部長、挫折する
「部長ぉ、いつまで寝てるんですか?」
長椅子で横になり、いびきをかく男。
<あっちの世界>の雑誌を顔にかぶせて、夢心地だ。
「ぶちょお!」
わたしはしゃがみこみ、耳元で叫ぶ。
「……あんだよ、ミズハか」
寝ぼけた声。それに酒っくさっ!
「今日は文化大臣のレセプションですよ? 日本のコンテンツを売り込む、チャンスじゃなかったんですかぁ?」
「なぁにが日本のコンテンツだ、ちくしょぉ……」
あれだけやる気に満ち溢れていた部長が、たった数日で、この体たらく。
……まったく、あたしゃなんで、ついてきちゃったんだろ。
異世界に来るのは、それは大変でございましたよ。
いちばんの障壁は、母。
29歳、独身で実家暮らしのわたし、水波らんは、ある日、夕食の席でこう、切り出した。
「ねえ、おかあさん」
「ん、なあに」
「わたしね、転勤になるわ」
「あら。あんたの会社、転勤があったの?」
「うーん……」
「あんた、大丈夫? 一人暮らしできる?」
「そりゃ、炊事洗濯くらいやりますよ?」
「ほんとかしらねぇ。タケルくんと同棲してたときだって、台所が汚いって言われて、それで喧嘩して別れたんでしょ」
「タケルは関係ないじゃん。てか、台所汚くないし」
「お風呂の足拭きマットとバスタオルを一緒に洗濯機に入れて洗うとか、そういう恥ずかしいことしてタケルくんに逃げられたんだから、あんたは」
「……あのね、お母さん(怒)」
「それで、何、あんた、どこに転勤になるの?」
「うーん……異世界」
そのときの、母の顔。
人間の目が、本当に「点」になるのを、初めて見た気がする。
「らん。あなた、会社やめなさい」
「何よ、いきなり」
「沖縄とか北海道とか、ジンバブエとかニジェールとか、いいえ、南極に転勤でも、お母さんは許すわよ。
でも、異世界はだめ。他の人にしてもらいなさい」
「なんでよ。南極がいいなら異世界でもいいじゃん」
「よくないわよ。嫁入り前の娘が」
「うっわ、何、いま嫁入りとか言った、うっわ」
「ふざけない! お母さんは真剣なんだからね」
「だって、しょうがないじゃん。仕事だし」
「あなたねえ、異世界よ。どんなところか、わかってるの?」
「いやー? 異世界なのでー、あんまわからないけどー、お母さんはわかってるわけー?」
「ほらみなさい。わからないんじゃないの。わからないところに行って、何かあったらどうするの!?」
「大丈夫だよ、部長も一緒だし」
「部長さんって、あんた、部長さんと付き合ってるの?」
「はぁ? なんでそうなるのよ」
「だって、あなたのこと、本当に守ってくれるの? 何かあったら、責任とってくれるの?」
……
ほんとだよ。
酔っ払ってないで、責任とってよ。
わたしは、またいびきをかきはじめた部長を見て、深くふかくため息をつく。
あれだけやる気だった部長が、こんなふうになってしまったのは、やっぱり政治のせい、なのだろうか。
とにかく、日本では<こっちの世界>の情報が少なすぎた。
部長は、現実を前に、挫折してしまったのだ。
異世界を目指した私と部長は、まずシンガポールに飛んだ。
地球にはいくつか、世界間定期船の離発着場ができている。
日本からもっとも近いのは、帝国企業と中国資本が共同で運行している、シンガポール近海の離発着場だ。
つるっとした銀色の宇宙船に乗り込む。
宇宙服を着るでもなく、飛行機の最上級クラスってこんな感じ?みたいな広さのシートに乗り込む。
地球の重力圏を脱出するときも、ストレスはあまり感じなかった。
<宇宙レンズ>までは、2日半。
思い切り座席をリクライニングして、ごろごろしているうちに、レンズを通過した。
ふわっ
冬に静電気を帯びたときのように、髪の毛がふくらんだ。
ただ、それだけ。
税関にあたるチェックポイントを抜けると、帝国の首都イザナウラの空港。
到着したのは夜。
雨が降って窓の外は霞んでいたけど、見た目の印象は「建物を整然と並べた新宿」みたいな感じかな。
超最先端の科学都市、っていう雰囲気でもない。
帝国に向かうパスを持っていない私たちは、イザナウラの下車口に向かう人々を横目に、乗り継ぎ専用のゲートへ。
……って、こっちにくんの、うちらだけじゃん……
そこから、レガシス公国までが遠かった。
首都からは、リニア新幹線みたいな高速鉄道で3時間。
そこからは、なんと汽車に乗り換え(まさかのガチ蒸気機関車)4時間かけて、ようやくたどりついた。
まさにど田舎。
辺境の国だ。
わたしたちが支社を構えることを許された、王都リカルドは、緑色の穂をつけた麦畑に囲まれている。
中心街は古い城壁で囲まれ、その中に4階か5階建の石造の家々が並んでいる。
こうした家は、多くの場合、各階ごとに別の住民一家に貸し出されているという。
旧市街は、およそ東京ドーム30個分の広さ(という計算をしたのは部長なので、正しいかどうかは知らない)。
