部長、筆をとる
「え……やめちゃったんですか、シスター・ターニア」
ルブルグ家の裏庭に面したテラス。
わたしは、ティーカップを持ち上げた手を止めた。
ネルーさんは、さみしそうに微笑んだ。
「ええ……やめたというより、教会に配置転換を願い出たと言うべきかしら」
修道女のアステルさんには、気持ちの整理がつくまで、個人的にも距離をおかせてほしいと告げて、救貧院を去ったのだという。
施設の子供たちを襲った奇妙な病は、わたしたちが<地獄の部屋>の<魔導書>を退治したあと、幻のように消えてしまった。
それにしても──
あの、天使のように美しいシスター・ターニア。
姉妹のように仲のよかったアステルさんへの<秘めた想い>を、あんな形で知られることになったのは、ほんとうにつらかっただろう。
「……なんだか、かわいそうですね。シスター・ターニアも被害者なのに」
「そうね。ただ……気になっていることがあるの」
「なんですか?」
「そもそも、なぜシスター・ターニアは、一度は封印した<地獄の部屋>に再び出入りして、あの魔導書に触れてしまったのか」
それはそうだ。
アステルさんの話では、<地獄の部屋>を発見したとき、シスター・ターニアはすでに、<淫欲の魔導書>の危険性に気がついていた可能性が高い。
そして、その危険性について報告を受けた教皇庁が、あの部屋を封印した──。
「シスター・ターニアは、最近になって封印を解き、魔導書の罠にかかってしまった、ってことですよね」
「アステルさんは、数ヵ月前からシスター・ターニアの様子がおかしくなったって言っていたでしょう?
かりに、教会がひそかに、<地獄の部屋>の再調査を命じたのだとしたら……」
──まさか。
「……ひょっとして、わたしたちが王都に支店を出す計画を申請したことと関係があり、ですか?」
ネルーさんは、わからない、と小さく言って、ひとくち、お茶を飲んだ。
「ただ、考えられないことではないわ。セイジさんが王宮で刺された件といい、教会があなたたち異世界人のことを警戒しているのはたしかだと思う……。
たとえば、<地獄の部屋>に封印された旧時代の書物の中に、異世界に関する何らかの知識が眠っていたのだとしたら──」
「神代考古学が専門のシスター・ターニアに調査を命じても、おかしくはない……」
「あくまで、可能性のひとつだけれど、ね」
気持ちのいい風が髪をなでた。
ガーデンテーブルの足元まで、小鳥たちが無邪気に近づいてくる。
こんなにのどかな王都に、わたしたちを排除しようとする勢力がある……。
なんだか、ちっとも実感がわかない。
「ところで、ラン。今日は、何か相談があるって、言っていなかった?」
「あ、はい……ちょっと見てほしいものがあって……」
わたしは、ポシェットの中を探って、白い表紙の本を取り出した。
「……ツカミン、起きて」
わたしが指で背をつつくと、ツカミンがキバの生えた口を少しだけ開けて、<キュウ>と鳴いた。
ネルーさんが目を丸くした。
「まあ、珍しい……そこに<何か>いると<感知して>いたけど、魔導書だったの」
登場したときは大暴れだったくせに、名前をつけてから、ツカミンはおとなしい。
ときどきは、ピョンピョンとわたしの周りを跳ね回る。
けれど、たいていの時間は眠ったように静かだ。
「この子、たぶん、魔導書の束見本、なんです」
「つかみほん?」
わたしは、ネルーさんにツカミンが現れた顛末と、「束見本」とは何かをかいつまんで説明した。
「……つまり、魔導書をデザインするための模型、ということね?」
「そうだと思います」
「不思議ね……魔導書は、特殊な訓練を受けた術者が<意図>を書き込むことで魔法を帯びるのよ。
中身が真っ白なのに、生き物のように動くなんて……」
「ここにメモがあって……ほら、『封霊紙は魔力を定着させますので、長期間放置すると危険です』。
ひょっとして<地獄の部屋>にずっと閉じ込められていたことで、周囲の魔力を吸ってしまった、とか?」
