスペースに、露店の列が、何列も何列もできあがっている。

 売り子たちは個々にテーブルなどを自分のスペースに持ち込んでいて、そこに品物をならべて、露店の列に沿って流れてくる客を相手に、自分たちが持ってきた商品を売っている。客は露店の列を見てまわって、自分が欲しい品はないか、移動しながらさがしている。

 とにかく、どこを見ても人人人だ。いったいどれだけ大勢の都民が、ここに集まっているのか。数百人どころではない。数千人からはいそうだ。今日一日で集計すれば、数万人からの来客になるはずだ。

 そして、あるわあるわ。いったいどこにこんなにあったんだよ。いったいどこからこれを持ってきたんだよ。そう露店の売り子たちに問いただしたくなる、大量の物資がそれぞれの露店の店頭に山積みされている。

 どこかの倉庫に大量に隠してあった物資を盗みだしたのか。それとも、自治体がいざというときのために保管していた大量の非常用のストックを勝手に持ちだしたのか。露店には、商品の仕入れ先を証明するシールや、賞味期限のラベルがはがされている食糧品や医療品や日用品の数々が大量にならんでいる。ものによっては新品のパッケージのままだ。

 さすがは普段から、国内でも最大の量の物資が、毎日あちらからこちらへとやりとりされていた東京である。でもその値段は、闇市という違法な場所にふさわしく、とてつもなく高価だった。

 たとえば、露店のテーブルの上に、カップラーメンが山のように積まれて売られている。少し離れたところでは、ドラム缶の蓋を切ってつくったなかに薪がくべられて焚き火が燃やされていて、その焚き火で雪を溶かしてわかしてつくったグラグラと煮える湯が売られている。

 手書きの値札を見ると、カップラーメンは1コ五千円で、湯は1パイ二千円になっている。品不足に便乗した、暴利もいいところのボッタクリな価格だ。ところがそのどちらもが、恵子の見ている前で次々に売れていく。そして品物とひきかえに売り子にわたされる高額紙幣が、手近の空き箱に放り込まれて、その紙幣の量がどんどんと増えていく。

 露店のカップラーメンがすべて売れてなくなっても、防寒着に着ぶくれた売り子の仲間たちが、奥にあるそりに積んだダンボール箱を運んできてひらいて、次の新しいカップラーメンを店頭にならべる。それもまた売れていく。

 普段ならこんなものが売れるわけないのだが、品不足でそれがただの湯でも、こうして高値で売れるわけなのだ。(とはいえ、ここまで運んできた燃料の手間を考えれば、湯の値段はじつは妥当かもしれないが)

 そこで恵子は気付く。さっき途中で出会った、荷物を大事そうに運んでいた大勢の都民は、この闇市で買い込んだ食糧を家族のもとに持って帰る途中だったのだ。

 それに、闇市にきた人たちは、購入した食糧品を持って帰るだけではなくて、闇市でつくったものを、ここで食べている。というよりも、寒いなかを遠くから歩いてやってきたので、皆がハラがへっているらしい。

 品物を梱包していたダンボール箱やプラスチックケースが大量に雪上に捨ててあるので、椅子がわりにそこに腰おろした防寒着姿の人々が、湯気がたつ熱々のカップラーメンをうまそうに食べている。大人だけではない。老人も子供も、ハラをすかせた大勢の都民が、器に盛られた正体不明のレトルト商品を、つまりは闇商品をむさぼるようにかっこんでいる。だれもが食うことに貪欲で、そうした自分の姿を隠そうともしない。

 盗品か、横流し品か。ふだんなら見向きもしない、違法の食べ物をうまそうに食べている大勢の人々の姿の姿を見て、そのバイタリティに感動するべきだった。でも恵子はそうは思わなかった。

 昨日までの見栄も自尊心もかなぐり捨ててしまい、違法行為も気にしない、なりふりかまわない彼らの姿に、恵子は賛同できなかった。それどころか、ハッキリいって、ハラがたってきた。

