凍結都市 第一話
1
二0一九年二月××日。場所は東京都内の某所。時刻は午前2時頃。
二人がいるのは、いまはもう使われていない、コンクリート製の大きな工場だった。頑丈な造りで、建物のどこに大きな荷重がかかっても、ビクともしない。どれだけ屋根に雪が積もっても、つぶれる心配はない。
もともとあった機械や資材は撤去されていて。入ってみるとわかるが、カラッポのがらんどうになっている。そして、真っ暗で、身を切るほどに寒い。
暗いのはべつに、廃工場の持ち主が電気料金を支払わないからではない。送電がストップしているからだ。
ここだけではない。じつは都内各所にある、電線を保持するための電柱や鉄塔が、ずっと降り続く雪のせいで断線したり倒れたりしている。そのほかにも送電がストップしている理由がある。燃料不足で火力発電所が稼動できないのだ。
送電されないから、暖房器具や空調機器は動かない。電灯を点灯してもあかるくならない。
さらに悪いことには、雪が。雪が降っていた。例年にない大雪のせいで、深夜をすぎて気温は氷点下を下回ると、いまも下がり続けている。
停電状態で電気がこないなら、あとは灯油を燃やすストーブなどの暖房器具を使って暖をとるよりない。だが肝心の燃料が、いまでは容易に入手できない。
おかげで、きびしい冬の夜の寒さを乗り切るには、なんでもいいから焚き木がわりになる燃えるものを集めてきて。換気できる場所でそれを燃やして、火であたたまる以外に方法がなくなっていた。
今夜もまた、雪が降っている。降った雪はまだとけない。冬の季節はまだ続く。だから苦労して集めてきた焚き木がわりのバラした木製品を、手が届くところにビニールを敷いて積んで、無駄に消費しないように少しずつ少しずつ燃やしていく。そうやって、冬の夜の寒さに耐えながら、たき火にあたって朝を待つよりない。貴重な焚き木を一晩で使いきるわけにはいかないからだ。
許可されないたき火は消防法違反になる。でもそれを取り締まる警官の姿を見かけることもない。警察もこの、電気もこない、燃料も手に入らない、極限状態で法律を持ちだすほど、ナンセンスではないのだろう。軽犯罪をおかして生きのびるのは、この状況では、もうしかたがないことだった。
でも。こうして火をおこして冬の夜の寒さを乗り切ろうとすると、建物から出ている煙や火のあかりにひきよせられて、よからぬ連中も集まってくる。
火につられてやってくる連中が、火にあたるだけで満足しないのは。たき火にあたりつつ、交替で火の番をする二人にも、これまでの経験から、いやというほどによくわかっていた。
火が燃えるパチパチという音にまぎれて、ガラスの破片を踏んだときにたてるパキリという靴音が背後の暗闇で響く。それをきいて、火の番をしながらうっかり寝入りそうになっていた男はハッとして目覚める。
男は、身を寄せあっていっしょに毛布をかぶっていたとなりの女に、声をたてないように、と表情で指示してから、手もとに置いておいた持ち運びしやすいキズだらけの野球のバットをつかんで、ソッと立ちあがる。
男は暗闇のなかへ踏みだすと、建物の出入口がわりに使っている、たき火の煙を逃がす壁の大穴がある方向にむけて、ポケットからとりだした、まだ電池が充分に残っているLEDライトを点灯させる。
ライトのあかりをむけた先に照らしだされたのは、寒さに耐えるために何重にも厚着をして着ぶくれた、浮浪者のような風体をした三名の男たちだった。とはいえ二人の格好も、いまでは三人とたいして変わらないが。
いきなりまぶしい光をあてられて、汚れた顔に大きく目を見開いた男たちは、驚いた顔で、こちらを見返している。
懐中電灯で侵入者たちを照らす男は、三名の男たちの手にそれぞれ光るものが握られているのを確認する。包丁やナイフといった、手に入れやすい刃物だ。
こいつらは襲撃者だ。撃退するしかない。男はそう判断すると、驚いて硬直している男たちにかけよって、リーダーらしいいちばん身体が大きな男めがけて、振りあげたバットを力まかせに叩きつける。
バットは、男のサバイバルナイフを握った腕と、男の肩のあたりに命中する。バキンッ、ドスッ、と鈍い音がして、手からはじきとばされたナイフが、コンクリの床に落ちてカラカラと音をたてる。
攻撃は成功した。不意を突いたせいもあるが、殺傷力がある刃物よりも、バットのが長さの分だけ有利だった。バットで殴られた男は、苦痛の声をあげると、あおむけにひっくりかえる。
まさか攻撃されるとは思っていなかったのだろう。ほかの二人は襲撃をあきらめて、入ってきた煙を逃がす壁の大穴にむかって走って逃げだす。
殴打された男も、大切なナイフを拾うと、肩をおさえた格好で、仲間たちのあとを追って、ヨロヨロ、ひょこひょこ、と逃げていく。
男はバットをかまえたままで、建物の壁の穴のところまで行くと、襲撃者たちが本当に立ち去ったかどうかをたしかめる。
争いがすんだのを知って、建物のなかにある隠れ場所からでてきたのだろう。背後にきていた女性が、男いっしょに厚い雪に覆われた暗い都市の風景を見ながら、男にたずねる。
「また、燃料や食糧を狙ってきた、襲撃者なの?」
「そうだ。あいつら、刃物を持っていた。暗やみにまぎれて襲ってきて、こちらをどうにかしたら、奪えるものは奪うつもりだったんだろう。夜になると、このまま凍死するくらいなら、他人から奪えるものを奪おう、と寒さで短絡的な行動にでる奴らが増えるからな」
