飛来峰(ひらいほう)のこと
今からもう何年も前、戦略的留年を決めた私は日本から就職亡命して、中国の杭州に留学していました。
西湖湖畔のベンチでぼーっとしたり、食堂の激安東坡肉を食べまくったりという生活をしていたある日、現地で知り合った地元出身の友人O君から杭州の名刹霊隠寺に行こうと誘われました。
日本とは異なるきらびやかな大伽藍と仏像に圧倒されていると、O君が境内にある飛来峰に連れて行ってくれました。石仏が彫られた岩壁の一角に、鍾乳洞のような横穴が伸び、その岩肌の間を進んでいくと少し広まっている場所に出ます。足元もおぼつかないような暗闇の中でO君は私を手招きします。
「ここに立って上を見てみろ。」
「いいか、昔の偉いお坊さんたちは、自分がもし本当の悟りを得たなら、この暗闇のなかで光を見つけることができると信じていた。何年も修行して、遠いところからここにやって来て、それでも光が見えなくて、絶望してふるさとに帰ったお坊さんもいた。」
ふーん、悟りを得た人はこの岩洞の暗闇に光明を見たんだ…。
「でも、おれは小さいころからここに来続けてついに見つけた。この場所だ。」
もう少し左、と立ち位置を変えられると……
え? 見えた……
マチ針でついたような、小さな小さな白い点が、私にも見えました。
少しでも体や首の位置を変えると消えてしまいます。目の錯覚かと思うような本当にわずかな光。え、光を見るっていうのはこういう即物的なやつだったの?!
O君によると、おそらく天井の岩々に小さな穴が一か所だけ空いており、その位置にジャストで立った時だけ、空から差し込むわずかな光が見えるとのこと。
はるか昔に悟りを得たという人が奇跡的に見た光は、地元民のたゆまぬ根気により発見されていたのです。
「少しのことにも先達はあらまほしきことなり」とはよく言ったもので、先達がいなかったことで石清水八幡宮の本殿にたどり着けなかったお坊さんもいれば、先達がいたことで悟りの境地をかいま見た一般人もいるわけです。
仏道修行に縁もなく、ラッキーと友情パワーだけで見られた光明ですが、あの日のできごとは今でも鮮明に、私の心の一隅を照らしているのです。