そんなことがあるかしら、とネルーさんは唇に指を当てながら言った。
考え込んだときの彼女のクセだ。
「魔法には、使い手の<意図>や<意思>、<イメージ>がとても重要なの。
誰の<意識>にも影響されずに発動する魔法なんて──」
ネルーさんが手を伸ばす。
すると、ツカミンはその手を避けるように、わたしのほうに身をよじる。
「あら、きらわれてしまったわ」
「……人見知りなのかも?」
「きっと、名前をつけたあなたを<ご主人さま>だと認識しているのね」
「この子……どうしたらいいかなって」
「そうねぇ。<地獄の部屋>は封印してしまったし、異世界人のあなたに従属している<生きた魔導書>を黙って引き取ってくれるところはないでしょうね……」
──ですよねー。
「まあ、呪詛が封じられているわけでもなさそうだし、様子を見てもいいんじゃないかしら。
ただ──文章を書き込むのは、やめておいたほうがいいと思う」
「書き込む?」
考えてもみなかった。
ツカミンに、文章を書いたら、どうなるんだろう?
「術を封じた魔導書を書くのは、とても難しいの。
たとえば、<わたし>と書いても、それが誰を指すのか、はっきりイメージを定着させないと、思い通りの魔法は発動しないとされるわ。
魔導書を書く専門家の中には、インクに自分の血を混ぜたりして<自意識>を込める人もいるそうよ」
「血文字、ですか……」
「白紙の状態でも魔力を持った魔導書。そんなものに不用意に文章を書いたら、何が起こるかわからない。いえ、思ってもみなかった、危険な結果になるかもしれないわ──」
その日の午後は、ネルーさんの指導を受けて、魔法の訓練。
もともとの目標だった<初級回復魔法>は、いつまでたっても上達しない。
スランプ状態だったわたしの気分転換にと、ネルーさんとルブルグさん夫妻が考えてくれた「おまけ」の練習に挑戦しはじめたのだが、それがよくなかった。
「<水よ、動くな>!」
氷の属性魔法が、わたしの「禁止する力」、<禁則魔法>で使えそうだということは、部長が王宮で刺された事件のあと、ルブルグさんが証明した通りだった。
水の分子をイメージして、動きを禁止すると、氷ができるのだ。
「<空気よ、止まるな>!」
その反対。
空気の分子をイメージして止まることを禁じると、風を起こすことができる。
空気を動かす範囲をさらに限定して、激しく動かすと──
「<空気よ、決して止まるな>!」
ボッ
炎の玉が、意識を集中した場所に浮かぶようになった。
ルブルグさんによると、周囲にわずかにただよう可燃性の気体が巻き込まれて、炎が起こるのだそうだ。
こうやって、<禁則魔法>を使ううちに、12あるという<古典的属性魔法>のうち、風、水、氷、炎の初級魔法が少しずつ、使えるようになっていた。
もともと研究好きなところがあるらしいルブルグさんは、わたしに新しい属性魔法を使わせることに、すっかり夢中になってしまった。
「すばらしい! 次回は、雷属性の魔法に挑戦してみたらどうかと思っているんですよ!」
わたしがまだ訓練している時間帯に帰宅した日は、いつもそんな調子。
ネルーさんも、夫の考える属性魔法の<学習メニュー>をおもしろがっているらしい。
「学院に入学したら、最初はどうせ属性魔法の授業ばかりよ。
代々、魔導士の家系の子なんて、初歩の<古典的属性魔法>は家族に習ってくるのだし、ランも知っておいて損はないわ」
そんなことを言っては、属性魔法の特訓ばかりさせる。
「あの……ネルーさん、わたしがいま、切実に求めているのは、<初級回復魔法>なんですけど……」
ミズハ・ラン、29歳。
ルブルグさんの<中級回復魔法>を受けて、気になっていた毛穴や小鼻のくろずみは、跡形もなく消えた。
けど、さすがにこの肉体のまま16歳設定で「学園生活」に突入するのは、拷問だ。
それなのに。