男のセリフをきいて、そばに立つ女性は、あらためてこみあげてきた恐怖と、夜の寒さにその身をふるわせる。それから疲れた顔で、女性はつぶやく。
「いったい、いつまでこんなことを続けなきゃならないの?」
女性の訴えに、男はいつものセリフでかえす。
「あと少しだ。もう少しの辛抱だ。冬が終われば、雪が溶けて消えれば、またもとどおりになる。だからそれまで我慢しよう」
女性の嘆きも、説得しようとする男の返事も、毎日幾度となく、くりかえされてきたやりとりだった。いまでは、その効力も失われてしまい。ただの祈りになってしまっている。
疲れはてた汚れた顔で、雪に閉ざされた首都のありさまをながめていた女性は、次のようにつぶやいて、この災難が始まる前のことを、ふりかえろうとする。
「なんだか、もうずっと雪が続いているようだわ。いったいどうして、こんなことになってしまったの……?」
いったいいつから、この自然災害は始まったのだろうか? そう問われたら、二〇一八年十二月のクリスマスの頃だ、と尾坂恵子は答えたろう。
そして恵子なら、始まった年月だけではなくて、どのような経過をたどったのかを、くわしく説明できたはずだ。とはいえ、我々よりも多少はくわしい程度だが。
尾坂恵子は、気象庁本庁に勤務する職員である。恵子の肩書きは、広報課広報官になる。
私たちは気象庁を、毎日の天気予報をやっているところ、として理解している。でも気象庁の仕事は、実際はもう少し面倒なものだ。引き写しだが、気象庁は、国の防災機関のひとつとして、災害の防止や軽減、災害発生時の応急対策のために、必要な防災情報を関係機関に提供するのを役目としている。
わかりやすくいえば、国民である我々の生命や財産を守るために、刻々と変化する気象現象を読み解いて、起きるだろう自然災害の情報をいち早く我々に提供してくれているのだ。
気象庁は、国土交通省の外局であり、職員の数は五四〇〇人ほどで、年間予算は五九〇億円ほどの、組織である。この年間予算の四割はなんと、全国に設置したさまざまな観測機器の整備や維持についやされている。
採用される職員は基本的に、気象大学を卒業した卒業生たちになる。皆が気象について学んできた専門家なので、そのために気象庁も、必然的に専門家が集まった集団になっている。
そのなかにあって一般からの採用となった尾坂恵子は、気象学者としてはともかく、広報官としては優秀だった。恵子の仕事ぶりは、本庁でも注目されていた。
さて、今回の災害だが。ことの発端は二〇一八年の十二月のちょうどクリスマスの頃に、関東地方で降り始めた雪から始まった。と、現在では、そう考えられている。(日本海側と同じ時期に、関東地方でも降雪が始まった、と後日に判明している)
夜になると、天気予報にはなかった雪が、突然に降りだした。この突然の雪を、都民は喜んだ。その夜はだれもが、笑顔で雪を歓迎した。
たしかに、クリスマスのために凝らされたネオンのデコレーションが輝く街の夜景を背景に、いつのまにか音もなく降りだした雪は、だれもが空を見上げて見入るほどに美しかった。
テレビのレポーターはこれを、クリスマスの夜のロマンティックな演出だ、自然がもたらしたサプライズプレゼントだ、と興奮状態で賞賛した。でも気象庁が予測できなかった降雪の意味には気付かなかった。
東京都民が、関東地方で始まったこの降雪の意味を正しく理解できたのは、だいぶ事態が進行してからになった。
クリスマスから、数日後。その男は、東京駅からそれほど遠くない、表通りに面した人気があるカフェテリアの一階席の、厨房に近いテーブル席にすわっていた。
時刻は、夕方の六時をすぎている。年末のせいもあって、仕事帰りや買い物のついでに訪れた大勢の客で、店内は混雑している。冬の休日を前に、客たちはにぎやかに活気づいている。
次々にやってくるお客たちは、飲み物を飲み軽食をとると、夜の食事やデートなどの次のイベントをこなすために、また店を出て行く。
そのなかにあってその男は、テーブルの上の冷めた飲み物を前に、椅子にぐんなりした格好ですわって、一人でいつまでもそこにいた。
よく見れば男の様子も、どこかおかしい。黒っぽいズボンに、黒っぽいシャツ、それにジャケットだが、どれもしわくちゃで汚れている。どうやらしまっておいたものをひっぱりだして、袖を通したらしい。
伸びたボサボサの髪の毛に、無精ヒゲ、むっつりした表情は、大勢が行き来する、にぎやかで活気あるこの場所に、ひどく不釣り合いだった。
男が店に入って、一時間半ばかりが経過した頃だろうか。店の従業員たちが彼に注目を始める。
なにしろ、いまは年末の忙しい時期なのだ。あきらかに変な客に店に居座られると、店としても困る。
そこで男のウェイターがやってくると、問題の男のそばに立ち、男が自分を見たのをたしかめてから、すみませんが、混雑してきましたので、よろしいでしょうか? と男にやんわりと退店をすすめる。
問題の男は、言われた通りに退店こそしなかったが、かといって怒りもしなかった。モゴモゴしたききとりにくい声と、困惑した表情で、じつは人と待ち合わせをしているんだ、とウェイターにいいわけを始める。
こういうやっかいなお客のあつかいにはなれているのだろう。ウェイターは強気の態度をくずさずに、男のそばに立ったままで、退店するように、と無言で圧力をかけ続ける。
ちょうどそこに、この店を待ち合わせの場所に指定した当人がやってこなければ、問題の男はきっと店側の判断で、不審者として追いだされていたに違いない。