 恵子は、寒いなかで飢えて、苦しみに耐えている。自分たち行政側の助けがくるのを信じて待っている都民たちの姿をイメージして、ずっと心を痛めていた。

 自分が頑張らないと、皆を救えない。自分もつらいけど、皆はもっとつらいんだ。だから自分が、この私が、ここで踏んばらなきゃ。もっと頑張らなきゃ。そう自身に言いきかせて、今日までやってきた。

 ところが現実は、そうではなかった。あたり前だけど、そんなわけがなかったのだ。都民たちは、大雪がもたらしたこの自然災害のまっただなかで、生きるための手段や方法を自分たちであみだすと、法律などあっさりと無視して、恵子たち行政側の考えなど関係なしに、それを実践していたのだ。

 恵子が都民の身を案じるのを、そんなふうに役人がおれたちのことを心配したりしない。役人なんてもっと汚いもんだ、と否定する人もいるかもしれない。でもよく似たケースはほかにもある。有名なのは闇市のヤミ米を買わずに亡くなった、裁判官山口良忠の話だろう。

 山口良忠は、終戦後の食糧難の時代に、闇市で売っている非合法のヤミ米を拒否して、食糧管理法にそった配給食糧のみで生き抜こうとしたために、栄養失調で餓死することになった。(前述したように、この時代は配給される物資だけではとても足りなくて、闇市で高額な違法の物資を購入しなければ、生きていくのは困難な世情だった)

 この人のことを知ったときは、きっと変わり者だったんだな、くらいの認識だったが、じつはいまの尾坂恵子の心境に近かったのかもしれない。

 そういうわけで、雪上にいつのまにか誕生していた巨大な闇市と、そこで非合法の物資を売り買いしている大勢の都民たちにむかって、恵子がくちにした第一声は、相手を非難する怒りに満ちていた。

「なに、これ? なにをしているの、この人たちは? いや。なにやってんの、こいつらは!」

 そして恵子は、やめておけばいいのに、食べ物を売っている手近の売り子につめよると、相手をにらみつける。

 その食い物屋の露店では、そりに積んで大勢でここまで運んできたのだろう、大きなプロパンガスのボンベをホースでコンロにつないで、大々的に料理をつくっている。大鍋に湯をわかしてスープやラーメンをつくったり、鉄板で熱してヤキソバをつくって、どれもひとつ一万円で売っている。

 恵子はラーメンをつくっている、テキヤ風の青年につめよると、その青年に強気の態度で非難しだす。

「ちょっと、そこのあなた! 私は気象庁の職員なのだけどね。ここでやっているこれは、正式な認可を受けてやっていることなのかしら? もしもそうでなければ、法律違反よ? いますぐにやめなければ、逮捕されるわよ?」

 青年は寒さに耐えるためか、それとも素顔をさらさないためか、目だし帽に似た防寒用のマスクをかぶっていたが、ラーメンをつくっていた手をとめると、それを脱いでとる。

 その下からあらわれたのは、カフェで働いていた店員の顔だった。だがこの一か月でなにがあったのか、目つきや顔つきは別人のように変わってしまい、刃物のケンカでできたらしい、真新しい傷あとが頬に生じている。

 青年は、青ざめた顔であとずさる恵子を見すえると、低い声で言いきかせる。

「お客さん、あんた、以前によくきていた人だよね? あんたはいま、違法だから逮捕する、とかいったよな? それはつまり、あんたが証人になって証言して、おれを逮捕させる。そういうことだよな?」

 青年は、恵子の返答を待ったりせずに、そばにひかえていたやくざ風の仲間たちに、もめごとを持ち込んだこの闖入者をここから連れだして黙らせるように、と手短に指示する。

 危険を察知した恵子が逃げだす前に、男たち二人が彼女を両脇から押さえ込む。男の一人が恵子の腕をつかんで取り押さえて。もう一人の男が、恵子の反対側の腕をつかんでくちをふさぐ。二人の男はつかまえた恵子を引きずって、そのままどこかに連れて行こうとする。

