部長、飛び入り
アーチ型の窓の向こうは、どこまでも青い。
澄んだ空。
それを、鏡のように映す、広大な湖。
天も、地も、どこまでも青──。
トランクを抱えたわたしは足を止め、<静謐の湖>に目を奪われていた。
「ラン──お嬢さま。その他の荷物は、お部屋にお届けしてございます」
声をかけられ、振り返ると、見慣れた赤髪の青年が、白い手袋をはめた手を胸に当てて会釈をした。
「あ……ありがとう、ニッケ。先におじさまたちのところに戻っていて」
「かしこまりました」
すっかり従者になりきった赤髪のニッケが、目を細めて笑った。
今日からわたしは、ラン・ミズハ、16歳のお嬢さまになりきらなければいけない。
ゴシック様式──<あっち>の世界ならば、そう呼ぶのがふさわしいのだろうか。
修道院を増築して作られた学生寮は、まるでお城のようだ。
4階の突き当たり、401号室が、わたしの部屋。
扉をノックすると、どうぞぉ、と間延びした声がした。
「失礼します」
緊張で少しうわずった声が出る。
室内に、一歩踏み出す。
──これが、学生寮!?
目の前には、20畳ほどの空間が広がっていた。
正面に大きな掃き出し窓があり、バルコニーにつながっている。
窓際に置かれた応接セットは、テーブルも椅子も猫脚だ。
右手にミニキッチン、その隣にバスルーム。
左手には、ベッドルームに続く扉がふたつ──。
「おっす」
バルコニーに近い側のベッドルームから、ひょいと顔がのぞいた。
褐色の肌、キリッとした大きな瞳。
ショートに切りそろえた灰色がかった髪。その上に、三角の耳がのっている。
「ごきげんよう」
わたしは、教わった通りの作法であいさつする。
「悪いけど、窓側の部屋とっちった。ウチ、閉じ切ったとこ苦手なんだ。ごめんな」
ハキハキとそう言いながら、わたしの人生初のルームメイトは、ツカツカと歩み寄ってきて、パッと手を出した。
「ウチは、ディーズ。ディーズ・イダイア。よろしくな」
「ラン・ミズハです、よろしくお願いします」
手を握り返して、気がつく。
ディーズの腕は、細いけれどもガッシリして、鍛え抜かれている。
「とりあえず、荷物置いて着替えなよ。すぐに式典はじまるぜ」
「う、うん、そうだね」
廊下側のベッドルームに入る。
突き当たりの角部屋なので、わたしの個室にも腰の高さの出窓があった。
机の上の文房具、ワードローブにそろえられた着替え……。
何もかも、完璧に整っている。
「あんたんとこの執事、イケメンだよなー。今度、紹介してよぉ」
戸口の向こうから、ディーズの声がする。
ルブルグさん、ネルーさんと入学の手続きをすませて、寮に足を踏み入れると、そこは上を下への大騒ぎだった。
新入生が入る部屋では、各家の執事や従者が、寮のメイドさんたちとあわただしく各部屋での荷解きをしていたからだ。
──何も、ニッケがそこまでしてくれなくてもよかったのに。
わたしは、こそばゆいような気持ちで苦笑しながら、制服を手に取った。
数十分後。
大講堂の最前列に、わたしたちはいた。
半円形の劇場のような大講堂は、座席が階段上になっていて、3階まで続いている。
1階に新入生。2階に家族や後見人。そのうしろ、3階にかけては在校生──先輩たちが着席していた。
「新入生諸君! ようこそ、聖シアルネ学院へ」
卵のような丸い頭に、卵のような丸い身体をした紳士が、壇上から呼びかけた。
銀縁の片眼鏡から垂れた鎖が揺れて、キラキラと輝いている。
「わたしが、この学院の校長をつとめるジミール・ベッポであります。諸君は、たぐいまれな才能を活かし、伸ばすために、当学院の門をくぐった。わたしは教育者として、みなさんが世界に羽ばたく人材に育ってくれることを期待してやみません」
ベッポ校長は、意味ありげに間を取った。
在校生たちが、慣れた様子で、すかさず拍手をする。
──なるほど、これが必要なのね……。
わたしは、苦笑を噛み殺しながら、先輩たちにつづいた。
新入生や保護者も手を叩くと、ようやく校長はスピーチを再開する。
「……ええ、さて、同時に諸君は、その可能性に満ちた力を、制御することも学ばなければなりません。力というものは、人を助けもすれば、傷つけもする。ときには、深刻な結果を生むこともあるでしょう。たとえば──」
ベッポ校長は、キラリと光る何かを、チョッキのポケットから取り出した。
「食堂から借りてきた、スプーンです。我々にとって、これを融かすことは、そう困難なことではありません。<融けよ>」
スプーンは形を失って、水のように校長の手から演台に流れ落ちた。
「こうして、<融ける>というイメージは、簡単に持つことができる。初心者でもです。では、これはどうでしょうか──」
校長は、よっこいしょ、と言いながら、演台の下から大ぶりなガラスのビンを持ち上げた。
中では、黒い虫たちが、ピョンピョンと飛び跳ねている。
「かわいそうですが、教訓のために犠牲になってもらいましょう。<精神溶融>」
保護者席が、少しざわついた。
わたしは、ビンの中のコオロギのような虫たちが、奇妙な動きをしていることに気づいた。
興奮したように、過剰に飛び跳ねるもの。
仰向けになって、足をバタつかせるもの。
ダンゴのように固まっている虫たちは──共食い、している……?