テーブルの前に、遅れてごめんなさい、どうしても仕事がかたづかなくて、と言ってあらわれたのは、尾坂恵子だった。
恵子の服装と態度だが、男とは対照的に、上から下までカネがかかっていて、しかもスキがない。
セットした髪に、勤務時のハデではない化粧をしている。高級そうなコートに、ぴかぴかのローヒールに、あつらえたブレザーとスカートに、シルクのワイシャツに、ブランドもののバッグに、それから、それから。
記述するのが面倒くさいからやめるが、その姿は仕事帰りに都内の有名店を訪れた、高給とりのキャリアウーマンそのものだった。
恵子の顔を覚えていたのだろう。ウェイターはびっくりした顔になると、すみませんでした、そちらのお連れ様とは知らずに、と女性に頭を下げて、メニューを取ってくるために大急ぎでひきさがる。
店側の対応は、尾坂恵子の登場で、見事なくらいに一変する。コートを脱いで、テーブルについた恵子のそばに、店長だろう人物や従業員がやってくると、ペコペコと頭をさげて、お客様、二階のもっと見晴らしがよい席はどうでしょうか? なにかお気にさわりましたらすぐに言ってください、私どもで対処しますので、といたれりつくせりの対応を始める。
恵子と店員たちとのやりとりを、騒動から取り残された観客といった様子でボンヤリとながめていたその男、二方耕一は、騒ぎが一段落して運ばれてきたトッピングだらけのコーヒーを飲んでいる恵子に、無精ヒゲだらけの顔をむけて、見たままの感想を述べる。
「なるほどね。有名人の知り合いがチヤホヤされるのをそばで見ている一般人の気持ちって、こういうものなんだな。よくわかったよ」
「ことわっておくけど、いまのあなたの容姿から判断するかぎり、一般人のさらにその下のあつかいだと思うわよ?」
恵子は耕一の服装や髪型を、上から下までよくよく観察してから、具体的な指摘は避けたが、そっけない口調でそうクギをさす。
皮肉に機転でかえす元気もない耕一は、ふふっ、と笑うと、怒るでもなく、恵子にあいづちでかえす。
尾坂恵子がこうして、二方耕一と外で会う機会をつくるようになったのは、今年の夏季に都内で発生したゲリラ豪雨による水害で、恵子が耕一に協力を依頼したのがきっかけだった。
女性の方から呼びだして会いに行くなんて、相手の男性によほど好意や強い恋愛感情を抱いているのだろう、となるところだが、恵子自身はべつにそういう考えではなかった。
ゲリラ豪雨の件以来、恵子にまかされる仕事の量は増えていた。こうなると恵子の実力では対応しきれない。そこで課内の同僚や、気象庁を退職して始終ヒマそうな耕一に助力や協力を求めて、こなすよりなくなっていた。耕一は、便利な協力者として、恵子につきあわされていたわけだ。
ただし当の耕一といえば、恵子の期待とは裏腹に、ゲリラ豪雨の件以来、燃えつきたような状態になっていた。こうして恵子の方からメールで呼びださなければ、だれとも顔をあわせないし、ひきこもってくちもきかなくなっていた。
(といっても、恵子が退職後の耕一と再会したときは、耕一は昼間から安酒をあおって店で寝ている、いまよりもひどい廃人状態だったので、またもとにもどった、と言うべきかもしれないが)
耕一はテーブルのむこうに腰かけている、気象庁本庁きってのホープだとか、若手だがやり手とか、最近ではそんな呼び名が板についてきた、自信にあふれる容姿や態度でいる恵子を見やると、次のようにたずねる。
それで、おれを呼びだした用事はなんだね? 冬の休暇や新年の休みをおれとすごしたいから、決意して誘うことにしたとか、そういうんじゃないよな? いやおれはべつに、それでもかまわないんだがね?
耕一の、どことなく期待が込められている笑えないジョークを、恵子は不快そうな眉根をひそめた表情でかえして否定する。
それから恵子は、耕一にむかって、真剣な表情で本題をきりだす。
「関東地方で、ここ五日間ずっと、雪が降り続いているのは、あなたも知っているでしょう?」
「そりゃまあ、いまだって店の外を見れば、降っている雪や、積もっている雪が、こうして目に映るからね。それの、なにがおかしいんだね?」
「なぜ冬に雪が降るか、あなたは知っている?」
恵子の突然の質問に対して、耕一はちょっと考えてから、このようにかえす。
原理は、雨が降る仕組みと同じだ。地上あたりにある、あたたかい空気が上昇をする。すると上空の方が気温と気圧が低いから、上昇する空気中に含まれている水蒸気がたくさんの小さな水のつぶになって、雲ができる。この雲をつくっている水のつぶが大きくなって、空中にとどまれなくなると、雨になって降ってくる。
だから雪は、雲をつくっている小さな水のつぶが、気温が低い上空で凍って、それが降ってくるものだ、と考えるべきだろう。だがそうじゃない。
雪は、水のつぶが凍ったものじゃなくて、じつは空気中の水蒸気が昇華して結晶へと変わったものだ。空気中ではバラバラの状態だった水蒸気の分子が雲粒(うんりゅう、くもつぶ)を核にして規則正しくならんで、美しく整った六角形になる。
この六角形をした小さな氷の結晶は、たくさん集まって空中で雲をつくっているが。ほかの水蒸気の分子がくっついて、だんだんと大きな結晶になっていき。やがては空気中にとどまれずに落ちてくる。これが雪だ。
そこまでくわしい解説は期待していなかったのだろう。恵子はたじろいだ様子で、うん、まあ、そんなところよね、と言葉をにごしてかえす。
恵子はセキばらいをひとつすると、あらためて本題をきりだす。