ルブルグさんは、前にネルーさんから「殿方は関わるな」と言われたことを気にしているらしく、<初級回復魔法>をうまく使う方法は、いっこうに考え出してくれない。
ネルーさんはというと、
「属性魔法がこれだけ使えるのだから、そのうちできるようになるわよ」
と、おおらかに微笑むばかり。
──いや、そんなところで、いい笑顔されても……。
あああああ、はやく<初級回復魔法>が使いたいよぉぉぉぉぉぉぉ。
入学まで、残り約1ヵ月。
<初級回復魔法>で、念じた姿に近づくには、最低2週間はかかるとネルーさんは最初に言っていた。
そろそろ、使える<兆し>くらいないと、限界だ……。
すっかりくたびれたわたしは、<いいことが起こったためしがない方法>に手を出してしまった──。
「プハァァァァッァァ!」
夜。
妓楼「黒薔薇」。
わたしは、空になった金属製のジョッキをテーブルに置く。
「あらぁ、ランったら、子供みたいな顔して、いい飲みっぷりじゃない」
この妓楼の主人にして、陸軍予備役中尉のデュルレがはやしたてた。
赤ら顔になった部長が、説教くさい顔で言った。
「お前なぁ、これは経費で落ちないんだから、ちったぁ遠慮しろよ?」
「なんですか、ぶちょぉ! あたしだってねぇ、自腹で飲みますよ、こんなときくらい!」
久しぶりにお酒が入って、あたまのネジがゆるんでしまう。
「黒薔薇」の個室は、分厚いビロードのカーテンに仕切られて、他の客に話し声が聞こえることもない。
わたしはテーブルにつっぷして、ぐちぐちと文句を言った。
「いまさら学生って……16歳じゃ、この国でも、ヒック、お酒も飲めないじゃないですかぁ!」
「そんだけ酒癖がわるいなら、酒なんか飲まんでよろしい」
「ぶちょぉ〜、このままお肌ぴちぴちの若者たちに囲まれて、学園生活を送るなんて、むりですよぉ〜」
デュルレが、欧米アニメのように指先をくるくると回して、えいっ、とワザとらしい声を出した。
部長が、お……と声をあげて、一瞬、黙る。
「……ミズハ。お前、それ結構、いけてるな」
「それってなんですかぁ」
「フフ、前にあなたにかけた<視覚改変>よ。
赤髪のニッケくんにも大好評だったからぁ、その姿を覚えておいたの」
最初に「黒薔薇」でつかまったときに、デュルレはわたしをお店で働かせるといって、姿を変えてみせたのだった。
ニッケは、<幻影>って呼んでたっけ。
「デュルレさぁん、ちゃちゃっと、わたしをこの姿に変えてくださいぃぃ」
「それは無理よ、学院の生徒は<幻影>禁止ですもの。強制的に解除されてしまうわよ」
ざ・ん・ね・ん、とぶりっ子のように言ってから、デュルレはグラスをあおる。
デュルレの得意分野は、光の属性魔法、それも<現代的属性魔法>と呼ばれる高度なものだとネルーさんが教えてくれた。
<視覚改変>で生み出される<幻影>は、術者のイメージと光の結ぶ像を結合して作った、文字通りの幻影なのだそうだ。
「でもぉ、残念ねぇ。せっかく、ニッケといい感じだと思ったのに、ランが学生寮に入ることになるなんて」
「なっ……い、いい感じって、なんですかっ」
デュルレは、ワイングラスをくゆらせながら、揺れる深紅の液体をみつめた。
「……南方戦役が終わって、内務省の<番犬>になってから、ニッケがあんなに明るい表情をしていることがあったかしらね……」
「え……」
「ランを見守りながら過ごすうちに、ニッケの心にも、また血が通い出したのかも……ね」
──な、何よそれ──
酔っ払って、あたまがよく回らない。
デュルレは、そんなわたしを見て、いたずらっぽくニヤリと微笑んだ。
「いま、ドキドキしたでしょう」
「ま、まさか、ドキドキなんて」
「ランったら、真っ赤になっちゃって、かわいい〜」
「そ、それはお酒のせいで……ぶちょぉ〜なんとか言ってくださいよぉ!……部長? 何してるんですか?」
気がつくと、部長は酔って赤くなった目をわたしのほうに向けながら、熱心にペンを動かしている。
なんで、こんなところでメモなんか──?