「……もう十分ですね。<燃えよ>」
ビンの中で炎を湧き起こり、一瞬ですべてが灰になった。
「さる伝承によると、これが最初に生まれた<外道魔法>です。誤ったイメージを、誤った対象にぶつけたとき、それは醜く、残酷で、恐怖に満ちた結果を生じます」
お願いします、とベッポ校長がいうと、先生たちが新入生の席を回って、ビロードばりの小箱を配った。
「開けてみてください……ただし、まだ取り出さないこと。指輪が入っていますね。この指輪は、一種の<魔術封じ>です。知られている限りの危険な魔法と対象の組み合わせが発動しないよう、あらかじめ<禁則魔法>で封じるようになっています。諸君には、卒業のときに、この指輪を学院に返却してもらいます。つまり、禁じられた危険な術式も、やろうと思えば発動させられる。だが、諸君はそれにともなう重大な結果を認識し、責任を負える人間になって、この学院を卒業するのです。諸君には、魔法の技術だけでなく、よき師、よき友と出会い、人間性を磨いて、この学び舎をあとにしてほしい」
──ベッポ校長には、公国からの命がくだされています。あなたが<こちら>の世界にとって、安全な存在であるかを見極めよと。
ルブルグさんの言葉が、わたしの頭をよぎる。
──ポイントは大きくふたつです。魔法を十分に制御できるようになること。そして、魔法を悪意をもって使わない、信頼に足る人格であると証明すること。
この指輪を外していいと、認めてもらうこと。
それが、魔法が使えるようになってしまったわたしが、<こっち>の世界で生きていける条件なのだ。
「その指輪は、どの指にはめても結構ですよ。すぐに<空間隠蔽>されて、つけていないのと同じになります。おしゃれの邪魔にもなりません。では、どうぞ」
緊張しながら、左手の人差し指に指輪を通す。
細かく刻印がほどこされた指輪は、すぐに揺らいで、幻のように消えてしまった。
指に触れてみても、何もないようにしか感じない。
「はい、全員つけましたね。よろしい、よろしい。では、説教くさい演説はこれくらいにしましょう。次に、みなさんと時を同じくして、この学院の仲間となる新任の先生をご紹介しましょう。どうぞ、こちらへ。自己紹介をお願いします」
脇の階段から、ふたりの人影が昇ってくると、大講堂の中がざわついた。
新任の先生は、男女ひとりずつ。
そのうちの女性の先生が、あまりにも美しかったからだ。
青みがかった銀髪。
スッと通った鼻。
切れ長の瞳の上に、毛先の巻いた長いまつげ。
凛とした足取りに、髪がなびく。
颯爽と学生一同を見渡すと、よく通る声で言った。
「ターニア・デミアナ・ロベリーナだ。魔法史と魔導哲学の授業を担当する。剣技にも少々おぼえがあるゆえ、剣術部の指導員も拝命した。若い諸君の未来に貢献できることを、誇りに思っている」
──シスター・ターニア!