じつはクリスマスからずっと、この関東地方では雪が降り続いている。ほかの地域でもそう。でもね。本来ならば、こんなことにはならないはずなのよ。関東で、こんなに降雪が続くなんて、異常事態だわ。
理由がサッパリわからない。おかげで気象庁じゃ、大わらわなのよ。
私にも、原因を解明するように、と指示がきた。だからあなたを呼んだのよ。私の個人的な協力者として、参考になる意見をきくためにね。
恵子のあいかわらずの、身勝手な態度と、一方的に要求してくるだけのセリフをきいて、耕一はウンザリした顔つきになる。閉口した様子で、つきあってられない、と天井をあおぐ。
だがそれでも、耕一自身も気付いていなかったが。恵子が持ってきた解答がみつからない問題を前に、それまで燃えつきていた廃人も同様だったこの男は、背筋がしゃんと伸びると、眼に光がもどり、表情に力がみなぎってくる。
そういうことなら、おれも調査をしてみるよ。調査の過程で、その異常気象の解明につながるなにか有益なことがわかったら、だれよりも先に、まず恵子ちゃんに伝えよう。だから、ここの支払いはまかせたよ。
耕一はそう告げて、席を立つと、店に入ってきたときとは別人の足どりで、雪が降る表通りの雑踏のなかへと消えていく。
店に一人で残された恵子は、耕一の唐突な行動に驚いた様子でいたが、気を取り直すと、テーブルに片肘をついて、不機嫌そうにため息をつく。
それも当然だろう。気象庁での今日一日の仕事からやっと解放されて、これからどこかで夕食やアルコールを楽しもうとしていたのに。同行させるつもりでいた相手から一方的に放りだされたのだから。
十二月後半から、関東地方でも降りだした雪は、一月になってもやまなかった。降ったりやんだりだが、年末から東京ではずっと雪が続いていた。
恵子も言っていたが、じつは関東地方では、予想外の大雪が降ったり、季節はずれの雪が降ることはあっても、このように長期間にわたって降雪が続くことはない。
マスメディアにたずさわる各社は、この出来事をできるだけ面白おかしくとりあげて、さも大事件のようにテレビや新聞で訴えた。とはいえ、特に話題性もないことなので、視聴者や読者には興味を持たれなかった。
そりゃそうだ。出勤途中で転ぶ人が続出! 雪のせいでJRのダイヤが大幅の遅れ! 神社への初詣客が激減! スタッドレスタイヤやタイヤチェーンが品切れ状態に! 雪で年末年始の行楽客が大打撃! そんな記事なら、読みたいという意欲もわかない。
防寒着に着ぶくれたレポーターが、雪が降っている新宿駅前で、なんということでしょうか、みてください、どこも真っ白です、と大げさに騒ぎたてても。私たちからしたら、こんなものはそのうちに溶けるだろう、で終わってしまう。
こうした世間の雪への無関心とは対照的に、気象庁は今回の降雪への対応に追われていた。
自然災害の被害を未然に防ぐために、必要になる情報をいち早く発信するのが、気象庁の役目である。原因不明の雪の謎を解いて。なぜ雪が降っているのか。この雪がなにをもたらすのか。気象庁は、そこを踏まえた情報の発信をしなければならなかった。
ここで気象庁が持っている設備や機器で、雪の観測に利用されているものを簡単に説明する。
気象庁は全国に、約60か所ある気象台と測候所(と94か所ある特別地域観測所)、約1300か所のアメダス(地球気象観測システム)、約20か所の気象レーダー(気象ドップラーレーダー)、それから人工衛星ひまわり、航空の大気を観測するのにラジオゾンデやウインドプロファイラーを持っている。
これだけたくさんの観測用の設備と機器を持っているのだから、その維持と整備のために多くの費用がかかるわけなのだ。
このうちで降雪や積雪の観測をやっているのは、雪がよく降る地方にあるアメダスや、雪がよく降る地方にある気象台の積雪計になる。(上記のうちの約320か所で、積雪観測を行っている)
観測用の機械が使われる以前は、指定された観測地点で、目盛りがついた棒である雪尺を、積もった雪に突き刺して、それで積雪の深さを観測していた。また雪板という大きな板がついたものに積もった雪の量をはかって、これで降雪量とした。(積雪量は雪尺ではかる。降雪量は雪板ではかる)
現在は、レーザーや超音波を使う機械式の積雪計で、積雪量を計測している。地上二メートルから四メートルの高さにこの機械を取り付けて、地面にむけて発信されるレーザーや超音波の反射波をはかることで、定められた時間ごとの、各地点の積雪量を計測する。また一時間前の積雪量と、現在の積雪量との差をはかることで、一時間ごとの降雪量を計測している。
(降雪量は、ある一定の時間、一時間、六時間、24時間といった間隔で、新しく積もった雪の量をさす。積雪量は、その時刻に自然の状態でそこにある雪の深さをいう。
1メートルに達する雪が降っても、翌日にはそれが自重で縮んで50センチになっているとする。この場合は、降雪量は1メートルあったが、積雪量は50センチになる)
この全国約320か所で計測されるリアルタイムの降雪量と積雪量は、電話会社の電話網を利用したアメダスのシステムで、東京にある気象庁本庁へと送って集計されている。
東京で、積雪計が設置してある観測地点は、東京千代田区の北の丸公園になる。以前は大手町にあったが、平成二六年十二月二日に北の丸公園に移転をした。北の丸公園に行くと、公園に柵でかこんだなかに、積雪計やほかの計測機器が設置してあるのを見ることができる。