「おい、こいつをどうする? 身ぐるみをはいで、放り出すか?」

「面倒だから、おれたちでてきとうにかたづけちまおう。ほかの行き倒れといっしょに雪に埋めちまえばいい。なにがあったのかなんて、どうせわかりゃしないさ」

「そうだな。それがいちばん簡単だよな。よし、そうしようぜ」

 男たちのやりとりをきいて、両腕をつかまれたくちをふさがれた恵子は大きく目を見開くと、拘束をふりほどこうとジタバタとあがく。まわりに大勢いるなにか食っている都民たちに助けを求めて、必死の表情でそちらを見る。

 だが皆は、カップラーメンを食べながら、そ知らぬ顔でそっぽをむいてしまう。子供たちにいたっては、狼狽する恵子を、指さして笑っている。

 そのままだったら、恵子は闇市を運営している正体不明の男たちにさらわれて姿を消して、それっきりになっていたろう。次に発見されたときには、今回の大雪で亡くなった大勢の被災者の一人になっていたはずだ。

 そうならずにすんだのは、恵子を連れ去ろうとする男たちの前にあらわれると、彼らに呼びかけた一人の人物がいたからだった。

「すいません。ホント、すいません。じつはそのヒトは、おれに会いにきた、おれの知り合いなんですよ。でも困ったヒトで。面倒ばかり起こす、トラブルメーカーなんです。皆さんのジャマをしないように、おれからよく言ってきかせますから。今日のところはどうか、見逃していただけませんか?」

 男たちの前にでてきて、ペコペコと頭をさげながらそう懇願したのは、防寒着姿の、二方耕一だった。

 二方耕一は、こしらえた笑顔を顔にはりつけて、もみ手せんばかりのへりくだった態度で男たちににじり寄ると、かなりの額になる紙幣を男たちに握らせてから、いつもホントにお世話になっています、ともうひとつ頭をさげる。

 恵子を拘束している二人のやくざ風の男たちは、どうしますか、と問うように、自分たちに指示をした青年を見る。最初の青年は、腕組みをするとため息をついて、耕一にむかって念を押すように言いきかせる。

「二方さん、あんたがそこまで言うのなら、今回は見逃しましょう。でもまたその人が、法律違反だ、逮捕だ、と言いだしたら、あんたも同罪ですからね? いいですね?」

「えぇ。もちろんですとも。そのへんは、まかせておいてください。おれからしっかりと、このヒトに言いきかせておきますんで」

 念を押された耕一は、男たちから解放された恵子に近づくと、恵子の後頭部をつかんで、力づくで無理やりに男たちにむかって何度も頭をさげさせる。

 それから耕一は、恐怖と屈辱と、助かった安堵感から泣きだしそうな表情でいる恵子の手をつかんで、大急ぎで恵子をひっぱって闇市の奥へと連れていく。


 闇市の露店の列の奥には、なんと二方耕一が商売をしている露店もあった。

 再会した耕一に、露店の奥で休むように、といわれて、恵子はしぶしぶとそうする。

 尾坂恵子はふてくされていた。耕一に背をむけると、ビニールシートを敷いた上に、両脚を抱えた格好ですわって、すっかりいじけた涙目のふくれっ面で、身を縮めている。

 それでも窮地を脱して、気持ちが落ち着いたのだろう。周囲の喧騒が恵子の耳に入ってくるようになる。

 恵子はまわりを見回して、雪上にできあがったこの巨大な闇市が、いったいどんなものなのかを、彼女なりに観察して理解しようとつとめる。

 前述のように闇市とは、日本の場合には、配給制の物資が足りないので、駅前や広場などに自然発生的にあらわれた市場のことをいう。その形態は、ゴザの上に品物をならべた露店や、バラックの屋台や、青空市場が多かった。