北端にあたる位置、ミリダの丘と呼ばれる高台を利用してそびえ立つのが、王宮ミリダウラだ。
街の中は自由に歩き回っていいと言われていたので、部長と私は、最初の3日間、リカルドの地図を片手に、隅々まで歩き回った。
その結果、ふたつのことがわかった。
1. この街は清潔で、安全である。
2. この街には、本屋がない。
……本屋が、ない、のである。
イザナウラから乗ってきた高速鉄道には、座席ごとにモニターがついていて、ニュースや娯楽番組を見ることができた。
あのネットフニックスの帝国領内での再配信権を買った企業があるというのだから、当然といえば当然だろう。
だが、レガシス領内に入ってからは、そうした映像メディアを使っている人も見かけない。
パソコンやタブレット端末、スマートフォンらしきものも、役人以外が持っているのは見たことがない。
コンテンツ・ビジネス、出る幕なし。
こうして、熱しやすく冷めやすい青児部長の心は早々に折れてしまったのだ。
「ほらぁ、もう着替えないと、まずいですって」
「……まだ、集合まで3時間以上あるじゃないか」
「ルブルグさんが1時に来るって、言ったじゃないですか」
「あぁん?」
「ですから、この国のマナーとか、しきたりを教えに商工省のルブルグさんが来てくれるんですっ」
レガシス公国は、わたしたちを厚遇してくれている、と思う。
わたしたちみたいな、いち民間企業の駐在員、しかもお金になるかもわからない出版社の人間に、連絡役をつけてくれたのだ。
ルブルグさんは、たぶんわたしと同じ、30歳前後。
明るい茶色の髪で、丸メガネをかけている。
身長は、たぶん180センチくらい。
いつも困ったような笑顔を浮かべている。
「我が国は、滅多に外国との貿易はしないんです。しないというより、するものがあまりないので」
最初に会ったとき、ルブルグさんは、こう言った。
それもそのはず。
中世みたいな、この国の主要産品は、どうみても農作物だ。
それも大規模農業ではない。
たぶん、この国の人々が自給自足していくのに、ちょうどいいくらいの生産量なんだと思う。
ここでは、街中を歩けば、あちこちの辻で市場が立っている。
かぶ(のようなもの)を筆頭に、いろんな野菜が並ぶ。
あとは肉類。
あひる(のようなもの)。
ぶた(のようなもの)。
うさぎ(のようなもの)。
あの皮を剥がれた<うさぎもどき>が並んでいる光景は、わたしにはちょっときつかった……。
工業製品で見かけるのは、大工道具などの工具類。
アロマショップみたいな薬草店や、蝋燭問屋。
火薬を扱うお店もあって、店先では花火のデモンストレーションに子供たちが群がっている。
そして、武器と防具の店。
正直、これは戸惑いましたね。
街中で甲冑や大剣を帯びた人は、兵士以外には見かけない。
でもたしかに、城外に出かける人の中には、完全武装の人たちがいるようにも見える。
おもしろがって覗いてみたけど、刀傷のあるゴッツイ店主と目があって、すぐ退散した。
とにかく、こうした工業製品も、手工業品がほとんどで、大量生産されているようなものは見当たらない。
経済的に、閉じた国。
完結した国。
自立した国?
なんだか、そんな感じだ。
1時。
この国の言い方では、「太陽の刻の1番」。
わたしは、なんとか部長を起こし、水を飲ませ、歯磨きをさせて、スーツに着替えさせていた(ぜえぜえ)。
わたしも、昨日のうちにアイロンがけしておいた、とっておきのパンツスーツに身を包む。
コミックの編集者は、普段、こんな格好しないけどね(てへぺろ)。
これでも、偉い人に会うこともあろうかと、奮発して買ってきたのだ。
ドアベルが鳴り、わたしは表の戸を開ける。
茶色の髪のルブルグさんは、困ったような笑顔で「こんにちは」と言ったきり、うーむ、と唸る。
「どもー、今日はお世話になります」
また勝手にネクタイを緩めた部長が、背後から挨拶する。
わたしは、小声でルブルグさんにささやく。
「……ほんと、すいません。あんな感じで。部長もいろいろありまして……」
「ミズハさん」
「はい?」
「あなた、ひょっとして、その服装で晩餐会に出席されるおつもりですか?」
「え? は、はあ……」
って、あたしのほうかーい!?
「あのー、今日って、レセプションでしたよね? こう、立食的なやつ?」
「立食? いえいえ、ゲストはあなたがただけなので、もっと小規模なものですよ。文化大臣の邸で、着席での晩餐会になるはずです」
げっ、もっとビジネスライクなやつかと思ってたよ……。
「あのー、ここではそういうとき、どんな服を着れば……」
ふうむ、とルブルグさんが考え込む。
「仕方がないですね。予定を変更して、お二人を我が家にお招きしましょう。多少なり、あなたがたに合う服があるかもしれません」
「……なんか、もう、ほんとすいません……」
晩餐会……不安しかない……。