それからもうひとつ、雪の観測には、全国20か所にある気象レーダーが使われている。気象レーダーとは、発信した電磁波の反射波をとらえて計測することで、対象物の位置や形状を知るレーダーの仕組みを利用して、いま降っている雪の量を観測できる機器だ。
ほかの地上で使われている観測機器にくらべると、気象レーダーは(途中に障害物さえなければ)広範囲を一気に調べることができる。
全国にある気象レーダーを使えば、約二、五キロメートル四方のマス目ごとのデータを、10分ごとに調べて、その観測データをすべて全国から東京管区気象台に集めることもできる。
広範囲をカバーできるし、短い間隔で時間ごとのデータを迅速に得られるので、気象レーダーは、雪の観測に非常に役立つ。
ただ弱点もある。電波の反射は、大気の状態や地表の構造物により、容易に変化する。海上の波しぶきにあたって反応してしまうこともある。強い雨のむこう側がどうなっているのかもわかりにくい。
このために気象庁は、気象レーダーのデータだけに頼るのではなく、アメダスの観測地点から得られるデータをそこに組みあわせることで、より精度が高い気象情報や、気象予測を行えるようにしている。気象レーダーの特性を踏まえたうえで、ほかの観測機器のデータを組みあわせることで、うまく使っているわけだ。
(ちなみに東京エリアだと、千葉県柏市にある気象大学に設置してある気象レーダーが、関東地方の担当範囲になる)
超音波積雪計も、気象レーダーも、ここまでくわしく説明する必要はないかもしれないが、気象庁が全国各地の降雪と積雪の観測をどれだけ綿密に行っているのかを知ってもらうために、ここで語ることにした。
一月の一週目に入っても、雪は降り続けていた。降り続ける雪によってもたらされた、最初の大きな経済的な被害は、JRや私鉄など、関東に展開している鉄道会社が運営する鉄道網で生じた、ダイヤの遅れによる混乱だった。
雪が降れば、必ずこうなる。これはもう、絶対に避けられないことだ。
関東にある鉄道会社。JR、京急、東急、小田急、東京メトロ、都営地下鉄、東武、西武、京王、京成。これら各線はそれぞれが、時刻表にならぶ各駅を分きざみでまわる、超過密な鉄道路線の運行管理のもとで運営されている。
それだけではない。こちらの路線から、あちらの路線へと、鉄道会社が異なる電車の乗り換えも、ダイヤグラムに従った、予定表通りに実行するのがあたり前になっている。
私たちはそれを、当然だ、それであたり前だ。そのように受けとめて恩恵にあずかっているが、これは本来であれば実現できるわけがないことなのだ。
利用客が騒いで暴れれば、それだけで電車は遅れてしまう。強風、大雨、なによりも雪。これらの自然現象によっても、鉄道車両の走行速度は変わってしまう。そうなれば、その電車を予定通りには走行させることはできなくなる。そして電車を予定通りに走行できなければ、ダイヤの遅れによる混乱が発生してしまい、それがほかの路線にも波及する。
私たちは、鉄道が使えなくなる、という事態に立ち会ったことがない。時刻表の遅れぐらいはある。でも雪や大雨のせいで電車がこない。一日以上も電車が動かない。私たちはそういった経験はない。自分の経験をふりかえっても、大震災のときくらいだ。
それだけ関東の鉄道は優秀なんだ、と持ち上げることもできるが、それはつまりは関東では、電車をとめてしまうくらいの大雪が降らないから、とも言えるのだ。関東の過密で分きざみで運行される鉄道のダイヤは、雪が少ない、関東の温暖な気候のおかげで実現されているわけなのである。
それなら日本海側の豪雪地帯は冬のあいだ、いったいどうしているのかといえば。雪で遅れるのはもうどうにもならない、という判断のもとで、運行させている鉄道の本数を減らす方法で対応している。(雪のときは一時間に一本になったりする)ほかにも、雪を溶かす融雪器をすべてのポイントに設置したり、除雪車で線路の雪を除雪するなど、雪へのできるかぎりの対応策をとっている。
つまりは、東北や北陸や、北海道などの豪雪地帯の鉄道は、最初から冬は大雪ありき、で運営されているわけなのだ。
関東の鉄道に、それをやらせるのは無理だった。というよりも、できなかった。そういうわけで、雪による鉄道の遅れと混乱は、各線でしだいに大きくなっていくと、一月の第二週目には大混乱を引き起こした。時刻表に従った、従来通りの運営はできなくなってしまった。(それどころか、東京から大阪や名古屋に行こうとしても、発車時刻や到着時刻、どこまでいけるのかもわからなくなった)
この緊急事態に鉄道会社各社がとった対策は、運行する本数をできるかぎり減らして、各線とも十五分きざみに運行させることで、利用者側の混乱をふせぐ、というものだった。
そして雪が降り続くかぎり、冬のあいだはこの方法で鉄道を運営すると発表した。言葉を変えれば、雪に屈服した、雪に負けたわけである。
これで鉄道の混乱は回避できた、と考えるかもしれない。だが問題はそれほど簡単ではなかった。
鉄道会社が走らせている鉄道の本数が減るということは、鉄道を使って運べる人や物が減るということなので、それはそのまま物流量の低下としてあらわれたのだ。
だが低下するとわかっても、ほかにどうすることもできなかった。そして雪が降り続ければ、鉄道会社は減らした本数をさらに減らして、事態に対応するよりなくなっていった。
一月××日。国土交通省からの指示に従い、気象庁の職員である尾坂恵子は、JR山手線で生じている問題の改善のために、現場に出向いていた。