「……あらぁ、セイジ、絵うまいじゃない!」
部長の手元をのぞきこんだデュルレが黄色い声をあげて、部長の持っていたメモ帳を取り上げた。
「見て見て、これ、あなたよ」
「へっ?」
デュルレの差し出したメモ帳を手に取る。
それは、デュルレの作った<幻影>がさらに二次元美少女化したような、わたしの姿だった。
──部長、ひょっとして、マンガ描ける……の……?
意外だ。
ちょー意外だ。
編集者の中には、作家志望だった人や、漫画家志望だった人も、もちろんいる。
自分の才能に見切りをつけて、クリエイターのサポートに人生を捧げることにした、なんていう話は珍しくない。
でも、青児部長が……。
作品がどうこう以上に、ビジネスチャンスに食らいつく剛腕部長のイメージが強い部長が、そうだったとは。
「……ちっ、酔っ払ってつまらんものを描いちまったじゃねぇか! おいっ、ミズハ、それ返せ!」
「えー、なんでですかぁ、いいじゃないですか。これ、わたしなんだし」
「おいおい、モデルに絵の所有権はないの」
「えー、じゃあ、わたしの肖像権は?」
「あのなあ!」
メモ帳を取り合ううち、ついに部長が、イラストの描かれたページを破り取ってしまった。
「ああ〜〜! 何するんですかぁ!」
「はははっ、証拠隠滅だっ、こんなもん、飲み込んでやるっ」
部長は紙をクシャクシャに丸めて、口を開けた。
「たっ、食べるとかギャグかっ! マジで引きますよっ!?」
「もぉ、ラン、落ち着いて。セイジは、ランがあんまりかわいいから、食べちゃいたいのよぉ、ねっ?」
デュルレが笑いながら、ふざけたことを言う。
ビクリと、部長が身震いして、手を止めた。
「……なんという、おぞましい発想を……」
「お、おぞましい!? 人のこと勝手に描いといて、なんなんですかいったい!」
わけのわからない興奮が、わたしを突き動かす。
「じゃあ、いいですー、部長が食べられないなら、わたしが食べますからっ!」
「あっ、おい、なんだそれっ!」
部長が止める間もなく、わたしは自分のイラストを口に放り込んだ。
モグモグモグ……
口の中の水分が紙に吸い込まれて、シワシワといやな食感しかしない。
でも、ここで負けては編集者の名折れ!
わたしはグラスの中のお酒をあおって、メモを噛み砕くと、ゴクリ、と飲み込んだ。
「へへーん、どうだっ!」
「お前なあ、本当に飲むやつがあるか……」
「あなたたちって、本当に面白いわね、あっははは」
デュルレが笑い転げる。
わたしは、ふん、と息をついて、テーブルの上のメモ帳に目を向けた。
──ん? メモ帳?
白い、小さな、文庫版サイズの本。
ちょん、と指先でつつくと、白い本は痛々しい声で、<キュゥゥ>と鳴いた。
「ツ、ツカミンッ!」
──わたし、食べた? <魔導書>を……?
週末には、うまく1話分まとまらなくて間が空いてしまいました!
読んでくださっているみなさん、応援ありがとうございます……!