部長、熟眠する
淫靡──。
わたしのあたまを、そんな言葉がよぎった。
スピアに首根っこをつかまれたまま、引っ張り込まれた妓楼の中。
客同士が顔を合わせないようになっているのか、分厚いカーテンで細かく仕切られている。
濃い紫色の、艶のある、ビロードのカーテン。
そのひだをかき分けるように、奥へ、奥へと進んでいく。
甘い、お酒の匂い。
熟れた蘭のような、花の匂い。
さまざまな、香水の匂い。
むっとするような、人間の匂い──。
その一番奥に、丸みを帯びた入り口がある。
スピアは、無遠慮に扉を開けると、わたしを中に押し込んだ。
「座ってな」
スピアはアゴをしゃくって、かわいらしい応接セットのソファを指した。
わたしは、小さくなって隅っこに座る。
スピアは座るつもりはないらしく、壁にもたれて溜め息をついている。
部屋の中は、店内とはうってかわって、おだやかなしつらえだ。
薄桃色の落ち着いた壁紙。
猫足の大きな事務机やドレッサー。
これ……女の人の部屋──だよね。
カチャリ
わたしたちが入ってきたのとは別の扉が開く。
黒い、光沢のあるドレス。
百合の花の細かい刺繍がほどこされた上品で華やかな衣装。
それなのに、豊かにふくらんだ胸元や、しなやかな肩は、目の粗いレース地におおわれて、曲線が、あらわになっている。
「あぁ、もぉ、大損害。
お客さまのお見送りだけで疲れちゃった」
銀のかんざしで、ゆるく黒髪をまとめた、その美しい人は、開口一番そう言った。
……どっから声を出したら、そんな色っぽい声になるんですか先輩……
女のわたしでも、ドギマギしてしまうような、色気。
「あら、あなたかしら? うちでお楽しみのお客さまに<やめなさい>なんていう<禁止挿語>を使った子は」
「えっ、いえ、わたしは部長を止めようと……」
「ぶちょぉさん?」
スピアが溜め息をついて言った。
「……バカの赤髪が殴り合ってたオッサン」
「あらあら」
色っぽい黒衣の美女は、ずいとわたしの顔をのぞきこむ。
──たっ、谷間が、近っ……。
「ちゃんと<対象>を取らないと、<範囲効果魔法>になっちゃうって、1年生のとき習ったでしょ?」
「ええと、あの、わたしはまだ……」
黒衣の美女は、目を細めて言った。
「だめよぉ、言い訳は。
ベッドで盛り上がった瞬間に、<強制停止>で<おあずけ>にされたお客さまの気持ちになってごらんなさい」
「……そ、それは……」
ふいに、黒衣の美女は、わたしのくちびるに指先を当てる。
「<発話禁止>」
……え……
「<身体拘束>」
スピアが声を上げる。
「……デュルレ、やりすぎだよ」
「だってぇ、この小さな魔導士さん、また何をしでかすか、わからないじゃない」
デュルレと呼ばれた黒衣の美女は、声を出すことのできないわたしの頬を、やさしくなでた。
黒いシルクの手袋が、肌の上を滑る。
「あなた、見かけほど子供じゃないわね……。
今日の弁償に、うちで働いてもらおうかしら」
な、なな、なんですとーーーー?
「素材は悪くないと思わない、スピア。
ちょっと<お直し>すれば、うちのお店に出しても、恥ずかしくないでしょう?」
デュルレは艶然と微笑みながら、指先でわたしの顔のパーツをなぞる。
「……鼻はもうちょっと細く……エラを引っ込めて……。
頬は少しふくらませたほうが、童顔好きな殿方には受けるかしらね……。
まぶたをあげて、目は丸みを強くしましょうか……。
胸は……」
と、デュルレはわたしの胸に目を落として、思い直したように顔を上げた。
「……いえ、ここはもう、しょうがないわね」
ど、どういうことかっ!
「<視覚改変>。
ほーら、かわいくなった」
デュルレが手鏡を差し出す。
映っているのは──
……誰っ!?
童顔とはいえ、それなりに「人生経験が身についた」顔をしていたハズの、29歳のわたしは消えていた。
わたしのようで、わたしではない。
鼻筋の通った、いかにも<この世界>風の美少女ができあがっている。
……
悪くないかも……
……
「言っとくけど、それ<幻影>だからな」
突然、男の声がして、わたしはハッと我にかえった。
赤髪のニッケが、いつの間にか戸口に立っている。
「どぉ、かわいいでしょう?」
「……また民間人相手にポンポン魔法を使って……」
「民間人? 魔導士でしょう、この子」
「なぜこういうときだけ、そう不用意なんですか、あなたという人は……」
スピアが、低い声を出した。
「それより、さっきのオッサン……<憤怒の相>じゃないのか」
「セイジか……ああ、正直、俺も驚いた」
デュルレが、部長の名前に反応した。
「あら、セイジさんが?」
「はい。ご存知ですか」
「近頃、ルドボロン伯爵さまと、よくご一緒されている方よね」
……え、ルドボロン伯爵って、たしか救貧院のパトロンの……
「ランが……彼の部下が、森で男たちに襲われたと伝えたら、突然暴走を始めたんです。
湧き上がった<怒り>を、おさえられなかったようで……。
これまで、彼がトラブルを起こしたことはありませんでしたか」
「いいえ? とてもお話のおもしろい、いい方よ。
あの酒豪の男爵と飲み明かしても、乱れることもないし」
「何か、暗示系の術が使われたか……」
「この店で? まさか。わたしを誰だと思ってるの」
「……では、今夜、何か変わった酒や食事を出しましたか」
そぉねえ、とデュルレは指をくちびるに当てて考える素振りをした。
「ちょうど旬になってきたから、<龍火酒>をお出ししていると思うけど」
「っ……なんちゅーものを店に出してるんですか、あなたは……」
ニッケのこめかみに、血管が浮き上がった。
「<龍火酒>ってのは、戦闘用の<精神強壮剤>でしょうが!