(指示だけなら、鉄道会社にすればすむことだが、鉄道の本数を減らしている原因と理由を理解しなければ問題は解決しない、という恵子の判断からの行動だった)
あいかわらず、まだ昼だというのに、空は夕暮れのように薄暗い。そして薄暗い空からは、雪が降り続けている。
恵子は、ワイシャツにブレザーに外套といういつもの仕事着だったが、そんな格好ではとても耐えられないので、コートの上にダウンジャケットをはおり、えり巻きに手袋に耳あて帽子という防寒着を着用していた。それでも、やはり寒かった。
JRの駅員は、鉄道の本数を増やせないか、という恵子の要望を、むずかしい顔できいていた。
駅員はそれから、恵子を線路上に停車させた車両のところまで連れていくと、車輪のあたりをさして、次のように説明をする。
「事情はわかりました。ですがこれ以上、鉄道の本数を増やすことはできません。
乗用車と同じで、電車の車両にも、車輪の回転を固定して停止させる機械式のブレーキがあります。これを使って走行中の電車を停止させるわけです。でも雪が降ると、線路上に積もった雪が、車輪と線路のあいだの摩擦力を奪ってしまい、ブレーキをかけても車輪が空転してすべるようになります。つまりはスリップして、停止しにくくなるわけです。この状態で電車を走らせると、車両が減速せずに駅でオーバーランをして、先行車両と追突事故を起こしてしまいます。
いまも駅員たちが総手で線路上の除雪をやっていますが、それでもとても手がまわりません。なにしろ関東地方じゃ、必要がない、という理由で、ラッセル車もないですし。除雪対策もされてなかったんですからね。
この状態で走らせる鉄道の本数を増やしたりすれば、間違いなく大事故が起きてしまいます。ですから、いくら要望されても、それは不可能です」
「そうですか。わかりました。ではそのように伝えます」
恵子はそうかえすと、線路上に停止している、山手線のよく見なれた車両を眺める。
パンタグラフから電気がきているので、車両の内部は照明が点灯していて明るい。だが車両は、走らせることができないので、だれも人が乗っていない状態になっている。
話しているあいだにも、ついさっき除雪をすませた線路上に、降ってきた雪が新たに積もって白くなっていく。
恵子はそれを見て、国土交通省からの要望である、鉄道の運行の本数をどうにか増やして欲しい、という指示を、駅員の前でくりかえせなかった。
鉄道会社への連絡をすませると、恵子はブレザーのポケットからスマホをひっぱりだして、広報課の課長に、指示はたしかに伝えましたが、人員と設備と、それから予算の問題で実現はむずかしいと思います、と自分の意見を伝える。
それから雪降るなかを、ここまで乗ってきた新しい公用車、といってもまた軽自動車だったが、それを停めてある駐車場へともどる。
駐車場まで行くと、彼女が乗ってきた軽自動車のそばに、黒っぽいコートを着た怪しげな人物が、彼女を待つように立っていた。
こんな真似をするのは、二方耕一だろう。恵子はそう考えて、ため息をつく。思った通りに、その人物は耕一だった。
耕一は、駐車場にもどってきたが、不審者を警戒するように距離をおいて自分を見ている恵子にむかって、乗せてくれないか、呼びだしたのはそっちだろう、と呼びかける。
恵子は距離をとったままで、次のように言いかえす。
「相談したいことがあるから会いたい、とメールしたのはたしかに私だけれど、待ち合わせは別所だったはずよ? どうして、ここにいるとわかったの? いいえ、やっぱりきかないでおくわ。知りたくもないから」
「メールで、自分で言ってたじゃないか。先にかたづけなきゃならない、国土交通省の用事がある。国交省だけじゃ手が足りなくて、気象庁の広報課にもまわってきた仕事だって。だから、鉄道関係だろう、と予想はついたよ。
あとは、本庁から近いところといったら、きっとここだしね。といっても二か所ある駐車場を両方ともまわって、気象庁の公用車のナンバーのクルマをさがすのはホネが折れたけどさ」
「あら、そうなの。ところで、警察に電話をしてもいい?」
「やめてくれないか。恵子ちゃんに会うために、かけつけたってのに。ところで、呼びだした用事はなんだね?」
助手席がいい、という耕一を後部席にすわらせると、恵子はエンジンを始動させて、軽自動車を駐車場から発進させる。
軽自動車は、スタッドレスタイヤをはかせてあるので、薄く雪が積もった道でも、問題なく走行させることができた。
恵子は、滑りやすい雪道での運転に注意を傾けながら、背後の耕一にさっきあったことを話してきかせる。今回の大雪がもたらした問題と、そのための対策として現在なにが行われているのか、それを説明する。
じつは先日に、関係者が集まって、今回の全国的な大雪に対する対策会議が行われた。
その会議で、国土交通省の専門家が行った報告をもとに、「今回の大雪によって各地の物流は混乱しており、なかでも首都圏をはじめ、関東の各都市で深刻な物資不足をもたらす可能性がある」と判断された。
その会議で決まったのが、「従来の貨物輸送を強化するための、物流ルートの確保」という対策だった。
とりあえずはまず、この対策のもとで「鉄道を利用した貨物輸送の強化」と「トラックを使った物流ルートの確保」の二つの計画が行われることになった。
たとえば、鉄道が使えなくなる、といわれて私たちが最初に思い浮かべるのは、利用客が困るだろう、という私たち側の事情だと思う。でも意外と忘れられているのが、鉄道は人以外の物流も引き受けていることだ。
