部長、憤怒する
「……だめかー。ほんとイライラする!」
わたしは、パソコンの前で叫んだ。
<こっちの世界>で撮った写真のデータを、<あっち>に送ろうとするのだが、Zメールに添付できない。
ブラウザからアップロードするところで、どうしても詰まってしまう。
聞いた話では、<こっちの世界>の中でも、レガシス公国のネット回線は、帝国の通信会社の回線を一部借りてきただけの、脆弱なものらしい。
帝国企業とアメリカのベライゼンが、通信回線、確立したって言ったじゃんか。
「あ〜〜〜この世はウソばっかりだあ」
わたしは、机の上に伸びて、窓から入る夕方の日射しをぼんやり眺めた。
静かだ。
ここ数日、部長は昼も夜も、ずっと出かけている。
帰ってくるのは、たいていわたしが眠ったあと。
酔っ払って、なんだか香水のいい匂いをさせて──。
別に、部長が帰ってこなくても、わたしは平気だ。
夜遊びしていても、関係ない。
……恋人じゃないんだし。
でも……。
初級回復魔法も、相変わらず全ッ然使えないし。
先生役のネルーさんにも、申し訳なくなってきちゃったんだよね……。
……ようするに、わたしは愚痴が言いたいのだ。
「だいたい、絵本の原稿も渡してあるのにさ……」
部長からは、ひとことの感想もなし。
わたしだって、忙しいときに作家に新作の原案をもらって、しばらく寝かせてしまったことはある。
「ごめんなさーい、まだ読めてないんですー」とか言って誤魔化していたけど、こうして自分が放置される立場になってみると、イライラする気持ちが、すごくよくわかる。反省。
「ああああああああ、もうっ!」
わたしは、パソコンをパタンと閉じると、火の元を確認してから、支社を出た。
表の扉の鍵をかけると、向かいにあるパン屋──「パン」とわたしたちは認識しているけれど、ほんとうは「テッペ」という──のおじさんが、声をかけてくる。
「ランちゃん、こんな時間にお出かけとは、珍しいね」
「なんだか、煮詰まっちゃって。ちょっと中央公園まで散歩にいこうかなって」
「そうかい。じゃあ、これおやつに持ってきな。もう店は閉めるんだけど、余っちまった」
「あ、甘食! ありがとう!」
石畳の道を、15分ほど歩くと、中央公園の北東の角に着く。
王都の街並みは、王宮の丘を頂点として、全体的に緩やかな山を描いている。
中央公園にあるフラム展望台は、「展望台」とは呼ばれていても自然の崖で、街並みを一望できる絶景スポットなのだった。
……暗くなってきちゃったけど、大丈夫だよね。
わたしが展望台につくのと、夕日が山並みの向こうに沈むのが、ほぼ同時だった。
空が宵闇に沈む。
目が慣れてくる。
空には、闇を埋め尽くすような、無数の星。
一の月と二の月が──この惑星には、月がふたつある──青白く浮かんでいる。
わたしは、崖のふちに立てられた鉄の手すりに、両手でつかまって、身を乗り出した。
王都の夜景を見るのは、初めてだ。
フラム展望台から見えるのは、旧市街の下町方面。
この国には、電気があるのに、人々は電灯を使わない。
家々の窓から漏れる、やさしいオレンジ色の光。
さわやかな夜風が、わたしの髪をなでる。
いいなあ、こういう感じ……。
何分、そうしていただろう。
しみじみと夜景に見入っていた、わたしの耳に、想像もしなかった物音が聞こえてきた。
「……うふふ、だめよ」
「いいじゃないか……誰も見ていないよ……」
……おい、そこのバカップル! 雰囲気ぶちこわし!
ああ、もうやだやだ。
現実に引き戻されたわたしは、そそくさと展望台を離れた。
気づくと、来たときとは別の道に入っていたが、引き返す気にもなれない。
道なりに進むと、中央公園の南の森に入る。
そんなに大きな森じゃない。
この先には、たしか下町の歓楽街があったはず。
でも、さすがに真っ暗な森は、ちょっと怖い──。
「おい、姉ちゃん」
獣がうなるような声。
わたしは、思わず立ち止まった。
ばか、わたし、立ち止まっちゃダメ──。
「ひひ、ちょっと待てよ」
別の声だ。
考える前に、走れわたし!
そう思うのに、動けない。
「立ちすくむ」って、こういうこと──?