 もう私たちの生活とはいっさい関係がない、終わった過去の出来事だと思うかもしれない。でも戦後の混乱期にできた闇市は、連なっていた露店がそのまま店をかまえた商店へと変わって、それがさらに軒を連ねた商店街や繁華街になって、現在も生き残っている。新宿駅前の食い倒れ横丁やゴールデン街は、もとは駅前にあった闇市の飲食の露店から始まったものだ。上野のアメ横、アメヤ横丁も、じつは最初の発端は、闇市の露店のならびだったのは有名だ。

(以下は資料からの引用になる。もっとも大きな闇市は、新橋だった。全国からヤミ物資を持ち込んだ連中が露店をならべるようになって、闇市となった。新橋についで新宿マーケットができて、渋谷に闇市ができたのは、それより少しあとだ)

 今回、雪上に誕生した闇市の露店の多くは、都民が求める食糧品をあつかっていたが、なかには日用品を売っている露店もあった。

 耕一の露店も、日用品を売っていた。ただしそれは、恵子には用途がわからないものだった。

 スコップがあるが、刃の部分がひし形や四角ではなくて、横向きの長方形をしている。

 ねこ車という、運搬用に使う手押しの一輪車みたいなものがあるが、肝心の車輪の部分がついていない。ほかにも、昔ながらのゴム製の長靴がならべてある。

 こんなものが本当に売れるのか? 雪のなかを闇市にまで歩いてやってきた都民が、カネを払ってまで買って帰るものなのか?

 恵子は疑いの気持ちしかなかったが、そんな恵子の疑念をふきとばすように、やってくるお客は耕一の店のスコップや手押し車を、そうそうこれを買いにきたんだ、という態度で次々に購入していく。

 店頭にあった分はすぐに売れてしまい、耕一は奥にあった在庫の分を運んできてならべるが、新しい分もすぐにまた売れていく。

 興味がわいてきた恵子は、そりに積んで耕一がここまで運んできたらしい、梱包されたダンボール箱に入っているスコップや、車輪のない手押し車を調べてみる。

 もっと重いものかと思ったが、スコップの刃の部分も、手押し車の本体も、プラスチック製でとても軽い。ほかの部分もポリカーボネイト製なので、女性でも手軽に持ち歩けるくらいに、とにかく軽量につくってある。

 どちらもなんに使うものなのか、恵子には見当もつかなかった。でも客から使いかたをきかれた耕一が、車輪が無い手押し車を闇市の雪が積もっているところに持っていくと。手押し車を押して積もっている雪を集めていき、手際よく一か所に集めるのを見て、恵子もようやく理解する。これは雪かきに使う道具なのだ。

「これですか? これはスノーダンプ、ママさんダンプという商品です。関東じゃ見ることはありませんが、雪国じゃ普通に売っていますよ。なにしろ雪かきってのは、とんでもない重労働ですからね。でもこれがあれば、女性が一人でもウチのまわりの雪かきができます。使いかたは道路の上をすべらせて、手押し車の要領で雪を集めるだけです。スコップよりも手軽で簡単に、雪かきができます。

 もしもウチの外に出られないくらいに積もっているときには、まずはそのスコップで雪の壁を壊してとりのぞいてください。刃の部分が大きくつくってあるので、ふつうのスコップよりも多くの雪を一度にとりのぞけますからね」

「なるほど。話にきいた通りに便利なものだな。ひとつもらおう。それから、その雪かき用のスコップもいっしょにな。どちらも必要だ」

「まいど、どうも。ぜひとも、この商品のことを、近所の人たちにも教えてあげてくださいね。まだ在庫はありますし、おれはここで店をやっていますから」

 普段の無気力な廃人ぶりがまったくの別人としか思えない、笑顔と親しみやすい態度で耕一は接客をこなすと、雪かき用の道具をやってくるお客に売っていく。自然災害がきっかけで起きる耕一の変貌を知らなければ、恵子でもきっと別人だと思ったろう。事情を知っている恵子でさえ、とても信じられない変わりっぷりだったけれど。