戦後は、運輸省(当時は運輸相)が担当して建造した国鉄の鉄道網が、この国の復興と発展のために物流の主役として活躍した。
鉄道は、必要とされたありとあらゆる物資を貨物コンテナに積み込んで、港から都市へと、地方から首都圏へと、それらを運んだ。
やがて道路が整備されて発達するのに伴い、物流の主役は別のものに変化していった。現在は、トラックによる長距離輸送が、鉄道にかわって物流の主役になっている。
(平成二六年度には、その年の国内貨物総輸送量、四七億トンあまりを、いったいなにを使って運んだのかといえば。トラックが約90パーセント、海運が8パーセント弱、鉄道が約1パーセント、航空は約2パーセントとなっている。これが東京都市圏になると、都市圏内の輸送手段の割合は、トラックが94パーセントで。都市圏外との輸送手段でもトラックが69パーセントになっている。鉄道は2パーセントあまりだ)
国土交通省は、今回の大雪によりもたらされる物流の混乱を回避するために、鉄道による貨物輸送の本数を暫定的に増やして対応しようとした。だがもともと雪に弱い関東の鉄道網では、それは不可能だったのだ。
国土交通省の対策案は、必然的にもうひとつの、トラックによる輸送を強化する計画になった。
恵子は雪道での運転を続けながら、耕一にむかって自分の考えを告げる。というよりも、自身の胸中の不安を語る。
「気象庁の私に求められているのは協力でしかないから、国土交通省にまかせておけばいい、とは思うのだけど。いまの話をきいて、見落としている点があるとしたら、それはなんだと思う?」
呼びだされて一方的に意見を求められたのだから、まじめに返答しなくていいし、憤慨しても拒絶してもよかった。
でも恵子の要求に対して耕一は、後部座席にすわった格好で考え込むと、ややあって、次のように語りだす。
前回に会ったときに、なぜ雪が降るのか、それについて話をしたのを覚えているかね? じつは冬に雪が降るわけは、あれだけじゃないんだ。もうすこし、複雑で理解が面倒な仕組みも働いている。
じつは冬の季節に、低気圧と高気圧が、日本列島のどの位置でどれだけの勢力をふるうのか。それによって、どんなところに、どれだけの雪が降るのか。それで決まるんだよ。
これは西高東低という、冬型の気圧配置のことをいう。列島の西に高気圧が、東に低気圧がくる、冬特有の気圧配置のことだ。もうちょっとくわしく言うと、次のようになる。
冬になると、西では、つまりは大陸側では、シベリア寒気団(寒帯大陸性気団)と呼ばれる高気圧が生じる。そして東の海上では、つまり太平洋では、低気圧が生じる。
すると大陸で生じた冷えた重たい空気が、太平洋にむかって吹くようになる。つまりは大陸から日本海にむかって、さらにむこうにある日本列島を越えて太平洋にむかって、冬は風が吹くようになるんだ。
だから冬の季節は、日本列島の日本海側から太平洋側にむかって、北西の季節風が吹き続ける。
このとき、海を越えて列島にまで吹いてくる風が、日本海上で大量の水蒸気を取り込む。水蒸気をたっぷりと取り込んだこの風が、列島の西側に、つまりは日本海側に大雪を降らせる。これによって列島の西側、新潟や東北や、北海道は、豪雪地帯になる。
列島の西側に大雪を降らせた、冬の季節風は、列島の中央に連なる山脈の高い壁を越えて、列島の太平洋側にもやってくる。でも関東平野にまで到達した頃には、水分を失っている。だから冬に、日本海側じゃ大雪だってのに、東京は凍えるようなからっ風が吹く。そういうことになるんだ。
まあこれは、気象の仕組みでいえば基本中の基本の知識だから、いまさらおれが君に説明するまでもないことだろうけどね。
重要なのは、なぜ列島の西側だけに雪を降らせるのかだ。それにだ。従来の西高東低の冬型の気圧配置で考えるなら、いまこうして関東地方に降っている雪は、それとはまた違う別の仕組みで生じていることになる。
おれの考えをいわせてもらえば、これはきっとだな……。
耕一が自分の質問に答えようとせずに、関係なさそうな説明を続けるのを、恵子はそれ以上はきいていられなくなった。
恵子は怒りをにじませた口調で、耕一の説明をさえぎると、命令口調で次のように要求する。
「それが、なんだってのよ? それよりも、私がいまききたいのは、さっき話したトラック輸送の計画についてよ! 計画はうまくいくの? なにか見落としている点はないの?」
耕一は恵子の剣幕に驚いたのだろう。身を縮めて、くびをすくめて、沈黙してしまう。
ややあって、もう少し行くと首都高に入れるから、そこでどうなっているのかを自分の目でたしかめればいい。それが手っとり早い。と、そう恵子に告げる。
「おれは、そっちは専門じゃないから、明言するのは避けるけどね。でも鉄道の線路に雪が積もって電車を動かすのに苦労するくらいなら、道路だって同じなんじゃないのかね? 特に首都高速道路なんて、雪が降るたびに渋滞や通行どめになっているよな?」
耕一の指摘をきいて、ハンドルを握って前を見ていた恵子は、表情をこわばらせる。
そんなことがあるもんか。首都高速を運営している会社は、こういう事態を想定した、なにか有効な対策をしているはずだ。だから、きっと、大丈夫だ。
恵子の期待にこたえるように、首都高は通行どめにはなっていなかった。雪のために速度制限はされていたが、恵子は軽自動車で、なんの問題もなく、インターチェンジから高速道に入ることができた。
