部長、怒られる
「お嬢さん、<甘い豆のパン>、4つね」
「こっちは普通の<パン>、2つと……」
「はい〜、少々お待ちくださいぃ〜〜」
わたしは、釜の前であわただしく手を動かすおじさんに声をかける。
「おじさーん、あんぱん、焼き上がってますかぁ?」
「そっちの台のやつ、出してもらっていいよ!」
支社の向かい。
パン屋さんのカウンターの中に、わたしはいた。
<こっち>の世界のジッタ豆を使ったあんぱん、<甘い豆のパン>が次第に売れはじめて、近頃、お店の前には長い行列ができる時間帯もある。
聖シアルネ学院に入るまで3週間を切っていた。
部長が考えた絵本企画は、救貧院の子供たちによるユーザーテストを経て、<あっち>の世界での印刷を待つばかりとなった。
ネルーさんは、ルブルグさんと地方に旅行。
これは、遠縁のわたしを迎えにいって、学院に入学させるというストーリーのための、アリバイ作りでもあった。
魔法の特訓も、自主練するしかない。
そんなこんなで、手持ち無沙汰なわたしは、パン屋さんの手伝いに精を出している。
「すいません、<甘い豆のパン>を……」
行列に並んでいた、背の高い男の人が言った。
「あぁ! ごめんなさい、焼き上がっているのは、いま売り切れてしまって。
次のが焼き上がるまで、お待ちいただくことに……」
「いいですよ、じゃあ、カウンターの端に寄っていようかな」
「ほんとに、すみません……次の方は……」
次も、男の人。よく日焼けしていて、肉体派っぽい。
「……俺も、待たせてもらうよ」
「えっと……」
じゃあ、わたしも、ぼくも、と<甘い豆のパン>を待つという人の列が、別にできてしまった。
「あらら……みなさん、ほんとにありがとうございます〜」
わたしは、焼き上がったパンを取りに奥に入る。
「あんぱんがこんなに売れるなんて、びっくりだよ〜」
「ガハハ、ランちゃんはうちの救世主、いや女神さまだな」
「あはは、女神って」
「にぶいなランちゃん、最近のお客の目当ては、うまいパンだけじゃないんだぜ」
「んー?」
「美人の看板娘がいるってな、評判なのよ」
──へ?
「やだ、おじさん、何言ってんの、セクハラセクハラ」
「ランちゃんこそ、何言ってんだい、行列見てみろい。男ばっかじゃねえか」
ガッハッハとおじさんが笑う。
あっという間に時間が過ぎ、昼前の営業が終わった。
わたしのお手伝いは、ここまでだ。
店の前の通りに出て、カウンターの戸を閉じていると、背後から声がした。
「……終ったか」
「あ、すいません、昼前はもう終わりで……って、ニッケ?」
振り返ると、赤髪のニッケが立っていた。
──なんか、怒ってる?
「そうだ、うちで食べる分、もらってるんだ。わたし、もうあがりだから、一緒に──」
「ラン……お前、何考えてるんだ?」
「え……」
「読んでみろ」
ニッケは、わたしの目の前に紙を突き出した。
瓦版の小さな記事に、印がつけられている。
「『大評判! 新作パンが旧市街で話題』……。へえ、すごい、記事になったんだ? おじさんに教えてあげなくちゃ」
「よく読めよ、本屋のくせに」
「何よ……。『道ゆく人を誘うは、甘露なパンの香りのみにあらず、店先で溌剌たる声をあげる売り子の娘、いずこより来る乙女かと、紳士諸君の噂しきりなり。さる貴顕の人のいわく、かの少女は<この世>の者にやあらずと』……」
──って、これ、わたしかい!
「いやー、乙女って言われても、あはは」
「あははじゃねえよ。無駄に目立ちやがって」
「な、何よ、その言い方……」
「あのなあ、『貴顕の人のいわく』ってことは、貴族階級からのリークってことだ。はっきりとは書いてないが、お前が<あっち>の人間だってことをほのめかしてる。
お前が人気者になるのを、こころよく思ってないやつがいるって、わかってるだろ」
「でも、この街の人たちに、わたしが<あっち>から来たことは隠してないんだけど……」
はあああ、とニッケは額に手を当てて溜め息をついた。
「いいか、隣近所の人がお前の顔や素性を知っているってのと、王都中の評判になるってのじゃ、話がちがう。
ルブルグの親戚という触れ込みで学院に入る計画だって、貴族のぼっちゃん嬢ちゃんが、お前の顔なんか知らないというのが大前提なんだぜ」
「そんなこと言ったって……わたしは、わたしなんだから、しょうがないじゃん」
「お前は……だって、もう、ちょっと、ちがうだろ」
「ちがうって、何よ」
「だから……前とはちがうだろって」
「なにそれ」
「ああもう、めんどくせぇ!」
ニッケは、ますます機嫌わるそうに言った。
「お前、なんか、すげーかわいくなってんだからさ……」
──は?