 恵子は、在庫が入っているダンボール箱を、よく調べてみる。品物が到着したのは三週間前だ。となるとだ。二方耕一は、雪害で物流が麻痺して、関東に県外からの品物が入ってこなくなる前に、この品物を先方に発注して仕入れていたことになる。

 つまり耕一は、雪による物流の遮断だけではなくて、その後にそれが原因で闇市ができるまでを予想して、きっと借金までしてこの大量の品物を取り寄せたわけだ。なんてやつだ。まったく、なんてやつだ。

 それから二時間たらずで、耕一は闇市で売るために運んできた今日の分の在庫を売り切ってしまう。耕一は露店を閉めると、ほかの露店で売っているドラム缶の湯であたためた一本千円の缶コーヒーを買ってきて、それを飲みながら、今日の売り上げの計算を始める。

 客からうけとった高額紙幣を、用意しておいた手さげ金庫にしまう耕一を見ていた恵子は、手さげ金庫のなかに札がぎっしりと入っているのを見て、思わず目をむくと、身をのりだして自分が見たものをもう一度たしかめる。

 恵子は耕一の背後ににじり寄ると、ホクホクした様子で手さげ金庫の紙幣の束を数えている耕一に、できるだけ辛辣なことを言って、自分のやり場がない憤懣をぶつけて晴らそうとする。

「あきれたわね。そんなにおカネをためこんでも、ムダでしかないって、わからないの? けっこうかせいだみたいだけど、雪に閉ざされているこの東京じゃ、大金の使いみちなんてないわよ。大切に抱えている札束は、なんの価値もない、紙切れでしかないわ」

 耕一は、札を数えていたその手をとめてふりかえると、あきれ顔で背後の恵子に言いかえす。

「あのさぁ、世界が終わったわけじゃないんだぜ? あと一か月ばかりを雪に耐えて生き抜いて、春の到来とともに雪が溶けさえすれば、すべてがもとどおりになる。この札束だって、そうなりゃ価値をとりもどす。ここにいる連中は、そういう先見性を持って、違法なカネもうけをやっているんだ。恵子ちゃんには、それがわからないのかな?」

「うっ。でも」

 恵子は自身の考えの足りなさを指摘されて恥ずかしくなる。くやしそうに、「でも違法じゃないの! きっと盗品ばかりだわ! 騒動がおさまったらみんな、逮捕されることになるわ!」と、恵子はほとんど負け惜しみで、耕一に言い返す。

 耕一はウンザリした顔になると、騒ぎだした恵子を黙らせるために、さっき露店でいっしょに買ってきた食べ物と飲み物をさしだす。おれのオゴリだ。そのかわりに食べたらもうよけいなことは言わないでくれよ。恵子ちゃんもこれで同罪なんだからな。耕一はそう言いきかせる。

 さしだされたのは、パックのヤキソバと輪ゴムでとめてあるワリバシと、あたためてあるペットボトルのお茶だった。恵子はしばらく、親のかたきのようにヤキソバと茶をにらみつけていた。

「早く食べないと、冷めちまうぞ」

 耕一にそううながされて、餓死するまで自分の信念をつらぬく気概もない恵子は、プラケースをうけとって輪ゴムをはずすと、ワリバシを使い、ひさしぶりのあたたかい食事をモソモソと食べ始める。

 食べながら恵子は、訪れた大勢の都民でにぎわっている、たくさんの露店がならぶ闇市の様子をながめる。咀嚼したヤキソバをゴクリと飲み込んでから、恵子は耕一にたずねる。

「これは、どうなるのかしらね? 戦後の闇市みたいにこれも、やがては商店街や繁華街になっていくのかしらね?」

「いいや。春になれば、雪といっしょに、これも消えるさ。なにしろこいつは、積もった雪の上っていう、架空の土地にできたものなんだ。雪が溶けて、その下にある東京都が管理する本来の道路と建物がでてくれば、自然消滅するよりない。いやそうなる前に、証拠を残さないように、きっと解体されているな。