恵子の軽自動車に続いて、ほかにも次々と、インターチェンジから高速道に入ってくる。
いつも通りに高速道に入れて、恵子はホッと安堵すると、運転を続けながら、後部座席の耕一にむかって、誇らしげに言いきかせる。
「ホラ、見てごらんなさいよ? このとおり、いつものようにたくさんの車が走っているわよ? これならトラックを利用した物流の強化案だって、うまくいくに決まっている! やれやれ、取り越し苦労だったわね!」
恵子の勝ち誇った指摘をきいて、耕一はその意見に相槌を打ってから、次のように補足説明をする。
「その通りだ。首都高速は、それなりの雪対策をしている。この前に読んだ記事が正しければ、凍結防止車両を81台、除雪と排雪のための特別車両を11台、そのほかにもダンプやシャベルカーなどの建設応援車両を55台、持っている。
大雪を想定してないから、駅員が総出で線路に積もった雪を手作業でとりのぞかなきゃならない鉄道会社にくらべたら、雪への備えがされているわけだな」
「だから言ったでしょ? 鉄道がだめなら、高速道路を使えばいいのよ。そのためにこうして長年かけて、ここまで高速道の整備を続けてきたんだから!」
「でもね。じつはね。首都高速道路は、道路に積もった雪を、車のタイヤの摩擦熱で溶かして、雪で道をふさがれないようにしているんだ。
そのほかにも一般車両にまじって、塩水を散布するタンク車や散布車を走らせて、溶けた雪が路上で凍りつかないようにしている。
それにね。高速道路の左右には、周辺に迷惑がかからないように防音壁がもうけてある。車幅がかぎられているから、一般道のように、道の幅を越えた路肩にダンプカーやブルドーザーなどの大型車両を入れて、一般車両の走行を防がないようにしながら同時に除雪作業を行う。そんな真似はできない。
もしも高速道路に雪がたまったら、ショベルカーやダンプカーを入れて、ダンプに積んで、ほかの場所まで運んで捨てに行かねばならない。そのあいだは、高速道路のその区間は通行どめになる。
高速道路の運営会社は、そうならないために、なにがあっても車を入れて、走らせ続けるしかないんだ。逆にそれができなくなったときは、打つ手がなくなったときだ、と考えたほうがいい」
「……」
耕一の説明をきいて、勝ち誇った態度でいた恵子は言葉を失い、目の前に続いている、いつもよりも速度を落とした車両の列を凝視する。いまにもとまってしまいそうな、先へと続く車の列を見たまま、考え込んでしまう。
日本は豪雪国なので、道路に積もった雪の除雪と、融雪のための効果的な対策は、私たちが考える以上に、涙ぐましいくらいに試行錯誤されてきた。
凍結防止剤を高速道路に散布する方法は、耕一が言っていた通りになる。凍結防止剤として道路に塩をまくのは、関東だけでなく、ほかの地域でも一般的に行われている。
道路を凍結させないためにまくのは、塩水になる。だから雪が降って数日してから高速道路を走ると、道路の端に白い粉が吹いているのを見かけることがある。
雪は空中の水蒸気が昇華して結晶になると、それが成長して大きくなって、空から降ってくるものだ。もともとは水なワケだが、そこに水の分子以外のものが混じると、それが水分子がくっつきあうのをジャマする。だから雪が積もっているところに塩水をまくと、雪の凝固が阻止されてしまい、水になってしまう。
凍結防止剤に使われているのは、塩である塩化ナトリウムだけではない。そのほかにも、塩化カルシウムや、塩化マグネシウムや、にがりが使われている。
塩化カルシウムは、水に対して濃度が26、4パーセントで飽和状態になると、それにあわせて凝固点がマイナス21度へと変化する。塩化マグネシウムなら、濃度が32パーセントで、凝固点がマイナス51度まで下がる。
この仕組みを利用したのが、ブライン冷凍やブライン凍結と呼ばれる冷凍法だ。海水に氷をまぜるだけで、とった魚を氷点下以下に保っておけるので、漁業では魚の保存の方法として便利に活用されている。
このように塩は、融雪と、凍結をふせぐのに利用できる。塩を、雪が降った道路にまいたり、玄関や駐車場にまいておけば、雪が溶けて減るし、氷も生じなくなる。ただし、塩害になるので注意が必要だ。
ここで二〇一八年に実際に起きた、過去最悪の高速道路の通行どめの事件について話す。
二〇一八年の一月に、首都高で発生した大渋滞は、雪が降ったのにノーマルタイヤで高速道に入ってたドライバーが、高速道路上で立ち往生したことから始まった。
中央環状線の西新宿ジャンクションで、地下の山手トンネルから出ようとしていたトレーラーが、積雪した坂を登れずに立ち往生してしまった。このために後続車が動けなくなり、最大で10キロもの渋滞が発生する。
ここからさらに、大雪による走行不能車両による通行障害が七区間で発生する。これによって、首都圏の高速道路で、20の路線、総延長距離にして230キロメートルが、97時間にわたる通行どめがされた。これは雪による通行どめとしては、過去最悪のケースとなった。
今回の雪害は、さらに大規模な被害を首都高にもたらすことになる。恵子はそんなことになるわけない、と反論したが。耕一が言っていた適当な推測はその後、残念ながら的中してしまう。
大雪による首都高速道の長期にわたる通行どめは、関東地方においては大規模な物量の停滞を生じさせてしまい。そのために国土交通省は、高速道を利用しない、また別の新たな対策を行わなければならなくなる。