わたしは、思わず声をあげそうになった。
<地獄の部屋>の事件で<魔導書>に取り憑かれたことを恥じ、修道女のアステルさんのもとを去った、あのシスター・ターニアが、先生に……。
ベッポ校長が、手を叩きながら付け加えた。
「ロベリーナ先生のお父上は、聖騎士団の副団長をつとめられたロベリーナ卿。先生もまた、教皇庁魔導団の一員でもあられます。では、もうおひと方、ラミング先生」
紹介されて、一歩前に出た人の顔にも、見覚えがあった。
大公殿下に謁見したあと、部長が王宮で刺されたときに、わたしたちの手当てをしてくれた、ラミング医師だ。
「いやはや、ロベリーナ先生のあとでは、なんとも見劣りがしていけませんが……ザバラ・ラミング。魔法生物学と召喚術、上級生の魔導医学の担当になります。宮廷医師団からの転属ですので、校医も兼任することになりますね。保護者のみなさん、わたしがここに来たからには、怪我人も死人もまず出ませんので、ご安心を」
大人たちの席から温かい拍手が起こる。
こうして、入学式が終わった。
あっという間に日が傾き、両親や後見人が学院を出る時間が近づく。
広い学院のあちらこちらで、人々が別れを惜しんでいた。
「ラン、こっちよ!」
わたしが大講堂の外に出ると、ネルーさんが手を振った。
ルブルグさん、従者姿のニッケ、ルブルグ家のみんな──あれ?
「部長?」
従者の服を着た青児部長が、へへへ、と笑顔を作った。
「飛び込みでな。潜り込んできちまった」
「もー、何やってるんですか、部長の顔を覚えている人だっているかもしれないのに、ルブルグさんたちにもご迷惑ですよ」
「いいのよラン、これで本当に、セイジさんとは当分、会えないんですもの」
ネルーさんが微笑む。
「それにしても、まさか人生で、制服姿の部下を見送る日が来るとは。何が起こるかわからんな」
「わたしだって、まさかこの歳でまた、制服着ることになるとは思いませんでしたよ……」
わたしが苦笑すると、ニッケがボソッと言った。
「いや……似合ってる」
「本当ですね。ニッケとはちがって、わたしの客観的な目から見ても、よく似合っていると思いますよ」
ルブルグさんが微笑むと、ニッケがグッとうなってルブルグさんをにらんだ。
「あれぇ、ネルー姉じゃん」
背後から声がした。
振り返ると、ルームメイトのディーズが手を振っている。
ネルーさんは、驚いたような声を出した。
「ディーズ! あなた、今年入学だったの!?」
「来年の予定だったんだけど、なんか親父が急に入れって。何、ランってネルー姉の知り合い?」
無邪気な瞳で見つめられて、わたしは思わずくちごもる。
「ええと、知り合いというか、わたしの後見人で……」
ルブルグさんが、サッと歩み寄って、わたしの肩に手を置いた。
「そうなんだ、ミズハ家はルブルグ家の遠縁でね。しかし驚いたな、サー・イダイアからは、わたしたちも何も聞かされていなかったから」
──ん? サー・イダイアって、どこかで……。
ネルーさんが、少し大袈裟に笑いながら言った。
「あなた、軍人なんて秘密主義の塊よ。おじさまも父も、そういうところはそっくり」
──おじさま。そうか、あのとき王宮で──
「じゃあ、ディーズのお父さんって……」
「ウチの親父は、デモク・イダイア。第二近衛師団の団長だけど、ラン、親父のこと知ってんの?」
目の前の、猫耳褐色肌の少女と、記憶の中のサー・イダイア。とても父娘とは思えない。
あの紺色の軍服に身を包んだ巨漢から、なぜこの子が……。
目に焼きついたサー・イダイアのはち切れそうな厚い胸板。そして、光をはなつ頭皮。
唯一、頬や首周りまでムキムキだった筋肉だけは、ガッチリ鍛え上げられたディーズの肉体と共通しているといえば、しているかも……。
ニッケがスッと、わたしのそばに近づいた。
「お嬢さま……わたくしどもは馬車の用意がございますので、先に下がらせていただきます」
「え……」
ニッケは小声で、わたしにささやいた。
「……サー・イダイアや近衛師団の人間に、セイジが潜り込んでいるのを見られるのは、得策じゃない」
「……なるほど……ごめん、よろしくね……」
──まったく、部長、迷惑かけすぎですよ……!
ドギマギしているわたしに向かって、ディーズが叫んだ。
「いた! イケメン!」
「イ、イケメン?」
ニッケは、それには構わず、失礼いたします、とクールに言って、去ってしまう。
ディーズが、くやしそうにわたしをにらむ。
「紹介してって言ったじゃんか」
「ええっと、それは……」
「ちぇっ、次は紹介してくれよなっ」
屈託なくニッと笑うディーズを見て、焦っていた気持ちが少し落ち着いた。
わたしの学園生活、なんだか早速、ややこしいことになってきたけど、ほんとに大丈夫──?
はじまりました、学院騒乱篇!
部長はここまで参加してきたけど、はたして次回からタイトルにできるのかっ!?
先行きがあやしいですが、物語はつづきます。
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