「自覚、しろよな」
わたしが、目を白黒させていると、急にパン屋のおじさんの声がした。
「いいねえ、青春だねえ」
「ぐっ……おっさん、これはそういうんじゃねえから!」
はいはい、わかってますよ〜と、おじさんはニヤニヤしながら戸口から頭を引っ込めた。
日が暮れて。
わたしは、支社のダイニングで、ニッケと部長の顔をにらんでいた。
「わたしのっ、どこが、変わったんですか」
わたしは、ちっとも変わっていない──はずだ。
29歳にして、16歳設定で学園生活に放り込まれる。その悲劇的な状況を解決する道は、まったく見つかっていなかった。
<初級回復魔法>で、筋トレするように、徐々にイメージ通りの身体を手に入れようという肉体改造計画は、わたしの<初級回復魔法>が絶望的に上達しないせいで、まったく望み薄になっていたのだ。
だから、わたしは結局、何も対策ができていない。
「セイジ……いままで、ランに何も言ってやらなかったのか」
ニッケが非難する口調で言った。
「そう言われてもな。ミズハは、部下だしな。何て言ったらいいのか……」
「なんですか、部長までモゴモゴと。わたしが、どう変わったっていうんですか」
「ミズハ……お前、ほんとうに、なんの自覚もないのか?」
「ありませんけど」
「この鏡を見ても、なんとも思わないのか?」
部長は、持ってきた手鏡をわたしに向ける。
何度見ても同じ。わたしはわたしだ。
「ちっとも、変わってないと思いますけど」
「ううむ……」
部長は、カバンの底から引っ張り出してきたスマートフォンの電源を入れた。
「……これが、もともとのお前だ」
「だから、それって異動のときの歓迎会の写真ですよね? いまと何が──」
──あれ?
「……わたし、いましたよね? ここに」
「いたよ。右から2番目に写ってんじゃねえか」
「これ……誰ですか?」
「だから、これがお前だよ」
──わたしに、よく似た感じの別人。そうとしか思えない。
「……これが、わたし……?」
ニッケが、そんなわたしの様子を見ながら言った。
「……ラン、これは推測だが、たぶんお前は<自意識>ごと、自分の形を<上書き>されたんだ」
「<自意識>ごと?」
「肉体に変化が起こるのと同時に、『自分とはどういう人間か』というイメージ自体が変わったってことだな……。お前がジワジワと変わりはじめたのには気づいてたが……<初級回復魔法>の美容術にしては変化が大きいと思ったぜ」
で──とニッケは、ジッとわたしを見た。
「今度は、なんの魔法を使っちまったんだ?」
「何も──使ってないけど」
「そんなわけあるか!」
実はだな──と部長が決まり悪そうな声を出す。
「その姿に、心当たりがある」
「心当たり?」
「ミズハは、食ったんだ」
「食ったぁ? 何を」
「俺の描いた、絵だ」
「絵を、食った? なんだそりゃ、異世界の魔法か?」
「……ただの酔っ払いの悪ふざけだ。だが、食った紙が普通じゃなかった」
「部長、それはニッケには──」
なんだよ、とニッケがにらむ。
「──ごめん、秘密があるんだ」
わたしは、ポシェットから真っ白な本──ツカミンを取り出した。
テーブルに置き、背表紙をツンツンと指でつつくと、「キュウ」と鳴く。
わたしは、これまでに起こったことを、簡単にニッケに説明した──ツカミンが、どこから来たかは別にして。
途中から目を閉じ、黙って聞いていたニッケは、わたしが話し終えると、ふう、と息を吐いて──。
「あ・の・な・あ、お前ら!(怒)」
──ひいい、ごめんなさい、ごめんなさい!
気がつくと、わたしと部長は、ガミガミと怒り続けるニッケの前で、並んで正座しているのだった──。