「なあ、姉ちゃん」
突然、うしろから、肩を掴まれる。
おそるおそる振り向く。
でっかい。
見上げるような大男。
……っていうか、クマ。
この人、北の国の──。
「こんな時間に、若い娘がひとりで何してるんだ?」
いや、わたし、実はそんなに若くないんで。
……とか、思っているのに、声が出ない。
ダメだ、わたし、異世界なめてた。
ファンタジーみたいな異世界でも、世界は世界だ。
いい人もいれば、悪いやつも、いるに決まってる。
「ひひ、遊びにきたなら、おれたちと遊ぼうぜ」
いつの間にか、前にもひとり。
ハイエナのような、濁った目をした男だ。
木の影に隠れていたのだろうか。
囲まれた──。
「なあ、なんとか言えよ」
わたしの肩を掴んだ大男の手に、グッと力が入る。
「いた……い……放して……」
「あぁ? 放せばいいのか?」
ブンッ。
大男が腕を振る。
わたしの身体が宙を飛んで、木の幹に叩きつけられる。
「カハッ……」
背中を打ちつけられて、息ができない。
地面にへたりこんだわたしに、男たちが近づいてくる。
「へへへ」
ハイエナのような男が、わたしの前髪を掴む。
わたしは、思わず目をつむって顔を背けようとする。
そのとき──
ドッ
鈍い音がした。
わたしに触れていた手が、ふっと離れる。
目を開けると、ハイエナのような男は、数メートル向こうで仰向けになって伸びていた。
「なにぃしやがる!」
クマのような大男が吠え、誰かに殴りかかろうとする。
だが──
「フグォオッ!」
大男は気色の悪いうめき声をあげて、倒れ込む。
殴りかかった相手が、無言のまま、大男の腹にヒザ蹴りを叩き込んだのだ。
大男を倒した影のような誰かは、そのままわたしに近づいてくる。
コートのフードを深くかぶっていて、顔は見えない。
男の腕が、こちらに伸びて──。
「いやっ」
わたしは反射的に腕から逃れようとする。
「おい……俺だよ。大丈夫か」
「いやっ、来ないでっ」
「だから、俺だって!」
ふわり
涙を流すわたしの頭に、やさしく手が置かれた。
「悪ぃ……遅くなった」
「え……」
影のような男がフードをあげる。
真っ赤な髪──。
赤髪のニッケだ。
「……ニッケ」
「……遠くから見守ろうと思って、お前と距離を取りすぎた。護衛失格だ」
さっきまでとは違う涙が溢れてきた。
安心の涙──。
「バカ、バカバカ!」
「な、なんだよ、いきなり。大丈夫だよ、もう泣くな」
「バカぁ、こわかったんだよぉ……」
気づくと、わたしは、ニッケにしがみついている。
ニッケは、わたしが落ち着くまで、胸をかしてくれた。
……
中央公園を巡回していた巡査に、気絶している暴漢たちを引き渡してから、わたしたちは公園の南門を目指した。
南門を出たすぐ先の歓楽街に、部長がいる店があるとニッケが言ったからだ。
「今夜はセイジと一緒に馬車で帰れよ」
気力をなくしていたわたしは、そんなニッケの言葉に素直にしたがった。
周囲からは、甘ったるい酒場の匂いがする。
そして、方々からかすかに聞こえる、艶やかな声──。
歓楽街の中でも、ひときわ大きい酒場の前で、ニッケは立ち止まった。
「おや、赤髪の。女連れとは、珍しいな」
入り口で、酒瓶を片手に立っている、筋骨隆々の女性がニッケに声をかけた。
──筋肉すごいからって、そんなに露出しなくてもいいのに──
「よう、スピア。悪いんだが、ちょっとこいつ、預かっててくんないか」
「あたしが?」
「素人のお嬢ちゃんに、ここの毒気は強すぎる。
俺が中で人を探してくる間だけだ。頼むよ」
「しょうがないな。前金で5ミステ」
「チッ、相変わらず、ちゃっかりしてるよ……」
ニッケは、筋骨隆々のスピアに銅貨を渡すと、振り返った。
「ラン、ちょっと、ここで待っててくれるか。
こいつはこの店の用心棒なんだ。こんな見かけだが、悪いやつじゃない」
スピアがフンと鼻を鳴らす。
「ちょっと、聞こえてんだよ、ニッケ。さっさと行ってきな」
ニッケが店の中に消えると、スピアはつまらなさそうに言った。
「あんた、そこ店の邪魔。あたしのうしろに座ってな」
「はい……」
わたしは、スピアの立っている柱のかげに、無造作に置かれた木箱に腰を下ろした。
ボーッと、夜の街を行き来する人々を眺める。
鼻歌を歌いながら行き来する酔客。
客の見送りに顔を出す華やかな娘たち。
なんだか、何もかも、現実味がない。
ふと、思い出して、ポシェットの中をのぞく。
パン屋さんのくれた甘食が、無惨に潰れていた。
どうしようか……。
パンを手に取って、ぼうっとしていると、低い声がした。
「食っときな」
スピアだ。
こちらを見ないまま、スピアはぶっきらぼうに言う。
「……あんたみたいな、ひっどい顔した子、あたしは戦場でいやってほど見てきたんだ。
そういうときは、物食って、寝る。
そうすりゃ、とりあえず、ちゃんと生きてるって感じが、またしてくる」
「……」
潰れた甘食に、かじりついた。
甘い。
メープルシロップのように、樹木から採った、甘い蜜の香り。
渇いたのどで、無理に飲み込む。
うん。
ちゃんと、おなかが動く感じがする。
「……ありがとう」
自然と、そんな言葉が出た。
そのとき──。
キャアアアアア!