そんなもの民間人に飲ませるな!」
「だってぇ、新酒がおいしいって評判なんですものぉ」
はぁ、とあからさまな溜め息をついてから、ニッケは言った。
「……連れて帰るんで、さっさとランにかけた術を解いてください」
「あら、つれない。逮捕しておしおきしてくれるかと思ったのに」
デュルレは笑いながら、わたしのあたまを軽くなでる。
「……あ」
声が出た。
「ラン、動けるか」
「うん……」
わたしは、手鏡をチラと見る。
元のわたしだ。
……ちょっと、がっかり。
「あ、あの……お店のこと、ほんとうに申し訳ありませんでした」
わたしは、椅子から立ち上がると、深々とデュルレにあたまを下げる。
ニッケがわたしの手を引く。
「いいんだ、ラン。もとはと言えば、その人が悪いんだから」
「でも……」
「ふうん、なんだか親しげでお姉さん嫉妬しちゃうなー。
……でも、ランちゃんの礼儀正しさにこたえて、いいこと教えてあげる」
デュルレは、扇を広げて口元に当てた。
「最近、貴族のお客さまの間で、うわさになってるわよ。
魔法が使えないはずの異世界人にも、実は魔導士がいたらしいって」
わたしは、思わずデュルレの顔を見る。
微笑んでいるのに、眼光が斬るように鋭い。
「誰かさんたちの情報管理が甘いんじゃないかしら、ねえ、ニッケ」
「……ご忠告に感謝します」
ニッケが苦々しい顔でこたえた。
「それから、ランちゃん」
「は、はい」
「<こっち>の人間は、謝るとき、そんなふうにあたまを下げないの。
これからは気をつけてね」
「あ……は、はい……」
ニッケが店の前に馬車を用意してくれていた。
扉が開くと、一方の客席を占領して、横になった男。
両手首を拘束された部長が、すやすやと寝息を立てている。
睡眠の魔法でもかけられたのだろうか。
わたしは、ニッケと並んで座った。
夕方からの疲れがドッと襲ってくる。
でも、聞いておきたいことはあった。
「ニッケ……部長は、いったいどうなっちゃったの?」
「<憤怒の相>のことか。そりゃ、気になるよな……」
ニッケは、少しためらってから、説明を始めた。
「<こっち>の世界では、<戦士の気質>と呼ばれているんだが……。
特定の感情を糧にして、飛躍的に身体能力を向上させることができる性質を持った人間が存在する。
というか、もともと誰でも持っている性質なんだが、それがズバ抜けて強いヤツがいるってところかな。
キーになる感情は、人それぞれ。
昔の偉い学者が、それを<108の相>に分類した。そのひとつが<憤怒の相>だ」
……108って、<あっち>の世界じゃ煩悩の数だけどね……
「スピアは、<憤怒>は珍しいって言ってたけど」
「ああ。<気質>が強ければ強いほど、その人間は、自分を高める感情に飲み込まれやすくなる。
だから、<憤怒>や<嫉妬>、<嗜虐>や<悲嘆>といった強い負の感情の相を持つ人間は、思春期までにコントロールを失ってしまうヤツが多い。
セイジみたいなカタギの大人で、<憤怒の相>ってのは、珍しいんだよ」
……でも、たしかに、部長は怒りを仕事の原動力にしてるようなとこある……
「今回は<龍火酒>のせいで、気質が異常に高められたのが原因とわかった。
だが、もしあれが素のセイジの能力なら──軍部に目をつけられるレベルだな」
「軍部?」
「セイジは、ただの<編集者>、なんだよな?」
「うん」
「つまり、戦闘訓練は受けていない?」
「……当たり前でしょ」
「その状態で、あの身のこなしだ。プロの戦闘訓練を受けたらどうなるか──」
超人的な、兵士になる?
「それに、軍部は負の感情で目覚める<戦士>を集めている」
「どうして?」
「……戦場で、ハッピーな気分になれる場面は少ない。
怒りや嘆き、残虐性……そういった感情でハイになれる兵士のほうが、実用性があるんだよ」
戦場。
わたしには、異世界と同じくらい、遠くて実感がわかない世界。
……いつの間に、こんなことになっちゃったんだろう。
「……ごめんね、ニッケ。
わたしがうまく魔法を制御できないせいで、街の人にもバレちゃって……」
「ああ、気にすんな。あれは、酔っ払いがケンカしていて、ぎっくり腰になったことにしておいた」
あのー……しておいた、って、それみんな信じてないでしょ?
「デュルレさんにも……」
「いや、あの人は平気だ」
「平気って、ずいぶん、信用してるんだね」
「まあな」
「おしおきするほど、仲もいいみたいだし」
「なっ……あの人は、昔から、ああいう人なんだよ」
「むかしから?」
「ああもう、めんどくせぇ」
ニッケは赤髪をくしゃくしゃと掻きむしった。
「いいか、あの人は一般人じゃない。
陸軍予備役中尉デュルレ・ファナーシ。俺の元上官だ」
「え……」
ええええええええええええええっ
月明かりの照らす王都に、わたしの叫び声がこだました。