 しばらくしたら、雪と同じにあとかたもなく消え失せてしまい、そんなものがあったのか? と皆からいわれるようになる。その程度のものだ。そういうものさ」

 耕一の説明をきいても、本当にそうなるとは、恵子にはとても信じられなかった。いまも大勢の都民たちが、食糧や燃料を買うために、続々とやってくるこの場所を、恵子はヤキソバを食べながら、感慨深げにながめる。

 食事を終えた恵子は、まだ温かいペットボトルの茶を飲みながら、耕一が指摘をした、春までの一か月間、というセリフを反芻すると、その意味についてもう一度考えてみる。

 でも、その一か月間を耐え抜ける都民が、いったいどれくらいいるんだろうか? 闇市にまで買い出しにこれる、それだけの体力がある元気な人なら、大丈夫だろう。高額な闇商品を買える財力もあるのだから、その家族もまた、助かるだろう。

 でも都民が全員、元気なわけでも、財力があるわけでもない。女性や子供のような体力がない者や、高齢者や病人といった雪中を移動できない人たちは、どうなるのだろうか? 電気がこない現在の状況では、その一か月間を生き抜けないんじゃないだろうか?

 恵子は、都民のうちで、介護などの他者の手を借りなければ生活できない高齢者の割りあいを考えて、気持ちが沈んでしまう。飲んでいたペットボトルの茶をおくと、そのことについて考えてみる。

 恵子は、なぜ自分が、耕一に連絡をとって会おうとしたのか、そのわけを思いだす。

 仕事を終えて、かせいだ大金を防寒着のポケットにしまっている上機嫌の二方耕一にむかって、セキばらいをひとつすると、尾坂恵子は次のように提案して、耕一の笑顔を、その顔から消し去ってしまう。

「ねぇ。この雪害を、私たちの力で解決できないか、やってみましょうよ。このままじゃ、東京都民に大勢の犠牲者がでるし、とりかえしがつかない大規模な被害が生じてしまう。そうならないように、私とあなたとで、それをふせぐのよ。そのために私は、あなたのところにきたのだからね?」

「えぇーーっ。ムチャいうなって。そんなの無理だって。できっこないことを要求すんなって。

 どうせ春になれば、この騒ぎも自然とおさまるさ。そりゃたしかに、この雪と寒さで、病気になったり、死ぬ奴らもでるさ。でもそれはもう、しかたがないのさ。おれたちにはどうしようもないのさ。

 だから春がくるまでのあいだ、おれたち二人が生き抜くことだけを考えて、二人でもっと楽しくて、有益なことをしようぜ? たとえばカネもうけ、とかさ」

 耕一の説得にも、恵子は従わなかった。かたくなに、自分の主張を変えなかった。最後のあたりは耕一も、ウンザリした様子で、ねをあげてしまう。

 けっきょく二方耕一は、自分のところにやってきた頑固者の友人に押し切られてしまい、その要求に従うことになる。

 闇市で売ってもうけるつもりで、借金までして購入した雪かき用の道具を、二方耕一は闇市の運営者たちに彼らの言い値で売却することになる。そのカネを借金の返済にあてて、耕一は借金取りに追われるのをまぬがれたが、恵子のムチャな要求を呑まざる得なかった耕一の心境は複雑だった。

(耕一は、この後、闇市を取り仕切っていた男たちから、あるものを購入することになる)

 二人はこの後、豪雪のせいで物流がいっさい機能しなくなった首都東京で、雪害の被害と犠牲者をこれ以上はださないために、行動を始めることになる。

 そして話は冒頭にもどる。と言いたいところだが、闇市の近辺での、恵子と耕一のやりとりは、もうちょっと続く。

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