店の中から、悲鳴が聞こえる。
ドウッ
鈍い音がして、入り口から、誰かが転げ出てきた。
殴り飛ばされたのだろうか。
「ニッケ!」
いてて、と上体を起こしたニッケに、わたしは思わず駆け寄る。
唇を切ったニッケの口元には血がにじんでいる。
「こらミズハ! そんなやつに構うこたぁねぇ!」
聞き慣れた怒声が響く。
店の入り口で仁王立ちになった人影──。
「ぶ、部長! 何やってるんですかっ!」
「そいつらはっ、国家の威信にかけてお前を守るとか言いやがってっ、ちっとも守ってねえじゃねぇかっ!」
部長、そんなに酒癖悪くないのに、今日はかなり酔ってる……?
「こらぁ! お前みたいなプロが、俺みたいな素人のパンチでへたったフリするんじゃねえ! もう一発殴らせろ!」
「ちょ……スピアさーん、助けてくださいよー」
わたしが助けを求めても、スピアは肩をすくめるだけだ。
「店の外での喧嘩にまで、あたしが出張る理由はない」
「そんなぁ……」
「いいんだ……セイジは、よく見てる。俺に大したダメージはねぇよ」
ニッケが立ち上がる。
「ニッケ……」
「それに……俺も、もう一回くらい殴られてもいい気分だしな」
「なんで……」
くしゃくしゃ。
ニッケがわたしのあたまを、子供みたいになでる。
「いいんだ、ラン。そうでもしなきゃ、お互い、このむしゃくしゃはおさまらねぇ」
「……おおい、小僧」
部長の声のトーンが変わった。
「黙って見てりゃ、いちゃいちゃと……ミズハのファーストネームとか呼んでんじゃねぇ!」
部長の身体が、ゆらりと動く──と、次の瞬間。
「えっ……」
わたしとニッケの間に、部長が割り込み、強烈な蹴りを繰り出していた。
な、何──!?
「くっ……」
後ろに飛んで蹴りをよけたニッケが、苦しげな息を吐く。
部長は踊りかかるように間合いを詰めると、次々とパンチを繰り出す。
──ええっと……たしか、部長、空手やってるって、聞いたことがあったような……。
でも、空手って、あんな動きなの……!?
ドウッ
空気が揺れる。
部長の一撃をニッケが受け止めたのだ。
「……セイジ、なんかあんた、しゃれになんねえぞ」
「オマエなぁぁぁ」
部長が吠える。
「セイジは、苗字っだっっっ! 名前みたいに、気安く呼ぶなぁぁぁぁ!」
もはや、何に怒ってんだか、ワケわかんないよ(涙)!
部長がニッケを投げ飛ばすと、ニッケは数メートル先の石畳まで飛ばされて転がった。
「……珍しいな」
いつの間にか、スピアがわたしを守るように、横に立っていた。
「あのオッサン、<憤怒>の……?」
ヌォォォォォォォォォ!
瞬く間に距離を詰めた部長が、ニッケの顔面に向けて、猛烈な一撃を繰り出そうとしている。
あんなのくらったら、いくらニッケでもタダではすまない。
もおおお──
「<やめなさいっ>!」
わたしが叫ぶと、反響がこだまのように、夜の歓楽街に響いた。
あたりが、静まり返る。
部長は──
ニッケに拳が当たる、ギリギリのところで、動きを止めていた。
筋肉には、まだ力が入っているらしく、プルプルと小刻みに震えている。
「んんー?」
ニッケが、固まっている部長の頭や顔を指で小突いて、気の抜けた声を出す。
そうして、深く溜め息をついて、わたしを振り返った。
「……ラン」
「は、はい……」
「やってくれたな」
「はい?」
スピアが、あーあ、めんどくせぇ、と髪をかきあげた。
「<禁止挿語>とか……街中で使うか、普通」
「へ、なにそれ」
「ニッケ……あんた、この素人、どこから連れてきたの」
ニッケは、いかにもウソくさい笑顔を作った。
「いやぁ、これにはふかぁいわけがあってだな」
「……いいから、あんた、この事態、どうにかしなさいよ」
わたしは、ハッとあたりを見回した。
見られた。何人もの人に──。
「あんたはっ」
スピアが、わたしの首根っこを掴む。
「とりあえず、こっち来な」
子猫のように運ばれて、わたしは妓楼の店内へ引っ張り込まれたのだった──。