部長、準備する
「……あらあら、まあまあ」
わたしの背中に手を当て、<感知魔法>に意識を集中していたネルーさんが、言った。
これで、たぶん今日、20回目くらい。
地方旅行から戻ってきた馬車を、わたしが玄関で迎えたとき。
赤髪のニッケが、不機嫌そうにわたしが<上書き>された経緯を話したとき。
ツカミンの破られたページが、また元に戻ったのを確認したとき……。
「あらあら、まあまあ」
ネルーさんは、大きな目をいっそう丸くして、そう言うのだ。
ルブルグさんは、机の上でピョンピョン跳ね回るツカミンを横目に見つつ、ネルーさんに聞いた。
「どうだい、ミズハさんの身体は」
「健康状態には問題なさそう……でも、背骨の中に、ラン以外のものがあるわね」
──せ、背骨の中……って。
「魔力のこもった、繊維状のもの……それが、背骨から頸椎を通って、脳まで……神経にからみついているみたい」
「繊維か……おそらく、この<魔導書>の説明に書かれている『封霊紙』という紙の繊維だろうね」
ルブルグさんは、困ったような顔をして微笑んだ。
「まったく……あなたには驚かされてばかりですよ、ミズハさん。まさか、<魔導書>に、絵を描いて食べるとは」
「……ご、ごめんなさい……」
ニッケが、いらだったように聞いた。
「それで、ランは本当に大丈夫なのか?」
「ふむ。君、その繊維は、ミズハさんの魔力を吸い取っているのかい?」
「どうかしら……息をするように、吸ったり、吐いたりしているようだけど」
「なるほど……実に、興味深い」
ニッケは、椅子を蹴って立ち上がった。
「興味深いったぁ、どういうことだ!」
「まあ、落ち着け。ニッケ、君も<邪眼使い>に会ったことはあるよな?」
「ああ……それがどうした」
「以前、彼らに関する論文を読んだんだが、肉体への埋め込みに成功した<邪眼>は、術者の魔力で呼吸するんだそうだ。そうやって、魔具が<宿主>と共生するらしい」
「共生……」
「この<魔導書>──ツカミンの繊維も、ミズハさんと共生関係になっているのかもしれない。そして、セイジさんの描いたイラストにこめられていたイメージを、定着させつづけている……そうか……」
そこまで言って、ルブルグさんは考え込むように黙ってしまった。
ネルーさんが、わたしの手を取る。
「でも、よかったわね。こんなにかわいい16歳に変身できるなんて」
「ええと……でも、自分では、そんなふうに思えなくて……あはは」
そうなのだ。
わたしの姿が変わったことは、頭では理解した。
でも、<自意識>の中では、少し童顔の、平均的な容姿の自分だとしか感じられない。
なるほど、とルブルグさんが声をあげた。
「絵には<外面>の要素しかありませんよね。そして、あなたはただ、『これは自分を描いた絵だ』と思って、取り込んだ。結果、ミズハさんの<自意識>を形づくった記憶や経験は修正されずに、その<姿>と<これが自分だ>という意識だけが定着したというわけです。実におもしろい……」
「あのなあ──」
ニッケが、ビシッとわたしを指さした。
「こいつは、自分がどんだけかわいくなったか、わかってないんだぞ!? もともと、ボヤボヤしたやつなのに──」
「あらあら。ニッケ、あなたは、それが心配なのね?」
ネルーさんが微笑むと、ニッケはグッと音を立てて言葉を飲み込んだ。
ずっと黙っていた部長が、ルブルグさんに聞いた。
「健康状態に問題がないとして……ミズハの入学まで、もう日がない。今後の段取りを確認しておきたいんだが」
「そうですね……」
ルブルグさんは、立ち上がると棚から一巻の巻物を取り出した。
王都リカルドから西方のエリアを描いた地図だ。
「聖シアルネ学院は、王都の西方、<静謐の湖>の湖畔にあります。全寮制ですから、ミズハさんには修道院の一部である学生寮に入っていただくことになります。
学院の学生たちは、大半が貴族の子弟。ミズハさんには、我がルブルグ男爵家の遠縁にあたる、南方の名家ミズハ家の娘として入学していただきます」
名家のお嬢さま。
その設定のために、ネルーさんからこの国の礼儀作法もあれやこれや、いろいろ習ってきた。
でも──
「はぁ……うまくできるかな……」
「大丈夫ですよ。万が一、<こちら>の世界の常識とは多少ズレたことをしてしまっても、言い訳はたちます。なにしろ、南方は10年前の戦乱の名残りで、いまだに混乱が続いている土地柄です。王都の貴族と話が合わなくても、不審に思われることはないでしょう」
部長が、地図の上の<静謐の湖>、レンリル湖をトントンと指で叩いた。
「王都からは鉄道で1時間半。ただ、汽車の本数は少ないし、ミズハに何かあったとき、駆けつけるには距離がある。そこで、このレンリル湖の対岸にあたる街、レンリルニアに拠点を確保した。バーニン……いや、ルドボロン伯爵の別荘だ。やつからは、好きに使っていいという約束を取りつけてある」
「いいところですよ、レンリルニアは。古くからの貴族の別荘地なんです。我が家も、小さいながら別荘を構えていますが──さすがに、そこに異世界人のセイジさんが長期滞在していては、ミズハさんとの関係に気づく人が出てこないとも限りません。ルドボロン伯爵と懇意になさっていて、助かりました」
あの、とわたしは手をあげた。
「なんでしょう、ミズハさん?」
「わたしが<あっち>の人間だっていうことは、学院の先生たちは知っているんですよね?」
「校長先生には話を通してありますが、教官全員が知っているわけではないはずです。学院内では、あくまで、この世界の人間として振る舞ってもらったほうがいいでしょう」
「はい……」
「それから……あらためて言いますが、ベッポ校長には、公国からの命がくだされています。あなたが公国にとって、そして<こちら>の世界にとって、安全な存在であるかを見極めよ、と。
ポイントは大きくふたつです。魔法を十分に制御できるようになること。そして、魔法を悪意をもって使わない、信頼に足る人格であると証明すること。
わたしたちは、早い段階から身近に接して、あなたの表裏のない人柄を信じています。友人だと思っている。しかし、校長がどう判断するかは、あなたの振る舞い次第です」
──そうだよね。わたしはまだ、<こっち>の世界に受け入れられたわけじゃない……。
「大丈夫よ、ラン」
「ネルーさん……」
「不安でしょうけど、わたしたちも後見人として、ときどき様子を見にいくから」
「ありがとう……」
そうして、あれこれと段取りを相談するうち、日が傾きはじめた。
ミズハさん、ちょっと……と、ルブルグさんに呼び出されて、わたしは客間を出た。
「どうしたんですか?」
書斎に案内されたわたしは、ルブルグさんに聞いた。
「ミズハさん──よければ、わたしの<実験>に協力していただけませんか、みなには内密に……」